~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第1章 ①②】


第一部 第1章 日本のポピュラーソングをつくった中村八大
①レコード文化との幸せな出会い 「こんにちは赤ちゃん」
②ホームソングを生んだ六・八コンビ

③アメリカ生まれのジャズコーラス 「いつもの小道で」
④専属作家という仕事 「酒は涙よ溜息よ」

 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く新連載。執筆は、プロデューサーとして、そしてノンフィクション作家として活躍中の佐藤剛氏。三部構成でお届けします。今回は、第一部 第1章の前半①②をお送りいたします。

第一部 第1章
日本のポピュラーソングをつくった中村八大

 

①レコード文化との幸せな出会い
「こんにちは赤ちゃん」

 

 仙台市東十番丁のわが家に同じ町内にあった電器屋さんが、頼んでいた電蓄(電気蓄音機)を届けてくれたのは1963年の秋のことだ。東芝音楽工業(株)が発売していたポータブルプレーヤーは赤とアイボリーの2色で、取り扱い説明書に「錆びない、剥げない、変色しない」と書いてあった。

 そのときぼくは11歳、市内の連坊小路小学校に通う小学六年生だった。家族と住んでいた店舗兼住宅は、仙台と石巻を結ぶ仙石線で始発からひとつ目だった、榴ケ岡駅前の小さな商店街にあった。国鉄の職員用として4階建ての大型団地が8棟ほど建てられたことで、両親は小さな果実店を共働きで営んでいたのだ。

 当時は日本コロムビアや日本ビクターなどの大手レコード会社が、電蓄やステレオといったオーディオ製品から、電子オルガンなどの楽器までを販売していた。東芝音楽工業(株)は1960年に親会社から独立した、日本で6番目のレコード会社で東芝レコードの発売元だった。

 ただしその電蓄が親会社の東芝製品だったわけではない。東京都内にあったタクト電機という小さな会社が、OEM商品として製造して東芝音楽工業が販売元になっていたのだ。定価は5450円、それまでに親から買ってもらった品物のなかでは、三段変速ギアがついた自転車に次いで高額だった。

 電蓄を納品して取り扱い方を教えてくれた電器屋さんは、試聴用に使ったシングル盤を「これはサービスしますから」と置いていった。A面が威勢がいい「八木節」、B面の「さんさ時雨」は地元の宮城県に伝わる民謡である。わが家には一枚のレコードもなかったので、それはとてもありがたかった。

 さっそく教えてもらったとおり、レコードを傷つけないように針を下ろす練習をした。ターンテーブルがまわり出したら、レコードの盤面にピックアップを運んでそっと盤面に針を下ろす。軽く「ボッ」という音がして、二秒か三秒後に太鼓と笛の音が聴こえてきた。「八木節」は軽快なリズムで語りもそれなりに面白かったが、「さんさ時雨」は退屈で最後まで聴けなかった。

 その後に自分で買った最初のレコードは、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」だった。ぼくは前の年から我が家にやってきた、白黒14インチのテレビを通してその歌に出会って気に入っていた。まだ10代だった梓みちよがNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』のなかで、7月に「今月の歌」というコーナーで唄っていたのだ。

 それがレコードで発売されたことを知って、父に相談したのは11月の初め頃だったと思う。すぐに了解してもらえたので、臨時のお小遣いとして預かった500円札をポケットに入れて、自転車を漕いで繁華街にある楽器店に行った。そして「こんにちは赤ちゃん」のシングル盤を購入し、期待に胸をふくらませて家に帰ってきた。

 さっそく電畜のスイッチを入れて、真空管が温まるまで30秒ほど待った。それからレコードをターンテーブルに乗せて、円盤の外側にそっと針を下ろした。スピーカーから聴こえてきたのは明るくリズミカルなイントロで、楽器の音がうれしくてはねているようなサウンドだった。

 赤ちゃんが誕生した喜びがそのまま歌と音楽となって、元気よく伝わってきたように感じた。

  こんにちは赤ちゃん
  作詞:永 六輔 作・編曲:中村八大

  こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔
  こんにちは赤ちゃん あなたの泣き声
  その小さな手 つぶらな瞳
  はじめまして わたしがママよ

  こんにちは赤ちゃん あなたの生命(いのち)
  こんにちは赤ちゃん あなたの未来に
  この幸福(しあわせ)が パパの希望(のぞみ)よ
  はじめまして わたしがママよ

  ふたりだけの愛のしるし
  すこやかに美しく 育てといのる

  こんにちは赤ちゃん お願いがあるの
  こんにちは赤ちゃん ときどきはパパと
  ホラ ふたりだけの 静かな夜を
  つくってほしいの おやすみなさい

  おねがい赤ちゃん おやすみ赤ちゃん
  わたしがママよ

 梓みちよの歌声はソフトだったので、「あ、いいな」と素直に思った。ジャケットの裏にある歌詞を見ながら聴いていると、なんともいえないあたたかな気持ちにもなった。ちょっとした冒険心でボリュームを上げてみると、ラジオやテレビよりも力強くて大きな音が出たことが頼もしかった。

 その瞬間にぼくは初めて、音楽の魔法に触れたのかもしれない。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

 

②ホームソングを生んだ六・八コンビ

 

 「こんにちは赤ちゃん」をつくったのは、作曲家の中村八大と作詞家の永六輔による六・八コンビである。彼らの楽曲はこれまでにも『夢であいましょう』の「今月の歌」のコーナーから、1961年の「上を向いて歩こう」(坂本九)、62年の「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、63年の「おさななじみ」(デューク・エイセス)などがヒットしていた。

 いずれも歌詞やテーマが、それまでの歌謡曲とは何かが違っていた。リズムとの一体感と自然なハーモニーが心地よかったのは、アレンジが新鮮だったからだろう。

 しかもママが赤ちゃんに語りかける歌詞には、明るくて前向きの言葉だけが選ばれていた。今になって思えば、「笑顔」「生命」「希望」「未来」「幸福」という単語の使い方には、“言葉の達人”と評される永六輔ならではのセンスがあったことがわかる。

 まだ18歳で新人同様だった梓みちよが母親になった喜びを唄うことについて、キングレコードからは異論も出たという。しかし独身の女の子が「わたしがママよ」と歌うところに意外性があり、それもヒットした要素のひとつになった。
中村八大は歌を子どもに例えて、こんな気持ちを述べていたことがある。

 

 だいたい私たちが作品を完成したときには、その作品に対して子供に対するのと同じような愛情を持っています。子供(作品)の出来が悪いと、その子はあの世(紙くずかご)行きになるし、うっかりして出来の良いのになると「スキヤキ」みたいにどんどん独り立ちして世界中を 闊歩 かっぽすることにもなります。
 子供を一人前に育てあげるまでは、どの子に対する愛情も努力も同じですが、しかしいったん社会に出てからは、作品の価値自体にもよりますが、多くの人たちの愛情に支えられてぐんぐん伸びていく出来の良いものもあれば、なんだ、かんだと、じゃまにされたりして消え去ってゆくのもあります。
 しかし、いずれにしてもつくった親としてはどうにもならないことで、ただただ世間での歌われ方を見守っているだけです。
(中村八大「僕たちはこの星で出逢った」講談社 1992)

 

 「こんにちは赤ちゃん」が第4回の日本レコード大賞に選ばれたというニュースは、レコードを買ってから3~4週間が過ぎた頃に、新聞を読んでいて知った。初めて自分で買ったレコードがその年の終わりに、最もすぐれた楽曲に選ばれたのだと思うと、少しだけ誇らしい気持ちになった。

 その記事の中で歌謡曲に対抗する言葉として、「こんにちは赤ちゃん」がホームソングだということを教えられた。辞書で調べると、このように記してあった。

 

 〔和 home+song〕 家庭向きで、大人も子供もともに歌えるような平易で健全な歌。

 

そもそも流行歌や歌謡曲は大人の世界をテーマにした歌詞が主流だったので、どうしてもラブソングの割合が多くなった。できることなら子どもに流行歌は聴かせたくない……、そう思う親が多かったのは当然だろう。そこに現れたのが親子でも聴けるホームソングだったのだから、ここでも時代を反映していたのだ。

 ところで世間的に「パパ」と「ママ」という外来語が出てくる歌がヒットしたことで、一般社会にまでその言葉が浸透していったという。それまでは都会のバーやクラブといった大人だけに通じる場所で、どことなく隠語のように使われていたのが、こんにちは赤ちゃん」がヒットしたおかげで一年もしないうちに、日本全国の家庭で日常的に使われるようになった。

 「歌は世につれ」だけではなく、「世は歌につれ」という現象を招いたのである。永六輔が対談の中で、このように述べていた。

 

 じつは「譜面が欲しい」という問い合わせのほかに、「ママとは何事だ、アメリカにかぶれやがって」という抗議の電話もけっこうあった。当時は、「ママ」といったら「銀座のママ」の時代ですから(笑)。
 あの歌がきっかけになって、「ママさんバレー」とか「ママさんコーラス」という言葉もどんどん使われるようになって、「ママ」「パパ」が市民権を得ていった。
(永六輔『上を向いて歌おう』飛鳥新社 2006)

 

 ぼくはNHKの『夢であいましょう』を通して、幸いなことにもっとも多感な思春期の入り口で、日本に生まれたばかりのホームソングに出会った。それらが画期的なポピュラーソングでもあったことによって、知らず知らずのうちに音楽の素晴らしさに目覚めた。

 そのことで自分の人生が、いつのまにか音楽の道へと導かれることになった。だから『夢であいましょう』という番組にも、「今月の歌」についても感謝の気持ちをずっと持ち続けている。

 なお中村八大は自分にとってのポピュラーソングについて、早い時期から実に明快なとらえ方で一貫していた。そこにはクラシックも含まれていたのだが、「作られた時期やジャンルに関係なく、今日生きている音楽がポピュラーじゃないかな」というものだった。

 それはスタンダード曲の成立にも通じる、とても大事な要素なのではないかと思える。
 

日本のポピュラーソングをつくった中村八大③④ へ⇒

 


 

Text:佐藤剛
Edit:菅義夫

 

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