~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第3章 ①②】


第一部 第3章 中村八大に継承された希望
➀上京して日本コロムビアに入社
②嘆きと諦めをうたう日本のブルース 「別れのブルース」

③海のむこうにまで広まった服部メロディー
④ブギウギに反応して踊った細野晴臣
⑤横浜から登場した天才少女歌手 「セコハン娘」
⑥大陸生まれだったコスモポリタン

 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏。今回は、第3章「中村八大に継承された希望」から前編、①上京して日本コロムビアに入社、②嘆きと諦めをうたう日本のブルース、をお届けします。昭和初期から活躍した大作曲家・服部良一のブルース音楽への挑戦とのちにブルースの女王と称されることになる淡谷のり子の登場に触れることができます。

第一部 第3章
中村八大に継承された希望

 

上京して日本コロムビアに入社

 

 服部良一は1933年の夏まで大阪のタイヘイ・レコードで、作曲と編曲の仕事を続けていた。それは「実践活動を通した習作期間が必要だ」と思っていたからだった。

 その頃に東京からジャズ歌手のディック・ミネが、タンゴ・バンドの一員として来阪したことがある。まだマイクロホンが普及してなかったので、大きなメガホンを口に当てて、がなるように唄っていた時代のことだ。

 

 そのメンバーに、ディック・ミネ君がいて、ドラムをたたきながらメガホンで歌っていたが、その彼がぼくに言った。
「東京に出て来いよ。今はなんたって、ジャズの中心は東京へ移っちゃっていますョ。才能をのばすのなら、こんなところにいちゃいけねえ」
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 東京に出ていくことに反対する両親をなんとか説得した服部は、8月に上京してバンド仲間の家に住まわせてもらった。そして人形町の「ユニオン」という名が通ったダンスホールで、サックス奏者として活動し始めた。年齢は27歳になっていたが、焦りはまったくなかった。

 そこにニットーレコード(日東蓄音器株式会社)から作・編曲家として声がかかり、音楽監督という肩書でそれなりの地位と相応の権限が与えられた。

 

 音楽監督というのは、レコード会社のスタジオの元締めみたいなもので、どんな曲もその人が目を通して指揮し、レコードにまとめる、という重要な職務を持つ。したがって、待遇は良い。月給は二百円であった。大学出の初任給が八十円くらいの時の二百円である。これは音楽監督としての固定給で、収入はそれにとどまらない。印税制度はなかったが、編曲や作曲をする毎に五円、十円と別に出るのである。作曲、編曲の仕事は多かった。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 ディック・ミネがジャズの「ダイナ」を自ら翻訳し、日本語で歌って最初のヒットを放ったのは1934年の暮れから35年にかけてのことだ。その頃からニットーレコードでの仕事ぶりが認められた服部に、業界の盟主だと誰もが認める最大手の日本コロムビアから、移籍しないかという打診があったのは1935年の夏だった。

 外資系の日本コロムビアは社長や幹部が外国人だったが、服部が発表した「カスタネット・タンゴ」や「ジャズかっぽれ」を聴いて、エドワード文芸部長が才能に注目してくれたのだ。

 実はその1年前に日本コロムビアでは、大黒柱だった古賀政男が新興のレコード会社として発足したテイチクに、重役待遇の作曲家として引き抜かれるという事態が起こっていた。そのために手薄になった作曲家を強化する必要があり、斬新な試みに挑んでいた服部が選ばれたのである。

 金銭的な条件はニットーレコードの方がよかったらしいが、服部はすぐに日本コロムビアへの入社を決意した。なぜならばベテランから若手まで歌手の陣容が豊富だったし、エドワード文芸部長が自負するようにコロムビア・ジャズ・バンドはもとより、制作のスタッフが充実していたからだった。

 

 この一、二年間の間に本場のフィーリングを持つアメリカの二世、三世の歌手が相次いで来日、入社していた。
 川畑文子、リキー宮川、リキーの妹の宮川はるみ、タフト別府、ベティ稲田、森山久。
 それに純日本人だがジャズの心を持つ淡谷のり子、中野忠晴、コロムビア・リズム・ボーイズ。
 すでにぼくはダンスホールやステージなどの現場仕事では 前記の二世、三世の歌手やその楽団からジャズ編曲を頼まれていた。彼や彼女たちもぼくのコロムビア入社を歓迎してくれるだろう。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 そこでニットーとの契約が終了した1936年の2月から、正式に専属作曲家として所属することが決まった。そしてコロムビア・リズム・ボーイズのために「草津節」を題材にした「草津ジャズ」を提供し、土着の民謡とジャズを組み合わせで真価を発揮し始めるかに見えた。

 しかし、その年のうちにヒット曲が生まれて来なかったことから、肩身の狭い思いで年を越すことになった。レコード会社の作曲家はヒット曲を出さないと、次第にうつむき加減に歩くようになるといわれていた。服部はそのことを自覚していたので、自分らしい作品が何なのかを模索する日々が続いた。

 ちょうど同じ時期に民謡調の「船頭可愛いや」がヒットしていたのが、若くして日本コロムビアと契約しながらもヒットが出なくて苦しんでいた古関裕而である。作詞家の高橋鞠太郎が書いた歌詞に日本民謡の旋律を意識して作曲した古関の楽譜を見て、担当のディレクターは 「これは良い」と気に入ってくれたのだった。

 

「実は琵琶歌が得意で民謡にぴったりの新人がちょうど見つかったんだ。芸妓らしく音丸と名付けた。レコードは丸くて音が出るからね」
(古関裕而『鐘よ鳴り響け』集英社 2019)

 

 そのころは芸妓出身の歌手が花柳界からスカウトされて、藤本二三吉、赤坂小梅、市丸、豆千代、新橋喜代三、小唄勝太郎などが流行歌手として一世を風靡していた。音丸は芸妓出身ではなかったのだが、そうした流れに乗せて売ろうというのがレコード会社の考えだった。

 古関はクラシックの歌手に歌ってほしいと思っていたが、実際に音丸のレッスンをしてみて、自分の固定化されていた先入観を改めた。ピアノを弾きながら歌い方を教えると、音丸は歌詞に音の高低などを熱心に書き込んで自分のものにしていったのだ。

 7月新譜として発売された「船頭可愛いや」は、初めのうちは反響もそれほどではなかった。しかしその年の暮れから猛烈な勢いでレコードが売れ始めたのだ。きっかけは音丸がNHKのラジオに出たことであった。

 

 私は初めて自分で作曲した曲がどこへ行っても流れている喜びを知った。入社五年目にしての大ヒットであった。
(古関裕而『鐘よ鳴り響け』集英社 2019)

 

 なおテイチクに移籍した古賀政男はビクターとの3年契約が終了した藤山一郎を呼んで、コンビを復活させると、1936年から37年にかけて「東京ラプソディ」や「男の純情」、「青い背広で」などを次々にヒットさせた。

 また芸妓出身の美ち奴(みちやっこ)に提供した「あゝそれなのに」と「うちの女房にゃ髭がある」では、口語体の歌詞による庶民的でユーモアに満ちた楽曲で新境地を開いた。作詞した星野貞志とは詩人で同様の作詞家だったサトウハチローのペンネームであった。

 さらには兄と妹の愛をテーマにした日本的な抒情歌「人生の並木路」で、ジャズを唄っていたディック・ミネに、抒情的な代表曲を書いてテイチクでの全盛期を迎えている。

 

②嘆きと諦めをうたう日本のブルース
「別れのブルース」

 

 服部に待望のヒット曲が生まれたのは1937年に入ってからのことで、ダンス曲としてつくったジャズコーラスの「山寺の和尚さん」(作詞;久保田宵ニ 歌:中野忠晴、コロムビア・リズム・ボーイズ)が、お年寄りから子供にまで歌われるようになった。

 誰でも知っている民謡の“手まりうた”を思い切ってリズム本位に編曲したことで、モダンで軽妙なニュアンスが広い層にまで受け入れられたのだ。そうやって自分のサウンドを確立しようと試行錯誤をする中から浮かび上がってきたのが、日本ではあまり知られていなかったブルースである。

 入社から1年目に吹き込んだ「霧の十字路」(作詞;高橋鞠太郎)が、意識してブルースに挑んだ最初の楽曲になった。これをサンフランシスコ生まれの2世で、トランペット奏者だった森山久(森山良子の父)に歌わせたところ、コロムビアの若手社員の中で評判が良かった。

 「霧の十字路」は残念ながら一般の音楽ファンにまでは届かなかったが、作り手としての手ごたえは十分に感じられたという。そこで服部は良きパートナーとなる詩人の藤浦洸と二人で、ブルースについて語り合う機会を作った。そのときに「日本には日本のブルース、東洋的なブルースが大いにありうると思わないかい」と話したところ、藤浦からこんな鋭い反応が返ってきた。

 

「そうだよ、君、ブルースは魂のすすり泣きなんだ。黒人も白人も、アメリカ人も日本人も区別はないよ。むしろ悲しい歌が好きな日本人は、ブルース的なんじゃないかな。君はジャズの出身だし、ここでもう一歩つっこんだ日本人のブルースを完成したまえ」
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 それから数日後、服部はバーや私娼窟があった横浜の本牧に出かけた。明治から大正にかけて外国人の客を相手にする和風のバーができた本牧は、昭和になってからは異国情緒のある遊び場として、日本人も訪れるようになっていた。

 そうした場所でブルースの曲想を得ようと、ひとりで足を踏み入れてみたのである。

 

 ぼくは一軒のバーで洋酒を傾けていたが、ある衝撃を感じてグラスを宙に浮かせた。蓄音機からシャンソンの「暗い日曜日」が流れ出したのだ。淡谷のり子の声だ。パリの下町の女王・ダミアが、しわがれ声で切々と歌ったセレスの曲を、脇野元春の訳で淡谷のり子が吹き込んでいた。レコードは前年の秋に発売されており、ぼくの好きな曲だったが、今、 この本牧のチャブ屋で聴くと、一層の哀愁が強まり心がふるえるのを覚える。
(淡谷のり子だ。本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう。もっともっと低い、ダミアばりの声で……)
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 翌日に会社で藤浦をつかまえた服部は、本牧でブルースの曲想を得たという話をした。そのうえで、詩を書いてほしいと頼んだのだ。藤浦もすぐに本牧へ向かって、雰囲気をつかんで戻ってきた。

 こうして横浜の港を舞台にした「本牧ブルース」が出来上がり、淡谷のり子の歌唱で吹き込まれて1937年7月に発売されることになった。しかし営業サイドからは詞も曲も退廃的だという、ネガティブな意見が出て、本牧という地名も全国的ではないというクレームがついた。

 そのために「別れのブルース」とタイトルが変わり、何とか発売にこぎつけたところで中国国民党軍と日本軍が衝突する盧溝橋事件が勃発した。7月7日のことだった。そこから日本と中国は戦争に突入していったのである。

 当然ながら戦意高揚に役立つ勇ましい軍国歌謡が新聞社を巻き込む形で奨励された。そのために、「別れのブルース」は新聞やラジオなどに取り上げてもらえなかった。それでもエドワード文芸部長は発売に合わせてジャパン・タイムス紙に、「日本にも、ついにブルースの作曲家が現れた」と大きな扱いで記事を書いてくれた。

 だが期待したセールス面では思うような結果を出せずに終わった。

 ところがその後、晩秋を迎えたころになってから、中国各地に出征していた兵士たちの間で、淡谷のり子の哀愁に満ちた歌声が現地で評判になっているという話が伝わってきた。

 大連のダンスホールで仕事をしていたジャズ仲間で、トランペット奏者の南里文雄から受け取った手紙が最初の情報だった。同じ大阪出身の南里と服部はさまざまな場面で、仕事を共にしてきた親しい音楽仲間である。

 

 その夏も、彼の日本一のトランペットをフューチュアした『私のトランペット』(村雨まさを詞・淡谷のり子歌)をレコーディングしている。
 手紙には『私のトランペット』も受けているが、それより『別れのブルース』のリクエストが多い。それでバンドショーには必ず『別れのブルース』を組み入れている、と書いてある。
「不思議なこともあるもんだねえ」
と、藤浦洸と話をしていると彼のところにも、満州を旅行中の作家浜本浩から絵はがきが来た。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 そこには「別れのブルース」が、満州で大流行していると書いてあった。そこで売り上げを調べてみると、レコードがすでに10数万枚も売れていることがわかったのだ。

 そこから内地に逆輸入する形でヒットが飛び火して、外地と海でつながっている港町の長崎、神戸、大阪、横浜という順に東上して内地でも息の長いヒットになった。

 それに続いて淡谷のり子の「雨のブルース」(作詞:野川香文)が、1938年6月に発売されて、こちらも連続ヒットした。

 

 これはぼくの曲が先にできて。野川香文氏が後からたくみに歌詞をつけてくれた。
 野川氏は明治三十三年島根県生まれ、早大理工科在学当時から塩入亀輔氏の下で、大井蛇津郎(ジャズロー)のペンネームで、『音楽世界』の編集を手伝っていた。ジャズにくわしく著書も多く、日本のジャズ評論の草分けといえる人である。訳詞、作詞、編曲も行ない、作曲に詞を付けるのもじょうずで、曲のアクセントやムードをとらえることに鋭敏だった。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 こうしてアメリカから輸入された音楽としての “ブルーズ ”ではなく、嘆きと諦めを唄う日本人に向けた“ブルース”が服部の手で確立されていった。

 

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別れのブルース / 淡谷のり子(発売当時はSP盤。写真は1960年に復刻したアンコール盤)

 

※ 次回は7月23日更新予定! 第3章 ③海の向こうにまで広まった服部メロディー ④ブギウギに反応して踊った細野晴臣 をお届けします。お楽しみに!

 


 

Test:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

 

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