マイティー・クラウン・エンターテイメント・小松淳子のヴァイブスマネジメント 【Behind the scenes】


世界で活躍するレゲエクルーMIGHTY CROWNや今年結成20周年を迎えたFIRE BALLなどのマネジメントをはじめ、今年で21回目となる「横浜レゲエ祭」の運営も手がけるマイティー・クラウン・エンターテイメントの小松淳子さんは、小さな体で大きなムーブメントを支えるレゲエシーンの名物裏方だ。横浜を起点に国内外で活躍する原動力がどこにあるのかを聞いた。

「‘99年、MIGHTY CROWNがNYのワールドクラッシュでアジア人初の優勝。その時来た連絡は、100%業務連絡」

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マイティー・クラウン・エンターテイメント 小松淳子
新潟県出身。大学進学で横浜に。MIGHTY CROWN ENTERTAINMENT設立ともに入社。元『STRIVE』編集長でもある。


―小松さんの名刺には肩書きがありませんが、主にどんな仕事を担当しているのでしょうか?

MIGHTY CROWNとFIRE BALLのマネージャー業務、経理総務、イベントの企画制作営業、レーベルA&R……といった裏方全般ですね。さっきまで事務所のプロバイダ工事の立ち合いをしていました(笑)。

―いつからマイティー・クラウン・エンターテイメントで仕事をしているのですか?

それが、かなり曖昧なんですよね。ある日、私の家に来た(MASTA)SIMONとJULIAN(Nine Rulaz Lineディレクター)から「マネージャーやってくれ」って言われた記憶があるんですけど、本人たちは家に行った覚えがないそうで(笑)。とにかくいろんな手伝いの延長上でした。
 


―そもそも、彼らとはどのように知り合ったのでしょうか?

私が大学進学で横浜に引っ越してきた90年代がちょうどクラブカルチャーの面白い時期で。数は少ない分夜遊びしてるとみんな知り合っていくというか。 横浜でBANANA SIZE(※MIGHTY CROWNの兄貴分で、横浜を代表するサウンドシステム)のダンスでよく遊んでいて、でも最初はタダの酔っぱらいとしか思われてなかったかな(笑)。知り合った順番で言えばMIGHTY CROWNよりも現・FIRE BALLメンバーのほうが早かったですね。たぶん。うちの学園祭でLEE(Chozen Lee)が歌ってたり、CRISSもクラブで話したり。JUNが中学生の時、同じDeeJayコンテストみたいなのに出てたこともあったかも(笑)。
MIGHTY CROWNはしばらく日本にいなかった時期だったのかな? 彼らとリンクするようになるのは、97年くらいだったと思います。

大学を卒業して、最初は日本の野外フェスの走りであるレゲエイベントの『ジャパンスプラッシュ』の制作・運営をしていた「タキオン」という会社に就職しました。大学では日本語教師になるための勉強をしていたので、ジャマイカで日本語を教える仕事があるということで志望したんです。でも、なぜかイベント部所属になってしまい……。

―意図せず、イベント部に配属されたんですね。具体的にはどんな仕事を?

SIZZLAとかBUJU(BANTON)といった何十人というジャマイカのアーティストの招聘業務やツアー、途中からはフリーペーパーの編集の仕事もしていました。そんな私の動きを横浜の先輩たちが見ていて、ちょうど会社(タキオン)が倒産したときに声をかけてくれたんです。「お前、暇だろ? フリーペーパー作ってくれないか?」って。それが『港横浜レゲエタイムス』です。(※後にMIGHTY CROWN監修となったフリーペーパー『STRIVE』の前身)

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98年『ジャパンスプラッシュ』にて。


当時は、ダンスホール・レゲエの情報を扱うメディアが少なかったですからね。自分達が伝えたい情報を自分たちで出そうみたいな。イベント含め、ないものは作るっていうDIY精神が強いですねレゲエは。それで昼間は派遣のOLの仕事をやりながら引き受けたんですが、その分やりがいも感じていました。編集、印刷、流通の経験もあったので。ちょうどそれが99年前後で、横浜のレゲエまわり、日本での活動が本格化したMIGHTY CROWNの手伝いをすることが増えていって。『横浜レゲエ祭』の受付をやったり、ミックステープのオーダーシートの作成をお願いされたり、事務的な仕事が増え、私がパソコンを使えたということで重宝がられたんだと思います。その時そこにちょうど居たってことが何かの縁というか。

―1999年にMIGHTY CROWNがNYのワールドクラッシュで優勝したとき、小松さんも現場にいたんですか?

いえ、私は日本にいました。優勝してすぐにSIMONから携帯に国際電話がかかってきて、“この喜びを伝えたい”的な内容かと思いきや「実況テープの受注表を作れ」って100%業務連絡で(笑)。もちろん、みんなに知ってもらいたいっていう思いからですけど。そのときもスタッフとして所属していたわけではなくて、本格的にマイティー・クラウン・エンターテイメントの所属として働き始めたのはLIFE STYLE RECORDSを立ち上げた2001年くらいだと思います。

―MIGHTY CROWNがプロデュースする『横浜レゲエ祭』は、最大3万人規模のビッグイベントへと成長していきます。それを裏方で仕切っていたのが、小松さんということですよね?

タキオン時代に『ジャパンスプラッシュ』の制作をしていた経験があったので、チケット販売や舞台監督などをプロに委託したり……、そういう面での仕切りは私の役割でしたね。90年代の『横浜レゲエ祭』は、横浜のレゲエのコミュニティで手作りでやってきて、たとえばイベントが終わった朝方(MASTA)SIMONとドリンクの売り上げ金を数えたりとか。でもだんだんと規模が大きくなってくると、システマティックにしていく必要があると判断しました。今でもこの判断が正しかったのかどうかはわかりませんが、私が持っていたノウハウをレゲエ祭に注ぐことになったのは2002年くらいだったと思います。横浜ベイホールで2DAYSやって、人があふれるくらい入っていた頃ですね。KMミュージックさんとも連携して裏方のチームを組んで、メンバーがステージに集中できるような環境を作っていきました。

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―仕事をしていく上で、やはりチーム作りは重要ですか?

確かにそうだとは思うのですが、私は意識してチームを作ったつもりはなくて、本当に人に恵まれていたんだと思います。お世辞かもしれないですけど、よそのイベントよりも『横浜レゲエ祭』のほうが仕事が楽しいと言ってくださる現場スタッフさんって多いんですよ。音響さんにしろ、照明さんにしろ、私は裏方さんと関わるのが大好きなんです。いつもお願いしているスタッフさんが特別に頑張ってくれたりするのは、私の人徳です(笑)。というのは冗談で、これも『ジャパンスプラッシュ』の制作を経験していたのも少しあるかなと思います。

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―例えば、具体的に言いますと?

アーティストのケアに気をまわす人が多いので、私は当時からローディさんや照明、音響さんなどにも積極的に声をかけていました。裏方さんケアの癖は、その頃から。今の仕事になった当時は、クラブシーンのマナーと、イベント業界のマナーって違ったので、そこをどう繋ぐかみたいな気は遣いました。名前を覚えて、くだらないツッコミを入れてみたり、誕生日をお祝いしたり、メンバーと裏方さんとのコミュニケーションを円滑にするように……。あ、ただしイケメンに限りますけどね(笑)。なぜか今はメンバーのほうがコミュニケーションうまくて、私は怖い人になってると思います(笑)。

―小松さんはレゲエ好きが高じてずっとレゲエに携わる仕事をされてきたわけですが、正直なところ、今でもレゲエを好きですか? 仕事と趣味の棲み分けというか、複雑な部分があるのではないかと……。 

うーん。好きとか嫌いとか通り越しちゃって、腐れ縁みたいな感じですね。生活の場所みたいな。でも本当に楽しむためだけなら、この仕事を辞めたほうが楽しいと思います。タキオンを辞めてOLをやっていたときは、すごく楽しかったですから。今はどの現場に行っても一応MIGHTY CROWNを背負っているわけなので、変なことできないじゃないですか。例えばナンパして?されて?帰るとか、ケンカとか(笑)?

―ちなみに、今年で結成20周年のFIRE BALLが10thアルバム『PROGRESS』を完成させました。ずっと彼らを近くで見続けてきた小松さんにとって、今作はどのような印象を持っていますか?

乗り切ったなというのが正直な感想です。というのも、今年のMIGHTY CROWNファミリーのテーマ“PROGRESS”をタイトルに掲げたので。進化することを前提にした制作ってプレッシャーですよね。そんな制作の中で、ダンスホール・レゲエの最先端から、オーセンティックなレゲエ、日本人の琴線に触れるようなメロディーなど、FIRE BALLの過去・現在・未来までしっかり感じさせるアルバムが完成したと思います。レゲエを散々伝えようとしてきたからこそ、今はレゲエがどうだよりFIRE BALLの音に自然に接してみてほしいなと思っています。

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FIRE BALL 10thアルバム『PROGRESS』
2017年7月19日発売
https://mysound.jp/album/171390/
 


―これまでマイティー・クラウン・エンターテイメントで仕事をしてきて、ここはターニング・ポイントだったという出来事を教えてください。

まだ私が正式に所属する前の話まで遡ると、1999年にMIGHTY CROWN がNYのワールドクラッシュで優勝してから、すべてが変わったという印象があります。

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FIRE BALLに関しては、2002年にメジャーデビューして、「BRING IT ON」を歌ったときに大勢のお客さんが(FIRE BALLがオリジナルと言われている)タオルをまわしてくれた光景は今でも鮮明に覚えています。初めて横浜スタジアムで『横浜レゲエ祭』を開催した2006年もターニング・ポイントでしたね。私の両親は、この辺りからやっと私の仕事を納得してくれたくらいですから(笑)。最近では2014年に出したFIRE BALL「Wonderful Days」が縦も横もつながりを増やしてくれました。
 


2009年のレゲエ祭15周年も印象に残っていますね。終わったときに、みんなが凄くいい顔していたんです。手応えを感じたのか、珍しくSIMONとSAMIが「ありがとう」って私のところに来てくれましたから。

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あとは、2011年3月11日の東日本大震災。メンタル的に落ちて、音楽って必要なのか?やっぱり必要なんだってみんなが改めて気付けてから、よい方向に向かっていると思います。そしてまた、ここからですね。

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事務所のプレスルームには、数々のタイトルが燦然と並ぶ

 


―最後の質問です。この仕事を続けていく上で、最も大切なことはなんだと思いますか?

いつも辞めたいと思ってるからなぁ、私(笑)。最近気づいたんですけど、私が一番グチをこぼしているのに、文句が少ない人のほうが居なくなっちゃう……。辛いとかどうしたらいいのかとか小出しに喋れて、言える相手がいて、言えていることが大切なのかもしれないと思います。グチのひとつも言えずに内に閉じ込めてしまう人は、いつかプチンと切れちゃう。私が今まで仕事を続けてこられている理由は、同じ立場の裏方さんがいるから、そしてグチを言えるチーム、応援してくれてる地域の人に恵まれているからだと思いますね。
あと、少し話がズレちゃうかもしれませんが、もし若い頃の私に声をかけられるなら、「あなたは将来、DAMIAN"Jr Gong"MARLEYと一緒に仕事をする日が来るんだよ」と言ってあげたいですね。田舎の音楽ファンだった自分が、音楽の世界で仕事してるよって。



MIGHTY CROWN ENTERTAINMENT オフィシャルサイト

FIRE BALL『PROGRESS』オフィシャルサイト


Text:馬渕 信彦
Photo:山下 陽子
Edit:仲田 舞衣

 

音楽業界の裏方の仕事ぶりに迫る連載企画。
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