~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第7章 ③④】


➀戦争で奪われた音楽の自由
②抒情歌の流行に背を向けて
③阿久悠と上村一夫の歌づくり修行
④「上を向いて歩こう」を聴いて号泣した理由



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち“ニューミュージック”を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回お届けするのは、第7章「少年時代の記憶、心の傷あと」から後編、③阿久悠と上村一夫の歌づくり修行、④「上を向いて歩こう」を聴いて号泣した理由、をお送りします。

 安保闘争(日米安全保障条約反対闘争)に揺れる1959~60年。騒然とする世相とロカビリー・ブームに沸く音楽シーンは、若き音楽家たちにどのような影響を与えたのでしょうか。そして、作曲家や作詞家、音楽家たちは、新しい音楽にどのように挑戦していたのかを考察します。

第一部 第7章 少年時代の記憶、心の傷あと

 

③上村一夫との歌づくり修行

 

 阿久悠には短期間だが、歌づくり修行ともいうべき貴重な経験を持った時期があった。それは1961年の春から夏にかけてのことである。作曲と歌でパートナーとなったのは、学生アルバイトとして宣弘社にやってきた美大生の上村一夫(かみむらかずお)だった。

 武蔵野美術大学に籍をおいていた上村について、阿久悠は才人と呼ぶにふさわしい存在だったと述べている。

 

 アルバイト学生を使う先輩正社員としてぼくは、絵コンテを描く指示を出したのであるが、その時のショックを忘れない。ほんの何コマか描いた絵を見ただけで、プロとアマの差はこういうことかと思ったのである。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社 2004)

 

 アルバイトとしてやって来た上村に対して、阿久悠は瞬間的にただならぬ狂気を感じたという。お互いの狂気がプロの匂いを発していると思ったというのだから、確かに運命的な出会いだったのであろう。

 

 さて、ぼくはその頃、宣弘社での居心地のよさを満喫し、およそ好き勝手を許された結構なサラリーマン生活をおくっていたが、本心は退屈していた。企画部員の仕事の範囲で考えると、コピイを書いても、企画書を書いても、また、CM企画の絵コンテを描くことも有能であったが、どうしても、それ以上の自信に繋がらなかったからである。
 泳いでいる分には達者だが、飛び立つには力も度胸も足りない水鳥の焦り、というのがわかりやすいだろうか。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社 2004)

 

 そこで出会った上村一夫は、退屈から逃れるにはこれ以上はない遊び相手だったという。たまに二人で酒を飲みに行くこともあったが、もっと創作に近いことに熱中した。歌をつくったり、浮世絵を書いたり、それが遊びだったのである。

 このとき阿久悠が24歳、上村は21歳である。二人は会社の仕事以外のところで、表現者として才能をぶつけ合っていった。それが歌をつくる試みになったのだから、これも音楽史における必然だったと思える。

 

 歌づくりは、彼がフラメンコギターの名手だと自分から話したことに始まる。曲も作れると言う。それなら、ぼくが詞を書くから歌を作ろうということになった。
 ぼくは将来設計の中に、作詞家の欠片も含まれていないころで、なぜそんな気になったのかわからない。ただ、何かが作れるという証明をしたかったのだろう。そういうことであれば何でもいいことで、目の前に曲を作り、ギターを弾き、歌も器用に歌える奴がいるから、とりあえず歌を、ということになっただけである。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社 2004)

 

 それから数年後に阿久悠と上村は再会し、二人で組んだ青年向けの劇画で連載を手がけていくようになる。やがて上村が単独で原作も引き受けた『同棲時代』(双葉社)が人気漫画になり、テレビドラマ(沢田研二・梶芽衣子 1973)や映画(仲雅美・由美かおる 1973)に使われた。また大信田礼子が唄った映画の主題歌もヒットしたのだ。

 上村はそこから漫画家および劇画家、イラストレーターとして活躍したことで、“昭和の絵師”として認められていった。

 歌謡曲が大好きだったTBSテレビの演出家で、後に作家としても活躍した久世光彦は10年にわたって書き綴ったエッセイ集『マイ・ラスト・ソング』のなかで、“ときに幼児に見えたり、老人に見えたりする不思議な男だった” と記して、46歳で早世した上村一夫の早すぎた死を悼んだ。

 

 桜のころになると、きまって思い出す唄がある。その花がちらほら散り始めると、思い出す奴がいる。「港が見える丘」と 死んだ上村一夫である。
 酔うと決まって「港が見える丘」を歌った。上村は あなたを「アンタ」に 私を「アタイ」に言い換えて歌うのである。これがなんともやりきれなくて、せつないのである。
(久世光彦『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』文春文庫 2009)

 

 酔うと必ず得意のフラメンコギターを弾いていた上村が、十八番(オハコ)にしていたのは戦後まもなく東辰三(あずまたつぞう)が作詞作曲し、平野愛子の歌でヒットした「港が見える丘」だった。軍歌の名曲「荒鷲の唄」をつくった東辰三は戦後になってから、抒情歌の極みのような「君待てども」を自らの作詞作曲で発表している。しかし働き盛りだった1950年、脳溢血のために急死した。享年50。

 その忘れ形見になったのが1960年代の後半から作詞家として活躍する長男の山上路夫(やまがみみちお)だが、その事実はほとんど知られていなかった。父親の七光りを嫌った山上は、子供の頃から喘息に悩まされて居た、寝たきりの思春期を過ごしたという。だが雑誌『ジュニア・ソレイユ』の懸賞小説で1等を受賞したのを機に、青山学院大学第二経済学部を中退してフリーライターになり、雑誌『平凡』が募集した松尾和子の歌の詞に応募して当選して作詞家になった。

 山上はいずみたくと出会ってCMソングを量産し、その延長で「世界は二人のために」(佐良直美)や「夜明けのスキャット」(由紀さおり)などを誕生させている。そして清潔感のある歌詞が話題を呼んで、次々に仕事の依頼が舞い込んだことで年間300曲ほどの歌詞を書くヒットメーカーになった。

 いずみたくが著書の『新ドレミファ交遊録』のなかで、そのことについてこのように述べていた。

 

 彼とボクの作ったCMソングは五百曲以上、いや千曲に近いぐらいあるのではなかろうか。
 一時は月産十五曲から二十曲の多産系の作詩家として重宝がられていたし、また現在でも、数多くの流行歌の作詩やCMソングの作詩をしている。
「ガミさん、少し働好き過ぎじゃねえか」
「何いってるのよ。自分のことはタナにあげて……。イズミさんと同じですよ」
 一笑に付されて問題にもされないが、彼もまったくボクと同じ考え方なのであろうか、人から依頼された仕事に対して、自分がどんなに忙しくても、決してイヤといわない男である。
(いずみたく『新ドレミファ交遊録』サイマル出版会 1992)

 

 そんな山上が1970年に三重県の合歓の郷で開催された「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル」で、コンビを組んでいた村井邦彦に頼まれてコーラス・グループの『赤い鳥』のために書いた楽曲が「翼をください」である。

 山上は応募するにあたって「希望」をテーマに書き上げて、「ゴスペル調にしたら?」と村井に提案したという。そこから美しいメロディーの楽曲が出来上がってきたが、そのままでは歌詞が不似合いだと思ったので書き直しを申し出た。

 

「全く歌詞に合っていないのに、とても良い曲が戻ってきた。その段階で締め切りまであと3日だったけれども、この旋律に負けないように歌詞を書き直した。七転八倒しました」。
(産経ニュース 2018.2.23)

 

 小児ぜんそくのため小学校にあまり通えなかった過去の体験が、自由に羽ばたく鳥の姿にそれとなく投影されていたかもしれない。

 なお「翼をください」はコンテストで入賞曲にも選ばれなかったのだが、1972年2月に赤い鳥のシングル盤「竹田の子守唄」のB面曲として世に出ている。そこから合唱曲として評価が高まって、音楽の教科書(教育芸術社)に掲載されたことから、時間をかけてスタンダード・ソングへと成長していったのである。

 ちなみにプロのソングライターたちが書下ろしの新曲で応募した「合歓ポピュラーフェスティバル」で、グランプリに輝いたのは中村八大の「涙」(作詞:藤田敏雄 歌:雪村いづみ)と、佐藤勝の「道行」(作詞:藤田敏雄 歌:菅原洋一)の2曲であった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

翼をください / 赤い鳥(EP盤 1971)

 

④「上を向いて歩こう」を聴いて号泣した理由

 

 阿久悠が上村一夫と歌づくりを行っていたのとまったく同じ時期に、中村八大は永六輔とのコンビで「上を向いて歩こう」を書き下ろしている。「ステキなタイミング」などのカヴァー・ポップスで、19歳の坂本九のアイドル的な人気が急上昇していた1961年のことである。

 7月21日に大手町のサンケイホールで開催された〈第3回中村八大リサイタル〉には、江利チエミやザ・ピーナッツ、水原弘、森山加代子、水谷良重(現・八重子)、加山雄三など10人の歌手が参加している。彼らは中村八大の書き下ろしによる意欲的な作品をそれぞれに披露したのであるが、圧倒的に評判が良かったのは最年少の坂本九が唄った楽曲だった。

 それがNHKテレビの『夢であいましょう』で8月下旬に取り上げられると、楽譜がほしいというハガキが聴取者にから数多く寄せられた。そこで10月と11月の2ヶ月にわたって「今月の歌」のコーナーで流すことが決まり、アレンジの方向などに改良が加えられてレコーディングが行われた。この「上を向いて歩こう」が日本でヒットしてから1年半後に、坂本九が唄った日本語のまま、アメリカ発で世界中にまで波及する空前のヒット曲になったのである。

 宣弘社のアルバイトを辞めた上村一夫が姿を消したのは、「上を向いて歩こう」が10月15日に東芝レコードから発売されて、テレビやラジオから流れ始めた頃だった。波長の合う相棒がいなくなった後に過労で倒れた阿久悠は、それからしばらく会社を休んで床に臥せっていたという。

 下宿でただ一人、横になっていた心細い日々のなかで、ラジオから流れてきたのが、レイ・チャールズの「旅立てジャック」と坂本九の「上を向いて歩こう」だった。

 

 ぼくが印象に残っているのは、それを病床で聞いたからである。ちょうどその頃、過労と栄養不良が重なって黄疸になった。最初は風邪かなと思っていたが、そのうち、妙に臭いに敏感になり、近所の台所から流れてくる魚を焼く匂いに吐き気をもよおすようになり、当然のことに食欲はさっぱりで、酸っぱいミカンだけがかろうじて食べられた。
 医者行って症状を説明すると、「あんた、そりゃあ、つわりと同じことだよ」と笑われ、「つまるところ、お粥とシジミ汁かな」と肝臓の機能不全であることを告げられた。間借りの一人暮らしで、お粥とシジミ汁なんてことがいちばん厄介なのだが、お世話になっていた家の人に親切にされ、毎食それを作ってもらい、部屋で寝ているうちに、病名通りに真黄色になった。
 驚いたのは、シーツに黄色い人の形ができていたことで、何とも情けなく、これで未来もかき消えるかぐらいに落胆していたが、そんな時、妙に数多くラジオで聞き、慰められた歌が、レイ・チャールズの「旅立てジャック」と坂本九の「上を向いて歩こう」であった。
 〽上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
  思い出す春の日 一人ぼっちの夜…
 涙がこぼれないようにと言われるのだが、わけ知らず大量の涙を流したことを覚えている。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 日本とアメリカのヒット曲をラジオで聴いて、阿久悠は気弱な気持ちを慰められる体験をした。そのときのことを文章にしたエピソードからは、いかなるときでも歌を素直に受容する力と、それを分析する非凡な能力が伝わってくる。坂本九の風変わりな歌い方についても、そこに励まされたのかもしれないと述べていた。

 歌が発揮するさまざまな力を受けとめてきた阿久悠は作詞家になってから、そのあたりの機微を自分のなかで上手に使いこなせるようになっていく。

 

 〽ウエヲ ムフイテ アルコホホホ
  ナミダガ コボレナイヨホホホニ
 坂本九の歌はそんなふうに聞こえる。〽ヒトオリ ポホチノヨル……。どうやらそれに、つまり、〽アルコホホホ……にぼくは励まされたようである。ストレートな感傷なら、どう感じたかわからない。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 なおもうひとり名前が上がっていた洋楽のレイ・チャールズは、盲目のソウル・シンガーとして知られている。1960年11月に全米ポップ・チャートで1位を獲得した「我が心のジョージア(Georgia On My Mind)」は、1930年に作られたジャズのスタンダード曲だったが、この曲のカヴァーで有名になった。

 そして1961年10月に2度目の1位を獲得したヒット曲が、男女のかけあいによる「旅立てジャック(Hit The Road Jack)」である。これは役に立たない男に愛想を尽かした女が、怒りとともに家から「さあ、出て行け!」と追い出す歌詞だった。

 ここではほとんど救いのない辛辣な内容にもかかわらず、レイのヴォーカルからはダメ男のコミカルな味わいがにじみ出ていた。このように歌と音楽は歌詞やテーマと関係なく、気持ちが弱って折れそうな人の心を励ましたりすることがあり得る。そして生きていくための希望を歌声の力で、呼び覚ますことが可能になったりもする。後世にまで歌い継がれてスタンダードになった楽曲には、そうした歌声そのものの力がそなわっていることが多い。

 ただしそれを十分に発揮するにはメロディーとリズム、サウンド、歌詞、歌手の表現がひとつになって、音楽の魔法を生じさせることが必須となる。「上を向いて歩こう」の場合は、弾むようなシロフォン(木琴)の音色から始まって、前に向かって進んでいく力を感じさせるメロディーと、2ビートのサウンドが効果的だった。そして誰でもくちずさめる話し言葉の歌詞と、キュートな裏声に特徴がある坂本九の個性的なヴォーカルが揃っていた。

 だからこそモノラルの一発録りとは思えないサウンドから、音楽の魔法を生じさせる力が放たれたのではないか。世界の最新ヒット曲がしのぎを削るアメリカにおいて、日米間の1年半ものタイムラグを乗りこえてヒットし、それがたちまちのうちに世界中にまで広まっていったのだ。

 今となっては信じられないような奇跡としか思えないが、一つひとつの音楽的な要素はどれも納得できるものであった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

上を向いて歩こう / 坂本 九(EP盤 1961)



※ 次回の更新は10月29日の予定! 第8章、前編をお送りします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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