知っているようで知らなかったフラメンコ! マドリッドで出会ったその芳醇なリズム世界
高校卒業と同時にドラムを始め、30代には『Organized Multi Unit』というアシッドジャズバンドでCDデビューも果たした過去を持つフリーライターの山田ゴメス。
スペインのマドリッドでふらり立ち寄ったカフェレストランで目の当たりにした本場のフラメンコ──そのあまりに激しく、複数のリズムがもつれるように絡み合う圧倒的なステージを前に、もはやとっくの昔、20年近く前にプレイヤーとしては引退を果たしていたはずであった、元ドラマーの血が騒ぎ……?
現地の商工会議所に招待され訪れたスペインの地で“本物”に打ちのめされる
30歳のころ、およそ7年間勤めていた画材屋を辞め「イラストレーター」の肩書きでフリーランスに……。いつの間にやらライター・編集者・コラムニストとして生計を立てるようになって早25年──チューリップからいきなりYMO→カシオペア→Stuff→ECM系のプログレシブ・ジャズ……と、インストゥルメンタル・ミュージックに目覚め、そこからスティーブ・ガッド→フィリージョー・ジョーンズ→エルビン・ジョーンズ→ジャック・ディジョネット→ポール・モチアン……と、ドラムの世界へとのめり込んでいったまだ若かりし大学時代は、恥ずかしながら本気でスタジオミュージシャンの「ファーストコール」や、黒のグルーヴと白のセンシティブを融合させた泥臭さのなかにも繊細さを併せ持つようなジャズドラマーを目指し、それなりの修練も積んできた。
しかし、大学卒業と同時に上京し、「日々の現実」という名のルーティンワークと向き合っているうち「プロドラマー」という選択肢は次第に夢と化し、リアリティを失っていった。30代半ばでアシッドジャズバンド『OMU(Organized Multi Unit)』に参加し、ドイツのレーベル『99』からCDをリリースできたのも、全楽曲の構成が“生演奏”じゃなく“打ち込み主体”だったからにほかならない。いわば“現役”としての「最後のすかしっ屁」みたいなもんか……?
以降、5年ほど前に電子ドラムセットを自宅に設置してみたものの、たまに気分転換で叩いてみても、加齢とブランクによるリズム感の衰えが浮き彫りとなり、ただ自己嫌悪だけが増すばかり……。今では単なる「掃除が面倒臭いややこしいフォルムのオブジェ」(笑)として、うっすらとホコリをかぶっている。
うっすらとホコリをかぶった「掃除が面倒臭いややこしいフォルムのオブジェ」
そんな矢先である。去年の11月末、スペインの首都・マドリッドの商工会議所から招待を受け現地へと出向く、とても美味しい仕事をいただいた。
レアル・マドリッドのホームスタジアムであり、サッカーファンには聖地とされているエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでベンチの中まで見学させてもらったり(※心底からの“野球派”である私にとっては、豚に真珠状態の“貴重な経験”でしかなかったのだが…)、プラド美術館でゴヤの黒い絵シリースやベラスケス、ソフィア王妃芸術センターでピカソのゲルニカをリアルに鑑賞したり、マドリッドがあるカスティーヤ地方の郷土料理「コシード」(※骨付きの生ハム、牛肉、豚の脂身、鶏肉、ジャガイモやにんじんほかの野菜、ひよこ豆などを壺に入れ、数時間じっくり煮込んだ料理)をご馳走になったり……と、予想を遥かに超えた最高級のおもてなしによって、5泊7日と短い期間ながら、マドリッドの魅力を最大限の効率で、たっぷりと堪能し尽くしたのであった。
カスティーヤ地方の郷土料理「コシード」
こうした分刻みの歓待のなか3日目の夜、
「食事がてらにフラメンコを観に行きませんか?」というお誘いがあった。
現地のコーディネイターさんが案内してくれたお店は『CAFÉ DE CHINITAS(カフェ・デ・チニータス)』──1970年にオープンして以来、高い評価を受け続けている老舗のタブラオ(=フラメンコのレストラン)で、スペインの国王や皇室関係者、アメリカ前大統領ビル・クリントン……ほか、多くの著名人が訪れているという。
老舗タブラオ『CAFÉ DE CHINITAS』の外観とエントランス内と、その街並み
最初は、正直言って「どうせ観光フラメンコだろ…」と、あまり期待していなかった。「フラメンコをBGMにシェリー酒ってのもオツかもね…」くらいにしか思っていなかった。
ところがどっこい!
いざ開演となれば……シェリー酒を喉に流す間もないほどに、チック・コリアの名曲『スペイン』だけでフラメンコを理解した気分になっていた浅はかな私の度肝を抜く「まったく別物のフラメンコ」が、そこにはあった。
喉に流す間もなかったシェリー酒
12拍の「1コンパス」にあったパルマ(手拍子)のみを譜面に起こし、真似てはみたけれど…?
フラメンコは、ジプシーの生活のなかから生まれた民族音楽で、そのルーツにアンダルシアをはじめとする他の地域の影響が加わり、さまざまなスタイルへと発展していった。
軽妙な短調の曲風を特徴とし、一般的に「もっともフラメンコっぽい」とされているのは、パルマ(手拍子)・ハレオ(掛け声)・カンテ(歌)・ギターの伴奏・ダンサーのタップが、それぞれの基本のリズムを刻みながら一体化し、独特の翳りを帯びた節回しを生み出すもので、「ソレア型」と呼ばれている。
一応ドラマーらしく、フラメンコの基本リズムパターンである「コンパス」について、簡単に触れておこう。
幾多の音楽ジャンルで主流となっている4拍子や2拍子の曲もあるが、中核をなすのは12拍を1単位(1コンパス)にしたものや、そのバリエーション。ただ、12拍といっても、ほとんどが変拍子で、3拍子と2拍子、つまり奇数と偶数が交互に混じり合うため、私なんかじゃ到底譜面にすら起こせない、じつに深くて複雑なリズムが奏でられるわけだ。
この日の出演は、RUBEN PUERTAという名前のダンスリーダー率いるユニットで、他のダンサーが3人、メインを含むCANTAOR(歌い手)が3人、GUITARRA(ギタリスト)が2人といった編成。
この日の出演ユニットのラインナップ
ダンサーの力強いタップに妖艶な舞いと、ツインギターの絶妙なコンビネーションも、もちろんのこと手に汗にぎる凄まじい緊迫感であったが、私が目(耳)を奪われてしまったのは、バックで“主役たち”のパフォーマンスに、いっそうの“うねり”を与える、“脇役たち”が足を踏み鳴らしつつ表に裏にビシビシと間を埋め入れていく超絶技巧のカンテ、ハレオ、それにパルマである。
結局、なにがなんだかよくわからないまま、あっという間に1ステージが終わってしまった……のが、偽らざる感想であった。
今でこそ、あらゆる文献を調べ、前出のようなリズム解説を“後付けの納得”で偉そうに語れてはいても、鑑賞中は1コンパス(12拍)のループを把握するのがやっとのレベルで、スペインのジプシーファミリーは、まさに母親の胎内にいるときからこのコンパスを体感し、当たり前のごとく会得しているのではなかろうか。地球のほとんど真逆側から来た我々日本人は、その耳慣れない曲芸的なリズムの綱渡りによって表現されるメランコリックな人生の至福を、ただただ「驚嘆」といったたぐいの感動でしか、共有できないのかもしれない。
ちなみに、スペイン南端にあるグラナダ(アンダルシア州)・サクロモンテの丘では、洞窟スタイルのタブラオ内で、より土着的なフラメンコを楽しめたりもすると聞く。最近は日本からの直行便も開設された、スペインのほぼ中央に位置するマドリッドからAVE(日本に新幹線に該当する高速鉄道)で5時間足らず……と、交通の便も悪くない。次にスペインへと訪れる機会があれば、ぜひとも足を運んでみたいものである。
終演後、イケメンGUITARRA二人と筆者で図々しくもスリーショット
帰国しても、フラメンコ熱に浮かされ続け、時差ボケならぬ“リズム差ボケ”にうなされる私は、「とりあえずパルマだけでも上手に打てるよう練習してみよう」と、独り空き時間を見つけては、いつになく真剣にパコパコと手を叩いている。
スマホで動画撮影したものにあったなかから、どうにか耳でピックアップできたパルマのパターンを書き出してみる。音符に起こせば12拍子の単純なビートの繰り返しにしかすぎないのだけれど、これをセコ(強い音のこと。左手のひらをそらすようにして、右手のひらを打つ。空気がはじけるような高い音が鳴る)とソルダ(やわらかい音のこと。両手のひらを膨らませて打つ。空気のこもった音が鳴る)との組み合わせで、なめらかにアクセントを付けて叩くのが、なかなか難しい。
昔、私が敬愛するギタリストであるパット・メセニーの『FIRST CIRCLE』という曲の冒頭で登場する8分の7拍子だかなんだかのややこしすぎるパルマを、パパンパッパンパパンパ……と真似るのに躍起となっていた時期があった。
あのころの、とにかくリズムにピュアだった感覚がほのかによみがえる。が、たった12拍しかない、極限まで削ぎ落とされたシンプルな1コンパスのリフレインに、おのずと身体が反応し、脳からアドレナリンがじわりと滲み出てくる境地にまで、ドラマーとしての勘を取り戻すことができるのは、まだまだ先のことだろう……。
Text&Photo:山田ゴメス