遅咲き♪アーティスト 10選【百歌繚乱・五里夢中 第16回】


音楽史に名を残す、あのアーティストも、なかなか芽が出ず、鬱々とした日々を送っていたこともあった……てな話です。

遅咲きはドラマチック


なんらかの才能に、意欲と努力が相俟って、音楽アーティストなるものの人生がスタートするのでしょうが、その歩みのスピードは人により様々。デビュー曲からいきなりヒットして、トントン拍子にいく人もいれば、なかなか売れない人もいます。途中で諦める人も多いでしょう。

私が興味を覚えるのは、実力があるのに、様々な理由により、売れるまで長い時間がかかり、でも結果的に大成功した”遅咲き♪アーティスト”たち。成功に至るまでのそれぞれの物語は、間違いなくドラマチックなはず。

 

遅咲き♪アーティストたち


①Maroon 5「Sunday Morning」(第4弾シングル:2004年12月2日発売/from 1st アルバム『Songs About Jane』:2002年6月25日発売)
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今やすっかり、新作を出すたびにほぼヒットすることが間違いないというくらいの、安定度を誇る人気アーティストとなっている”マルーン・ファイヴ”。アダム・レヴィーン(Adam Levine)は、今のポップ・ミュージック界で、5本指に入る名ヴォーカリストだと思います(映画「はじまりのうた(Begin Again)」を観て、私はそれを確信しました)が、彼らにはかなり長い助走期間がありました。
スタートは1994年、現7名のうち4人が”Kara's Flowers”というバンドを結成、97年にはワーナー/リプリーズよりアルバムをリリースしますが、売れず、半年後には廃盤、2年で契約終了となってしまいます。その後5人となって”Maroon 5”と改称、今度は新設レーベルOctoneの第1号アーティストとして、2002年、アルバム『Songs About Jane』をリリースしますが、新興レーベルゆえの力不足で、やはりなかなか売れません。
しかしライブ活動を重ね、徐々に話題が広まり、やがて火がつき始めます。なんと発売から2年2ヶ月経った04年9月、ついに全米6位にまで達しました。これは発売からトップ10入りまでの最長記録だそうです。
05年のグラミー賞でも見事、最優秀新人賞を獲得し、バンドの人気は確定しましたが、この時点で結成から10年、デビュー後7年が経過していました。

 

②Aretha Franklin「Respect」(シングル:1967年4月29日発売/from 10th アルバム『I Never Loved a Man the Way I Love You』:1967年3月10日発売)
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昨年他界した“The Queen Of Soul”も、すんなりとその座についたわけではありません。
お父さんが有名な牧師さんで、幼い頃から教会でゴスペルを歌っていたそうです。1956年、14歳でゴスペル・アルバム『Songs of Faith』をリリース、とここは早い。60年にはコロムビアと契約し、アルバムを9枚、シングルを26枚、次々に出しますが、たまにR&Bチャートの10位以内に届く程度で、大きくは売れることなく約7年。
並の歌手なら、本人も周りも諦めていたかもしれませんが、67年に、リズム&ブルースに強いアトランティックに移籍。プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは、ゴスペル・フィーリングが彼女の最大の魅力だとはっきり的を絞り、アラバマ州マッスル・ショールズのFAMEスタジオで録音した「I Never Loved a Man (The Way I Love You)」を2月に発売するといきなりR&Bチャートで1位。さらに4月にリリースした、オーティス・レディング「Respect」のカヴァーはポップチャートでも1位と、それまでのもやもやを嘘のように吹き飛ばしてしまいました。
あまりにもできすぎな話ですが、史実です。

 

③Sheryl Crow「All I Wanna Do」(シングル:1994年4月4日発売/from 1st アルバム『Tuesday Night Music Club』:1993年8月3日発売)
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この人は売れるまでというよりは、デビューするまで時間がかかりました。名前通り、クロウしたのです。
1962年生まれ。大学で作曲を勉強、バンド活動や、CMのジングル制作、小学校での音楽講師もやりますが、シンガーとしての大きな仕事は87年、マイケル・ジャクソンの「Bad World Tour」のコーラスから。既に25歳です。これをきっかけにスティーヴィー・ワンダーやドン・ヘンリーなど多くのビッグネームのレコーディングに参加しますが、あくまでサポートの立場。
1990年、ようやくA&Mレコードとアーティスト契約を果たしますが、ここからもすんなりとはいきません。どういう理由かわかりませんが、デビュー・アルバムのレコーディングが始まったのは92年。そして売れっ子エンジニアのヒュー・パジャムをプロデューサーにつけ、同年9月22日という発売日も設定されながら、なんとお蔵入り。「オーヴァー・プロデュースできちんとし過ぎ」なのが本人の気に入らなかったとか。
仕切り直して、恋人やその友人たちとワイワイやりながら作った『Tuesday Night Music Club』がリリースされたのが、1年後の93年8月3日。しかも当初はパッとせず、さらに1年後94年秋になって、3枚目のシングル「All I Wanna Do」が急に注目され、やっとアルバムが動き始めました……クロウは32歳になっていました。
だけど、そこからは快進撃。アルバムは全米3位に達し、世界で1000万枚を売る大ヒット。その後もすべての作品がもれなくヒットしていますね。その歌唱力&作曲能力からすれば当然かと思われますが、それだけに、デビューまでの道のりの長さが不思議です。

 

夏川りみ「涙そうそう」(3rd シングル:2001年3月23日発売)
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石垣島で生まれ、幼い頃から歌が上手だった兼久りみは、1986年、中学1年生にして、「長崎音楽祭」でグランプリ、ポニーキャニオンからスカウトされて上京します。89年、”星美里”の名で演歌歌手としてデビュー、とここまでは順調ですが、シングルを何枚かリリースするも、まったく売れず、96年、引退して故郷に帰ります。
那覇で、お姉さんが経営する飲食店を手伝っておりましたが、3年後、マネージメント会社を起こしたポニーキャニオン時代の担当ディレクターから、もう一度やってみないかと声を掛けられ、再上京。99年、今度は”夏川りみ”として再デビューしました。
それでもすぐには結果が出ませんが、ある時テレビで、BEGINが演奏している曲を聴いて気に入り、唄いたいと思いました。「涙そうそう」という、BEGINが98年に森山良子さんに提供した曲で、BEGIN自体も2000年にシングルでリリースしていました。たまたまお姉さんがBEGINの同級生だったという縁もあって、依頼すると、新しい曲のほうがいいだろうと、BEGINは夏川のために「あなたの風」を書き下ろしますが、夏川は「涙そうそう」にこだわります。
果たして、夏川ヴァージョンが2001年にリリースされると、じわじわと売れ始め、最高は8位ですが、116週チャートインの超ロングセラー、NHK紅白歌合戦でも3年連続でこれを唄い、夏川りみの存在は日本中あまねく知れ渡っていきました。
まさに彼女にとっては運命の歌。そしてやはり、彼女の声質と歌唱がこの曲に絶妙にマッチしています。この曲にとっても、彼女に唄ってもらってほんとによかった。

 

⑤RCサクセション「雨あがりの夜空に (Live)」(from 4th アルバム『RHAPSODY』:1980年6月5日発売)
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いまだにセブンイレブンのCMでその個性的な歌声が流れている日本の”King of Rock”、忌野清志郎。カヴァー曲なので彼の家族に著作権印税が入らないことが残念ですが……。
中学の同級生たちと作ったバンド”RCサクセション”が、シングル「宝くじは買わない」でデビューしたのは1970年3月。清志郎はまだ18歳でした。生ギターを持って、化粧などもせず、意外にもホリプロ所属。
1974年、当時のマネージャー奥田義行がホリプロから井上陽水を連れて独立したことで、ホリプロは激怒、RCはとばっちりを受け、契約でしばられ移籍することもかなわず、かと言って何もしてくれない飼い殺し状態に。この時期に制作した3rd アルバム『シングル・マン』も発売を保留され、ホリプロを辞めた76年4月になってやっと発売になるも、満足な宣伝もできず、1年足らずで廃盤となってしまいました。
この苦境を切り開いたのは、チャボこと仲井戸麗市らを迎え、ロック化しての熱いライブ。ミックとキースにも引けを取らないキヨシローとチャボの存在感、何よりもキヨシローの日本ロック史上最強のヴォーカルは、常に観客を熱狂させました。
そんな彼らの名盤が、廃盤になってるなんて許せない!と、79年には「シングルマン再発実行委員会」が結成され、レコード会社のポリドールと折衝。まるで、”革命”のような形で、80年8月、再発売を勝ち取ったのでした。
その2ヶ月前にリリースされたのが、ライブ・アルバムの『RHAPSODY』。彼らの代表作にして、日本ロック史上屈指の名曲でもある「雨あがりの夜空に」は、その年の1月にスタジオ録音でシングルが発売されましたが、やはりこのライブ・バージョンは、いつ聴いても当時の熱気が蘇り、ゾクゾクしてしまいます。

 

⑥ピチカート・ファイヴ「スウィート・ソウル・レヴュー」(4th シングル:1993年4月7日発売/7th アルバム『ボサ・ノヴァ 2001』:1993年6月1日発売)

“ピチカート・ファイヴ”と言いながら、5人メンバーがいたことはないのですが、1984年に結成、85年にテイチク/ノン・スタンダードレーベルよりデビュー、86年にCBSソニーへ移籍、とトントン来ますが、ここからが長い。
CBSソニー時代は4枚アルバムを出しますが、あの田島貴男を迎えても、一部で高い評価は得るものの売上げはさっぱり。ジャケットはかっこいいんだけどなぁ、と当時思っていましたが、デザインを手掛けていたのは信藤三雄さん。スーパー・デザイナー、信藤さんのキャリアもここからでした。
1990年、日本コロムビアに移籍。田島が抜けて野宮真貴が加入。ここでもすぐには売れませんでしたが、93年4月にリリースしたシングル「スウィート・ソウル・レヴュー」が、カネボウ化粧品の夏のキャンペーンソングというタイアップも手伝い、スマッシュ・ヒット。6月のアルバム『ボサ・ノヴァ 2001』もオリコン7位を記録して、ようやく雲の上に出ることができました。
それにしても、小西康陽さんのような、音楽への造詣が極めて深く、しかも”キャッチー”ということをちゃんと解っている人が、CBSソニーという大きなレコード会社で、信藤さんのすばらしいジャケットもあって、どうして売れなかったのか、やはりつくづく不思議ですねぇ。

 

⑦スピッツ「あわ」(from 2nd アルバム『名前をつけてやる』:1991年11月25日発売)
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まだ売れてない頃、CDショップでなぜか気になって、『名前をつけてやる』というアルバムを買いました。当時、(洋楽は輸入盤なら価格が半分くらいだったし、レコード会社にいたので見本盤をもらうことも多かったので)邦楽CDを買うことはほとんどなかったのですが。「名前をつけてやる」というタイトルと、猫のジャケットが気になったかな。
聴いてみると、日本のロックでは久々に、私の好みにドンピシャな音楽でした。
なんで売れないんだろう?と疑問に思い、ボクが好きなものはやっぱり売れないのかなぁ、と落胆もしました。
そしたらいつの間にか売れ始め、1995年にリリースした「ロビンソン」が特大ヒットに。いやいや、ここまで売れなくていいから、なんて思ったものです。
他のアーティストではブレイク・タイミングの曲を選んでいますが、そして「ロビンソン」も大好きなんですが、ここはあえて個人的に想い出深いこの曲を上げておきます。

 

⑧エレファントカシマシ「今宵の月のように」(15th シングル:1997年3月30日発売/from 9th アルバム『明日に向かって走れ -月夜の歌-』:1997年9月10日発売)
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ソニー・ミュージックのオーディションで勝ち上がって、EPICソニーからデビューしたのが1988年です。
その時、私はEPICに勤めており、そしてマネージメントが、綾部和夫さんという、私が以前勤めていた渡辺プロダクションで森進一や山下久美子のマネージャーをやっていた人が、この”エレファントカシマシ”のために新たに起ち上げた会社だったこともあり、気になっていました。
しかし、キヨシロー以来かと思う力強い歌声に恵まれながら、宮本浩次は、まだ若く、粗く、持て余すエネルギーをただぶちまけるだけでした。アーティストの意思を尊重するというEPICのレーベル風土も、彼らにはマイナスにしか働かなかったような気がします。
結局、7枚ものアルバムを出しながら、ヒットの予感さえないまま、94年にEPICとは契約終了、綾部さんも事務所をたたんでしまいました。残念ながらこれで、エレカシも終わりか、と思いました。
ところがほどなく、フェイス・ミュージックが彼らを引き受け、ポニーキャニオンに移籍をしました。そして1年の後、「今宵の月のように」が80万枚超の大ヒット。
ドラマ主題歌というタイアップはありましたが、曲のクオリティがEPIC時代とは段違いによくなっていました。どうしてこの短期間でかくも変貌できたのでしょう?
おそらく、新環境では、”売れる”ことへのプレッシャーが遥かに強かったのだと思います。並のアーティストなら潰れてしまうかもしれませんが、逆に宮本浩次の場合は、眠っていた巨大な才能が、それによってやっと目覚めたのではないでしょうか。
​​​​​ちなみに綾部さんは現在、錆を使った独特の作品を生み出す美術アーティストとして活躍中です。彼もまた、新たな才能を眠りから引き起こしたのです。  

 

⑨山下達郎「Ride on Time」(4th シングル:1980年5月1日発売/from 7th アルバム『Ride On Time』:1980年9月19日発売)

達郎さんを取り上げつつ、ここでは細野晴臣さんと大瀧詠一さんにも触れておきたい。
ご存知のように、細野さんと大瀧さんは1970年に、”はっぴいえんど”の『はっぴいえんど』、達郎さんは1975年に、”シュガー・ベイブ”で『SONGS』を発表しました。どちらのアルバムも、楽曲、アレンジ、演奏、音質などすべての面において、今でも充分以上にカッコいいと思える内容です。
しかし、当時はカッコいいと思ってくれる人が少なかった。つまりあまり売れませんでした。それでも作りたい音楽がある。生活のために、セッション・ワークやCM音楽制作などをこなしつつ、クオリティの高い作品を出し続けます。
達郎さんはソロ3作目のアルバム『GO AHEAD!』を作る時、これでダメなら作曲や編曲など裏方でやっていこう、と真剣に考えながら、やりたいことを全部やっておこうと思って作ったそうです。
そして、まるで申し合わせたように、1979年に細野さんが”YMO”の2nd アルバム『SOLID STATE SURVIVOR』で1位、1980年に達郎さんが4th『RIDE ON TIME』で1位、1981年に大瀧さんが『A LONG VACATION』で2位と、次々にブレイクを果たしていくのです。
70年代の初めには1万人くらいしかいなかった、どういう音楽がカッコいいのかを分かる日本人が、10年間のうちに、100万人くらいにまで増えたんでしょうね。
まさに時代が才能に追いついた。アーティストとはかくありたいものです。

 

⑩Lee Dorsey「Ride Your Pony」(シングル:1965年暮発売/from アルバム『RIDE YOUR PONY / GET OUT OF MY LIFE, WOMAN』:1966年発売)
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最後にちょっと変わり種をご紹介しておきます。
1924年のクリスマス・イヴに、音楽の街、ニューオリンズで生まれますが、なかなか音楽の道には行かず、第二次世界大戦で海軍に従軍した後、戦後はプロ・ボクサーとなって、けっこう活躍したようです。で、55年、引退し、自動車修理店を開業。ただ歌は好きで、うまくて、夜はクラブで歌い始めました。
1958年、33歳になって、シングル「Rock Pretty Baby」でデビュー。売れませんでしたが、やがてニューオリンズの名プロデューサー、アラン・トゥーサンと出会います。
1961年、アラン・トゥーサンのプロデュースによりシングル「Ya Ya」をリリースするとなんと全米7位のヒット。しかしその後低迷し、自動車修理の仕事に戻ってしまいます。
1965年、トゥーサンが制作会社を起ち上げ、再びドーシーに声をかけ、「Ride Your Pony」や「Working in the Coal Mine」など、いくつかの作品をヒット・チャートに送り込みます。この時既に40歳です。
その後も、売れなくなるとまた自動車修理に戻ったりしつつ、80年、55歳にして、アルバム『Night People』をリリースしたり、”The Clash”の米国ツアーの前座を務めたり。
実にマイペースな人に見えるのですが、黒人ですから、もしかしたら、印税とかごまかされたりして、生活が安定しなかったのかもしれませんね。
ちなみにこの「Ride Your Pony」の演奏は、デビュー前の”The Meters”であります。カッコいいよ。

 


​​​​​​​以上、”遅咲き♪アーティスト”から10組を選んでご紹介しました。
こうして並べてみると、大物が多いですね。
その理由はおそらくこういうことじゃないでしょうか。

・その時代には新しすぎる音楽を作ってしまう
→ 大衆からなかなか理解されない
→ しかし時代に迎合する器用さは持たない
→ 売れなくても作り続ける粘り強さがある
→ 人はいいから、もしくは危なっかしくて見ていられないから、周りは助ける
→ やがて時代が追いつく

……なので、彼らの性格は、頑固でピュアで不器用ってことですね。たぶん。

いやぁ、それにしても、音楽ってちっとも飽きないですねー♪