~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第1章 ③④】


第一部 第1章 日本のポピュラーソングをつくった中村八大
①レコード文化との幸せな出会い 「こんにちは赤ちゃん」
②ホームソングを生んだ六・八コンビ
③アメリカ生まれのジャズコーラス 「いつもの小道で」
④専属作家という仕事 「酒は涙よ溜息よ」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く新連載。執筆は、プロデューサーとして、そしてノンフィクション作家として活躍中の佐藤剛氏。三部構成でお届けします。今回は、第一部、第1章「日本のポピュラーソングをつくった中村八大」より後半の③アメリカ生まれのジャズコーラス「いつもの小道で」④専属作家という仕事「酒は涙よ溜息よ」をお送りいたします。

 

第一部 第1章
日本のポピュラーソングをつくった中村八大

 

③アメリカ生まれのジャズコーラス 
「いつもの小道で」

 

 1963年の11月から12月までぼくは一枚のレコードを飽きることなく聴いていたが、新年を迎える頃になるとB面の「いつもの小道で」に惹かれていることに気づいた。いつも聴いていた曲だったのに、いつのまにかニュアンスが違ってきたのは、歌を受けとめる自分の中に変化があったからだろう。

 1月21日の誕生日で12歳になることで、淡い恋に憧れる歌詞が身近に感じられてきたのかもしれない。中学生になったら学区が変わるから、片思いだった同級生とも会えなくなってしまう日が近づいていた。

 この歌は1962年にNHKの『夢であいましょう』のなかで、「8月のうた」として田辺靖雄によって唄われた楽曲である。まだ一部の家庭にしか普及していなかったテレビという新メディアから、こうして都会的なセンスを感じさせる歌が次々に生まれてきた。

 音楽的な面で曲を特徴づけていたのは、聴き手の心を弾ませるような男性のコーラスだった。イントロの最初に「♬ブンブン ブンブン」という低音のパートから始まり、デュエットしている梓みちよと田辺靖雄の歌になってからも、コーラスとスキャットが効果的に絡んでくる。

 それを受け持っていたのがジャズコーラスの第一人者で、1955年から活動していた4人組のデューク・エイセスであった。

  いつもの小道で
  作詞:永 六輔 作・編曲:中村八大

  いつもの小道で 目と目があった
  いつものように 目と目をそらせた
  通り過ぎるだけの 二人のデイト

  いつもの小道で 手と手が触れた
  いつものように 手と手は離れた
  通り過ぎるだけの 二人のデイト

  いつかあいさつしよう
  そして名前をきこう
  お茶を飲んで 映画にさそおう
  星の降る夜に 散歩をしよう

  いつもの小道で 目と目があった
  いつものように 目と目をそらせた
  通り過ぎるだけの 二人のデイト

 これを唄った田辺靖雄は渡辺プロダクションが推している有望新人で、梓みちよとのコンビで洋楽をカヴァーした「ヘイ・ポーラ」を1963年の春にヒットさせていた。

 二人は一番の始まりからしばらくユニゾンで唄っていくのだが、サビの部分から交代でソロになって二小節ずつを唄う。そこで声量が少し下がることで、やや頼りない感じになる。そのパートが叶わないかもしれない淡い恋という、歌詞のテーマに合っていて切なさをかき立てられるように思った。

(女) いつかあいさつしよう
(男) そして名前をきこう
(女) お茶を飲んで
(男) 映画にさそおう
(女男)星の降る夜に 散歩をしよう

 自然に口ずさみたくなる中村八大のメロディーと、全体を際立たせているモダンで明るいアレンジは、地方に住む若者たちが持っている都市生活への憧れを刺激した。若い男女の揺れる思いを双方の気持ちに重ねて、さりげないモノローグ調で描いた永六輔の歌詞は、シンプルながらファンタジックだった。

 それともうひとつ、男性と女性が対等の言葉づかいで同じ歌詞を一緒に唄っていたところが、はからずも戦後民主主義の時代の若者の考えを反映していたとも言えるだろう。進駐軍によってアメリカから持ち込まれた男女平等という価値観が、ポピュラー音楽のなかでさりげなく表現されていたのである。

 それにしても、“星の降る夜に 散歩しよう”という歌詞は、それまでにないほどロマンチックに感じられるフレーズだった。なお、この歌のアンサーソングと思われる「夜の散歩をしないかね」(作詞:忌野清志郎 作曲:肝沢幅一)が、RCサクセションのアルバムの一曲として登場するのは1976年のことになる。

 こうした新しい歌と音楽の発信元となった番組が、全国ネットのNHKだったことには大きな意味があった。首都圏を中心として大都市で放送されていた民放の人気番組に対して、NHKの場合は本土復帰前だった沖縄を除いて、地域によって起こる情報の偏りや時間差がなかった。

 だから最新の音楽やコントなどを紹介していた『夢であいましょう』は、地方都市に住むぼくのような子どもにとって、音楽やエンターテインメントに関して大切な情報源になっていったのだ。そこでジャズや外国のスタンダード曲に触れたことによって、ぼくは思春期を迎える頃からポピュラーソングに目覚めていった。

 それらの源となった中村八大に影響を与えたのが戦前から流行歌の世界で活躍し、ジャズ・ソングやジャズコーラス、そしてブルースの第一人者だった服部良一である。

 

日本の音楽文化史(1)日本の音楽文化史(2)

 

④専属作家という仕事
「酒は涙よ溜息よ」

 

 1907年に大阪に生まれた服部良一は10代の半ばから、大阪のうなぎ料亭「出雲屋少年音楽隊」に所属してクラリネット奏者を務めていた。おりしも大阪のミナミの繁華街では昭和になると同時に、ジャズブームが巻き起こっていた。

 それは1923(大正12)年に発生した関東大震災のために、東京で仕事がなくなってしまったミュージシャンたちが、まとまった数で関西にやってきたことの影響があったからだ。そうした“道頓堀ジャズ”と呼ばれるブームを体験した服部が、NHKの前身であるJOBK(大阪放送局)が結成したオーケストラに入団したのは1925(大正14)年、まだ19歳の時だった。

 その翌年に常任指揮者として招かれたロシア(ウクライナ)人のエマヌエル・メッテルに、勉強熱心な態度を評価されたことで、服部は作曲と指揮の個別指導を週に一回ずつ受けることになった。メッテルは謝礼も土産も受け取らず、純粋な気持ちで将来性がある音楽家を4年間にわたって育ててくれた。

 そこで和声学や対位法、管弦楽法、指揮法を学んだことによって、服部は作・編曲家としての才能を開花させる。やがて大阪を拠点にしていたタイヘイ・レコードで、専属作家として働き始めたことによって、道が大きく開かれていくことになる。

 だが最初の頃は、なかなか思うように実力を発揮できなかった。というのも主に上方落語や浪曲、長唄などの純邦楽を扱っていたタイヘイには、流行歌を唄える専属歌手がいないというハンデがあったからだ。そのために流行歌をつくって売り出したいときには、東京からプロの歌手を呼んでレコーディングし、それを変名で発表していた。

 日本コロムビアの古賀政男が作詞作曲した「酒は涙か溜息か」がヒットして一斉を風靡したのは、服部がタイヘイで社員として働いていた1931(昭和6)年のことである。服部は会社の上司から作曲を依頼されたときに、「社運をかけた大作だ」といわれて身を引き締めたという。

 ところが渡された歌詞のタイトルを見て愕然とした。なぜならばそこには「酒は涙よ溜息よ」と、「私この頃変なのよ」というタイトルが付いていた。どうみてもあからさまな便乗企画だったので、服部はこうした仕事の進め方に反発した。

 しかし雇われの身だったことで自分を抑えて作曲したものの、やはり不本意な仕上がりになってしまった。その経緯が自伝の中に関西弁の会話で記されているのだが、当時から商業主義一辺倒だったレコード会社には、文化産業の担い手であることの自覚が希薄だったことがわかる。

 

「これ、コロムビアの古賀政男の曲のモジリじゃありませんか」
 憮然として、ぼくは上司に抗議した。
「そうや、今、『酒は涙か溜息か』と『私この頃憂鬱よ』が大ヒットしとるさかいな、これを見のがす手はない。服部先生、あんじょ頼みまっせ」
と平然たるものだ。
「ぼくにはできませんよ。あまりにもえげつないじゃおまへんか」
「そこが商売や。何も曲までは古賀さんのマネをしてくれとは言ってまへんで。メロディーはあんたはんの、しゃれた節回しでよか。そうでなくちゃあかん。それで、あんたを選んだんや。会社のためにひとつ引き受けておくれんか」
ここが専属のつらいところだ。会社のため、と言われれば拒絶もできない。
「もし、問題が起きるようなことがあっても、ぼくの責任とは違いますからね」
一応、念をおして、しぶしぶ作曲にかかった。言うに言われぬ惨めな気持ちが胸に澱のように溜まって、なかなか仕事がはかどらない。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 ここで「酒は涙か溜息か」をレコーディングした歌手の藤山一郎について、簡単にプロフィールを説明しておきたい。日本橋にある裕福な大店の三男に生まれた増永丈夫は、声楽家をめざして東京音楽学校に入った優秀な学生だった。しかし昭和の恐慌によって家業が傾いて廃業したことから、家計を助けるためにアルバイトで流行歌を吹き込む仕事を始めた。

 1887年に創立された官立の東京音楽大学では、流行歌のアルバイトは許されるものではなかった。だが背に腹は代えられず、本名を隠して芸名でレコードを吹き込んだ「酒は涙か溜息か」(作詞・作曲:古賀政男)は、藤山のなめらかなテノールによって心の奥に抑えてきた感情がほとばしるように湧き出して、聴き手の心を震わせたのである。

 端正な歌唱法と美しい歌声を得て命が注ぎ込まれた「酒は涙か溜息か」は、たくさんの人にしみ入る歌となってヒットした。それに続いて明るく朗らかな青春賛歌の「丘を越えて」がヒットしたことで、藤山は若くて有望な歌手として大いに注目を集めた。

 さらには東京音楽学校出身の佐藤千夜子の歌で1930年に吹き込んだ時には、レコード売り上げには結びつかなかった「影を慕いて」(作詞作曲:古賀政男)を、1932年に新たにカヴァーして発売したところ、それもヒットしたのである。こうして古賀政男は藤山一郎の歌唱を得たことによって、作曲家として不動の地位を築いたといえる。

 しかし歌声が有名になったことで藤山一郎は東京音楽学校の増永丈夫であることが知れ渡り、本来ならば退学処分を受けねばならない状況に追い詰められた。だが成績がきわめて優秀であったことと、声楽家としての将来性を嘱望する先生が多かったために、幸いにも穏便な停学で済ませてもらえたという。

 そして卒業後は破格の好条件を提示した日本ビクターに入社し、テノール歌手と流行歌手の両刀遣いでプロになっている。

 なお当時は著作権をふくむ楽曲にまつわる権利は、作家の場合も歌手の場合もすべてレコード会社に帰属するものだった。その昔のレコード会社は楽曲を企画してレコーディングし、次に商品としてレコード盤を工場で製造するメーカーであった。企画制作から製造・販売まで全工程を仕切っていたので、会社は優秀な作詞家と作曲家との間で専属契約を結び、専属歌手や楽団を擁してヒット曲作りにしのぎを削った。  

 そこで優秀な作家や歌手には生活を保障することで、安心して才能を発揮してもらうように優遇したのだ。毎月の専属料を支払ったうえに、作家によっては前払い印税なども発生させた。他社に引き抜かれないようにするために、そのようにして内側に囲い込んだわけである。

 その結果、専属作家が書いた作品をカヴァーする場合でも、原則として所属するレコード会社の歌手にしか許諾しないという、排他的な運用になっていった。

 したがって中村八大と永六輔のコンビがつくった「黒い花びら」(歌:水原弘)が1959年に第一回日本レコード大賞に選ばれて脚光を浴びた後も、それまでのレコード業界のしきたりにとらわれることなく、フリーランスの状態で創作の自由を保持し続けたことは重要であった。それに続く形で宮川泰と岩谷時子が1960年代になって活躍し、フリーランスの作家が台頭してくる下地ができたのである。

 そのようにしてソングライティングの可能性広がったことから鑑みても、この数年で起こった新しい動きが、日本の音楽文化史における分岐点となっていく。
 

※次回は7月2日(木)更新予定!お楽しみに。

 

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Text:佐藤剛
Edit:菅義夫