~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ 古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子【第一部 第2章 ④⑤】


第一部 第2章 古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子
①自由奔放なピアノの弾き語り
②早熟だった二人の天才少女
③ジャズピアニストを目指した中学生
④キャラメル・ママと雪村いづみの邂逅『スーパー・ジェネレイション』
⑤ネクスト・ジェネレーションの挑戦


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏。今回は、第2章「古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子」から後編、④キャラメル・ママと雪村いづみの邂逅、⑤ネクスト・ジェネレーションの挑戦、をお届けします。荒井由実やハイ・ファイ・セット、YMOをはじめ多くのアーティストを輩出した音楽プロデューサー・村井邦彦の挑戦に触れることもできます。

第一部 第2章
古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子

 

④キャラメル・ママと雪村いづみの邂逅
『スーパー・ジェネレイション』

 

 “懐メロ"と呼ばれる楽曲を新しいアレンジによってとりあげて、そこに新たな命を吹き込んだカヴァーアルバム『スーパー・ジェネレイション』が制作されたのは、矢野顕子に先立つこと2年前、1974年の夏であった。

 週刊ミュージック・ラボの7月1日号の記事によれば、「雪村いづみ、歌手生活20周年記念企画を発表」というアルバムが完成したことと連動して、NHKホールでまったく同じ内容の記念リサイタルが開かれたと記されてあった。

 それにさきがけて6月15日から3000枚限定で発売されたアルバムは、「蘇州夜曲」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」「胸の振り子」など、服部良一が残した代表曲を雪村いづみが唄ったものだった。ここでも細野晴臣が中心になったロックグループのキャラメル・ママ(この年にティン・パン・アレーと改名)が、ヘッドアレンジで編曲と演奏を担当していた。

 それらは服部良一の作ったメロディーのロマンチシズムを、もういちど現代に開花させようと企画したプロデューサー、村井邦彦による挑戦であった。なお序曲をのぞいては、曲ごとの管楽器と弦楽器のアレンジを服部の長男だった克久が行っている。

 『雪村いづみ スーパー・ジェネレイション』
  編曲:キャラメル・ママ、服部克久

  序曲(香港夜曲)  作曲:服部良一/編曲:村井邦彦
  昔のあなた     作詞:山上路夫/作曲:服部良一
  ヘイ ヘイ ブギー 作詞:藤浦 洸/作曲:服部良一
  バラのルムバ    作詞:村雨まさを/作曲:服部良一
  銀座カンカン娘   作詞:佐伯孝夫/作曲:服部良
  東京ブギウギ    作詞:鈴木 勝/作曲:服部良一
  胸の振子      作詞:サトウハチロー/作曲:服部良一
  一杯のコーヒーから 作詞:藤浦 洸/作曲:服部良一
  蘇州夜曲      作詞:西條八十/作曲:服部良一
  東京の屋根の下   作詞:佐伯孝夫/作曲:服部良一

【キャラメル・ママ】 
ベース:細野晴臣 ドラム:林 立夫 キーボード:松任谷正隆 ギター:鈴木 茂

 村井は慶應義塾大学に在学中から学生のビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」に所属し、卒業直後の1967年にヴイッキー・レアンドロスに『待ちくたびれた日曜日』を提供して作曲家デビューを果たした。

 ただし最初に出たレコードはグループサウンズ(GS)のモップスに書いた、「朝まで待てない」(作詞:阿久悠)である。そして1968年にはテンプターズの「エメラルドの伝説」(作詞:なかにし礼 編曲:川口真)がヒットしたことで知られるようになった。

 それから1年と少し後に、やはりヒットメーカーとして活躍していた作詞家の山上路夫と組んで、自らの音楽出版社「アルファミュージック」をつくったのは、ソングライターの主導による作品を制作するためだった。

 そこから生まれたのが1970年に三重県志摩郡浜島町(現:志摩市)の「合歓の郷」で開かれた、プロのための作曲家コンテスト「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル'70」の応募曲として作られた「翼をください」であった。

 後に国民的な愛唱歌へと成長するこの楽曲は71年の2月5日、赤い鳥のデビュー曲としてシングル・レコードが発売されたが、そのときは「竹田の子守唄」がA面で、B面の扱いだった。

 村井は1973年からレーベルとして音楽制作を行うアルファ・アンド・アソシエイツを設立し、新しく作った最新の「スタジオ A」を拠点にして荒井由実(ユーミン)の歴史に残るアルバムや、ハイ・ファイ・セットのヒット作を制作している。

 そして世界のマーケットを相手に勝負に出たのが1978年から手がけたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)で、欧米でもそれなりの成果を得るところまでいったのである。

 アトランティック・レコードの創始者だったアーメット・アーティガンや、フランスのバークレイ・レコードのエディ・バークレイとの交友にまつわるエピソードなどが書かれた著書『LA日記』を読んでいると、世界の音楽業界で活躍したミュージックマンのVIPに可愛がられながら、彼らと対等に付き合って認められていったエピソードが自然に描かれていた。

 現役最年長の音楽評論家の安倍寧は2018年に刊行された『LA日記』のことを、”頬っぺたが落ちそうに美味しいエッセイ集”と評した。とにかくどのページからも生きた体験で身につけた知性や教養がにじみ出てくる。

 

 料理にたとえるなら一頁一頁が実に美味しい。
 舌舐めずりしながら頁をめくった。
 そりゃそうだ。1960年代から今日まで約50年、一気に時代を駆け抜けてきた作曲家、音楽プロデューサー村井邦彦が、惜し気もなく自らを語った初のエッセイ集なのだから。ネタは時代を超え国境を超え豊富そのものだ。
 調理がこれまた粋なジャズ・ピアノ のように変幻自在この上ない。
 とりわけ音楽界の内側を知りたい人にお薦めする。
 音楽界という魔界の事情が手にとるようにわかるだろうから。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 国際人として世界中を飛び回りながら、村井は日本の音楽シーンに新しいセンスを取り入れていった。赤い鳥、小坂忠、ガロ、ブレッド&バター、荒井由実、紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット、吉田美奈子、カシオペア、サーカス、YMO、大村健司、シーナ&ロケッツなどが、アルファの制作によって輩出された主なアーティストである。

 なお『LA日記』には安倍寧について、こんな文章が出てくる。
 

 安倍寧さんも慶応の先輩で、文学、音楽、演劇、ミュージカルからワインや料理のことまで、幅広い知識をお持ちだ。同級生の浅利慶太さんと一緒に劇団四季のミュージカル路線を成功させた功績はとても大きい。
 服部良一作品を雪村いづみが歌い、キャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)が演奏するアルバムに『スーパー・ジェネレイション』というタイトルを付けてくれたのも安倍さんだ。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 戦前から戦後に活躍した作曲家の服部良一作品にも最大の敬意を払っていた村井は、1974年に細野晴臣以下の若手ミュージシャンとともにアルバムをプロデュースした。初めから商売を度外視していたのは、懐メロではなく日本のスタンダード曲にするために、思い切った解釈と斬新なアレンジを行った。そして雪村いづみのヴォーカルとの邂逅によって、新しい生命を吹き込もうとしたのだ。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

スーパー・ジェネレイション / 雪村いづみ(1974)

 

⑤ネクスト・ジェネレーションの挑戦

 

 服部良一はそのアルバムの画期的な試みについて、完成直後に感謝の気持ちをこう述べていた。

 

 ぼくは、村井くんという作曲家が好きだったし、雪村いづみという歌手が、今の日本ではトップの歌い手、日本を代表する歌手だと思う。海外のフェスティバルとかも彼女しかいない。その歌手がぼくの歌惚れてくれた。ぼくは非常に嬉しかった。(長男の)克久と同じジェネレーションの人間がぼくに挑んできた。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 村井邦彦はこのアルバムのために作った序曲にあたる「香港夜曲」を、自分でアレンジしてA面のトップに持ってきた。その完成形を聴いた服部は、「ここから村井さんはこのLP作りたかったんだなぁと思うと嬉しくてしょうがなかったですね」と、本人に自分の言葉で伝えている。

 70歳になって当時の服部の年齢を超えた村井が、『LA日記』のなかでこんな言葉を述べていた。
 

 そういえば僕だって1945年生まれなのに、1938年に録音されたベニー・グッドマンのカーネギーホールコンサートの録音盤を聴いて音楽をやるようになった。最近の僕の音楽への興味は、前へ前へとさかのぼり、19世紀から20世紀初めのクラシック音楽に移っている。過去の音楽に興味を持つ人のことは理解できる。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 アルバムが完成して行われた記者会見の会場では、企画と制作を担当した村井が「今、この企画をこのような形で発表できたことは、私たちの義務であり、喜びです」と口火を切った。

 それを受けて雪村いづみも、「これだけのスタッフに恵まれたことは、私にとって転機になるはず。新しい気持ちで出直します」と力強く挨拶し、最後は服部が「今後も、リズムのある国際的な歌謡曲を生み出していきたい」と締めくくった。

 村井は一連のプロジェクトの企画者としてプロデュースに至った経緯を、1973年にミュージック・ラボを主宰する音楽評論家の岡野弁が書いた、『メッテル先生—朝比奈隆・服部良一の楽父、亡命ウクライナ人指揮者の生涯』の出版記念の席で、ふと心が動いたのが始まりだったと述べている。

 

 服部先生もいらしていて、二次会になった。みんなでヤンヤヤンヤと騒いでいるうちに、先生が請われて、ヨシ!やろう、とピアノを弾きながら歌われたわけです。
 ぼくが感銘を受けたのは、音楽をやる人の原点というのは、そういうふうに音楽によって他人に喜びを与え、また自分も楽しむということで、そのすばらしい音楽のあり方というのを目のあたりに見て、僭越ではありますが、ぼくも服部先生と同じ音楽をやる人間として、同じようなメンタリティーを持つ同じ種類の人間なんだな、と思ったわけです。
(『週刊ミュージック・ラボ』1974年7月1号)

 

 そのことからをいろいろと考えて、往年の名曲をカヴァーするアルバムに挑んでみたのだという。その話を聞いた服部が感謝の気持ちを、このように語っていた。

 

 ぼくは、村井くんという作曲家が好きだったし、雪村いづみという歌手は、今の日本ではトップの歌い手、日本を代表する歌手だと思う。海外のフェスティバルとかも彼女しかいない。
 その歌手がぼくの歌に惚れてくれた。ぼくは彼女、大好きです。LP作ってる時も言ったけど、彼女がまだ小さいとき初めて大阪駅で会って紹介された。
(『週刊ミュージック・ラボ』1974年7月1号)

 

 大阪駅で会った雪村いづみの父は朝比奈愛三という事業家で、ハワイアンバンドにも参加する音楽家だった。だが終戦直後の1946年に、自ら死を選んでしまった。

 そんなことを思い出したのか、服部は自分に対しても音楽についても嘘をつかないで、現役として生きてきたことを評価されたことが嬉しかったとも述べている。

 さらにアレンジと演奏を受け持った細野晴臣以下、20代だった音楽家たちと還暦を過ぎた自分を出会わせてくれた村井に感謝の意を表していた。

 そして最後に雪村いづみについて、こんな言葉を投げかけたのだった。
 

 今度のLPでもぼくは何ひとつ注文しなかった。あなたの好きなように歌いなさい。先生、私は時々勝手なことやりますけどいいですか、なんでも好きなことやりなさい、ウッド・ユー・ライクだ。何ひとつ言わなかった。「ヘイヘイブギ」や「東京ブギ」を作ったときと現在と生活様式が違っているんだから。音楽ってそういうものでしょう。雪村いづみの表現力によって、またぼくが生きられるんだから。村井邦彦によって生きられるんだから。ぼくが、あんな歌いやだって言ったって、死んじゃったらしょうがないんだから。
(『週刊ミュージック・ラボ』1974年7月8日号)

 

 岡野が全体の流れを見たうえで最後に座談をまとめるときに、村井がまだ20代であることに、心の底から驚いていたのは印象的だった。そこで語られた言葉を読み直してみると、当時のジャーナリストの評価としては、正鵠を得るものであったと納得がいった。[注]

 

 服部良一という名前は、日本のポピュラーの中で古賀政男さんとともに残ると思う。残るというのは現役だからおかしいと思うけど、残る。
 村井邦彦はどうなるかわからないけど、仕事のできる人だから、作曲家として残るのか、プロデューサーとして残るのか、経営者として残るのか。まだ僕にはわからないけど、良心的なアプローチをしている。それは誰もが認めているのでしょう。
(『週刊ミュージック・ラボ』1974年7月8日号)

 

 村井はこれと同じ時期に作家志望だった荒井由実にソングライティングの才能を見出して、そこからニューミュージックを象徴するシンガー・ソングライターに育て上げている。

 その後も細野晴臣との信頼関係から始めたYMOのプロジェクトを、アルファ・レコードとして全面的に支援し、A&Mというメジャーから世界でレコードが発売されるように尽力した。

 さらには1979年と80年の二度にわたって行われたワールド・ツアーでも、自社で巨額の費用を捻出することで、大きなリスクを負いながらも世界に送り出していった。そんなYMOのツアーをミュージシャンとして支えていたのが、キーボードの矢野顕子とギターの大村憲司である。

 村井は1970年から自分が育ててきた赤い鳥に、途中からドラムの村上ポンタとともに加入してきた大村について、世界に通用する音楽家だと見込んで、1978年にはロサンゼルスで『KENJI SHOCK』を制作している。

 そういう意味で村井は服部良一や中村八大の仕事を引き継いで、日本の音楽で世界を目指したプロデューサーでもあった。

[注]一連の発言は岡野弁が主宰していた週刊ミュージック・ラボの1974年7月1号から、3週連続で掲載された座談会「スーパー・ジェネレイションとは何だ?」からの引用である。出席者は村井のほかに雪村いづみと服部良一、司会と文責は岡野という面子だった。

 

※ 次回は7月16日更新予定! 第3章「中村八大に継承された希望」をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之