~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第6章 ①②】


第一部 第6章 中村八大が目指した世界の音楽(1959年~1968年)
衝撃だった第1回日本レコード大賞 「黒い花びら」
新しい音楽を受けとめる感性
③初めから世界を目指していた音楽家
④無血革命にも匹敵する快挙 「遠くへ行きたい」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第6章「中村八大が目指した世界の音楽」から前編、①衝撃だった第1回日本レコード大賞、②新しい音楽を受けとめる感性、をお届けします。

 1950年代後半におとずれたロカビリー・ブーム。数々の出会いや発想が新たな音楽を誕生させていきます。作曲家や作詞家、音楽家たちは、新しい音楽にどのように挑戦していたのでしょうか。

第一部 第6章 中村八大が目指した世界の音楽(1959年~1968年)

 

衝撃だった第1回日本レコード大賞
 「黒い花びら」

 

 ロックンロールの影響下で始まった日本のロカビリー・ブームでは、ジャズ喫茶で唄っていたウェスタン・バンドの若い男性歌手たちが主役になった。彼らは主に首都圏に住んでいる少女ファンを中心にして、ティーンエイジャーから支持を集めていた。

 大人の社会からは例によって不良の烙印を押されたが、ブームの兆しが見えてきたタイミングで、人気絶頂の石原裕次郎が主演する映画『嵐を呼ぶ男』に、ジャズ喫茶の様子が取り上げられることになって状況が一変する。

 北原三枝が演じる女性マネージャーのモデルとなったのは、渡辺プロダクションの副社長の渡邊美佐だった。監督の井上梅次が銀座にあった「テネシー」を一緒に訪れたのは、1957(昭和32)年の秋のことである。

 舞台となるジャズ喫茶でうたっている歌手の出演者を選ぶためのロケハンがおこなわれたとき、候補になったのは平尾昌章(昌晃)、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの3人だった。

 彼らは後に「ロカビリー3人男」と呼ばれて人気者になるが、平尾はこのように述懐している。

 

 1、2曲歌ったところで楽屋に呼ばれて依頼を受ける。「憧れの石原裕次郎さんと共演できる」と胸が張り裂けそうだった。決め手になったのはステージ衣装だったようだ。歌手である以上、常に目立ちたいという意識を持っていて、その日の衣装も真っ赤なジャケット。これが良かったらしく、監督から「その格好で来て下さい」と言われた。
(連載「平尾昌晃・生涯青春」スポーツ報知 2017)

 

 キングレコードのディレクターだった牧野剛が「テネシー」を訪ねてきて、レコード・デビューの話が決まったのも同じ頃であった。[注]

 平尾はその1年ほど前、プロの歌手になりたい一心で、築地のビクタースタジオを訪ねたことがある。だが、名物ディレクターとして名を馳せていた磯部健雄から、「せっかく来てもらったけど、今は女じゃなくちゃダメなんだよ。悪いな」と、歌も聞かずに門前払いされた。

 しかし今度はオーディションを受けないかと、牧野の方から誘われるまでになった。そして年末から公開された『嵐を呼ぶ男』は、予想をはるかに超える観客動員を記録した。

 ちなみにこの年の映画人口は11億2000万人で、戦後のピークに達していた。石原裕次郎がドラムを叩きながら唄った「嵐を呼ぶ男」は、映画との相乗効果でレコードも大ヒットしている。

 それから約1カ月後の2月8日、『日劇ウエスタン・カーニバル』が開催されると、早朝から長蛇の列を作った若者たちで満員になった。世界中に変革をもたらしたロックンロールが、日本ではロカビリーと呼ばれてブームが起こったのだ。

 この時に東芝音楽工業(東芝レコード)からデビューすることになった山下二郎に、アレンジと歌唱指導を行ったのがジャズ・ピアニストの中村八大である。渡邊晋の推挙によって引き受けた仕事だったが、ポール・アンカのヒット曲をカヴァーした「ダイアナ」は、人気が先行していた平尾との競作を山下が制している。

 平尾は少し遅れてオリジナル曲の「星は何でも知っている」を発売し、夏から秋にかけてヒットをものにした。そんなロカビリーの人気者たちが出演する映画を東宝が製作することになって、中村八大が音楽を手がけることになった。

 1959年の5月に『青春を賭けろ』と『檻の中の野郎たち』の2本をまとめて頼まれたのは、そのなかで使われる予定の外国曲が急に使えなくなって、公開までに何曲も用意しなければならくなったからである。

 窮地に立った東宝から相談された渡邊晋が、バンド仲間だった中村八大を推薦したのは、作曲の才能があると確信してのことだったと思われる。

 早稲田大学の先輩にあたるトランペット奏者で、ジャズ評論家としても活躍した小島正雄が、そのあたりについて考察している。

 1941年からNHKに就職していた小島が陸軍に召集されて入隊し、焼け野原の東京に復員できたのは1947年である。そこから学生時代のバンドの仲間とともに、横浜で進駐軍相手のダンス・バンドを結成したのは、なんとかして食べていくための手立てであった。

 

 だれから耳にしたのだろうか、横浜で働いている私の耳に、早稲田の学生で中村八大というのが、なかなかイカシているという評判であった。
 横浜から吉祥寺に戻る寒々とした中央線の中で、楽隊仲間のだれからか紹介された八ちゃんは、私が予想していたよりはずっと小柄で、ひ弱そうな青年であった。
 ちょうど私たちのバンド、「スヰング・オルフェアンズ」が好いピアニストを捜していた時だったので、私はさっそく切り出した。
「ねえ八ちゃん、僕たちのところへ来て、フルバンドのピアノやって見る気はないかね」
「折角ですが、僕はフルバンドより、コンボで自分の思うままの音楽をやってみたいんです」
  一見ひ弱そうな白面の青年の口から、意外にはっきりした答えがとび出した。
(資料提供:八大コーポレーション)

 

 それを聞いた小島は簡潔な返答の中に、青年らしいファイトが感じられて頼もしかったとも述べている。当時の中村八大はジャズ雑誌『スヰング・ジャーナル』の人気投票で、1953年度のピアノ部門で1位に選ばれていた。

 また所属していたシックスジョーズもコンボ部門で2位まで上昇し、もっとも勢いがあるバンドとして注目の存在になった。

 急速に盛り上がってきたジャズブームを見越して、『スヰング・ジャーナル』が実験的な試みを思いついた。日本人が作曲したジャズの譜面をアメリカに送って、反応を知ろうというという企画である。

 そこでジャズ界における作曲・編曲の第一人者、馬渡誠一が選ばれたのは当然だった。だが、もう一人が弱冠22歳の中村八大であったことに、攻めの姿勢が感じられる。

 小島によれば二人が書き下ろした譜面はアメリカに送られて、一流の演奏家によって披露されただけでなく、日本ビクターからSP盤としてレコードも発売になった。

 

 馬渡誠一の作品は「グリーン・ハウス・パーティー」、中村八大の作品は「ブロークン・ハーテッド・ビジョン」というのであったと記憶する。
 当時はまだ日本のジャズ音楽に対する関心も、今日とは程遠いものであったが、二つの作品ともそれぞれ折りからアメリカにおこりつつあったビーパップの終息につづくクール・ジャズの影響がみられ、日本ジャズ界の水準を示すものとして、まことに見事な作品であった。
(資料提供:八大コーポレーション)

 

 プレーヤーとしての中村八大はその後、渡邊晋とシックスジョーズを経て、ジョージ川口のビッグ・フォーに参加したことで人気が爆発した。それからは中村八大の名前を聞いただけで、聴衆は熱狂したといわれている。しかし本人はそんな反応にも、どこか浮かぬ顔であったらしい。

 そうした様子を見ていて心配になったのか、小島はこんな文章も残していた。

 

 そのころ、八ちゃんはおそらく、自分のジャズ・ピアニストとしての限界を感じて、悩んでいたのかも知れない。そして、それは、彼の力量が優れていればいる程、大きく深いものであったのであろう。
 あるいはまた、自分の音楽に対する追究が深まるにつれて、一緒に演奏している仲間たちとのへだたりが大きくなってゆく悲しさからだったのかも知れない。
(資料提供:八大コーポレーション)

 

 小島によれば日本の流行歌というものは、母音が少ない日本語の特性ゆえに、メロディーや節まわしが重くみられる一方で、ハーモニーとリズムはなおざりにされてきたという。だから美しいメロディーに涙を流すことはあっても、美しいハーモニーや楽器のアンサンブルに、聴き手が興奮させられることは少なかった。

 それが明らかに変わったのは「黒い花びら」がヒットして、第1回日本レコード大賞に選ばれてからのことになる。そこで流行歌の世界にイノベーションをもたらした中村八大が、初めて作曲したジャズのオリジナル作品が小島に評価された「ブロークン・ハーテッド・ビジョン」だった。

 このことが特筆に値するのは、最初から世界に向けてつくられた楽曲であり、そのレベルに達していたことである。

[注]牧野剛は江利チエミの「テネシー・ワルツ」をはじめとして、英語詞を日本語にする訳詞において草分け的な存在だった。当時は他の訳詞者と共用で、“音羽たかし”というペンネームを名乗っていた。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

黒い花びら / 水原 弘(EP盤 1959)

 

②新しい音楽を受けとめる感性

 

 映画の主題歌と挿入歌をつくる仕事に取り組むために、中村八大がロカビリー・ブームに湧く『日劇ウエスタン・カーニバル』に通って、アメリカのロックンロールやポップスを研究したのは1958年の初夏だった。

 そこに東宝の山本紫郎プロデューサーから、監督が楽曲のオーディションをしたいので、撮影所へ譜面を持ってくるようにとの指示があった。作曲はできるとしても作詞家をどうしようかと思っていたところに、たまたま日劇の前の路上で顔見知りの放送作家を見つけて、中村八大は思わず声をかけて会話を交わした。

 永六輔がその時のやりとりを、当事者としてこんなふうに語っている。

 

 たまたまウエスタン・カーニバルをやっているときに、中村八大さんと有楽町の日劇の前でバッタリ会った。そしたら「あなたは作詞をしたことがありますか?」と聞くわけ。「いえ。ありません」「じゃあ、作詞をする気はありますか?」「はい、やります」って(笑)。
(永六輔『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』飛鳥新社 2006)

 

 二人は港区の三田にあった中村八大のマンションに直行し、朝まで楽曲づくりに取りかかった。このときに1曲ずつ合わせていては間に合わないので、それぞれが詞と曲を別々に書いていって、最後に双方を合わせて仕上げることにしたのは中村八大の発案だった。

 

 夜の八時から朝の六時まで、永さんは勝手に詞をつくる。僕はぼくでどんどん別に作曲する。両方できたところで、明るい曲から暗い曲までズラリと並べる。そして明るい詞から暗い詞をその上に乗せてゆくんです。語呂合わせをしたり、いい詞のところを曲のいいところに乗っけてみる。そんなことをしているうちに、いいものがいくつか並び、そのなかに「黒い花びら」があった。
(『中村八大作品集—上を向いて歩こう—』ライナーノーツより)

 

 このときにつくられた楽曲のなかで映画『青春を賭けろ』の挿入歌として、主演した俳優の夏木陽介、「黒い花びら」をうたうことになった。ところが実際にうたってみると楽曲の難易度が高く、俳優の片手間ではとても無理だということがわかった。

 そこで歌っている映像を撮影しておいて、後で音源を差し替えることになった、そのときにオーディションで選ばれたのが水原弘で、出演者の一人だった無名の歌手である。

 多くの人たちの運命を変えた楽曲について、中村八大は後に次のように語っている。

 

 この曲には、自分自身が日本人だなあと思うような、一種の怨念(おんねん)が入っていて初めて、歌謡曲とポピュラー音楽の匂いが調和した曲ができたのだろうと思います。
(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『僕たちはこの星で出会った』講談社 1992)

 

 自らアレンジとプロデュースを手がけたレコーディングでは、シックスジョーズ時代からの朋友だったサックスの松本英彦をはじめ、気心の知れたジャズメンたちに演奏を引き受けてもらった。

 こうして力強いサウンドが印象的な三連符のロッカバラードが完成し、永六輔が書いた話し言葉による斬新な歌詞は、水原弘の特徴あるヴォーカルによって命が宿ったのである。

  黒い花びら
  作詞:永 六輔 作曲:中村八大

  黒い花びら 静かに散った
  あの人は帰らぬ遠い夢
  俺は知ってる 恋の悲しさ
  恋の苦しさ
  だから だから もう恋なんか
  したくない したくないのさ

  黒い花びら 涙にうかべ
  今は亡いあの人 あゝ初恋
  俺は知ってる 恋の淋しさ
  恋の切なさ
  だから だから もう恋なんか
  したくない したくないのさ

 それまでにない言葉の感覚と、メリハリの効いたサウンドがひとつになった歌から、心の悔いを叩きつけるようなパッションが伝わってきた。だがプロフェッショナルであるはずのレコード会社のスタッフたちは、その生々しさをどう受けとめていいのか、当初はわからなかったという。

 しかし慶応大学の学生だった村松友視は、作家になって2001年に発表した著書「黒い花びら」のなかで、初めて聴いたときの驚きを詳述していた。

 

 下宿の部屋でトランジスタ・ラジオを聴くのが、あの頃の私の夕食前の習慣だった。そのラジオから流れてきた「黒い花びら」を耳にしたとき、これはいったい誰の歌だろうと訝った。歌唱力、声質、曲想、歌詞のすべてが、新人の歌う曲のものとは思われず、かといって既存の歌手の声ではなかった。三連符をかさねたロッカバラードの曲、冒頭に鳴りひびく松本英彦のサックス、そして次に歌い出されるしわがれてドスのきいてしかも甘い低音……その感触は、あきらかにこれまでの日本の歌謡曲にないものだった。
(村松友視『黒い花びら』河出書房新社 2001)

 

 東京芝浦電気のレコード事業部から1959年9月に発売された「黒い花びら」は、予想をはるかに上回るヒットを記録していった。それはジャズメンたちのメリハリの効いた演奏と水原弘のヴォーカルが、サウンド全体でうまくマッチングしていたからだろう。

 当事者だった永六輔はメロディーとサウンドについて、このように言及している。

 

「黒い花びら」がヒットしたのは 僕の詞というより、八大さんの曲が良かったからですよ。もっと言えば、曲の最初でビッグ・フォーの松本英彦さんが吹くサックスですよ。♪ バーバ、バババァ、バーバ、バババァという点 あのむせび泣くようなテナーサックスの音で決まりなんですよ。
(永六輔『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』飛鳥新社 2006)

 

 しかも時が味方したのは、その年に古賀政男と服部良一が中心になって設立した、日本作曲家協会が制定する第1回日本レコード大賞において、グランプリに選ばれたことだった。それは時代の空気感を反映していたからだろう。

 そもそも音楽業界の活性化をめざして制定された日本レコード大賞は、その年の3月にアメリカで行われた第1回のグラミー賞を視察した古賀政男と服部良一が、それをお手本にして始めた顕彰制度である。

 停滞気味だった日本の音楽シーンの将来に向けて、楽曲の質的な向上をはかるという意図が明確であった。そこに不良の代表というレッテルが貼られていたロカビリー歌手の水原弘が、斬新な歌をヒットさせて一夜にしてスターになったのだ。

 1959年の日本は敗戦から復興が進んだことで、ひとまず衣食住の心配はなくなっていた。とはいえアメリカの進駐軍指導部(GHQ)に支えられる形で独立を果たしたものの、実情は政治も経済も不安定で先行きが不透明なままだった。

 4月10日には皇太子ご成婚のパレードが行われて、新しい時代を迎えた祝福ムードが溢れたが、その割に不可解な事件が起こって社会全体がどことなく暗い影に覆われていた。

 「黒い花びら」がレコード大賞に選ばれて、しかも大人からも理解が得られたという事実は、時代の変化を映し出す鏡の役割を果たしたと言える。

 しかも流行歌の世界では無名の新人だった中村八大と永六輔が、ソングライターとしてこつ然と登場してきた。そこで純粋に音楽面から見て、楽曲のクオリティを評価する声があがった。

 「黒い花びら」は新聞や雑誌に「流行歌の型を破る」とか、「名をあげた作曲家中村八大」などの見出しで取り上げられた。

 その年に明治大学を卒業して社会人になった阿久悠は、自分が感じていた1959年の印象をこのように記している。

 

 昭和三十四年というと、何となく明るい年のように思われている。それは、四月十日の皇太子ご成婚で日本中が沸き立ったことによる。また、それを一目見たいがためにテレビ受信者契約数が一気に二百万台を突破、新時代に突入したイメージがあるためである。
 ぼく個人も、就職した先で毎日毎日刺激的なカルチャーショックを覚えながら、テレビとか、広告とか、創造とかいった異次元の世界を走り回っていたから、結構面白かった。
 しかし、本当に明るい年であったのかというと、そうでもない。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 阿久悠は歌のあり方を自らの体験に引き付けて受けとめることで、時代性を考察していくという方法を考えていた。その歌がどのように発信されたのか、それが社会にどう受け入れられたのか、ヒットしたことの背景を文章にすることで分析していった。

 

 日曜日であったと思うが、一人で入ったソバ屋の映りの黒いテレビに、水原弘のふてぶてしい顔のアップがあって、眉(まゆ)を寄せ、苦しげに顔を傾けながら、
  〽だから だから もう恋なんか
   したくない したくないのさ……
とふり絞るような声で歌っていて、ぼくは、妙に身につまされるものを感じたりしていた。何ということのない失恋の歌に聴こえるが、何か、時代の黒い底流を引きずり出して来るような呻きにも解釈できたのである。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 ここで「時代の黒い底流を引きずり出して来るような呻き」と表現するところが、後に “怪物”といわれる作詞家ならではの感性であろう。

 しかも流行歌の世界とは別のフィールドから、中村八大と永六輔が、ソングライターとしてこつ然と登場してきたのだ。そこで純粋に音楽面から見て、楽曲のクオリティを評価する声があがった。


※ 次回の更新は9月24日の予定! 第6章「中村八大が目指した世界の音楽(1959年~1968年)」後編をお送りします。お楽しみに!

 

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之