B面どんでん返し♪ 10選【百歌繚乱・五里夢中 第15回】


今回はガラッと趣向を変えまして、音楽のバックグラウンド・ストーリーものです。昔ちょくちょくあった、シングル・レコードのB面のほうが売れちゃった〜、ってお話をいろいろ。

「B面」は死語?

今の若いヤツらは知らんか。「B面?何それ?」ってか。CDより前の、アナログ・レコードの時代ですからね。ともかく、アナログ・レコードは表と裏、両面に音の溝が刻んであって、表を”A面”、裏を”B面”と呼んじょったですよ(何弁?)。
CDシングルになっても、その名残で、”シングル”なのに2曲入ってましたよね。”B面”じゃないので、”カップリング曲”なんて言い方をしていましたが。

アナログと言っても、SP盤の時代は、片面ずつ違うアーティストの作品が入っていることが多かったんです。その場合は表裏やAB面の区別はありませんが、LP/EP時代になって、両面同アーティストがあたりまえになると、シングル盤は、推したい曲が入っている方をA面、もう一方をB面と呼ぶようになりました。B面はまぁ何でもいいわけですから適当ですな。オマケ。ところが発売してみると、豈図らんや、B面のほうが評判よくて、オマケがヒットしてしまった、なんてことがタマに起こったのです。
これを指して、私は”B面どんでん返し”と呼んでいます。私が勝手に言っているだけで、別に”B面下剋上”でもいいんですがね。
この”予期せぬ展開”の背後には、レコード会社の読みが甘かったとか、宣伝戦略のミスとか、世の中の動向とか、いろんな”事情”が潜んでいるわけで、そこが興味深いんですな。

ところで、この”B面どんでん返し”が起こったのは、アナログ盤の時代の中でも、さらに、シングルが商品の中心だった、”流行歌”全盛期にほぼ限られます。なぜなら、そこでは、いくつかの曲を録音してみて、中でいちばん売れると思うものをA面にする、ということが行われていましたから、惜しくも選ばれなかったB面ということが屡々あったからです。そりゃヒットする可能性もありますよね。
中にはそれを見越して「両A面」シングルってのもありました。なんか変ですけどね。それくらい、AB面の違いが、世の中的にも重要だったってことでしょうね。
だけど、それ以降の、ニューミュージック〜J-POP時代は、まずアルバムありき、それを売るためのシングルですから、いちばんの押し曲はA面だとして、次にいい曲たちはアルバムのために残しておいて、B面には重要度が低い曲を持っていきがちになります。そうなると必然的に、”どんでん返し”は起きにくくなるんですよね。

というわけで、古き良き時代の昔話となりつつある物語の数々、忘れ去られないよう、語っておきましょう。

 

B面どんでん返し♪

#1:GARO「学生街の喫茶店」
(シングル「美しすぎて」のB面:1972年6月20日発売/from 2nd アルバム『GARO2』:1972年6月25日発売)
mysoundで試聴

ユーミンやYMOを世に送り出した村井邦彦さんが1971年に、川添象郎さんや(なぜか)内田裕也さんと作った「マッシュルーム・レーベル」の第1号アーティストがこの”GARO”でした。しかし全く売れず、早々と経営に赤信号が灯ったので、プロの作家陣(作詞:山上路夫/作曲:すぎやまこういち/編曲:大野克夫)に依頼して作ったシングルに勝負をかけましたが、A面の「美しすぎて」はいまいち伸びず。
ところが、B面の「学生街の喫茶店」がTBSラジオ「ヤングタウンTOKYO」で「今月の歌」に選ばれ、発売5ヶ月後頃から売れ始めました。慌ててAB面を切り替え、プッシュしたところ、翌年2月にはなんとオリコン1位に上り詰め、7週間もその位置をキープしたのでした。
おかげでレーベルも持ち直し、村井さんのアルファミュージックからの荒井由実、”赤い鳥”、”ハイ・ファイ・セット”などの創出にもつながり、”GARO”も人気アーティストとなりましたが、この曲のイメージが強過ぎて、本来の、CSN&Yのような音楽をやらせたら日本一、という音楽性とのギャップが埋められず、76年には解散に追い込まれてしまいます。
いろんなドラマを引き起こした、”運命の曲”ですね。
メンバー3人の内2人は世を去りましたが、この曲のリード・ヴォーカル、大野真澄さんはまだまだ元気で、ライブに音楽制作に、活躍中ですよ。

 

#2:Michel Polnareff「Tout, Tout Pour Ma Cherie(シェリーに口づけ)」
(シングル「Tous les bateaux, tous les oiseaux(追わないで)」B面:1969年発売/シングル:1971年発売)
mysoundで試聴

この時代はフレンチ・ポップもずいぶん日本でヒットしたものです。その代表格がシルヴィ・バルタンとこのミッシェル・ポルナレフ。
1969年、フランス本国で「Tous les bateaux, tous les oiseaux(邦題は「追わないで」、後に「渚の想い出」)」のB面に「Tout tout pour ma chérie」でシングル・リリース。同年、日本でもA面「追わないで」、B面「可愛いシェリーのために」(当時の邦題)で、CBSソニーから発売されましたが、ヒットしませんでした。
ところが、1971年になって改めて、「シェリーに口づけ」と邦題を変え、こちらをA面で、この年にCBSソニー内に起ち上がったエピック・レーベルからリリースしたところ、ラジオから火がつき、40万枚を売り上げるヒット曲となりました。これでポルナレフの日本での人気も急騰、以降「Love me, please love me(愛の願い)」「Holidays(愛の休日)」など、ヒットを連発していくことになります。
この「シェリーに口づけ」という邦題を考えたのは入社したばかりの洋楽ディレクター。後にEPICソニーで暫く私の上司となる、もっと言えばドリーミュージックの社長となる高久光雄氏でありました。彼は日本コロムビアの社員だったのですが、その時にこの曲を知り、絶対売れると思って、ポルナレフの担当になるためにCBSソニーに中途入社したという熱血漢だったのでした。
当時は”邦題”というものは、日本のレコード会社の洋楽担当が勝手に考え、本国のライセンサーにお伺いを立てることもなかったようです。ですからとんでもないのも多々あるのですが、元の邦題がよくないと思った高久さんは、締切ギリギリまで考え抜いて、「シェリーに口づけ」を思いついたのでした。曲ももちろんよかったのでしょうが、この邦題もヒットに貢献したのではないでしょうか。


#3:Elton John「Your Song(僕の歌は君の歌)」
(シングル「Take Me to the Pilot(パイロットにつれていって)」のB面:1970年10月2日発売/from 2nd アルバム『Elton John』:1970年4月10日発売)
mysoundで試聴
 

エルトン・ジョンの代表曲のひとつですが、”B面どんでん返し”曲でもありながら、その前に、他のアーティストに提供した曲でもあったという、なかなかの紆余曲折ストーリーの持ち主です。
他のアーティストとは”Three Dog Night”。当時エルトンは彼らの前座を務めており、この曲を聴いた彼らは、レコーディングしたいと希望しました。まだ売れる前のエルトンは、「どうぞ」と言うしかなかったでしょう。1970年3月にリリースされたThree Dog Nightの3rd アルバム『It Ain’t Easy』に収録されましたが、シングルにはしませんでした。それはエルトン自身に譲ろうと考えたらしいです。
しかし、その半年後にリリースされたエルトンのシングルではB面でした。A面は元気な曲のほうがいい、などとレコード会社の制作会議で決まったのでしょうか?
リリースしたところ、ラジオのDJたちはB面の「Your Song」のほうを気に入り、プッシュしました。こういうケースの”B面どんでん返し”、よくあります。
その結果、全米8位、全英7位とエルトン初のヒットとなり、彼の才能を世界中に知らしめたのです。​​​​​​


#4:ちあきなおみ「黄昏のビギン」
(水原弘の2nd シングル「黒い落ち葉」のB面:1959年10月発売/ちあきなおみ33th シングル:1991年6月21日発売)
mysoundで試聴
※水原弘バージョン

「黄昏のビギン」というと、堂々たる日本のスタンダード・ナンバー、永六輔作詞・中村八大作曲の名曲として、遍く知られています。だけど実は、最初、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘の第2弾シングルのB面曲として世に出てから、長らく日の目を見ることはありませんでした。もしも、1991年に、ちあきなおみが、『すたんだーど・なんばー』という企画アルバムで、この曲を1曲目にとりあげ、シングルのA面としてもリリースしていなければ、誰も知らないまま、歴史の底に埋もれていたかもしれません。
それでいきなりヒットしたわけではありませんが、作品自体の力と、ちあきさんの歌唱力によって、日本にはあまりないタイプの大人のポップスとして進化した「黄昏のビギン」は、数々のCMでの使用や、さだまさし、岩崎宏美、薬師丸ひろ子、高橋真梨子、井上陽水など、10組以上ものアーティストがカヴァーすることによって、しっかりと、その存在感を世の中に刻みつけていったのです。
まさに音楽の醍醐味を感じるこのストーリーを、もっと詳しく知りたい人は、佐藤剛さんが書かれた『「黄昏のビギン」の物語』を一読あれ。


#5:ハナ肇とクレージー・キャッツ(植木等)「スーダラ節」
(1st シングル「こりゃシャクだった」のB面:1961年8月20日発売)
mysoundで試聴

青島幸男作詞&萩原哲晶作編曲による、クレージー・キャッツの一連の作品は、日本のコミック・ソングの至宝だと思います。その第1弾が「こりゃシャクだった」という曲だったのですが、そのB面がこの「スーダラ節」。
1959年からフジテレビで始まった「週刊クレイジー」という番組で、「こりゃシャクだった」というセリフが受け、クレイジー・キャッツの流行語第1号になっていました。当然、「これを使って歌を作れば当たる」と考え、構成作家の青島さんと、ジャズ・ミュージシャンでクレイジーのメンバーともつきあいが長い萩原さんを呼んで、レコード化することに。さて曲はできましたが、誰もB面のことを考えていなかった。「どうする?」ってことで、渡辺プロダクションの社長、渡辺晋さんの家にみんな集まり、会議という名の飲み会が始まります。「”植木屋”(植木等の愛称)が最近、麻雀とかで調子に乗ると、”スーイスイ”なんて言ってるだろ?あれを歌にしちゃうか?」なんて具合で、その場で、20分ほどで詞も曲もできてしまい、B面だしこれでいいや、とデビュー・シングルをリリースしたのでした。
そしたら、当たると思った「こりゃシャクだった」はあまり話題にならなかったのに、「スーダラ節」は大ヒットし、後にAB面が入れ替えられました。
時間やお金をかけたとか、苦労したとかは、ヒットには関係ない、ということの好例のひとつでもありますね。


#6:ヒデとロザンナ「愛の奇跡(L'AMORE E UN MIRACOLO)」
(デビュー・シングル「何にも言えないの」のB面:1968年10月15日発売)
mysoundで試聴

なぜか17歳で日本にやって来たイタリア娘、ロザンナ・ザンボンと、出門英によるデュオは、デビュー曲「何にも言えないの」のキャンペーンを九州からスタートしました。すると佐賀の有線放送に、B面の「愛の奇跡」へのリクエストが殺到するという事件が起き、レコード会社の日本コロムビアは、慌ててA面とB面を入れ替え、ジャケットも新しくして再発売します。売上は徐々に伸びて、発売から4ヶ月後にはオリコン6位、2ヶ月近くトップ10以内をキープするという大ヒットになりました……。

といういきさつらしいのですが、元A面「何にも言えないの(hires/2648913/)」を聴いてみると、なんだかムード歌謡のような凡作。明らかに「愛の奇跡」のほうが派手でキャッチーで、私がA&Rだったら、100%こちらをA面にすると思いますけど、ひょっとしたら、”B面どんでん返し”を装い、その話題をプロモーションに使うという”確信犯”だったのかもしれませんね。


#7:ズー・ニー・ヴー「白いサンゴ礁」
(2nd シングル「涙のオルガン」のB面:1969年4月発売)​​​​​​​

GS=グループサウンズの、どちらかと言うと後発のバンド。これは彼らの唯一のヒット曲です。だけどそれはB面。つまり、たぶん、レコード会社など関係者たちはA面の「涙のオルガン」のほうが売れる、と考えていたということで、B面は「白いサンゴ礁」でなくてもよかったわけですが、もし別のしょうもない曲だったら、彼らにはヒット曲がひとつもなく、彼らのその後もどうなっていたか、わかりません。
その後とは何か?ヴォーカルの町田義人は独立し、ソロ歌手として、映画「野性の証明」の主題歌「戦士の休息」というヒットを飛ばし、町田の後任として入った山本翔も、後にソロ・デビュー、そのバックバンドでギターを弾いていたのが土屋昌巳なのでありました……。
ちなみに、彼らの4th シングル「ひとりの悲しみ」は、売れなかったのですが、歌詞だけ変えて、新人歌手、尾崎紀世彦に歌わせたところ、なんと第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞を両方とも獲得する大ヒットとなりました。「また逢う日まで」という曲であります。​​​​​​​​​​​​​


#8:松田聖子「Sweet Memories」
(14th シングル「ガラスの林檎」のB面:1983年8月1日発売)
mysoundで試聴
 

これは、A面もちゃんとオリコン1位だったので、”どんでん返し”とはちょっと違うんですが、B面はそれ以上に売れたってことで。
シングルは一旦1位になった後、下がっていったのですが、サントリービールのCMでかわいいペンギンが歌ったことで、B面の「Sweet Memories」が注目を浴び、11週間後に再び1位に返り咲いたのです。それなら、とジャケットを変え、両A面にして、10月に再発売しました。
さらには年末の第25回日本レコード大賞で編曲賞を獲得。アレンジャーは当時聖子ちゃんの曲をほとんど手がけていた大村雅朗さんですが、この曲、作曲も大村さんなのです。作曲はあまりしなかった大村さんですが、打てばしっかりホームラン。リタ・クーリッジ、ニコレッタ・ラーソン、スタイリスティックスなど、外国勢も含む約35組ものアーティストがカヴァーしていることからも、その名曲ぶりがわかりますね。
 

#9:Rod Stewart「Maggie May」
(シングル「Reason To Believe」のB面:1971年8月発売/from 3rd アルバム『Every Picture Tells a Story』:1971年5月発売)
mysoundで試聴

ロッド・スチュアートのこの最初の大ヒット曲もB面でした。米国のラジオDJたちが「Maggie May」のほうを気に入り、かけまくったことにより火がつき、なんと全米1位に昇りつめました。全英でも1位です。
だけど、レコード会社はそのままB面としてプレスを続けました。思うに、入れ替える必要がないほどガンガン売れてたんではないかな。
A面の「Reason To Believe」も悪くないです。リズムの感じはそっくりだし。でもやはり、「Maggie May」のほうがキャッチーだと思います。今だから言えるのかなぁ?
ご本人は「当初は”Maggie May”がこんなに売れるなんて全然考えてもいなかったよ。レコード会社の人たちもちっともいいって言ってくれなかったしね。全く自信はなかった。」なんて語っているそうです。


#10:山下達郎「Bomber」
(1st シングル「Let's Dance Baby」のB面:1979年1月25日発売/from 4th アルバム『Go Ahead!』:1978年12月20日発売)

「Let's Dance Baby」は”ザ・キング・トーンズ”の1978年のアルバム『レザレクト 銀河からの帰還』に提供した曲のセルフ・カヴァー。アルバム4作目にして達郎初のシングル曲となりました。
「Bomber」は、”アイズレー・ブラザーズ”のようなハード・ファンクをやってみようと思って作ったとのこと。するとなぜか、大阪のディスコで大人気に。それを受けて、大阪地区限定ですが、AB面を逆にして臨時発売しました。
いいものを作っているつもりなのになかなか売れず、『GO AHEAD!』は「最後の作品になるかもしれないという思いがあったので、やりたいことを詰め込んだゴッタ煮のアルバムとなった」と本人は語っています。これでダメだったら作曲や編曲など”裏方”に転向しようと考えていたそうです。ゴッタ煮の中から「Bomber」がスマッシュ・ヒットし、ようやく彼の運命は変わり始めたのでした。​​​

 


80年代の後半にはシングルもCDが普通になり、”B面”というものがなくなり、さらに配信になると、ほんとの意味での”シングル”=単曲になってしまいました。この頃、アナログがちょっと復活してきているとは言え、さすがにドーナツ盤で新曲のシングルを出す人はもういないでしょう。
ですから、”どんでん返し”なんてものも”今は昔”の物語です。まぁぶっちゃけ、”失敗談”ですから、そんなことはないほうが平穏無事ということなんですが、ちょっと寂しい気がしてしまうのもまた、人の常ですね。

 

いやぁ、それにしても、音楽ってちっとも飽きないですねー♪​​​​​​​