【まつりの作り方】炭鉱の町で蘇った幻の盆踊り~ 方城山神盆踊り大会(福岡県田川郡)


福岡県中央部に広がる筑豊地方。飯塚市、直方市、田川市という筑豊三都をはじめ、田川郡や嘉穂郡も含むこの一帯にはかつて数多くの炭坑がひしめき合い、盆踊りのスタンダード「炭坑節」発祥の地としても知られています。

大正3年(1914年)12月15日午前9時40分、この筑豊の一角に存在した方城町(現在の福智町)の三菱方城炭鉱で、日本最大の炭鉱事故が発生しました。炭鉱側が発表した犠牲者の数は671人。ただし、身元の分からない労働者も多かったことに加え、遺体の多くが原型を留めていなかったことから、地元では犠牲者の数は1,000人を超えていたとも囁かれています。かつては全国の出炭高の半数以上を占めるなど、圧倒的な産出量を誇った筑豊地方。その経済発展の影で起こった未曾有の炭鉱事故は「方城大非常」と呼ばれ、現在までその歴史が語り継がれてきました。

「方城大非常」から昨年で105年——。
当時を知る人々もこの世を去り、地元でも事故の記憶が風化しつつあるなか、犠牲者の供養を目的のひとつとする新しい盆踊りが2017年からスタートしました。それが「方城山神盆踊り大会」です。先祖供養という盆踊りの原点に則りながら、野外フェスやクラブ・イべント以降の感覚で地元の歴史・文化を再構築する「方城山神盆踊り大会」。その成り立ちは、いくつもの偶然が結びついた、まるで映画のようにドラマティックなものでした。

今回は筑豊の歴史とこの盆踊りの背景に迫りながら、現代における祝祭の意義を改めて考え直してみたいと思います。

日本最大の炭鉱事故の慰霊碑を発見

方城山神盆踊り大会を主催する大石勇介さん

方城山神盆踊り大会を主催する大石勇介さん

 

今回お話を伺ったのは、方城山神盆踊り大会の主催者である大石勇介さん。
ご両親が営む直方市のうどん店「たぬき庵」で働く大石さんは、福智町の生まれ。料理の修業と仕事で大阪に4年、京都に5年住み、東日本大震災の最中に地元へと戻りました。

「福智町として合併する前から方城町や赤池町は日本でもトップクラスの赤字を抱えた自治体だったんですよ。それもあって、僕が子供のころに夏祭りや運動会が一気になくなったんです。当時は今ほど祭りや盆踊りに関心がなくて、縁日を楽しみにしているぐらいでした」

京都在住時からDJとしても活動していた大石さんは、地元に戻ってからも福岡市内のクラブ・イべントに出演。2015年、福岡市内で知り合った仲間たちと「オザシキオンガクフェスティバル」というイべントを地元でスタートさせます。1回目の会場は田川市の空き店舗、2回目は国道沿いのユニクロ跡地。いずれも手作りのフェスではありましたが、全国市町村都市ランキングでもワーストに入るほどの失業率と生活保護受給者数を抱える地元をなんとか変えていきたいという大石さんたちの熱意が共感を集め、地元新聞でも取り上げられるなど話題を集めました。

 

田川郡香春町のユニクロ跡地で行われた2016年の「オザシキオンガクフェスティバル」の模様

田川郡香春町のユニクロ跡地で行われた2016年の「オザシキオンガクフェスティバル」の模様

 

ある日、大石さんは「方城山神盆踊り大会」の会場となる空き地を福智町で発見します。かつては町民プールがあり、大石さんも子供のころよく遊びに行っていたというその場所は、雑草の生い茂る荒地となっていたとか。彼はその光景を目の当たりにして「何かひらめくものがあったんですよ」と話します。

 

日本最大の炭鉱事故の慰霊碑を発見(1)

 

「それで去年(2017年)の3月ぐらいから、ひとりであの場所の草刈りを始めたんです。いつか何かができるんじゃないかと思ってたんですね。そうやって何度か掃除をしていたら、僕と同じように草刈りをしていた迫本さんというオジさんと出会ったんです。迫本さんももともと福智町が地元で、県外の知人が遊びにきたときに『あそこの広場、みっともないね』と言われたことにカチンときて以来ずっと掃除していたらしくて(笑)。2人で草刈りを続けていたら、あるとき慰霊碑を見つけたんですね。それが『方城大非常』の慰霊碑だったんです」

 

日本最大の炭鉱事故の慰霊碑を発見(2)

日本最大の炭鉱事故の慰霊碑を発見(3)

 

冒頭でも触れた「方城大非常」の翌年となる大正4年11月、三菱炭鉱は炭鉱の守り神となる山神社の一角に、高さ5.6メートルの慰霊碑(「方城炭坑罹災者招魂之碑」)を建立しました。山神社自体は炭鉱が閉山する際になくなりましたが、現在も跡地の裏側には墓地が広がっており、「方城大非常」の犠牲者が眠っています。「何かひらめくものがあった」ことから大石さんが草刈りを始めたその場所は、福智町の歴史のなかでも極めて重要な意味を持つ場所だったのです。

「以前はご遺族や三井も事故の現場で供養をしていて、近くの福圓寺では毎年法要も行われていたそうなんですけど、事故から100年後となる2014年にそれもやめることになって。慰霊碑のあるこの一帯にもほとんど人がこなくなったんです。慰霊碑を見つけたことで初めてその事実を知り、供養のための盆踊りをやらなきゃと思うようになったんですね」

ひょんなことから忘れ去られつつあった地元の歴史と出会ってしまった大石さんは、2017年8月には持ち前の行動力を発揮して「供養のための盆踊り」を実現。それが第1回目の「方城山神盆踊り大会」でした。

 

45年ぶりに復活した“幻の盆踊り唄”

福智町のとある民家の庭先で供養の盆踊りを奉納する地元盆踊り団体「盆踊一家・香春岳」

福智町のとある民家の庭先で供養の盆踊りを奉納する地元盆踊り団体「盆踊一家・香春岳」

 

「方城山神盆踊り大会」のことに触れる前に、福智町を含む田川独特の盆踊り文化についても紹介しておきましょう。

踊り手と太鼓打ち、それと“口説き”と呼ばれる音頭取りがひとつのチームを作り、初盆のお宅を1軒1軒回っていくというのが田川の盆踊りのスタイル。口説きはエコーがかかったスピーカーを通じ、語りと歌の中間のようなスタイルでさまざまな物語や数え歌を聞かせていきます。その起源ははっきりとしないようですが、口説きの題材のひとつである「香春岳落城秘聞」がもともと盲僧の琵琶法師が語っていたものであることを踏まえると、九州北部に伝わるさまざまな芸能や風習の影響のもとに成立したのが田川の盆踊り文化といえそうです。

また、盆踊りの主体となるのは田川各地域の盆踊り団体。近年、若者たちのあいだでこの盆口説きは大きな盛り上がりを見せており、田川の川崎や大任、添田など一部の地域では参加人数も増加。田川は現在進行形かつ極めてユニークな盆踊り文化が息づく地でもあるのです。

 

本年度の方城山神盆踊り大会で披露された口説きのワンシーン

 

大石さんはあるとき、この盆口説きの題材のなかで、「方城大非常」をテーマとするものがあったことを知ります。落盤事故を目の当たりにした池本喜代蔵さんが書き下ろし、ご本人みずからが歌い継いできたという「方城大非常唄」。大石さんは喜代蔵さんご本人の生歌を収録した大変貴重なテープを手に入れ、その復活に乗り出すこととなりました。

「口説きは口伝で伝わってきたものなので、残された資料が本当に少ないんです。録音機材も高価な時代だったので、もしかしたら役場か三井の協力のもと録音したのかもしれませんね。これは僕らが復活させなきゃと思って、レゲエの歌い手をやっているFAT SMITHさんという方に歌ってもらうことにしたんです」

「方城大非常唄」

豊前田川の名も高き
三菱方城炭鉱にて
坑内ガスが破裂して
八百余名の犠牲者を
出した哀れな大非常
(中略)
あがれば子供や老人が
飛びつき諸共嬉し泣き
紫色や黒焦げで
手足がもげたり首が飛び
体の崩れし人もある
見るも身の毛がよだんにも
医師の検査が済んだ後
白木の棺に入れられて
野辺の送りをすまされた
(織井青吾・著「方城大非常」より)

「方城大非常唄」を書いた池本喜代蔵さんは、自身が目の当たりにした光景を後世に伝えるべく、自身の言葉でその惨状を綴り、生涯をかけて事故の調査を続けるとともにその歌を歌い続けたといいます。約45年ほど前には喜代蔵さんも口説きを引退。喜代蔵さんの死後、「方城大非常唄」もまた歌い継がれることもなく歴史の彼方に消え去ろうとしていました。大石さんたちはその思いを受け継ぎ、新たなる生命を吹き込んだのです。

 

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(1)

 

2017年8月に行われた第1回目の方城山神盆踊り大会は、台風直撃のため近隣の体育館に場所を移して開催されることに。鹿児島の香具師系パンク・ユニット、南部式や大阪のクンビア・ミクスチャー・バンド、ROJO REGALOのメンバーであるPICO&KYONなど各地の仲間が熱演を繰り広げました。

 

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(2)

 

2018年8月4日に行われた第2回目の方城山神盆踊り大会は、天気にも恵まれ、前年以上の来場者で賑わいました。盆踊りのメインとなるのは地元の盆踊り団体である「盆踊一家・香春岳」の口説き。もちろんFAT SMITHさんによる「方城大非常唄」も披露されました。

 

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(3)

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(4)

 

また、筑豊は古代から朝鮮文化の影響が色濃く、在日朝鮮人も多い土地ですが(方城大非常の死者のなかには数多くの朝鮮人も含まれていたと言われています)、筑豊チャンダン・サークル「アルム」による朝鮮太鼓や、地元団体による農楽(朝鮮半島の伝統芸能)も披露。盆踊りのシメを飾ったのは生音による「炭坑節」。大石さんはこの日のために三味線を習い、なんとかトリの大役を務めました。

「筑豊って生の炭坑節で踊る場所がほとんどないんですよ。もったいないなと思って、自分たちで始めたんです。三味線なんて全然弾けないのに(笑)」

 

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(5)

 

昨年の運営メンバーは、大石さんのご家族も含めて15人ほど。そのなかには町外の人たちも多く、大石さんは「お年寄りの人たちは応援してくれるのですが、若い人たちの間ではまだまだですね」と話します。飲食店などの出店ブースはすべて友人たちによるもので、音響を担当したのもDJ仲間。「供養の盆踊りをやらねば」という大石さんの衝動にさまざまな人たちが巻き込まれていった形ともいえます。

また、会場を彩った提灯や舞台の土台となったビールケースはすべて寄付されたもの。盆踊りのシンボルともいえる印象的な櫓は地元の建設会社が数十年前に作ったものを提供してもらったといいます。「手作りの祭り」を謳うイべントは全国に数あれど、「方城山神盆踊り大会」ほどDIY精神に則った祭りはなかなかないかもしれません。

「自力でやることに意味があると思ったので、あえて町の後援を受けなかったんです。筑豊の人たちはみんな『助成金や補助金がおりないと何もできない』と言い訳するんですけど、金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができることを示したかった。実際今回もそんなにお金はかかってないし、身の丈にあった形でできるんじゃないかって。僕自身は『町を変えたい』というより、『地元の人たちの意識を変えたい』という意識が一番大きいんです。与えられるのを待つんじゃなくて、ないところから何かを作り上げていくほうが楽しいじゃないですか。そこは『橋の下世界音楽祭』(愛知県豊田市)にインスパイアされたところがあります」

では、大石さんが目指す方城山神盆踊り大会の未来像とはどのようなものなのでしょうか? 

「大きくしなくていいんで、同じスタンスでずっと続けていければと思ってます。ゆくゆくは下の世代に受け継いで、100年続けていけないかなって。地元のオジさんたちは『あんな場所じゃなくて、トイレもある学校のグラウンドでやればいいじゃないか』って言うんですけど、あの場所でやることに意味があると思うんですよ。自分の家の庭を掃除する感覚でみんなで手入れしながら続けていきたい」

町おこしとは、必ずしも地域経済の振興だけを目的とするものではありません。土地の歴史を掘り起こし、文化を蘇生すること。何かに頼らずとも、自分たちの力だけで居場所を作り出せるということを実際に証明してみせること。そして、そうした実践を通して、地元の人々の意識をほんの少しだけでも前向きに変えること――。

筑豊の地でワイワイと楽しみながらそんな試みを続けている大石さんたちは、決して特別な存在ではありません。今年の夏、「方城山神盆踊り大会」の踊りの輪のなかに加われば、そうした実感を持つことができるはずです。

 

「金がなくてもみんなで汗をかけば祭りができる」(6)

 


方城山神盆踊り大会
https://www.facebook.com/events/2139458796300239/

 

Text:大石始
Photo:大石慶子