「まつりの作り方」一休さん盆踊りの謎に迫る~み霊祭り納涼盆踊り大会(神奈川県横浜市)


広大な駐車場にそびえ立つ巨大な櫓に設置されたスピーカーから流れてくるのは、アニメ「一休さん」のテーマソング。踊りの輪は何重にも広がっており、ほぼ全員が飛んだり跳ねたりと熱狂している。「好き好き好き……愛してる」というサビでは、「愛してる!」という野外フェスばりのコール&レスポンスが巻き起こった。櫓の上でマイクを持って来場者を煽り、自身も汗を振りまきながら踊りの輪をコントロールするのは二十代の若い修行僧――。その光景はほとんどロック・コンサートのようですが、舞台となるのは曹洞宗の大本山、總持寺の一角。ここ数年、SNSで話題を集め、3日間で10万人もの人々が押し寄せる「み霊祭り納涼盆踊り大会」のワンシーンなのです。

昨年71回目を迎えたこの「み霊祭り」は、一方で多くの謎を秘めた盆踊りでもあります。なぜ盆踊りに「一休さん」のテーマソングが導入されたのか。誰がその振り付けを考案したのか。近年大きな注目を集めながらも、曹洞宗の大本山で行われていることからその全貌は熱心な盆踊りフリークのあいだでも謎めいたものとされてきました。その真相に迫るべく、横浜市鶴見区の總持寺を訪れました。

「一休さん盆踊り」の歴史が記されてこなかった理由

「一休さん盆踊り」の歴史が記されてこなかった理由(1)


「み霊祭り」の1回目が開催されたのは昭和22年の夏。横浜市では戦時中の空襲で多くの犠牲者が出ましたが、祭りの開催にあたっては空襲で亡くなった方々の供養もひとつの目的となっていたとか。總持寺の役寮(修行僧を監督する立場)を務める花和浩明さんはこう説明します。

「当時の資料を読むと、霊魂を鎮める祭りとして修行僧の方々が自主的に始めたようですね。鶴見では昭和38年に161人が亡くなった大きな鉄道事故(鶴見事故)があったんですが、のちにその被害者の慰霊という意味合いも加えられたんです」

花和さんからいただいた昭和20年代後半の会報誌には「ここ京浜の中心地、總持寺三松関に、毎夜数万人の人の波によって盆踊りが盛大に催されている」という記述が見られますが、「み霊祭り」は開催から数年のうちに3、4万人規模の祭りに拡大。時代はまさに大戦から復興しようという最中、慰霊祭であると同時に、周辺住民からは厳しい日常を吹き飛ばす娯楽のひとつとして人気を集めたようです。

また、同じ会報誌には〈「平和音頭」のレコードが数枚寄付〉という一文も。このレコードが岡晴夫や林伊佐緒らによって吹き込まれた「ヘイワオンド」(昭和21年)か、はたまた中山晋平作曲による「新平和音頭」(昭和24年)かははっきりとしませんが、戦後の復興気運のなか、平和を祈る人々の気持ちが「み霊祭り」の土台となっていたことは間違いなさそうです。


「一休さん盆踊り」の歴史が記されてこなかった理由(2)


では、「一休さん」はどの時期に「み霊祭り」に持ち込まれたのでしょうか?
「一休さん」がテレビ放映されていたのは昭和50年10月から昭和57年の6月の7年間。また、「一休さん」とともに「み霊祭り」のスタンダードとなっている「ひょっこりひょうたん島」が放映されていたのは昭和39年4月から昭和44年4月までの5年間のことでした。「ひょっこりひょうたん島」が「み霊祭り」に持ち込まれた時期ははっきりしませんが、いくつかの証言をもとにすると、「一休さん」についてはどうやら昭和50年代半ばから後半にかけては踊られるようになっていたようです。花和さんはこう推測します。

「私が本山に入ったのは平成2年のことだったんですが、当時の盆踊りの写真を見ると、『一休さん』の振り付けらしきものが写っているんですね。ですので、その当時にはすでに踊られるようになっていたんじゃないかと思います。

そもそも一休宗純は臨済宗の僧侶であって、曹洞宗のお寺である本山とは関係がないんですが、人気のあるお坊さんということで採り入れられたんじゃないかと思いますね。

ただ、はっきりとした記録が残っていないので、それも私の推測でしかないんです。總持寺の少々特殊な成り立ちが関係しているのかもしれません」

というのも、總持寺は通常のお寺と異なり、修行道場としての性格が強い場所。「み霊祭り」を主催するのは三松会という修行僧の自主団体で、ほとんどの修行僧は数年の学びを終えると地元のお寺へと戻っていきます。「み霊祭り」は總持寺として運営にタッチしているわけではない修行僧主催のイべントということもあり、祭りの歴史はこれまで詳細には残されてこなかったというのです。

「總持寺での修行はだいたい1、2年で終えるケースが一番多いんです。3年残っているのは修行僧の1/3、5年目となるとひとりかふたり。回転が早いんですね。おそらく修行僧の誰かが発案し、それが口伝で現在まで伝わっているということだと思うんですが、『一休さん』がいつから始まったのか具体的な記録が残っていないんですよ」

總持寺はもともと能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)に開かれ、のちに永平寺(福井県吉田郡永平寺町)と並んで曹洞宗の大本山となりましたが、明治31年の火災で焼失。明治44年に現在の場所へと移転してきた過去があります。そのため、長い時間をかけて地域との繋がりを構築してきた通常のお寺と比べると、總持寺は檀家や地域住民との繋がりが比較的弱いとか。そのぶん「み霊祭り」は地域交流のイべントとして重要な意味を持ってきたといいます。

櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所

櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(1)

左から、總持寺の磯海佑道さんと役寮の花和浩明さん


總持寺で学ぶ修行僧の数は約120人。大学を卒業し、そのあとすぐに總持寺へやってきた20代前半から半ばの世代が中心ですが、社会人を経験してから出家することも。「み霊祭り」にはその全員が何らかの形で関わることになっており、その役割は細かく分けられています。昨年の春から三松会の役員となった磯海佑道さんはこう説明します。

「櫓の上で踊るだけでなく、売店や救護室、セキュリティーも修行僧の役割。近隣にポスターを貼らせていただいたり、幼稚園で踊りを教えるのも三松会の活動の一環です」

櫓の上に上がれるのは三松会の役員か、總持寺にやってきて3年目以上のベテランのみ。その数はわずか20人。修行僧にとっては憧れの舞台だそうで、昨年初めて櫓の上に上がる磯海さんにとっても晴れ舞台のようです。(※この取材は昨年の「み霊祭り」以前に行われました)

「去年は自分のお寺の手伝いがあって祭りにフルで関われなかったので、まだ勝手がわからないんですが、昨年はじめて櫓の上に上がれるので盛り上げていきたいと思っています。日々の修行生活のなかでは外部の方々と接する機会もなかなかないですし、やっぱり『み霊祭り』は楽しみのひとつでもあるんですよね。鬱憤を晴らす場というか(笑)」

一方、「み霊祭り」の運営に関わることで、「修行僧にも少なくない学びがある」と、花和さん。

「祭りの場で連帯感を学ぶことができますからね。ただ、日々の修行自体は非常に厳しいものですし、息をつく暇もないほど毎日忙しい。そんな日々を送っている修行僧にとって、『み霊祭り』はいい気分転換にもなるんですね。なかには盛り上がりすぎてしまう修行僧もいるんですが(笑)」


櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(2)


先述したように、修行僧の多くは總持寺でわずかな期間だけ修行を共にし、それぞれの地元へと帰っていきます。彼らにとっての「み霊祭り」とは、人生で数回しか経験することのできない慰霊祭でもあるわけですが、そのぶん櫓の上で踊り続ける修行僧には「祭りを楽しもう」とする積極的な姿勢が見えます。

その一方で、過去にはあまりの盛り上がりから翌年の開催が中止になってしまったことも。そのため、司会進行役の修行僧は踊りの輪のコントロールに細心の注意を払っています。そのマイクさばきはまさにマスター・オブ・セレモニー。ただし、ロック・コンサートではなく、あくまでも總持寺を舞台とする鶴見の夏のイベントとして「み霊祭り」を成立させようという修行僧たちの強い思いがそこにはあります。

「静めながら盛り上げていくというあの姿勢には、かつての痛い経験が活きていると思います。祭りには子供さんからお年寄りまで訪れますから、一部の人たちだけでノリノリになってしまうのはあまりいいことではないんです」(花和さん)

なお、特徴的な櫓の電飾は、駒澤大学の電気美術部によるもの。駒澤大学はもともと曹洞宗の学林(僧侶の教育機関)を起源とすることもあり、總持寺とは何かと縁の深い大学。總持寺で学ぶ修行僧のなかには、駒澤大学の卒業生も少なくないといいます。


櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(3)櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(4)櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(5)


ところで、「み霊祭り」に足を運んで気づいたことがひとつありました。それは十代の来場者が非常に多いということ。浴衣に身を包み、友人たちと自撮りに興ずる十代の姿はどこの盆踊りでも見かけるものですが、「み霊祭り」はその数が非常に多く、「一休さん」の盛り上がりを支えているのもそうした十代の来場者たちです。花和さんによると、十代が増えてきたのも近年の現象だといいます。

「10年ほど前までは今みたいに中高生は多くなかったんです。どちらかというと地域の風物詩という感じだったんですが、全国的になったのはやっぱりYoutubeで取り上げられてからだと思いますね。3日間で10万人を超えるほどに来場者が増えたのもここ数年のことなんですよ」

SNSの普及によって、それまで各地域のなかで楽しまれていた伝統行事がコミュニティー外から注目を集め、突如一大イべントとなるケースが近年増えてきましたが、「み霊祭り」はその象徴的一例といえます。總持寺から地元のお寺へと戻った修行僧たちが「一休さん盆踊り」を始めるパターンもありそうなものですが、花和さんによると「そういう話は聞いたことがないですね」とのこと。いつの日か、この斬新な盆踊りスタイルがネット経由で各地に広まり、總持寺が全国的な「一休さん盆踊り」ムーブメントの(文字通り)の大本山として賑わう日がくるのかもしれません。

では、總持寺としては「み霊祭り」の意義についてどのように考えていらっしゃるのでしょうか。最後に花和さんに説明していただきました。

「本山がこの土地に移転してきた当初は、地域住民のみなさんも本山に対して〈自分たちのお寺〉という意識をなかなか持ちにくかったと思うんですよ。そういう雰囲気は昭和に入ってからもあったようで、住民のみなさまにとっては異空間というか、足を踏み入れにくい場所だったのではないでしょうか。しかも、修行僧が厳しい禅修行に打ち込んでいるお寺ですから。ただ、現代はお寺の役割も変わってきており、みなさんに気軽にいらっしゃっていただいて、心を癒していただくところでもあるべきだと思うんですね。本山としても『み霊祭り』をきっかけにもっと總持寺のことを知っていただければと思いますし、地域の方々に愛される、心のふるさとになればと考えております」


櫓の上は、修行僧にとっても憧れの場所(6)


曹洞宗大本山總持寺
http://www.sojiji.jp/


Text:大石始
Photo:ケイコ・K・オオイシ