武満徹は、いかにして「世界のタケミツ」になったのか? ~出版社との関わりから読み解く~【演奏しない人のための楽譜入門#07】


クラシック・現代音楽の日本人作曲家のなかで、欧米においてその才能を認められただけでなく、現在もレパートリーとして広く定着しているのが来年2月に没後25年をむかえる武満 徹(1930~1996)です。音楽の教科書にも載っている代表作《ノヴェンバー・ステップス》をはじめ、その作品の多くが海外の出版社から販売・レンタルされている武満。彼の出世街道を、出版社との関わりという観点から眺め返してみましょう。

現在確認できる範囲で最初に出版された武満の楽曲は、1958年に作曲された弦楽八重奏曲《ソン・カリグラフィⅠ》です。この作品は、音楽評論家の吉田秀和を所長とする「20世紀音楽研究所」が主催する作曲コンクールで第1位とともに、フランス大使賞と音楽之友社出版賞を受賞しました。後者の副賞は、その名前からして明らかに音楽之友社(1941年創業)がこの作品の楽譜を出版するという内容だったと思われます(実際、武満とともにこのコンクールで賞を獲った松下真一の《8人の奏者のための室内コンポジシオン》は、1958年に音楽之友社から出版されています)。しかし《ソン・カリグラフィⅠ》は音楽之友社ではなく、フランスの出版社サラベールから楽譜が出されていました。おそらくは、もうひとつ副賞として獲得した「フランス大使賞」の繋がりだったのだと思われます。

 

楽譜コラム(1)

▲武満 徹(1930~1996)

 

――1970年代のサラベール社
 もともとサラベール社(Editions Salabert)は、19世紀後半にエドゥアール・サラベール(1838~1903)によって立ち上げられ、彼が体調を崩したあとは息子のフランシス(1884~1946)に引き継がれた出版社です。シリアスな音楽ではなく、昔風にいえば軽音楽(ライトミュージック)を中心に取り扱ったため、フランス版のティン・パン・アレイともいえるでしょう。オペレッタ(喜歌劇)やミュージカルで歌われるような楽曲の楽譜の販売により、経済的な成功をおさめています。

 そうしたお金を元手にして、1920年代からサラベールは出版社の買収を開始。そのなかにはフローラン=シュミット(1870~1958)、ラヴェル(1875~1937)、ミヨー(1892~1974)といった作曲家の作品をいくつか出版していたA.Z.マトー社をはじめ、それまで自社では大きく取り扱ってこなかったシリアスなクラシック音楽の楽譜を取り扱う出版社が含まれていました。こうしてサラベールは、買収した出版社と契約をしていた存命中の作曲家の楽譜も出版しはじめるようになるのです。

 この時期は、前述したミヨーを含む、いわゆるフランス六人組の作品に加え、フランスと縁の深いスペインの作曲家モンポウ(1893~1987)、そしてピアニストでパリ音楽院の教授であったアルフレッド・コルトー(1877~1962)が編集をおこなったロマン派のピアノ曲を主に出版していました。この「コルトー版」といえば、本連載でも以前に取り上げたショパンのエディションが有名ですが(※)、他にもシューマン、リスト、メンデルスゾーンなども手掛けており、基本的にその時代時代の新しい音楽を出版していたサラベール社にとっては、新たな金脈となったであろうことが想像されます。
 

>関連記事(楽譜入門#3)はコチラ

 

楽譜コラム(2)

▲アルフレッド・コルトー(1877~1962)

 

 ところがフランス六人組以降、次に続くフランスの若い世代の作曲家とは蜜月関係を築くに至らず、例えばジョリヴェ(1905~1974)やメシアン(1908~1992)の楽譜は単発での出版に留まってしまうのです。そして創業者の息子フランシスが1946年に亡くなり、彼の妻ミカが経営を担うようになると、新たな方向へかじを切ります。というのもミカ・サラベールは後の1981年に作曲家を支援する財団を立ち上げたほど、現代音楽に深い理解を示した人物だったのです。1960年代後半からはクセナキス(1922~2001)、1980年代からはアペルギス(1945~ )やシェルシ(1905~1988)と、アカデミックな正統な路線から外れたフランス人以外の作曲家と契約を結んでいます。実は、この路線の先駆となったのが1958年から1990年にかけて断続的に出版された武満徹だったのです。

 ただし1960年代に関しては、1962年に出世作《弦楽のためのレクイエム》(1957)を含む6つの作品が出版されただけで、他の作品は音楽之友社から3作品、ドイツのペータースから3作品(なお、ペータースは1950年代後半から黛敏郎の楽譜を出版していました)から出されています。ところが1970年代になると、ペータース(1作品)とオーストリアのウニヴェルザール(2作品)といったような一部の例外を除き、武満作品はサラベール社から出版されていきます。おそらくは1967年にニューヨーク・フィルからの委嘱作《ノヴェンバー・ステップス》が成功したあたりから、海外からの委嘱が増えていったこととも呼応しており、武満の国際化が進んだ証左といえるでしょう。

 

楽譜コラム(3)

▲弦楽のためのレクイエム(Editions Salabert)

 

楽譜コラム(4)

▲ノヴェンバー・ステップス(C. F. Peters Musikverlag)

 

――1980年代以降のショット社
 サラベールによる武満の新規出版は1990年まで続きますが、全て1970年代までに作曲された楽曲ばかり。1980年10月に日本ショット(現:ショット・ミュージック)と新たな契約を結ぶと、1980年代以降の作品に加え、それまで出版されていなかった編曲や、国内出版社から初版されたものの絶版になってしまった作品などが、新たにショット社から出版されていくことになりました。

 ショット社はもともと、18世紀後半に生まれたドイツの老舗出版社で、創業初期はモーツァルト(1756~1791)やベートーヴェン(1770~1827)の楽譜などを出版していました。息子の代で買収が進むとともに、親族により各地に支店ができ、会社の規模を大きくしていきます。また19世紀後半には楽劇『ニーベルングの指環』をはじめとする後期ワーグナー(1813~1883)の作品を出版したことで、彼を慕う作曲家たちからも支持を集めています。新しい表現を追求する作曲家に理解を示す姿勢は、20世紀初頭にストラヴィンスキー(1882~1971)の初期作品《花火》(1908)の出版を手掛けることにも繋がり、他にもヒンデミット(1895~1963)やオルフ(1895~1982)、更にはリゲティ(1923~2006)や先ごろ亡くなったペンデレツキ(1933~2020)と、それぞれの時代を画するような作曲家の楽譜を積極的に出版していきました。

 そしていよいよ1977年8月、事業拡大の一貫として子会社、日本ショットを設立。本社のドイツ人社長ペーター・ハンザー=シュトレッカーとともに代表取締役に就任したのが、全音楽譜出身の松岡新平でした。海外出版社の代理店業務とともに日本人作曲家との契約を進め、1978年には武満の盟友でもある湯浅譲二の出版・著作権管理を引き受けます。もともと湯浅は全音楽譜から何作も出版していましたから、事実上の引き抜きといったところでしょう。そして湯浅に遅れること2年後。1980年に武満とも出版・著作権管理の契約を結び、早速1981年に《遠い呼び声の彼方へ!》(1980年作曲)、《雨の樹》(1981)を出版。武満の生前はもちろんのこと、彼が亡くなった後も断続的に未出版の作品を手掛けているのです。

 

楽譜コラム(5)

▲遠い呼び声の彼方へ![ヴァイオリンとオーケストラのための](ショット・ミュージック)

 

 こうして複数の出版社にまたがって武満作品は出版されているわけですが、国内資本の出版社から絶版になることなく発売中の楽譜は《サクリフィス》と《地平線のドーリア》(音楽之友社より出版)のみ。それ以外は(日本ショットを含む)海外系の出版社から出ているため、彼の楽譜は海外からも購入・レンタルがしやすいのです。実際、武満作品は他の日本人作曲家に比べて、海外での演奏機会が断トツで多いと関係者から耳にしたこともあります。

 そして筆者が昨年、NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィ氏にインタビューさせていただいた際、「様々な日本人作曲家にも興味はあるのだが、フランス音楽からの流れで理解しやすく、既に馴染みもある武満作品を集中的に取り上げたい」という旨の話をされていました。クラシック音楽の一部として武満がどれほど認知・評価されているかということを感じるとともに、主だった作品が国内の出版社から出ている日本人作曲家の優れた作品を、どのようにすれば知ってもらえるのだろうか?……そんな今後の課題も考える必要があるかもしれません。

 

←前の話へ          次の話へ→

 


 

Text:小室敬幸