第2回 「音がいい」って何?(後編) 【音楽あれば苦なし♪~福岡智彦のいい音研究レポート~】


いい音研究所長の私、福岡が、日々遭遇する音楽にまつわる様々なできごと、どうでもいいことからちょっといい話まで、観察&考察してみた結果を研究レポートにまとめまして、みなさんに提出していくこのシリーズ、第2回は前回の、ごく人並みの“音のよさ物差し”しか持たない私が、音楽ディレクターとして、レコーディングの最終行程、音のよさを決定する「ミックスダウン」や「マスタリング」にどう臨んだのか、というお話の続き。
 

 >前編はこちら 

エンジニアにだって簡単じゃない「いい音」

 

「ミックスダウン」は、エンジニアによってかかる時間にずいぶん差があります。早い人だと2時間くらい。時間をかける人だと丸一日ってことも。ずっと横にいてもしょうがないですし、彼もやりにくい。かと言って、でき具合をチェックしなければならないし、いつでき上がるかは分からないので、出かけることもできない私はスタジオのロビーで、別の仕事をしたり、アーティストや他のスタッフとダベッたり、ゲーム(当時はテーブル型。「ゼビウス」に嵌りました…)をしたりして過ごしていました。今なら、エンジニアが自宅で作業して、でき上がったものをネットで送ってチェック……てな感じなんでしょうが、ちと味気ないですね。

ともかく、エンジニアが「ほぼこれでいいんじゃないかなー」と思う段階になったら、聴かせてもらいます。楽なのはもちろん、そのままで「いい音だなー」と感じられる時。そりゃもし私がそう感じても、アーティストが賛同してくれなければ困りますが、そんなことはほとんどありません。(前回お話ししたように)「ホントにいい音」は人間共通の感覚なんです。そういう時、ディレクターの役目はただニッコリ笑って「最高!お疲れさん。飲みに行こう!」と宣[のたま]うだけ。

ところが、現実は甘くない。そうじゃない場合のほうが多いですね。しかも、たとえば「もっとボーカルを大きく」みたいに具体的に言える不満なら事は簡単なのですが、ありがちなのが「悪くはないんだけどなんとなく物足りない」というもの。どう言えばいいかも分からない。黙っているわけにもいかないから、「全体的にはいいと思うんだけどさ、もうちょっとこうメリハリつけたいって言うか…」みたいなことを口走ったりもするのですが、そんな抽象的なことを言っても何の方針も見えてきやしません。

ただ、満足してないってことは伝わりますし、一応作ってはみたものの、たぶん、エンジニア自身も満足はしていないはずなんです。「ホントにいい音は人間共通」という法則からして。彼が「ホントにいい音」だって感じていたら、私もそう感じるはずです。……あ、言っときますが、「ホントにいい音」はひとつだけではないですからね。同じ曲、同じ音源でもミックスダウンの形は無数にある。そのすべての形について「ホントにいい音」はあるんです……ともかく、彼も「ホントにいい音」だとは感じてないって話です。エンジニアという専門家なんだから、それを作るのが仕事でしょ?ま、そうです。どの音にどんな処理をして、どう配置すればいいのか、分からなくてはレコーディング・エンジニアは務まりません。だけどそんな彼でも簡単に答えを出せないのが「いい音」の難しいところなのです。

専門家じゃない私にできることは、「ちょっとブレイクして耳休めようか」などと言いつつ、コーヒーを淹れ直すことくらいですが、重要なのは妥協しないことだと思っています。「ホントにいい音」だと感じるまでOKを出さない。

それも簡単ではないのです。繰り返しお話ししているように人間の耳はええかげんです。何度も聴いていると分からなくなってくるし、疲れてもきます。だからなるべくリラックスして、何も考えないで聴くことを心がける。でも、言うは易く行うは難し。私もたくさんの失敗、心残りを繰り返してきました。ただある時、後輩の音楽ディレクター、Y君に「福岡さんが担当したものって、エンジニアは替わってもみんな同じ音しているのがすごいですね」と褒め言葉なのか何なのかよく分からないことを言われたことがあって、でもちょっとうれしかった。
 

音がよくなるなら何だって使うマスタリング・エンジニア

音楽あれば苦なし(1)

田中三一氏の現在のマスタリングスタジオ「studio ATLIO」

 

「マスタリング」は音創りの最終行程。ただここで決定した音を録音したDATテープを、商品になったCDと聴き比べてみると、やはり微妙に違う。CDという物にプレスすることで発生する変化がある。これはもう仕方ないのです。音ってそれくらい繊細ってことですね。

「マスタリング」はそれ専用のスタジオで、専門のエンジニアが行います。今はCD-Rでマスターを納入するらしいので、レコーディング・エンジニアがマスタリングまでやってしまうケースもあるようですが、2000年くらいまではマスターが映像用のUマチック規格のビデオテープでしたから、ソニーの「PCM-1630」なんていう「PCMプロセッサー」でアナログの音をデジタル化→映像信号化してUマチックのビデオレコーダーで“録画”するという特殊な作業でもあったので、行程的にも切り離さざるを得なかったんですね。

こちらとしても、「ミックスダウン」までは昼夜関係なしの突貫作業、鉱山からひたすら石炭を掘り出すようなものなのに対し、「マスタリング」は、昼光の下改めて良質な石炭のみを選り出す作業と言いますか、違う環境で気持ちも新たに音を確認できるだいじなステップだったのです。その時点で初めて音を聴く、マスタリング・エンジニアさんの意見も貴重でした。

レコーディング・エンジニアも、音を判断しやすいように「ミックスダウン」をやるスタジオはここ、と決めている人が多いですが、マスタリング・エンジニアはそれぞれに専用のスタジオが決まっていました。

音源を何度か聴きながら、時々自分のデスクの脚に触れる、Sさんという女性のエンジニアさんがいました。初めのうちは無意識のクセなのかなと思っていましたが、いつも、音がスッといい感じにおさまると、触れなくなる。女性に対して無闇に質問するのは失礼かなという気もして、結局理由は訊かずじまいだったのですが、たぶん、あれはかすかな振動で音をチェックしていたのだと思うんです。彼女の部屋なので、彼女だけがその指先で分かる振動状態になった時、音の響き方が最もよくなるということなんでしょう。耳以外に指も使って、「いい音」を判断していたんですね。

田中三一[ミツカズ]さんはさらにユニークでした。私がいちばんお世話になったマスタリング・エンジニアです。今はなき信濃町のCBSソニー・スタジオ、1階の奥にあった田中さんの部屋に行くと、まず目についたのが、当時見慣れたSTUDERのハーフインチ・2トラック・テープレコーダーの上に、見慣れない缶ビール大の円筒形の物体がゴロゴロと並んでいること。「これはいったい何ですか?」という質問が、私が田中さんにした最初の会話かもしれません。それは巨大な「コンデンサー」なのでした。「コンデンサー」とは電気部品の一種としか言えない私なので詳しい説明はできませんが、元々入っているコンデンサーをずっと“容量”が大きいものに交換して、電気回路内の安定性を高めていたんだと思います。

田中さんは、テレコ(テープレコーダー)から前述の「PCMプロセッサー」へ繋ぐケーブルも何種類か用意して、取り替えて聴かせてくれました。たしかに音は変わるので、その中からいいと思うものを選びました。理屈よりも感覚を重視する人で、マスタリングに伺うたび、「いい音」のためにいろんな新しいことを取り入れていて、披露してくれました。ある時は、「ICチップ」、端子がゲジゲジ虫の足のように生えている部品ですね、あの背中の部分に筆でニスを塗っていて、「こうすると音がしっかりするんだよ」と嬉しそうに笑っていました。ニスの種類もいくつか試したそうです。「はあ」と返すしかありませんが、聴いてみるとやはりよくなった感じがしました。またある時は、水晶にも凝っていました。水晶のカケラをケーブルに括りつけて、「音の流れを滑らかにする働きがあるんだよ」と教えてくれました。感心した私はこれならできると自分でも水晶を買って、家のオーディオのケーブル類に輪ゴムでつけてみました。効果はあまりよく分からなかったですけど。
 

「いい音」、この不可思議なるもの

 

「怪しげな占い師じゃあるまいし」とあなたは鼻で笑うかもしれません。でも、これほんとに仕事の現場ですから。それくらい「いい音」って不可解なものなんです。理屈で考えれば、スピーカーを振動させて音波になるまでは電気信号の流れですから、銅などの金属の“道”をなるべく広く短くして流れやすくしてやればいい。ただ、CDやLPからプレイヤー→プリアンプ→パワーアンプ→スピーカーへと続く長い“くねくね道”なので、途中一部だけ広くしても関係ないように思えます。だけど実際、たとえばアンプからスピーカーへのケーブルを変えれば明らかに音は変わります。プリアンプとパワーアンプを繋ぐわずか50cmのケーブルでも変わる。また、スピーカーやプレイヤーを余計な振動から守るために、「インシュレータ」やら「オーディオボード」なんてものを下に敷くとよい。これは分かりますが、アンプの下に置いても変わる。よくなるんです。

電源もだいじだと言われます。通常家庭に来ているAC電源はきれいじゃなくて、そのままだと音が濁る原因になるらしいです。電気がきれいじゃないってどういうことなのかよく理解できませんが、それをきれいにするという何万円もするオーディオ用電源タップはオーディオ・マニアには基本アイテムのひとつ。それどころか、マニアの中には電柱の上にあるトランスを自分専用に買う人もいるそうです。通常はトランス1つから十何軒の家庭に分配されているのですが、そのためにたくさんの電気機器のスイッチのオンオフなどが、電気の汚れの元になるとのこと。ちなみにトランスのお値段は120〜200万円らしいです。意外に安い?

秋葉原で、高級オーディオの試聴会に参加した時の話。某オーディオ評論家が進行役だったのですが、"Yes"の「Roundabout」だったかな、CDを再生し始めて、「あ」と言いながらすぐ止めた。で、「封を開けたばかりの新品のCDは一度内周と外周を拭いてやったほうがいいんです」と、CD盤の縁を布でぬぐい、もう一度トレイに入れ、再生すると、あれ、ほんとだ、音がスッキリした。なんてことがありました。それ以来、私はCDを買う度に習慣的に内周外周をゴシゴシしています。

Super Audio CD(SACD)という高音質CDが登場して間もない頃、池袋のオーディオショップで、CDとSACDの聴き比べ会がありました。ただし、CDプレイヤーはそのショップでいろいろ改造した特別仕様。SACDプレイヤーは市販品のままです。そうしたら、なんとCDのほうがいい感じなんです。忘れましたが、なんかジャズ・ボーカルもののCD版とSACD版。音のデータ量としては、SACDをハイレゾ、24bit / 96kHz相当だとしたら、CDの16bit / 44.1kHzのざっと500倍以上にもなるんです。なのに工夫と努力によって、CDからSACDに負けない「いい音」を引き出すこともできる。

不思議です。謎です。だから面白い。そして、音楽の生産者たちは、そんな“音の不思議の森”に手探りで分け入って、道を間違えたり、迷ったりしながらも、少しでも「いい音」に辿り着けるようがんばっています。私たちが接する音楽は、たいていそうやって創られたもの。そう考えると、もっとじっくり丁寧に、音を味わってみたくなりませんか?

 

 

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