「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第2回:音楽家の伝記 】

 

音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第2回は『作曲家◎人と作品シリーズ』『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 小泉文夫』といった音楽家の伝記について読む際の注意点やその他お薦めの作品を紹介いたします。 

 通常の本棚に加え、窓枠にあわせてオーダーメイドしてはめ込こんだ本棚に、デスクの上には書籍を横に積み上げるように作られたブックタワー。サイドテーブルの上には現在仕事で使う本や献本されたばかりの書籍が積まれたまま……。我が家を圧迫する音楽書の一部である。実際に数えたわけではないが、占める割合で最も多いのは、伝記・評伝のたぐいであると思われる。理由は単純。私が仕事として、コンサートやアルバムのプログラムノートを執筆しているから。曲目解説の文章を書く上で、その曲の「楽譜」と作曲者の「伝記」は必須の資料なのである。

 

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――伝記とは何か?

 

 「楽譜」の違いやその選び方については以前の連載で様々な角度から光をあてたので、そちらをあたっていただくことにしよう。今回、話題にしたいのは「伝記」の方だ。多くの方が伝記と聞いて真っ先に思い出すのは、子どもの頃に読んだ偉人伝だろうか? 小説なのか漫画なのか、とられている表現形態がなんであれ、昔ながらの子ども向けの偉人伝は基本的に、その人物のポジティブな面を中心に描いてゆく。このスタンスは大河ドラマが近い。たとえば織田信長や豊臣秀吉が主人公であれば当然、明智光秀は基本的に悪役にならざるを得ないが、長谷川博己演じる光秀を主人公とした2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本能寺で謀反を起こされる信長側に非があることが強調されていた。
 だが大河ドラマや歴史小説ならともかく、伝記とは本来そのようなものであってはならない。誤解なきように言っておくべきだろう。子ども時代に多くの人が読んだであろう偉人伝は、伝記という体をとった歴史小説・歴史漫画だったのだ(昨今は、そうではないものもあると伝え聞くが、ここでは深追いしない)。本来、伝記というものは記述される各々の情報が、どれほど確度が高い内容なのか、読み手に分かるように記さねばならないからだ。物語・読み物としての面白さは伝記にとっても大事だが、最優先すべきことではない。そこが小説や漫画と異なる。
 そんなこと当たり前でしょ? そう思われるかもしれない。だが、本人が記した自伝・自叙伝、親族・関係者の証言となった途端、無批判に信じだす人々のなんと多いことか。読み物として面白くするため、記憶違い、都合の悪い事実の隠蔽、捏造、等々……。理由はなんであれ、自伝や証言は一次資料のひとつに過ぎない。批判的な目線で信頼性の検証がなされた上で、複数の資料を組み合わせながら当該人物の人生が文章で再構成されてゆく。これが伝記のあるべき姿であろう。

 

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▲『フォルケルによる伝記の表紙
(出典:Wikipedia)

 


――作曲家の伝記とその注意点

 

 クラシック音楽の世界で「伝記」といえば、まず筆頭にあがるのは作曲家を対象にしたものだ。作曲家の伝記が書かれる機会が増えてゆくのは18世紀後半のこと。いくつか例を挙げると、1760年にはジョン・メインウェアリング(1735-1807)が1759年に亡くなったヘンデルの伝記を匿名で出版。ヘンデルの伝記は1785年にもチャールズ・バーニー(1726-1814)よって出版されている。
 こうした昔の伝記でとりわけ有名なのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)に関するものであろう。亡くなった4年後には、ヨハン・セバスティアンの次男C.P.E.バッハらによる『故人略伝』(1754)という文章が、死後52年を経た1802年にはより本格的な伝記であるヨハン・ニコラウス・フォルケル (1749-1818)が出版した『ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯、芸術、および芸術作品について。心の音楽芸術の愛国的賛美者のために Ueber Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke: Für patriotische Verehrer echter musikalischer Kunst』が世に出されている。後者については、前述した次男(1788年没)に加え、長男(1784年没)の証言も取り入れて執筆されたものだ。
 これらの2つの記録は、一種の伝記であることは間違いないが、今日からすれば一次資料的に扱われることが多い。本人を直接知る者による証言によっているからである。加えて、後者については副題「心の音楽芸術の愛国的賛美者のために」からも読み取れるように、客観性よりもバッハとドイツの偉大さを主張することが優先されている。一例を挙げると、最後はこのように締め括られているのだ。
 

そしてこの人物〔J.S.バッハ〕――かつて存在し、また将来存在するであろう最大の音楽詩人にして最大の音楽雄弁家――はドイツ人であった。祖国よ、彼を誇れ。彼を誇りとし、かつまた彼にふさわしいものとなれ!(角倉一朗 訳『バッハ小伝』[白水uブックス, 2003]より引用)


 ナショナリスト的なフォルケルの後にもバッハの伝記は書かれていったが、今日の価値観からして真っ当な史料批判のもと書かれた伝記と呼べるのは、19世紀後半に出されたフィリップ・シュピッタ(1841〜94)による伝記(第1巻1873年/第2巻1880年)以降となる。では、現在もバッハの生涯について知りたければシュピッタによる伝記にあたればよいかといえば、そうではない。最新の研究結果に応じて、常に伝記は更新されてゆくものだからだ。しかしながら、言うまでもないことだが新しければ何でもよいというわけでもない。最低でも、信頼に足る著者(≒多くの場合、その分野の優れた研究者)による著書なのかを確かめてから購入したいところだ。

 

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▲シュピッタの肖像
(出典:Wikipedia)

 


――お薦めしたい伝記シリーズ 

 

 ここまで伝記を選ぶ上での注意点を語ってきたが、それが音楽書を手に取るハードルを上げてしまったとしたら、それは私の望むところではない。著者が信頼に足る人物なのか、判断がつかないようであれば、現在まず手に取るべきは音楽之友社の『作曲家◎人と作品シリーズ』である。2004年から刊行が始まったシリーズなので、出版から18年ほど経っているものもあるが、その時点での最新研究をキチンと参照していることが分かるものが多く、日本語で手軽に読めるサイズの伝記としてはファーストチョイスに丁度よい。
 このシリーズでは、どの作曲家の伝記でも基本的に「生涯篇」と「作品篇」という2段構成になっており、巻末には年表と作品表、人物索引も掲載されている(作品名の索引は、あるものとないものがある)。ところが著者の判断次第で、独自の内容を含んでいたりするのが面白い。例えば村田千尋著『シューベルト』(2004)では、「ウィーン・シューベルト巡礼」と題された補章があり、流行り言葉でいうところの「聖地巡礼」をするために欠かせない、シューベルトにまつわる建物と土地を紹介。なんと、著者の勧める巡り方(コース)の提案まで付いているのだ。シューベルトに特化した『地球の歩き方』という言い方をしても良いかもしれない。
 そして、これまでに22冊でているこのシリーズの中で、私が出色の出来だと思うのが岡田暁生著『リヒャルト・シュトラウス』(2014)である。これまでも中公新書などで、一般向けでありながらも実に刺激的な著書を発表してきた岡田だけあって、まず生涯篇が読み物としてめっぽう面白い。一例を挙げれば、生涯篇のラストで岡田は「憂いを湛えながら美しく人生に別れを告げる高貴な女性というキャラクターに、生涯シュトラウスはただならぬ創造意欲を見せた」と指摘。同時に、そのモデルになった可能性がある唯一の人物として初恋の相手ドーラ・ヴィーハンを挙げるのだが、岡田は「もちろん何の根拠もない」と書き添えることも忘れない。エビデンス(証拠)のある情報にしっかりと基づきつつも、それと分かるかたちにした上で私見を語ることも恐れない。伝記としての信頼性と、読み物としての面白さを見事に両立させた例だといえるだろう。
 もうひとつ、このシリーズのなかで現状、最新刊となる久保田慶一著『バッハ』(2021)もお薦めしたい伝記のひとつだ。久保田は、現在手広く自著や訳書を発表しているが、もともとはJ.S.バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの研究者である。その立場が活かされているという見方もできるだろう。「生涯篇」と「作品篇」に加え、ヨハン・セバスティアン・バッハという作曲家がどのように受容されてきたのか? 親族の果たした役割や、先ほど触れた伝記の変遷(上記の説明も久保田著の『バッハ』を参照させていただいた)などが分かりやすく簡潔にまとめられている、そのため、ただ作曲家の生涯と作品を知るという段階から一歩踏み込んで、伝記を書く音楽学者の問題意識のようなものに触れるきっかけとなるだろう。

 

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▲シューベルトの墓
(出典:Wikipedia)

 


――お薦めしたいその他の伝記

 

 音楽之友社『作曲家◎人と作品シリーズ』は、基本的にその作曲家(ないしは近い分野)を研究している音楽学者が著者となっていたので、一般向けとはいえアカデミックな内容であったが、ここからはもっと読みやすい「読み物(≒小説)寄りの伝記」のなかで、私が近年読んで特に面白かったものをご紹介しよう。

 まずは、かげはら史帆著『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社, 2020)である。2018年に出版した『ベートーヴェン捏造 〜名プロデューサーは嘘をつく〜』(柏書房, 2018)によって多方面で話題を巻き起こした、かげはらによる2冊目の単著である。作曲家・ピアニストのフェルディナント・リースは、この伝記のタイトルの通り、ベートーヴェンの愛弟子でありながら、一般的には無名の存在。そのリースを偏愛し、自分の「推し」であると語るかげはらが、(おそらくは)世界初・史上初となる彼の伝記を執筆したのが本書である。
 そもそも、著者のかげはらは前著『ベートーヴェン捏造』のもととなった修士論文で、ベートーヴェンの元秘書シンドラーの捏造によって、ベートーヴェンの偉人像がどのように形成されていったかを研究していたし、このリースの伝記の編集を務めた中川航は(ベートーヴェンのもうひとりの弟子である)カール・チェルニーの研究が専門である。こうしたアカデミックなバックグラウンドを持ちつつも、この(2022年)5月からWEBメディア『FREUDE』で小説の連載が始まるなど、作家としての活動もしているかげはらだけあって、読み物としての面白さは、ここまで紹介してきた推薦書と比べてもトップクラスだと断言できる。この本を読むまで、ろくに作品も聴いてこなかったフェルディナント・リースという人物の伝記で、まさか2度も泣かされるとは思わなかった。

 さて、最後に紹介したいのは今年(2022年)の4月に出版されたばかりの、ひのまどか著『小泉文夫』(2022, ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)である。これはヤマハ(ミュージックエンタテインメントホールディングス)が出版している『音楽家の伝記 はじめに読む1冊』というシリーズのひとつだ。このシリーズの多くは1980年代にリブリオ出版から刊行された『作曲家の物語シリーズ』をもとに増補改訂を加えたものだが、この『小泉文夫』をはじめ、いくつかは新しく書き下ろされている。
 小学校5年生以上で習う漢字にはルビが振ってあるように、10歳から読める伝記シリーズとなっているので、先に触れた子ども向けの偉人伝のたぐいといえる。また、このシリーズを主に執筆している、ひのは「音楽作家」を肩書にしており、特定の作曲家の研究者ではない。だが、日本を代表する民族音楽の研究者として知られる小泉文夫(1927〜83)のもとで学んだだけあって、どんな作曲家であろうと現地取材(バルトークのように遺族が存命中だった場合は、直接取材)を行い、紙の資料だけで執筆しないのが特徴といえる。
 そんな彼女が、ヤマハから『音楽家の伝記 はじめに読む1冊』として新しくシリーズを改訂するにあたって、大胆にも加えたのが前述した師匠、小泉文夫の伝記であった。これまで作曲家以外でも著名な演奏家の伝記は数多く世に出されてきたが、音楽の研究を専門とする学者の生涯を描いた伝記は極めて少ない。だが、この『小泉文夫』は実に魅力的な伝記に仕上がっている。何故かといえば小泉の人生を追うことで、民族音楽および民族音楽学の魅力がこれ以上ないほどに伝わってくるからだ。そして、伝記で描かれる人間臭い発言や行動を通して、読者も小泉という人物にどんどんと惹かれていってしまうのだ。これは著者である、ひの自身が小泉をそのように見ているからなのだろう。民族音楽(≒ワールドミュージック)や民族音楽学という学問の魅力が伝わる入門書としても、広く薦めたい。

 


<今回の紹介書籍>

 

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作曲家◎人と作品シリーズ
(音楽之友社)

作曲家をもっと知ろう!すべての音楽ファンに贈る 伝記シリーズの決定版!
2004年のシリーズスタートから、2022年現在までに22人の作曲家を取り上げている。
https://www.ongakunotomo.co.jp/series/detail.php?id=2243

 

 

「本棚の前で音楽と・・・」_06

 

『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』
(春秋社刊)

かげはら史帆 著
初版刊行日:2020年4月22日
判型:四六判
定価:2,420円(税込)
ISBN:978-4-39-393220-9
https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393932209.html

 

 

「本棚の前で音楽と・・・」_07

 

『音楽家の伝記 はじめに読む1冊『小泉文夫』』
(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス刊)

ひの まどか 著
初版刊行日:2022年3月29日
判型:四六判
定価:1,760円(税込)
ISBN:978-4-63-697729-5
https://www.ymm.co.jp/p/detail.php?code=GTB01097729

 

 

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Text&Photo(一部):小室敬幸

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