~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第14章 ⑤】


①日本人が好む洋楽がヒットした1971年 「ナオミの夢」ヘドバ&ダビデ
②日音と筒美京平の快進撃 「17才」南沙織
③CMの世界で活躍してきた小林亜星 「レナウン・ワンサカ娘」
④久世光彦というドラマの演出家 「昭和枯れすすき」さくらと一郎
⑤新しい演歌に挑んだ二人 「北の宿から」都はるみ


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第14章『多様化していく音楽シーン』より、⑤新しい演歌に挑んだ二人、をお届けします。

 1970年前後からヒットチャートは歌謡曲や演歌に加えてフォークや洋楽曲が賑わします。すでにパターン化していた演歌においても新しい挑戦がはじまります。今号では演歌の名曲、「北の宿から」の誕生秘話を通じて、新しい音楽へ挑戦した小林亜星や阿久悠、都はるみをはじめ音楽家や演出家たちの躍動を伝えます。

第一部 第14章 多様化していく音楽シーン

 

⑤新しい演歌に挑んだ二人
「北の宿から」都はるみ

 

 小林亜星は歌謡曲をつくるようになってからも、ヒット曲を出すことが何よりも優先されるレコード業界とは、少し距離を置いて活動してきた。そもそもはテレビドラマの音楽、”劇伴”の仕事で認められて、そこからCMソングをつくるようになったからである。

 そうした出自のためもあってのことだろうが、歌というものの本質について、理知的で冷静な考えを持っていた。

 

 「歌っていうのはなかなかに難しくて、音楽だと思うと間違いだし、詩だと思っても間違い。詩という文学性、メロディという音楽性、それから歌い手の演劇性、これらがうまく合わさったとき、初めていい歌ができる。」
 (久世光彦『歌が街を照らした時代』幻戯書房 2016)

 

 そんな小林が阿久悠と組んで都はるみのために作った「北の宿から」が、紆余曲折を経て完成してヒット曲に成長したのは、1975年から76年にかけてのことだった。

 そのきっかけになったのは1972年の10月に発売された、水前寺清子の「昭和放浪記」というレコードである。これは薄幸な境遇に置かれた娼婦と、客として知り合った流れ者の間に起こった、一夜限りの恋情を定型詩で綴った歌だった。

 昭和の初期を思わせる舞台設定なので、遊郭があった時代のものになる。そこに劇画の原作として使いたくなるようなシーンが、印象的な台詞とともに綴られている。

 文字数は、八・五・八・五・七・五・七・五である。

  昭和放浪記
  作詞:阿久 悠 作曲:小林亜星 編曲:小杉仁三

  女の名前は 花という
  日陰の花だと 泣いていう
  外は九月の 雨しぶき
  抱いたこの俺 流れ者

  女は数えて 二十一
  しあわせ一年 あと不幸
  枕かかえて はやり唄
  歌う横顔 あどけない

  女は眠いと 目をとじる
  夢でもみるなら それもいい
  雨戸細目に そっとあけ
  あおぐ夜空は 雨あがり

  女がにぎった てのひらに
  お守り一枚 そっとのせ
  出ればまぶしい 朝の日が
  今日を教える 流れ者

  旅を重ねる 折々に
  ふれる心の 放浪記

 阿久悠は四番までの歌詞が出来上がったとき、かなりの手応えを感じたらしい。そこでありきたりの歌で終わらせたくないと思い、演歌とは関りを持たない小林亜星に作曲を依頼してみた。パターン化されてマンネリに陥っていた演歌に、いくらかでも新しい血を導入することで、新風を吹かせようとしたのであろう。

 だが1972年10月に発売されたレコードは、前評判のわりにはヒットに結びつかなかったという。オリコンのチャートでは最高が66位だった。

 

 これは演歌好きの人からは、隠れた名曲のように言われている。別に隠したつもりはなかったが、ただもう一つ売れなかっただけである。
 それでも、詞ができた時も、曲がついた時も、レコーディングが終わった時も、なかなかの盛り上がりで、もしかしたら、伝説的なヒットとささやかれたのだが、結局は隠れた名曲どまりであった。
 (阿久悠『なぜか売れなかったぼくの愛しい歌』河出書房文庫 2008)

 

 このコンビはそれから3年後、都はるみのスタッフから新曲の依頼を受けている。そこで「昭和放浪記」のような作品を書いてほしいと、具体的な注文があったらしい。

 しかし阿久悠はその頃、藤圭子のために書いた「京都から博多まで」と「別れの旅」という例外を除いて、自分では演歌を手がけていないと思っていた。そこで小林亜星と相談のうえで、先方の希望にとらわれず、都はるみの歌声をイメージして「男っぽい」楽曲をつくってみた。

 ところが出来上がった「男」という歌詞を目にして、都はるみは軽いショックを受けることになったという。

 その当時の事情が知りたかったので、有田芳生(よしふ)のノンフィクション『歌屋 都はるみ』を読んでみた。すると1974年になぜ新しいことに挑戦したのか、そのことが詳しく描かれてあった。

 それによれば1964年に16歳でデビューして、レコード大賞の新人賞に選ばれてスターになって、そこから区切りの十年目を迎えるにあたって、彼女がこれまでの延長ではない、「何か」を求めていたことがわかった。

 周囲のスタッフが思っていた以上に、本人は演歌歌手という枠におさまりたくないという、強い気持ちから始まったものだった。

 そのためには演歌歌手の常道を外す覚悟で、会場選びから準備していった。そして渋谷区の神南に完成して間もないNHKホールで、記念のリサイタルを開催することにした。

 3800人もの観客を収容することができる近代的なホールは、1973年の大晦日に初めて『紅白歌合戦』が実施されたばかりだったが、あらゆる面で最新設備が完備していた。

 そうしたホールにふさわしい演出家として選ばれたのは、宝塚歌劇団と劇団四季を経て、主に創作ミュージカルの制作を手がけてきた藤田敏雄である。テレビ朝日で毎週放送していたクラシック系の音楽番組『題名のない音楽会』の構成作家としても有名だった藤田に、都はるみは企画と構成、および演出を依頼した。

 これは演歌歌手の常識からすると、無謀ともいえるほどの冒険だったらしい。案の定、そこから本番までにはいくつかの問題が生じて、プライドが高い歌手と演出家の意地が、何度もぶつかる場面が続いたという。

 都はるみのLPレコードをすべて聴いてみることから始めた藤田は、自分なりのイメージを膨らませていった。そしてこれまで表面に出てきていない能力を、新たに引き出すことが自分の使命だと決めた。

 具体的にはステージ上に一流のオーケストラが揃っていて、出演者は最初から最後まで都はるみという、一人の歌手だけにするという試みになった。

 

 藤田は、はるみにコンサートの二時間を「一人で勝負しなさい」と宣告した。通例からいえば、司会が華やかに盛り上げ、ゲスト歌手が歌うのだが、それをやめようという提案だった。
 (有田芳生『歌屋 都はるみ』文春文庫 1997)

 

 藤田は都はるみという歌手が、「フォルテシモの歌手」だという印象を持った。それは彼女が歌の要所々々で発揮するこぶし回しや、大げさともいえるビブラートについて、情感を強く表現するものだと理解したからだ。

 そのためにリサイタルでは、それまでにない歌唱法、すなわち「ピアニッシモの表現」を要求した。それはプロの歌手として築きあげてきた得意技を、封印するに等しいことだった。

 だが、彼女はそのことを納得したうえで、「ピアニッシモの表現」を習得するためにレッスンを積んだ。その甲斐があって10周年の記念リサイタルは、大成功のうちに終ることが出来た。

 そこで次に挑んだのが、年の暮れに発売するための新曲だった。デビュー前から唄ってきた育ての親、市川昭介のつくる曲から離れて、あえて阿久悠と小林亜星に新作を依頼したのだ。それは「昭和放浪記」のような楽曲を唄いたいと、イメージしていたからだったという。

 しかし都はるみはできあがってきた曲のタイトルを見て、思わぬ衝撃を受けることになった。原稿用紙には「野郎」という、意外な二文字が書いてあったのだ。

 その時の反応が『歌屋 都はるみ』に、次のように描かれていた。

 

 「私はこういうイメージで見られているのだろうか」
 自分では「男っぽい」と思っていないのに、人からは「野郎」という曲を歌うのがふさわしい人間だと見られていた。そう思うとショックだった。
 (有田芳生著『歌屋 都はるみ』文春文庫 1997)

 

 しかし、都はるみはそこであきらめることなく、もう一度、新曲を作り直してもらおうと決めた。その提案が受け入れられるようにと、自らの意思にもとづいて依頼したのである。それを受け入れて、阿久悠はイメージを変えていった。

 

 「北の宿から」は、都はるみのために初めて書いた詞である。もっとも、その時、元気のいい個性を活かそうと思って「野郎」というのを書いたのだが、これはボツになった。それでイメージを急回転させての「北の宿から」なのである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 阿久悠は都はるみに感じていた “濃い演歌” というニュアンスを、いかにして薄めていくかというアプローチに挑んだ。それならば自分が手がける意味があると考えて、男に引きずられない生き方を選ぶ女性をテーマにした。

 そして旅先で孤独な一夜を過ごす姿を、あっさりした歌詞に仕上げていった。

 

 未練、セーター、北の宿、汽車の音、涙唄、寝化粧などと、ちょっと気恥ずかしくなるほどの演歌の道具立てで、さてと考えた末、主人公だけはいささかの矜持を持たせたいと思った。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 たとえ旅の宿でひと晩、泣き明かしたとしても、主人公の女性は翌日になったら、自分の考えでどこかへ向かって歩き出すに違いない。

 そういう思いを表現するために、力を入れてうなりたくなる部分を、歌詞から外していったのだ。

 

 具体的には、曲の上で力を入れてうなる部分をなくすことであり、言葉では、「北の宿」と断定すべきところを「北の宿から」と流し、「女心の未練でしょうか」と問い詰めるところを、「女心の未練でしょう」と自問の形にしたのである。
 (阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮文庫 2007)

 

 都はるみは希望していたイメージに近い楽曲ができあがったので、編曲の竹村次郎にはフォークソングの「神田川」をイメージして、演歌の匂いを薄めるように頼んで、レコーディングに臨んだという。

 しかし歌詞の言葉づかいはおとなしすぎたし、情感を込めて唄えるところがなかった。だからどことなく物足りない思いが残ったのも事実だった。

 そのあたりの微妙なニュアンスについて、デビュー前から彼女を見守ってきたスポーツニッポンの小西良太郎が、このように解説している。

 

 都が「あんまり好きじゃないな」と気乗り薄で歌いながら、昭和五十一年のレコード大賞を取ってしまったのが「北の宿から」だった。それまで歌ってきた演歌と、阿久悠の詞は確かに文体が違った。それはそうだろう。阿久は従来の歌謡曲の「どうせ」と「しょせん」で言い訳するメンタリティを排除するところから歌づくりを始めている。
 作曲した小林亜星はCMソングのヒットを量産、歌謡界へ入ってきた人で、従来の演歌よりはポップス寄りの体質である。どの箇所がどうという事ではなく、作品自体の文脈がはるみには同化しにくかったかもしれない。
 ところが聴き手の僕らには、それが彼女の新境地に聴こえた。乗り気ではなくても、そう気づかれるほど、彼女の仕事はゆるくはない。
 (小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房 2015)

 

 都はるみはレコーディングでも小林の指示に従って、“こぶし” を使わないで歌い終えた。しかし初めてテレビで歌うときのリハーサルで、どうにも物足りなかったので、少し “こぶし” をつけて唄ってみた。

 するとその場に立ち会っていたテレビ局のスタッフたちが、とても良い反応を示してくれたという。そこで唄い方のコツがつかめたのか、実際に「北の宿から」を唄うときには、ほんのわずかだけ “こぶし” をつけることにした。

 そして大晦日の『紅白歌合戦』で披露したことで、翌年になって少しずつレコードの動きに反応が出てきた。オリジナルコンフィデンスのヒットチャートでは、4月から5月にかけて20位前後にまで上昇した。

 そこでコロムビアレコードは5月に予定していた新曲の発売を延期し、「北の宿から」のプロモーションと販売に力を集中した。音楽業界誌などには、「売れてきました!」、「はるみ節!いまや絶好調!!」という広告を出稿して弾みをつけた。

 こうしてロングセラーになった「北の宿から」は、発売から1年以上が過ぎた1976年の大晦日に、日本レコード大賞に選ばれたのである。

 阿久悠と小林亜星は演歌の第一人者を自負する歌手に対して、根本の発想を変えることによって、いつのまにかパターン化していた歌唱法に刺激を与えた。そしてベテランの域に達していたスター歌手にとって、喉から手が出るほど欲しかった大ヒット曲を、3年ぶりに誕生させたのである。

 

北の宿から ジャケ写.jpg

北の宿から / 都はるみ (EP盤 1975)

 

※ 次回の更新は3月11日予定! 第15章『未知の才能が集まったモップス人脈』から前編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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