~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第3章 ③④】


第一部 第3章 中村八大に継承された希望
①上京して日本コロムビアに入社
②嘆きと諦めをうたう日本のブルース 「別れのブルース」
③海のむこうにまで広まった服部メロディー
④ブギウギに反応して踊った細野晴臣

⑤横浜から登場した天才少女歌手の美空ひばり 「セコハン娘」
⑥大陸生まれだったコスモポリタン

 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏。今回は、第3章「中村八大に継承された希望」から中編、③海のむこうにまで広まった服部メロディー、④ブギウギに反応して踊った細野晴臣、をお届けします戦前の名曲「蘇州夜曲」の誕生、戦時を乗り越えて現代に繋がる新境地に挑戦した服部良一の本質に触れることができます。

第一部 第3章
中村八大に継承された希望

 

③海の向こうにまで広まった服部メロディー
「蘇州夜曲」

 

 服部良一の作品はメロディーとサウンドの両方に、西洋クラシックの音楽性と理論に基づいたハーモニーがそなわっているのが特徴だった。だから都会的な香りが漂う「一杯のコーヒーから」といった都会的な佳作が生まれる一方で、「蘇州夜曲」や「チャイナ・タンゴ」といったエキゾチックな大陸歌謡もヒットした。

 なかでも美しいメロディー持つ「蘇州夜曲」は発表当時から人種や国境の壁を超えて、中国から東南アジアの各国にまで波及していった。1940年に作られた映画『支那の夜』の劇中歌として誕生した「蘇州夜曲」は、それより二年前の1938年にメロディーの一部が生まれたものだった。

 中国各地で戦っている日本軍の兵士たちを慰問するための芸術慰問団に参加していた服部は、唐代に活躍した詩聖・白楽天が愛した杭州の西湖に浮かべたボートの上で、サックスを即興で吹いたことがあった。

 その時のメロディーがもとになって生まれたのが、1940年に女優の山口淑子(中国名・李香蘭)が映画『支那の夜』の主題歌として唄った「蘇州夜曲」である。これは西條八十の甘美で哀切な歌詞が、服部の記憶の中に眠っていたメロディーを思い出させて、そこから全体の曲想を授けてくれたという。

  蘇州夜曲
  作詞:西條八十 作曲:服部良一

  君がみ胸に 抱かれて聞くは
  夢の船唄 鳥の唄
  水の蘇州の 花散る春を
  惜しむか柳が すすり泣く
(「蘇州夜曲」より、歌詞1番)

 この時代に中国人スターとして人気を博していた李香蘭と、日本を代表する二枚目スターの長谷川一夫が共演し、上海を舞台に繰り広げるラブ・ロマンスの『支那の夜』は日本だけでなく、中国、台湾、朝鮮、香港、ベトナム、タイ、フィリピン、ビルマ、インドネシアなどの国々でも公開されたことで人気を博した。

 服部が作った流麗な音楽が流れるメロドラマのなかで李香蘭が歌う「蘇州夜曲」は、アジアの国々にまで歌い継がれていった。そのメロディーとサウンドには中国の歴史や文化が反映されていただけでなく、ヨーロッパのクラシックとアメリカのジャズが絶妙にブレンドされて、新しい音楽になっていたのである。

 それが民族や国境の壁を超えて、甘くロマティックな調べとして、言葉の壁を超えて受け入れられたのであろう。

 しかし作曲家として先々に展望が見えていた服部に、なかなか終わりが見えない日中戦争の影が覆いかぶさってくる。女優の高峰三枝子に書き下ろした抒情的な「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助)がヒットしていた1940年に、思いがけない発売禁止の処分が当局より下されたのである。

 その理由はといえば、“いかにも脆弱(ひよわ)く、女々しく感じられ、唾棄すべき惰弱さであり、あまりに感傷的にすぎる”というものであった。その後も戦時体制が強化されるにつれて、戦争を批判しようとする一切の思想・言論・出版などが弾圧されていった。

 そして1941年12月8日に行われたハワイの真珠湾攻撃によって、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされると、アメリカが発生の地だったジャズは敵性音楽として、世の中から完全に追放される憂き目にあってしまう。さらにはダンスホールで演奏することも、個人でレコードを聴くことも禁じられたのだ。
 

 太平洋戦争と称された対米英戦争が始まってすぐの十二月三十日、当局は米英音楽の追放を発表した。敵国の作品は、どのような名曲であろうと一切、演奏しても聴いてもいけないという命令だ。特にジャズは、敵性音楽の最たるものとして、目のかたきにされた。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 軍歌をつくることに消極的だった服部はその頃から、急激にレコードの仕事が減ってしまった。翌年になると「文化浄化」の名で取り締まりが強化され、横文字の使用が一切禁止になった。

 レコード会社も社名の変更を強制されて、日本コロムビアは『日蓄』、ビクターは『日本音響』、キングは『富士音盤』、ポリドールは『大東亜』に改称した。レコード自体も呼び名を音盤に変えられて、音階は「ドレミファソラシド」が「はにほへといろは」になった。ピアノは洋琴、バイオリンは堤琴、サキソフォーンは金属製品曲がり尺八、トロンボーンは抜き差し曲がり金長喇叭、コントラバスは妖怪的三弦と呼ばれた。

 音楽の仕事に従事していた歌手、作曲家、演奏家も演奏家協会という団体に統制されることになった。そして隊長・山田耕筰のもとに音楽挺身隊ができたことで、都内では十数区に分けて班が編成された。

 そこから芸能慰問団に組みこまれて本各地の軍需工場をまわった服部は、1944年から陸軍報道班員として中国にわたって、左官待遇で1年余りの期間を上海で過ごしている。そうした状況の中で中国の「夜来香」をシンフォニックジャズに編曲し、中国の音楽人たちと協力してコンサートを開くなど、敵と味方の関係にありながらも親交を結んでいった。

 1945年8月15日に敗戦を迎えることになったときは、赴任していた上海の陸軍報道部の文化工作班にいた。日本の敗戦が決まったことによって上海の日本租界に集められた日本人は、しばらく収容所に隔離されることになった。そこから戦犯容疑で連行された軍人や軍属もいたが、中国人に危害を加えていなかった文化人は、3ヶ月ほどの抑留生活を経て日本へ送り帰されることになった。

 服部が乗船した引き揚げ船「明優丸」は12月4日に上海を出港し、鹿児島県の加治木港に到着したのは8日だった。そこから屋根のない貨物列車に乗って、東京の品川駅に着いたのは翌日の夕方である。

 市電に乗って銀座の尾張町まで出た服部は、空襲の被害を免れた日劇の前を通って有楽町駅へ向かった。日劇では戦後初めての公演と銘打って、『ハイライト・ショー』が上演されていた。大看板には灰田勝彦、轟夕起子、笠置シヅ子、岸井明といった顔ぶれが並んでいた。

 

 うれしかった。すぐにでも楽屋を訪ねて、懐かしいかつての仲間たちと再会したかったが、家族の安否が何よりも気遣われて、そのまま吉祥寺直行することにした。それでも、敗戦の東京に、早くも大衆娯楽の復活の兆しを目にすることができて、ぼくは心を励まされる思いであった。 
 吉祥寺向かう省線電車の中で、隣のおばあさんが、
「あんた、どこから復員したの」と声をかけ、握り飯を一個くれた。
(ああ、日本人の人情もまだすたれてないぞ)
と、思わずうれし涙で押しいただいた。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 自宅は幸運にも無事で、明かりがポツリと灯っていた。玄関に立つと中から話し声が聞こえてきた。ドアを開けて「坊や、坊や」と呼んだら話し声がやんで、長男の克久が飛び出してきた。

 

「あ、パパだ、パパが帰ってきたよ」と叫んだ。
その声がスーッと遠のく感じで、気を失うようにへたへたと玄関先に座り込んでしまった。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 服部は自分が音楽でなすべき仕事は何なのかということを、もう一度あらためて考え直しながらも、翌年1月から仕事に復帰した。
 名作オペラの『カルメン』をジャズ・ミュージカルにするという、日本で初めての試みを企画したのは、それから1年後のことだった。そこで戦前から松竹歌劇団のプリマドンナとして活躍し、良きコンビだった笠置シヅ子を主演にしたのは、彼女の引退が決まっていたからだという。

 

 そのころ、笠置君は、吉本興業の社長の子息で早稲田の学生だった吉本頴右(えいすけ)君と相思相愛の仲になっていた。先方の親の反対で正式結婚は難航していたが、状況は好転していた。
 結婚を前にして最後の舞台でははなばなしくカルメンを演じたいという彼女の懇望に、ついにハラボテ・カルメンとなって日劇に現れたわけである。
 無事、千秋楽を終えた時はスタッフ出演者一同ホッとしたが、それから間もなく不幸が彼女を襲った。若き夫、頴右くんがエイ子ちゃんの誕生をみずに病気で急死してしまったのである。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 幸福から一転して不幸のどん底に落とされた笠置シヅ子だったが、しかしいつまでも泣いてばかりはいられない。生まれたばかりの愛児と自分のために、もういちど芸能界にカムバックしなければならなくなったのだ。
 服部は「センセ、たのんまっせ」と言われて、彼女のために苦境を吹きとばす再起の場をつくろうと決意した。そしてアメリカ南部の黒人たちが持つビートから派生したブギウギのリズムを活かして、新時代の日本にふさわしい活力のある歌と音楽に取り組んだ。

 

「それは、敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力につながるかもしれない。何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌……」
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 戦後の虚脱感と解放感から生まれてきた「東京ブギウギ」は、生命力にあふれたリズムと、笠置シヅ子のダイナミックな踊りとのマッチングがよかった。

 1948年1月に日本コロムビアから発売されたレコードには、それまでの流行歌にはおさまらない破天荒なエネルギーがあった。

 そのことについて服部は自伝のなかで、このような見解を明記していた。

 

 笠置シヅ子は、復興を急ぐ敗戦国日本の、嬉しさから立ち上がろうとする活力の象徴のように大衆に感じられたのではあるまいか。そして、底抜けに明るい『東京ブギウギ』は長かった戦争時代を吹っ切らせ、やっと平和を自分のものにしたという実感を味あわせてくれる……と、多くの人がこもごもに語った。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 リアルタイムでヒットしてからも「東京ブギウギ」は様々なヴァージョンで、たくさんの歌手に唄い継がれることで、昭和を代表するスタンダード曲になっていった。

 

日本の音楽文化史(1)

蘇州夜曲 / 山口淑子(李香蘭) 収録作品(発売当初はSP盤のため、1964年に復刻したアンコール盤『中国名曲集』)

 

④ブギウギに反応して踊った細野晴臣

 

 長い年月をかけて日本の風土に定着したブギウギについては、細野晴臣が 2019年のインタビューのなかで、 “とても肉体的な感覚の音楽だった” と述べている。

 

「ぼくはわりと衝動的なところが強いですからね。音楽を聴いて“これ良いな”って思う瞬間があるんですけど、それは分析じゃないんですよ。感覚なんです。匂いとか触覚とかと同じで、心が躍るとか、感情が揺さぶられるとか。非常にフィジカル(肉体的)な感覚。子供の頃はブギウギを聴いて、反射的に踊り出しちゃうってことがあったので。
 ロカビリーもロックンロールもそうでした。面白いポップ・ミュージックってみんなそうだったんで。理屈の前に気持ちやカラダが動くというか。それが当時の“新しさ”だったんですね」
(インタビュー「細野晴臣 いまの音楽には何かが足りない感じがする」朝日新聞デジタル 2019)

 

 子どもの頃に細野が聴いていたブギウギのレコードは、アメリカ南部に伝わるブルースがルーツにあり、ニューオーリンズを発祥の地とするジャズの活力が脈打っていた。しかも躍動感に満ちたリズムのなかには、ロックンロールの基礎となる8ビートが響いていた。

 そのために日本ではブギウギが持っていたリズムが定着し、ロカビリーとロックンロールを経由して、歌謡曲にまで流れ込んでいった。そんなブギウギに潜んでいる音楽の魔力について、細野はピーター・バラカンの質問に応えて、幼い子どものころの体験をこのように語っている。

 

バラカン:こういう音楽が好きになったのは、昔から?それとも、最近?
細  野:4歳から。
バラカン:4歳!? ルーツがブギーってこと?
細  野:そう。生まれた家が、大家族が一緒に暮らすような家でした。両親、祖父母におじさんとか。終戦のすぐ後ですよ。家にはいろんなレコードがあった。SP盤の軍歌もあったし、童謡、落語、浪花節、そういったレコードが並んでいるところに、ディズニーの音楽もあった。それから、スイング。そこに、1枚、ブギーが入っていた。
バラカン:1枚だけ。それは、何のレコードだったか、覚えていますか?
細  野:はっきりは覚えていないけれど、たぶん、ベニー・グッドマンとか、そういう有名なものだったと思います。小さいぼくはそれを聴くのが大好きで、「(それを)かけてくれ、かけてくれ」って親に頼んでいたらしいのね。で、それを聴くと、4歳だったぼくは飛び跳ねていた。
(『LET'S TALK ABOUT MUSIC & VOLVO SPECIAL TALK ピーター・バラカン×細野晴臣』June 14, 2018)

https://v-for-life.jp/premiumnight/02/premium_2.html

 

 ぼくはこの対談を読んでいて、スウィング・ジャズのベニー・グッドマンのアルバムで、細野晴臣がブギウギに出会っていたという話に“目からうろこ”の思いがした。そして戦後に大流行したブギウギが日本人にとって、いかに大きな音楽的な影響を与えたのかについて、あらためて考えさせられることになった。

 戦前に日本に入ってきたジャズがたちまち大衆化していったのは、最初がダンスミュージックとして輸入されたからであった。アメリカに奴隷として連れてこられたアフリカの人たちのワーク・ソングからジャズの歴史は始まっている。著述家の高平哲郎はジャズについて語った糸井重里との対話の中で、このように歴史をまとめていた。

 

 日本との関係でいうと、大正時代のサンフランシスコより神戸への船にはだいたいフルバンドが入っててさ。ようするに、ダンス音楽をやってたんだ。
 当時、作曲家の服部良一さんとかが、神戸に行っては、バンドの人たちから曲の譜面をもらうわけ。……ヒット曲って譜面だったんだよ。つまり「レコード」じゃない。
(『ほぼ日刊イトイ新聞』「初めてのJAZZ2 プロローグ」)

https://www.1101.com/jazz2/takahira/2007-11-12.html

 

 アメリカでは譜面が売れることで、ヒット曲が誕生するようになった。 そういう人気がある譜面を一手に扱っていたのが、ニューヨークの街中にあってミュージカルの劇場などと近接していた、ティンパンアレー(Tin Pan Alley)地区の音楽出版社だった。

 

 発祥の地とされているニューオーリンズのジャズがだんだん洗練されてきて、フルオーケストラで、踊れるダンスが出てくる。それがグレン・ミラーとかペニー・グッドマン。日本でも、ものすごいヒットしたんだよね。
(前出『ほぼ日刊イトイ新聞』)

 

 こうしてバンドマンだった時代の服部が日本でスウィング・ジャズの継承者となり、自分が作ったオリジナルの歌でも、そうしたアレンジのサウンドを使うようになった。

 

日本の音楽文化史(2)

東京ブギウギ / 笠置シヅ子(発売当初はSP盤のため、EP時代に復刻したアンコール盤)

 

※ 次回は7月30日更新予定! 第3章 ⑤横浜から登場した天才少女歌手の美空ひばり 「セコハン娘」 ⑥大陸生まれだったコスモポリタン をお届けします。お楽しみに!

 

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Test:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之