Special Rec Report ~サックス・プレイヤー上野耕平 × J.S.バッハ~


クラシック・サクソフォンの世界で今最も熱い注目を集めている日本人若手演奏家といえば、やはり上野耕平だろう。特に、吹奏楽部出身の10~20代の若いリスナーたちの間では、ちょっとしたアイドル的存在にもなっている。が、もちろん実力は折り紙付きだ。
1992年に茨城県で生まれ、東京藝術大学で学んだ上野は、18才の時、第28回日本管打楽器コンクール「サクソフォン部門」において史上最年少で優勝し、2014年には、第6回アドルフ・サックス国際コンクールでも第2位を受賞。それと前後してアルバム『アドルフに告ぐ』(日本コロムビア)でレコード・デビューを果たし、2016年には2作目『<a href="/hires-album/118442/">Listen to…</a>』も発表した。また、2017年夏には、自身がソプラノ・サックスを担当するザ・レヴ・サクソフォン・カルテットのデビュー・アルバム『デビューコンサート』もリリースされている。 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(1)


そんな上野の3作目のソロ・アルバムが登場する。題して『BREATH -J.S.Bach×Kohei Ueno-』。タイトルどおり、ヨハン・セバスティアン・バッハの器楽曲だけを演奏した作品である。演目は、〈無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調〉(使用楽器はバリトン)、〈無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調〉(同ソプラノ)、〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調〉(同アルト)の3曲。
バッハの作品をサックスで演奏すること自体は近年では珍しくないわけだが、オーバーダビングをおこなわず、数種類のサックスを使い分けてバッハの無伴奏曲だけを演奏した作品は極めて稀だ。
そして特に驚くべきは、演目に〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調〉が入っていることである。これは、バッハの数ある器楽曲の中でもとりわけ高度な演奏技術と深い表現力が要求される超難曲であり、和音も多用される。一体、どうやってサックス1本でこの曲を演奏しようというのか…。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(2)

 

今回の録音がおこなわれたのは、ドイツのメッシンゲン(Mossingen)にある聖ペーター&パウル教会である。メッシンゲンは、ドイツ南部のシュツットガルトから更に50キロほど南下した、スイス国境にほど近い場所にある小さな町で、聖ペーター&パウル教会は、バッハが生きていた時代(1685-1750)よりも前の16世紀前半に建立された。さほど大きくはないが、石造りの礼拝堂は天井が高く、素晴らしいナチュラル・リバーブを生み出してくれる。教会での録音経験も豊富なドイツ人録音エンジニアが、サックス1本でバッハを演奏するのに最適な空間をリサーチした結果、ここにたどり着いたのだという。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(3)

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(4)

マイク・セッティングとリハーサルの様子

 

録音日程は2017年10月3、4、5の3日間。我々(上野、日本コロムビアの録音スタッフ、そして私)は2日夜にメッシンゲンに到着し、3日朝から録音に入った。まずは最高の響きを求めて、日独二人の録音エンジニアが慎重にマイク・セッティングにとりかかる。その傍らで上野はサックスの試奏を始めたのだが、その響きの深さ、清らかさに我々は驚嘆した。石造りで高天井の礼拝堂でしか生み出せないこの神聖な響きを、教会オルガニストとして活躍していたバッハもきっと聴いていたはずだ。「緊張で昨夜はほとんど眠れなかった」と不安を語っていた上野も、この響きからは大きなインスピレーションを得たようで、顔の表情に俄かに自信がみなぎってくるのが見てとれる。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(5)

 

マイク・セッティングその他の録音準備が整い、いよいよ本番スタート。上野は最初の録音にいきなり、今回の収録曲中で最長にして最大の難曲である〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調〉をもってきた。気合い十分。が当然、ことは簡単には運ばない。上野はしばしば演奏を中断しては、礼拝堂の隣の小部屋にしつらえた録音ブースに入ってきて、ディレクターやエンジニアと一緒に聴きながら表現や速度などについて細かいディスカッションを繰り返し、何度も何度も録り直した。

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(6)

 

中でも困難を極めたのは、終盤の4曲目「ジーグ」と5曲目「シャコンヌ」だ。原曲にある和音はリバーブを利用してなんとか対応するにしても、延々と続く超高音の高速パッセージのすさまじさたるや…。この曲はアルトで演奏したのだが、楽器の最高音の7度上までを要求されるため当然フラジオ奏法を用いる。すると運指が途端に複雑になり、流れるような連符を高速で演奏するのはほとんど不可能に近い。スタッフ全員、じっと固唾をのんで祈るように見守る録音ブースの緊張感たるや、胃が痛くなる感じだった。結局初日は、夕食もとらず夜中の12時まで録音は続き、「シャコンヌ」まで録り終えたのは、翌日の午後3時だった。終了と同時に誰からともなくスタッフ全員が立ち上がって拍手した瞬間の情景は忘れられない。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(7)

 

3日間の日程の半分を使って難関を乗り切った上野は、残り2曲ではうって変わってリラックス・ムードに。特に、2番目に録音した〈無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調〉は、過去にコンサートで何度か演奏した経験もあるせいか、ほとんど一発録りに近い形で一気に吹き切った。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(8)

 

そして三日目が最後の演目〈無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調〉。使用したバリトン・サックスはチェロと音域が近く演奏しやすいこともあって、今回の録音中で最も楽しみながら演奏していたように見える。バリトンの深く柔らかい音色が礼拝堂のステンドグラスの淡い輝きと溶け合って織りなす、まさに天界の音楽。本人も「この教会でこの曲を永遠に吹いていたい」と言うほど、録音が終わるのがなごり惜しげでもあった。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(9)

録音スタッフと

 

こうして、サックスによるバッハ作品録音は予定どおり三日間で終了した。礼拝堂内の寒さのためにサックスの音程がなかなか安定しなかったり、15分おきに自動的に鳴る教会の鐘をこの三日間だけは止めてもらうよう牧師さん(偶然にも、趣味でサックスを吹く方だった)にお願いしたり、近所の住宅の工事や教会裏の墓地での盛大な葬儀のために録音が中断したりと、通常のスタジオ録音では考えられないトラブルもいろいろあったが、何よりもこの教会が生み出す神聖な響きこそがこのアルバムに特殊な魅力と輝きを与えてくれたと思う。バッハの時代には存在しなかったサクソフォンという楽器が、バッハの音楽に新しい生命を吹き込んだ記念碑的作品になったのではなかろうか。

 

若きサックス奏者が挑戦するバッハの無伴奏曲(10)

 

以下、録音終了後に教会内でおこなった上野へのインタビューから、主要部分をまとめておこう。


―このソロ新作をバッハ作品だけで構成した理由は?

上野:
いつかやりたいと思っていたんです。昔から、不思議な魅力を感じてきた。〈無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調〉を去年コンサートで初めてやって、けっこう手応えがあった。そろそろ、いけるかなと。あれは元々フルートの曲だけど、やりようによってはサックスならではの面白さというか、サックスのために書かれたと思わせることができるくらいの演奏ができるかもしれないと思ったんです。レコード会社の方でも、僕のコアなファンであるサックス吹きの人たち以外にも僕の作品を広めてゆくのにバッハ作品集は好都合だと思ったようで。

―それにしても、〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調〉ってのは驚きました。

自分からの提案です。アルトの音域に合う曲を考えて、これにした。でも、ちょっと吹いてみたらあまりにも難しいし、アルトの基本音域の7度上まで出さなくてはならないしで……決定してから録音までのひと月半ほどの練習中、やっぱり無理だと何度も思い、変更しようかと考えていたんです。練習の時、あまりの難しさに周りの仲間たちもびっくりしていた。
音を並べるだけならなんとかなるけど、それをちゃんと意味のある音にしなくちゃいけないわけで。特に「シャコンヌ」などではすごい高音がたくさん出てくるけど、それを突出した奇音ではなく、いかに音楽的に鳴らすかというのが、できそうでできないという状態がずっと続いていた。
 でも、この教会に来て、この響きを聴いた時に、もしかしたらできるかもと初めて思ったんです。あの曲とサックスというのは、自分の中ではイメージ的にあまりにもかけ離れていた。ここの響きを聴いて、初めて自分の中でサックスで吹くあの曲のイメージをちゃんとつかめた。冒頭の「アルマンド」を吹いた時、ああ、なんかつながったかも、と思ったんです。

―今回の録音を通して改めて感じた、バッハ作品を演奏することの特別な面白さ、難しさは?​​​​​​​

この教会で音を出して初めて感じたことだけど、自宅でやっている時はただの装飾音だったのが、ここではナチュラル・リバーブがかかって和音になる。それがすごく面白かった。きっとバッハも、そういうことを想定の上で曲を書いていたんじゃないかな。無伴奏曲は一人で演奏するわけだけど、そう思わせないような立体感がありますね。
難しさは…技巧的には、〈無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調〉なんて意味わかんないほど難しいけど、他の2曲は、普段やっている現代曲などに比べたら、特に難しいわけではない。でも、バッハは、どう演奏するのかが本当に問われる作曲家だと改めて感じた。曲の素晴らしさを演奏でぶち壊してしまう可能性もある。一見シンプルなんだけど、その背後に複雑で深いものがある。その深さ、複雑さをうまくあぶり出して、シンプルな音をどう表現してゆくかが問われる。それができないと、ただのエチュードのようになってしまう。
 そういう点も含めて、今回、自分にはできないことはないと感じたし、更に、サックスという楽器は何でもできる、表現できる楽器だなと思った。演奏家のとりくみ次第で、この楽器にはまだまだいろんなことができるし、可能性があると思った。​​​​​​​

―今後やってみたいこと、共演したい人は?​​​​​​​​​​​​​​

今は現代音楽をやりたいですね。現役作曲家に新曲を委嘱したりして。今現在に生きている人間の感性、感覚を表現した曲をやりたい。セールスを考えるとCD制作などは難しいと思うけど、今現在の人たちに一番響くはずだと思うんです。現代音楽といっても、無調で難解なものばかりじゃなく、近年は調性のあるものも多い。そういうものも含め、今作れるもの、表現できるものがきっとあると思っている。実は今、新曲を委嘱している作曲家がいて、多分2年後ぐらいにはできると思う。まだ公表できないけど、海外の作曲家です。
共演してみたいのは、モルドバ出身の女性ヴァイオリン奏者パトリシア・コパチンスカヤですね。とんがったというか、ぶっとんだ演奏をする。美人だし(笑)。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

 

---------------------------------
上野耕平​​​​​​​
http://uenokohei.com/​​​​​​​

 

最新アルバム(2017/12/20発売)

「BREATH -J.S.Bach×Kohei Ueno-」
【収録曲】 
・無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 <バリトン>  
・無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 <ソプラノ>
・無伴奏ヴァイオリンのためのパルティ―タ第2番ニ短調 <アルト>
BREATH​​​​​​​