【スージー鈴木の球岩石】Vol.11:2013年の東京ドームとザ・タイガース「サティスファクション」

スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第11回は、1968年の後楽園球場に始まり、2013年の東京ドームに終わる、ザ・タイガースと沢田研二の45年間にもわたる長い長い物語です。

内野天然芝が美しい後楽園球場(巨人対中日、投手は若き堀内恒夫)

日本人初のスタジアム・コンサート
今年6月25日のさいたまスーパーアリーナ。まさにその日に75歳になった沢田研二のコンサートに足を運んだ。
「後期高齢者になりました」と自嘲気味に言いながら、アンコールでは、アマチュア時代から慣れ親しんだザ・ローリング・ストーンズ「サティスファクション」のいきいきとしたカバーを披露した。年齢を感じさせないロックンロールを聴きながら、私は若き日の沢田研二と後楽園球場のことを思い出していた――。
沢田研二が在籍したグループサウンズ(GS)=ザ・タイガースの映画『ハーイ、ロンドン』(1969年)の中に忘れられないシーンがある。
69年といえば、GS人気に陰りが見えてきた頃だ。No.1の人気を誇ったタイガースだったが、スクリーンに映るメンバーの表情には、疲労感がにじみ出ている(映画の中でリアルな横顔を見せるのは、映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』-64年-の明らかな影響)。
突然、後楽園球場の巨人対広島のナイターの映像に切り替わる。内野にまで天然芝を敷き詰めた美しいフィールドの上で、広島のエース・外木場義郎から巨人・王貞治が同点タイムリーを打つ。
次にカメラは、タイガースが乗っている真夜中のバスの中へ。タイガースのメンバーが、その試合のラジオ中継を聞いて盛り上がるのだが、マネージャー役の左とん平に、今夜は徹夜だから早く寝ろと諭される。
芸能界の仕事に目が回るほど忙しく追われる中で、ナイターのカクテル光線がキラキラと美しく輝く後楽園球場を想像する――それは当時の沢田研二の頭の中そのものだったはずだ。
というのは、沢田研二が生粋の野球少年だったから。京都市立岡崎中学校では野球部のキャプテンを張っていた。ちなみに沢田研二に加えて、桑田佳祐や浜田省吾という、反骨心に溢れたロックンローラーがみんな野球部出身というのは興味深い(余談ながら沢田研二は阪神ファンで、03年には「Rock 黄 Wind」というタイトルで、あの「六甲おろし」をカバーしている)。
実は映画の前年、タイガースは後楽園球場でコンサートを開催した。それは日本人初の単独スタジアム・コンサートだった。
そのとき(68年8月12日)の模様を収めた映像が、DVDボックス『THE TIGERS FOREVER』に収録されているのだが、肝心の内容は、正直「コンサート」というより「イベント」という感じで、ピエロ姿の尾藤イサオ、なべおさみが仕切る中、アメリカ空軍ブラスバンドは出てくるわ、木下大サーカスの象は出てくるわ、という賑やかしいもの。
しかし、そんな映像のバックに流れる、タイガースが当日演奏したザ・フー「マイ・ジェネレーション」のカバーが、とにかく素晴らしいのだ。「俺たちはアイドルちゃうで、ロックンローラーやで!」という、沢田研二の心の声が、強く込められているような。
沢田研二が泣きながら歌ったあの曲
他のGSがそうであったように、ブームが去っていく中、タイガースのメンバーの人間関係も悪化、結局、71年1月24日の日本武道館コンサートでタイガースは解散することとなる(ちなみにこれも日本人初の武道館単独コンサート)。
特にドラムスの瞳みのると他のメンバーとの関係がギクシャクしたらしく、瞳は、コンサートが終わったその夜に、2トントラックに家財道具全部積み込んで、実家のある京都に帰ったという。
そんな経緯の中で、独り立ちした、いや、せざるを得なかった沢田研二は、ご存じのようにソロ歌手としても大成功を収める。ただ、気持ちの根っこでは、アマチュア時代からずっと一緒だったタイガースのことを想い続けていた気がするのだ。
「いくつかの場面」(75年)という曲がある。その中に「♪できるなら もう一度 僕の回りに集ってきて やさしく肩たたきあい 抱きしめてほしい」というフレーズがあるのだが、沢田研二はそのパートを、何と泣きながら歌っているのだ。もちろんスタジオ録音にもかかわらず。
なぜ、そこまで感極まったのか。タイガースのことが胸に去来したのではないか。そうとしか考えられない。
キャンディーズ解散コンサートは人工芝の上で
ここで少しだけ私の話。77年か78年か、法事で関東の親戚の家を訪れたついでに、父親に連れられて、当時の後楽園球場に足を運んだ。その日は特別なイベントが行われていて、小学生の私は後楽園球場のフィールドに立ったのだ。
テレビで見慣れていたフィールドの中に立った私は、もちろん、すぐに地面を触った――「これが人工芝かぁ」。
76年、後楽園球場は他球場に先駆けて人工芝を導入。今でこそ、日本でも人工芝から天然芝に回帰する流れになっているが、当時は人工芝が、まさに最新鋭、かっこいいものとして、たいそうもてはやされていた。
人工芝は、天然芝よりもメンテナンスが楽なこともあってか、以降、後楽園球場はコンサートのメッカとなっていく。まずは何といっても78年4月4日のキャンディーズの解散コンサート。そしてピンク・レディーもアリスも解散コンサートは後楽園だった(ともに81年)。後楽園最後の年となった87年にも、マドンナだ、マイケル・ジャクソンだとフル稼働した。
キャンディーズの解散コンサートに関する、忘れられない一冊がある。奥田英朗『東京物語』(集英社文庫)だ。
奥田本人を思わせる主人公が、浪人生として78年4月4日、名古屋から上京する。右も左も分からず、名古屋弁を笑われながら、キャンディーズの歌声に誘われるように後楽園球場の裏手にある売店に行き着き、同じく名古屋出身の友人とビールを飲む。そこに赤ら顔のおじさんが絡んでくる。
――「懐かしいなあ、名古屋弁。おじさんも名古屋出身なんだけどな。さっきからここで飲んでたら、どうにも懐かしい言葉が聞こえてくるから、ずっと聞いてた」
そしてほろ酔いのおじさんは、上京したての同郷の若者にこう言うのだ。
――「巨人ファンに寝返ったらあかんぞ」「今年の中日は優勝するぞ」「星稜高校から小松っていう凄いピッチャーが入ったんだ。こいつはやるぞ。絶対に大物になるぞ」
一見、何てことのないシーンだが、後楽園球場と、そこに響くキャンディーズの歌声を想像すると、まるで映画のワンシーンのように思えてくる。
中日ドラゴンズは、その年5位でシーズンを終えるが、3年後の81年、会話に出てくるピッチャー・小松辰雄が12勝を挙げ、4年後の82年にはリーグ優勝する。
そして私は、キャンディーズの解散からちょうど10年経った88年に、後楽園球場の真横に出来た東京ドームに足を踏み入れる。

1987年、後楽園球場と建設中の東京ドーム

出来立ての東京ドームにミック・ジャガーが
「東京ドーム・コンサート史」というものがあるとすれば、年表の中に最大級数で書かれるのは、90年2月のローリング・ストーンズ初来日のことだろう。もちろん私も足を運んだが、それよりも、その2年前、東京ドームのこけら落としと言ってもいいミック・ジャガー単独でのコンサートも、かなりの話題となった。
チケットの争奪戦となった。もちろん当時はまだネットなどない。チケットぴあに何度も電話するか(九段下近辺の電話ボックスからかけるとつながりやすいとの俗説が懐かしい)、もしくは窓口に徹夜で並ぶのだ。と言いながら、ものぐさな私は、そういうもろもろが億劫で、人気コンサートを諦めることが多かったのだが。
しかし88年の1月、まだ冬休み中だったにもかかわらず、大学生協にあったチケットぴあがなぜか開店していて、争奪戦だと言われていたミック・ジャガーのチケットがなぜか普通に売っていたのだ。そして何かの用事で大学にいた私は、普通にチケットを買った。
出来立ての東京ドームに入ったときの感想――デカい!
残念ながら、肝心のコンサートはよく憶えていないのだが、ミック・ジャガーというより、ゲストで出てきたティナ・ターナーの異常に鮮烈な歌と動きだけは、しっかりと憶えている。
出来立ての東京ドームでティナ・ターナーを観たときの感想――スゴい!
その頃の私は、しばしば「日本のミック・ジャガー」と呼ばれた沢田研二のファンになっていた。80年代後半、渡辺プロダクションから独立し、歌謡曲というよりは大人のロックを追求し始めた頃の姿に傾倒し、(こちらも普通にチケットを買って)彼のコンサートを追いかけた。
そんな私が、デカい東京ドームでスゴい沢田研二の姿を堪能するのは、ミック・ジャガーから20年後となる、2008年12月3日のことだった――。

1987年の秋、後楽園球場の人工芝と完成間近の東京ドーム

2008年と2013年の沢田研二と東京ドーム
「スージー鈴木・コンサート史」というものがあるとすれば、年表の中に最大級数で書かれるコンサートのひとつだろう。2008年12月3日、平日の15時から始まった「人間60年・ジュリー祭り」。この年に還暦になった沢田研二が歌うは歌うは、何と81曲。
その26曲目が、あの「いくつかの場面」だった。歌いながら沢田研二は――やはり泣いた。
――♪できるなら もう一度 僕の回りに集ってきて やさしく肩たたきあい 抱きしめてほしい
場所が場所だけに、もしかしたら40年前の後楽園球場コンサートを思い出したのかもしれない。このときの「いくつかの場面」を聴きながら、私も泣いた。コンサートで泣くという人生初の経験だった。
そして44曲目は「Long Good-by」という曲。あの日、他のメンバーに喧嘩を売るような形で京都へ帰り、芸能界と決別。猛勉強をして大学を卒業、高校の教師になっていた瞳みのるに捧げた歌だった。
――♪こんなに長い別れになるなんて あの時は思わなかった
――♪1月24日 最後のコンサート夢から帰って行った
――♪ほんとうに ほんとうに君のこと いつも いつも 気にかけてる
「Long Good-by」を聴きながら、私はまた泣いた。コンサートで泣くという人生二度目の経験は、一度目からすぐのことだった。
止まりかけた、いや、完全に止まったと思われていたタイガースの時計が、急回転し始める。この曲がきっかけとなって瞳みのるとメンバーが再開。そして『ジュリー祭り』から5年経った13年12月27日、ついに沢田研二の念願だったタイガース再結成コンサートが行われるのだ。
会場はもちろん――東京ドームだ。
驚いたのはサポートメンバーがいないこと。還暦をとうに過ぎ、髪の毛は白髪交じり、少々貫禄の付いた身体の5人が、丸腰で奏でるロックンロール。
コンサート前半は、予想を裏切って、彼らがアマチュア時代から親しんでいた洋楽コーナーだった。1曲目は、デイヴ・クラーク・ファイヴのカバーで有名な「ドゥー・ユー・ラヴ・ミー」、そして2曲目にいきなり「サティスファクション」。「日本のミック・ジャガー」による「サティスファクション」だ。
――♪I can't get no satisfaction I can't get no satisfaction
人生三度目の経験がやってきた。鼻の先がツーンとして、視界が湿っぽくなって揺らいだ。ハンカチで拭ったとき、私は驚いた。
屋根の付いた東京ドームが、何と、屋根のない後楽園球場に変わっているではないか。
そしてまた20代前半、髪の毛も黒々、痩せっぽちであどけない顔をした京都出身の悪ガキたちが、内野まで敷き詰められた天然芝の上で、楽しそうに、心から楽しそうに「サティスファクション」を演奏している。
――♪I can't get no satisfaction I can't get no satisfaction
芸能界的なあれやこれやから解放されて躍動する5人は、「満足できねぇ」という歌詞に反して、大満足しているようだ。
08年の「ジュリー祭り」から5年、88年のミック・ジャガーから25年、そして68年の後楽園球場コンサートから45年の東京ドームで私は叫ぶ。
「君ら、やっぱりアイドルちゃうで、ロックンローラーやで!」
ザ・ローリング・ストーンズ「サティスファクション」
Text:スージー鈴木