「まつりの作り方」農村に蘇る郷土の物語~ど田舎にしかた祭り(栃木県栃木市)


栃木県南部に位置し、江戸時代には「西方五千石」とも呼ばれた米どころ、栃木県栃木市西方町。この地を舞台に、「ど田舎にしかた祭り」というユニークな祭りが毎年12月に行われています。テーマは「ど田舎」。主催するのは商工会や農家の若手たちです。

昨年からこの「ど田舎にしかた祭り」の実行委員に、とある移住者の男性が加わりました。それが野良着に身を包み、太鼓と鉦(かね)、三味線という阿波おどりの編成によって農民一揆的な騒乱状態を作り出す和太鼓パンク集団、切腹ピストルズの飯田団紅(だんこう)さんです。よりディープな進化を遂げていることでにわかに注目を集めつつある「ど田舎にしかた祭り」とはいったいどんな祭りなのでしょうか? 飯田さんをはじめとする実行委員に会うため、栃木県栃木市を訪れました。

「より『ど田舎』ということを意識しよう」

「より『ど田舎』ということを意識しよう」(1)

©Keiko K. Oishi
左から、実行委員を務める針谷伸一さん(西方商工会青年部部長)、切腹ピストルズの飯田団紅さん、荻原大輔さん(西方商工会青年部)


中世には西方氏による西方城が建ち、近世に入ると藤田信吉を藩祖とする西方藩が成立するなど、古くからの歴史が息づく地、西方。米やイチゴの県内有数の産地としても知られるこの地域でもまた、若者たちの流出と地域住民の高齢化が大きな問題となっています。

「ど田舎にしかた祭り」は、故郷のそうした状況に強い危機感を覚えた若者たちが2011年に始めた新しい祭りです。実行委員を務める針谷伸一さん(西方商工会青年部部長)の本職は畳屋さん、同じく実行委員の荻原大輔さん(西方商工会青年部)の本職は大工さん。彼らのような西方生まれ・西方育ちの若者たちのアイデアが「ど田舎にしかた祭り」には詰まっています。

祭りのメインとなるのは、子供たちが主役の“田んぼ相撲”や“俵飛ばし大会”、“トラクター試乗体験”など農家の若手たちが仕切る市民参加イベント。「道の駅にしかた」の広々とした敷地が会場となるほか、農家の協力によって周囲の田んぼも特設会場として使用されました。また、トラックの荷台を利用したステージではクールポコや山本高広、ニッチローといった芸人たちのライブも。ローカルのスケーターたちも巻き込み、スケートボード用のランプも設置されました。タイ舞踊が披露された年もあり、他とは違う祭りとして周辺地域では少々知られた祭りだったといいます。

「より『ど田舎』ということを意識しよう」(2)「より『ど田舎』ということを意識しよう」(3)

フライヤー画像


そんな「ど田舎にしかた祭り」に飯田さんが関わり始めたのは昨年から。当初は出演者としてオファーを受けたそうですが、針谷さんや荻原さんとすぐさま意気投合。荻原さんは「すぐに実行委員に入ってもらうことになりました」と笑います。

飯田さんが「みんなが受け入れてくれたんだよね。2人は畳屋と大工だから話が通じることも多くて、あっという間に仲間に入れてもらっちゃった」と言えば、針谷さんが「(飯田さんは)中途半端な方じゃないので、みんながどんどん巻き込まれていったんです(笑)。『あのよそものをなんとかしろ』なんて人はひとりもいないですし、みんなが頼りにしてますね」と応えるなど、意気投合した様子がありありと伝わってきます。

「より『ど田舎』ということを意識しよう」(4)

©Keiko K. Oishi


そんな飯田さんの地元は東京の中野区。
「ずっと東京を離れようと思ってたんだけど、子供ができたタイミングでちょうどいいかな」と、5年前に奥様のご実家のある西方へ移住。当初は「西方の神楽保存会で神楽を踊ったりしていた」そうですが、西方生まれの針谷さんや荻原さんと出会うことで、より深く西方のコミュニティーに関わることになります。

「みんなと話していくなかで『ど田舎にしかた祭り』も、より『ど田舎』ということを意識しようということになった。今の栃木市にあたる地域はかつて江戸との交流も盛んな地域で、小江戸とも呼ばれたんだよね。俺は江戸愛好家だから、すごくやる気になって(笑)。そういう場所だから、掘り起こしていったらいろんなものが見つかるはずなんだよね。それが徐々に『ど田舎にしかた祭り』の趣旨になっていった」

飯田さんはそう話して煙草に火を点けます。

今回お話を伺ったのは、飯田さんのご自宅に建つ古い小屋を改築した通称「江戸部屋」。古い半纏や下駄、貴重な絵や家具が部屋いっぱいに陳列されており、そのすべてが西方周辺の蔵などから救出してきたという年代もの。それらを眺めているだけでも、西方周辺地域がいかに古い歴史を持つ地域であるかが実感させられます。

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「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」

飯田さんが加わる形で再スタートを切った新生「ど田舎にしかた祭り」実行委員は、昨年とある大発見をしました。それが地元の郷土史家の方が保存していたという、農村歌舞伎(地芝居)の襖絵。明治までの日本では各地で農家や青年団の人々による農村歌舞伎が行われ、農閑期の娯楽として人々を楽しませてきましたが、大きな農村だった西方でもやはり農村歌舞伎が行われていました。そのなかで使われていた100年以上前の襖絵を発見したことにより、飯田さんたちの活動はさらに熱気を帯びていくこととなります。

「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」(1)


「栃木はあちこちで農村歌舞伎をやってたんだけど、西方でもやっていたということは民俗資料にも書いてなかった。だから、存在しないことになってたんだけど、当時の襖絵が6、70枚発見もされたんだよね。西方町で農村歌舞伎をやってたということを知らしめるために、昔の農村舞台を再現しようということになった」(飯田さん)

一方、本職が大工である萩原さんのなかでは特別な思いもありました。

「数年前、(西方からもほど近い)大平地区の大工さんが昔の盆踊りの櫓を復活させたんですよ。それがまた、すごく立派な櫓だった。『大平が盆踊りの櫓を復活させたんなら、ウチらは農村歌舞伎の舞台を復活させよう』というライバル心もありました(笑)。あと、去年の5月、橋の下世界音楽祭にはじめて足を運んで、それにもすごく刺激を受けました。西方は職人も多いし、原料となる竹もたくさんある。隊長(飯田さん)もいるし、今年はやってやろうと」(荻原さん)

「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」(2)「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」(3)


舞台の再現にあたっては、「襖絵を保管していたおじちゃんから話を聞いたり、あとは栃木県内でまだ存続している農村歌舞伎の民俗資料を読んでみたり」(飯田さん)と、まさに手探りで進めていったそう。荻原さんたち大工の心意気も原動力となり、昨年12月、農村歌舞伎の舞台が数十年ぶりに西方に蘇ることとなりました。祭り当日にはこんなことも。

「フツーのおじちゃん・おばちゃんが描いたものとしては常軌を逸した絵だから、だれが描いたものなんだろう?という話はあったわけ。そうしたら、祭りの当日にとあるおじちゃんがやってきて、『これを描いたの、俺の曾じいちゃんだよ』って(笑)。そのじいちゃんの世代まで代々絵師だったらしくて」(飯田さん)

「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」(5)


飯田さんも「お米と煎餅とイチゴぐらいしかないところだと思っていた」という西方。ここにはかつて農村歌舞伎という素晴らしいエンターテイメントがあり、それを支えていたのは村民たちのDIY精神でした。農村歌舞伎の舞台の再現を通じて土地の埋もれた歴史と文化を掘り起こし、その素晴らしさを再発見すること。それはそのまま、故郷の魅力を炙り出すことにも繋がっていったのです。

また、「ど田舎にしかた祭り」に新たな風を吹き込んだのが、飯田さんを隊長とする切腹ピストルズの演奏でした。阿波おどりの編成によって、まるで暴動のような熱狂を巻き起こすその演奏は、「ど田舎にしかた祭り」でも狂乱のシーンを創出。県外からのファンだけでなく、地元の人々からも熱い反響があったそうです。

「おじちゃんたちのなかには泣いちゃう人もいた。『一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ、お前らは自分たちの凄さを分かってない!』って(笑)。太鼓でみんなが暴れてる光景って、子供もじいちゃんばあちゃんも楽しいみたい」(飯田さん)

結果、昨年度の「ど田舎にしかた祭り」は例年よりも約1,000人は多い6,000人の集客を記録。西方の町民が7,000人といいますから、その数はまさに記録的なものでした。
「一揆が起きるスレスレのエネルギーっていうのはああいうもんだ」(6)


「今の時代の前におもしろいことがいっぱいあったんだ」

「今の時代の前におもしろいことがいっぱいあったんだ」(1)

©Keiko K. Oishi


飯田さんが隊長を務める切腹ピストルズは、各地のフェス・祭りでの演奏や中村達也などさまざまなミュージシャンとの共演でも近年注目を集めていますが、それ以上に、その荒唐無稽な活動でも知られています。メンバーの多くは普段から野良着で生活し、各地での演奏活動のみならず、寺子屋や落語の会も主催。阿波おどり編成による凄まじい演奏に加え、デッド・ケネディーズやシャム69といったパンク・バンドの名曲もカヴァーするなど、伝統と現代性を太鼓の轟音によって繋ぎ合わせるその世界観はまさに唯一無二のものです。

そんな切腹ピストルズの思想的背景には、飯田さんがロンドンに数年間住んでいた際のとある気づきがありました。

「ロンドンの通りをパンクスと一緒に歩いていると、そいつが古い家を誇らしげに『ここには昔、哲学者の***が住んでいたんだ』なんて話すわけ。でも、東京に帰ってくると、東京大空襲で一度野ざらしにされているとはいえ、慌てて作った町という感じがしちゃってね」

そんなとき、町内の掲示板に貼ってあった寄席や薪能の告知が飯田さんの目に入ったといいます。

「こういうものが残ってるんだなと思って足を運んでみたら、それがすごく格好よく感じちゃってね。いろいろ調べてみると、昔の日本人は着物じゃなくて、普段から野良着を着ていたと。なぜ野良着の代わりに着物が日本の伝統とされてきたのか。日本の伝統って明治以降に作られたものが多いわけで、だから俺にとっては日本がおもしろくなかったのかってことに気づいたんだよね。俺はもともとパンクで、(シド・ヴィシャスのガールフレンドである)ナンシー・スパンゲンみたいな女はどこにいるのかと思って生きてきたから(笑)。えらい人が決めた伝統がそんなヤツに響くわけがない」

ただし、飯田さんの視点は、明治以前の文化に「正しい日本」を求めるものではありません。根底にあるのは、『野良着や雪駄って格好いいよね』『落語っておもしろいよね』という、自分がそれまで知らなかった文化に対する好奇心と愛着でした。99年にパンク・バンドとしてスタートした切腹ピストルズも、徐々にお囃子や出囃子の要素を導入。飯田さんが当時住んでいた東京の高円寺をホームとする阿波おどり団体、東京天水連からの影響をもとに、切腹ピストルズも阿波おどり編成による和太鼓集団へと進化を遂げることとなります。

切腹ピストルズの演奏場所は島の村祭りのこともあれば、都会の路上のことも。場所を問わず、すぐさまそこに祝祭空間を作り出してしまうのが彼らの凄さです。そして、その凄まじさは実際体験することでしかわからないものであり、それゆえに、一度その凄さを知った人のあいだで彼らの噂が口コミで広がっているのでしょう。

「土煙をあげながら和楽器をめちゃくちゃに演奏している光景って、自分らでもすげえなと思う。だから、いまだに『自分たち演奏してる』というより、何かに『やらされてる』っていう感じが強い。なんでこんな気持ちになるんだろう?って毎回思うんだよ」(飯田さん)

では、切腹ピストルズや「ど田舎にしかた祭り」の活動を通して飯田さんがめざしているものとは? 

「見ている人に『それでいいじゃん』っていう実感を撒き散らしたい。この人たち、なんなの?と思っている間に、隣にいた子供やおじいちゃん・おばあちゃんも盛り上がっちゃってる、そういうものをやりたい。その結果、今まで気にしたこともなかったお囃子の格好よさに気づいたり、日常が変わっちゃうようなもの。『今の時代の前におもしろいことがいっぱいあったんだ』ということに気づいて、実感さえ持てるようになれば、日常はいくらでも変わると思うんだよね」

「今の時代の前におもしろいことがいっぱいあったんだ」(2)

©Keiko K. Oishi

 


〈ど田舎にしかた祭り・願い〉
ここ西方に根付く伝統や景色、新しい文化、人と時間。五穀豊穣・商売繁盛、来年が良い年でありますよう、「ど田舎らしさ」の神さまへ野州の心意気を奉納す。
今年、第八回「ど田舎にしかた祭り」は12月2日(日)におこなわれる。

詳細は、こちらでチェック
ど田舎にしかた 
http://nishikata.ofuregaki.com/

切腹ピストルズ
http://seppukupistols.soregashi.com/


Text:大石始