~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第4章 ①②】


第一部 第4章 新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年~1961年)
➀なんでもジャズに編曲したピアニスト 「セプテンバー・イン・ザ・レイン」
②幼い子どもにまで唄われた歌舞伎の演目 「お富さん」

③渡久地政信のタンゴとブギとブルース 「上海帰りのリル」
④沖縄音楽に驚いた団塊世代の反応 「ハイサイおじさん」

 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。
 今回は、第4章「新しい歌と音楽が誕生する前夜」から前編、①なんでもジャズに編曲したピアニスト「セプテンバー・イン・ザ・レイン」、②幼い子どもにまで歌われた歌舞伎の演目「お富さん」をお届けします。ジャズと歌舞伎。どのような結びつきがあったのでしょうか。そして、後に昭和の大作曲家と称されることになる中村八大が、いよいよ上京(1947)。ジャズピアニストとして本格的な音楽活動と新しい音楽への挑戦がはじまります。

第一部 第4章
新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年~1961年)

 

なんでもジャズに編曲したピアニスト
「セプテンバー・イン・ザ・レイン」

 

 小学生のころから作曲家になると決めていた中村八大は東京へ出るつもりで、早くから心の準備をしていた。だから大学入試まで待たずに早稲田大学高等学院の編入試験を受けて、1949年の春には大学生だった次兄を頼って上京したのである。

 

「音楽の技術は、もうじゅうぶんに頭と指さきにたたきこまれているから、芸大へ行ったって何にもならないと思ったんですよ。だいいち芸大へいけばね、音の高低のつけ方や表現方法など“技術の大家”にはなるけど、その人の音楽を生む一般教養に欠ける。だから、本当の音楽家にゃなれんのですよ」
(記事「現代のリズム“肌”で追う」夕刊フジ 1971)

 

 それまでにもピアニストとしての報酬を得る機会があったことから、中村八大は高校時代から「プロだ」という意識を持ち始めていた。実家からの仕送りなどはなかったので、都会生活を支える収入を得るために、演奏のアルバイトは真剣にならざるを得なかったのだろう。

 上京してからの学生生活の期間は自分の分はもちろん、次兄の下宿費や授業料までジャズピアノのアルバイトで得た収入から支払っていた。そして1950年4月に早稲田大学文学部へ入学すると、長兄に紹介された法学部の渡邊晋が結成する新しいバンドに誘われて、ピアニストとして加入している。

 その翌年になって渡邊晋が優秀なミュージシャンを口説いて、新たに『シックス・ジョーズ』を結成したのは、中村八大という天才と出会ったことによって、日本でトップの座を狙うことが可能になったと判断したからだ。バンドのなかでは最年少だったのに音楽監督を任せたのは、アレンジのセンスを誰もが認めていたためであった。

 新しいポピュラーソングの傾向をつかむために、中村八大は最新のジャズを研究して分析した。アメリカから輸入されたレコードを米軍基地のPX(売店)で購入し、譜面に起こすことで編曲の才能を遺憾なく発揮していった。

 リーダーの渡邊晋が目標にしていたのはモダンジャズの新潮流といわれた、アメリカ西海岸の“クール・ジャズ”だった。シックス・ジョーズのテーマソングは、イギリス生まれのピアニストで盲目のジョージ・シアリングの「セプテンバー・イン・ザ・レイン(九月の雨)」である。

 都会的で洒落たシアリングの楽曲は、日本の観客にも快く受け入れられた。しかし観客を喜ばせることを優先するエンターテインメント志向の渡邊晋と、芸術的な方向に目が向き始めた中村八大の間には、いつのまにか溝が生まれてきた。シックス・ジョーズを離れることを決めた中村八大が、伝説のスーパーグループとして名を残す『ビッグ・フォー』の結成に参加するのは、1952年に入ってまもなくのことである。

 ここで大いに盛り上がった日本のジャズブームは、ライブでの評判だけでなく、開局ラッシュを迎えた民放ラジオの力に大きく支えられていた。

※ 渡邊晋(渡辺プロダクション創始者・編集部注記)

 

 日劇の“ティーンエージャージャズ大会“が 六日間で七万人の入場者を記録(7月)、浅草国際劇場でもジャズ・ショーを開き、十三日間のロングラン興行に十万人を動員する(9月)など、ジャズの人気が盛り上がっていた。ラジオがこのブームの火付け役で、進駐軍放送が連日ジャズを流していたし、文化放送が「ジャズのど自慢」「S盤アワー」、ラジオ東京でも「素人の自慢」のジャズ版を放送。テレビもNTVがオーディション番組の元祖「素人ジャズのどくらべ」を放送するなどして、ブームを過熱させた。全国の大学では、ジャズバンドが続々誕生。またこの頃から、銀座「テネシー」、「ブルー・シャトウ」、神田「ブルー・スター」、新宿「セントルイス」などジャズ喫茶が続々と開店。ジョージ川口のビッグ・フォー結成(5月)、ルイ・アームストロング・オールスターズの来日(12月)もこの年。ちなみにこのころの“ジャズ”とはポップ・ミュージックの総称のようなものだった。
(世相風俗観察会編『現代風俗史年表』河出書房新社 1986)
※ ラジオ東京(現TBS・編集部注記)

 

 ビッグ・フォーはここから一時的に人気が沸騰したが、マネージメントのスタッフが誰もいなかったことで、メンバーたちは熱狂のなかで大きなストレスを受ける立場に置かれた。そしてあまりにも忙しい演奏生活が続いたことで、中村八大はふと冷静な自分に戻ったときに、憑き物が落ちたような気持ちになったという。

 おりしも1953年7月、朝鮮半島で3年以上も続いていた国際紛争が、膠着状態の中で休戦協定が結ばれた。そのために戦闘員として招集されてきたアメリカ兵が一斉に帰国し、日本各地の米軍基地が大幅に縮小された。ギャラが高くて需要も多かった進駐軍関連の仕事が激減したことによって、日本のジャズ・シーンには暗雲が漂い始めた。

 当時のアメリカでは即興演奏に重きを置いた“ビバップ”が注目を集めて、日本のジャズ・シーンも変貌を余儀なくされていく。そしてコマーシャリズムから離れて先鋭化していったところに、日本のモダンジャズとニュージャズが胎動してくる。

 それでも中村八大自身は、音楽関係者からもリスナーから高い支持を得ていたので仕事に困ることはなかったが、かつてのブームはまたたくまに衰退し、多くのジャズ仲間が苦境に陥っていった。

 そんな逆風の中で中村八大はジャズの可能性を広げる意図で、1957年にクラシックとの融合を目指した実験的なリサイタルを開催した。子どもの頃からめざしていた音楽家への夢を実現する第一歩として、オーケストラと一緒にコンサートを開こうと思ったのである。

 そのためにビッグ・フォーからも脱退し、ギャラを保証してくれた銀座の高級クラブと長期の契約を交わすと、週に6日間は自分のトリオで演奏してリサイタルの費用を蓄えた。しかし1958年6月に開催されたリサイタルは、企画が壮大になり過ぎて失敗に終わってしまう。

 オーケストラとのリハーサルに譜面が間に合わないなど、単純なミスが重なったことが原因であった。ここで中村八大は最初の音楽的な挫折を味わって、金銭的にも大きな痛手を被った。それでも9ヶ月後にはピアノの演奏料だけで、リサイタルで抱えた赤字はすべて返済し終えた。

 そこからはリサイタルへの気負いと焦りから始まった薬物の使用を、完全に断ち切ることにも取り組んでいく。その方法は自分の部屋を一歩も出ることなく、禁断症状に耐えること2週間、ひたすら風呂に入って汗を流し、毒素を体外に出すというものだった。

 そのようにして自分の精神力により依存症を克服した中村八大は、社会復帰したときに自分のなかで、何かが変わったことに気づいたという。

 

その人の心に役に立つものであったならば歌謡曲でも“ド演歌”でも、いいものはその人には必要なのだろうし、なんの役にも立たないのならば、例えバッハであってもベートーヴェンであってもというような、つまり価値観の変動があったわけです。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 それ以降の中村八大は自らが携わる音楽について、ジャンルによって優劣をつけたり、テーマや内容で区別したりしなくなった。ひとりの音楽家として創作の基本にしたのは、“人の心に役立つもの”をつくるということであった。

 そしてクラシックとジャズを入り口にして、日本の新しいポピュラーソングをつくる方向へ目を向けて、子供の頃に描いた夢である作曲家の道へと進んでいくことになる。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

セプテンバー・イン・ザ・レイン / ジョージ・シアリング(復刻CD 2009)

 

②幼い子どもにまで唄われた歌舞伎の演目
「お富さん」

 

 春日八郎が唄った「お富さん」 が空前のヒット曲になったのは、1954年の夏から翌年の夏にかけての現象だ。歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛(よわなさけ うきなの よこぐし)」に登場する、“お富”と“与三郎”を題材にした狂言は、内容が男女の不倫をめぐる話である。

 したがって良識ある大人たちからは不道徳だとして、当初は露骨に眉をひそめられた。しかもやくざが妾をゆする場面まで出てくるのだから、子どもには聴かせたくない歌であっただろう。

 それにもかかわらず子どもたちを巻き込んで、爆発的なヒット曲になったのはブギウギ調の明るい伴奏のおかげだった。誰も予想していなかった「お富さん」ブームは、突然変異のように日本中に飛び火して猛威を振るった。

 それが幼い子どもたちにまで受けたのは、歌詞の意味がわからなくても語呂がよくて、歯切れがいい江戸風の話し言葉が、音楽的にリズミカルで楽曲とマッチしていたからであろう。それを端正な佇まいの二枚目歌手だった春日八郎が、背筋を伸ばしてきまじめに唄ったことで、大人からも好感を持たれたのである。

  お富さん
  作詞:山崎 正 作曲:渡久地政信

  粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦様でも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄冶店(げんやだな)

  過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風もしみるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃよび名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ

  かけちゃいけない 他人の花に
  情けかけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒

  逢えばなつかし 語るも夢さ
  だれが弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついて来る気か お富さん
  命短く 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

 まだテレビ放送も始まっていない時代のことだったが、「お富さん」は夏の盆踊り大会などの練習を通して、あっという間に全国各地にまで波及していった。ラジオのほかにも町中の街頭放送や映画館のBGM、パチンコ屋の景気づけ音楽として、朝から晩までエンドレスのように使われた。

 歌詞の内容に関して抗議の声が高まったことで、一時は社会問題にまでなったのだが、パチンコ屋は店頭で「お富さん」を流し続けた。そして翌年になって夏が近づくと、ふたたび盆踊りの定番曲として全国的に盛り上がったのだ。

 戦後40年間の「風俗」についてまとめた書籍『現代風俗史年表』(河出書房新社)には、ヒットの規模についてこのような記述があった。

 

 歌舞伎の「玄次店」で切られの与三郎にゆすられるお富さんの話を下敷きに、語呂よく綴り、大人はもちろん子供までも意味もわからずイキナクロベエ……と口ずさんで、五〇万枚近く売れ、戦後では「銀座カンカン娘」に次ぐ大ヒット。春日八郎はめでたく紅白歌合戦に出場、一躍この年のスターとなった。
(世相風俗観察会編『現代風俗史年表』河出書房新社 1986)

 

 しかしそうした突発的なヒットについて『日本流行歌史』(社会思想社刊)という研究書では、かなり否定的な記述が残されている。ここで引き合いに出されていたのは戦後のブギウギによる“狂乱”と、その後のロカビリーの“狂乱”であった。

 どちらも新しい歌と音楽が登場するときに生じる異文化の摩擦に対して、大衆社会から自然に生じる熱い反応だったが、知識人には頭から否定された。

 

 この「お富さん」ブームはもっぱらそのうきうきしたリズムに乗せて民衆を踊らせることでしかなかった。ブギウギのあの狂乱状態とまったく同じことだった。どうも日本人はあのトンコ・トンコという付点のリズムには弱いらしいのである。「お富さん」というのは言うまでもなく歌舞伎の『玄冶店』で切られの与三郎にゆすられるおめかけさんだが、歌詞は支離滅裂で、また歌っている方だってそんなこと関係ないといった具合でひどいものだ。
(古茂田信男、島田芳文、矢沢寛、横沢千秋・編著『日本流行歌史』社会思想社 1995)

 

 トンコ・トンコという調子で繰り返されるハネ気味のリズムには、音楽面での心地よさがふくまれていたのだろう。だからこそ幼い子どもたちまでもが自然に身体を反応させて、踊ったり手拍子を打ったりしたと考えられる。

 服部良一の長男でパリ国立高等音楽院に留学し、帰国してから作・編曲家になって活躍した克久は、高校時代に仲間たちと修学旅行で「お富さん」をあえて放吟していたという。自伝のなかで当時のことを、このように記していた。

 

 成城学園の思い出としては高校3年の秋、北海道に行った修学旅行が印象深い。旅費は一万円。積み立てていたにせよ、当時にしては相当な高額だった。どこかの新聞の武蔵野版に「一万円の大名旅行」と報じられた記憶がある。
 青函連絡船洞爺丸で函館に行き、道内を回った。春日八郎さんの「お富さん」がはやっていて、道中みんなで「死んだはずだよ お富さん」と歌いながら歩いた。この曲はいわば愛人の歌で、高校生には少々不釣り合いだ。後に作曲者の渡久地政信先生と親しくなり、修学旅行で歌いましたと言ったら大笑いされた。
(服部克久『ぼくの音楽畑にようこそ』日本経済新聞社 2017)

 

 そもそも「お富さん」の歌詞をほんとうにわかっていたのは、当時でも歌舞伎に精通していた一部の人たちだけだったらしい。だから歌詞の内容がいくら支離滅裂なものだったとしても、ほとんどの人にはなんら関係がないことだった。

 そんなことよりも言葉のリズムや七五調による節回しが面白く、自然に身体が動き出す歌やサウンドが魅力的だったのである。多くの人には意味がよくわからなかった歌詞のおかげで、リズムに乗せて人々を踊らせるという、音楽の魔力が宿ったのかもしれない。

 それまで知らなかった新しいリズムに出会ってうきうきした気分にさせるのは、祭りやダンスの本質にもつながる大事なポイントだった。ここでもう一度、細野晴臣の言葉を確認しておきたい。

 

「ロカビリーもロックンロールもそうでした。面白いポップ・ミュージックってみんなそうだったんで。理屈の前に気持ちやカラダが動くというか。それが当時の“新しさ”だったんですね」
(インタビュー「細野晴臣 いまの音楽には何かが足りない感じがする」朝日新聞デジタル 2019)

 

 ダンスミュージックとしての伝搬性が強かった「お富さん」が、盆踊りの練習などを通して日本中に広まったのは、大衆音楽は時に理屈を超えたところに成り立つとでもいうべきものであったように思える。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

お富さん / 春日八郎(EP盤 1954)

 

※ 次回の更新は2週間後、8月20日木曜日の予定! 第4章「新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年〜1961年)」後編をお届けします。お楽しみに! そして、お盆休みを機会に、連載のこれまでを読み返してみては如何でしょうか。

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之