~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第4章 ③④】


第一部 第4章 新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年~1958年)
➀なんでもジャズに編曲したピアニスト 「セプテンバー・イン・ザ・レイン」
②幼い子どもにまで唄われた歌舞伎の演目 「お富さん」
③渡久地政信のタンゴとブギとブルース 「上海帰りのリル」
④沖縄音楽に驚いた日本での反応 「ハイサイおじさん」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。
 今回は、第4章「新しい歌と音楽が誕生する前夜」の後編、③渡久地政信のタンゴとブギとブルース、④沖縄音楽に驚いた音楽ファンの反応、をお届けします。ブギウギを取り入れた「お富さん」、タンゴのリズムの「上海帰りのリル」、沖縄民謡とブルースの融合は、さらに新しい音楽への挑戦へと続いていきます。
 1959年に中村八大が作曲してプロデュースした「黒い花びら」(作詞:永六輔 歌:水原弘)は、ロッカバラードを取り入れたまさに“新しい音楽”でした。そして古賀政男と服部良一が中心となって設立された日本作曲家協会が制定した、第1回日本レコード大賞でグランプリを受賞したのです。

第一部 第4章 新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年~1958年)

 

③渡久地政信のタンゴとブギとブルース
「上海帰りのリル」

 

 「お富さん」を作曲した渡久地政信は沖縄本島の出身で、少年時代には奄美大島で暮らしていた。日本大学に入学して上京した後に日本ビクター(以下、ビクター)から歌手としてデビューしたのは、戦争も末期を迎えつつあった1943年のことである。

 そのためにほとんど音楽活動ができなかったばかりか、アメリカ軍の空爆で京浜工業地帯にあったビクターのスタジオと工場が焼きつくされたので、戦後になっても苦労が続いたという。それで現役の歌手をあきらめてキングレコード(以下、キング)で、1951年から作曲家の道を目指した。

 それからまもなく、タンゴを取り入れた「上海帰りのリル」(作詞:東條寿三郎 歌:津村謙)をヒットさせて専属作家になった。当時としてはリズムを強調した楽曲で、どこかエキゾチックな雰囲気に渡久地らしいミクスチャーのセンスが出ていた。

 1954年に春日八郎の「お富さん」が爆発的なヒットになってキングで実績を上げた渡久地は、古巣だったビクターへ移籍してフランク永井の「夜霧に消えたチャコ」では、第1回日本レコード大賞を「黒い花びら」と争ったが、わずか1票差でグランプリを逃した。

 その後もビクターを支える作曲家だった吉田正の良きライバルとして、次第に存在感を高めていった。1960年代になってからも三沢あけみと和田弘とマヒナスターズの「島のブルース」(作詞:吉川静夫)、青江三奈の「長崎ブルース」や「池袋の夜」などの”ご当地ソング"をヒットさせている。

 ベテランになってからもビクターの専属作曲家として一線で活躍できたのは、生まれ育った沖縄の民謡を土台にした作風によるものであった。渡久地にすればごく自然な発想だったのかもしれないが、沖縄伝来のカチャーシーをアメリカから輸入されたブギウギとかけあわせて、そこに江戸時代の歌舞伎から浮かんだ物語を乗せた「お富さん」は、ソングライターとしての発想が特に際立っていた。

 高校生の阿久悠は生まれ育った淡路島に住んでいたが、結核の後遺症で体調がすぐれず、孤独のなかにこもっている時期にあった。そこに突然のごとく流行った「お富さん」について、こんな文章を書き残している。

 

 この歌が突然、堂々の行進のように暗い時代の中に流れたのは、昭和二十九年の夏である。ぼくは高校3年生になっていて、大学受験を控えているにもかかわらず、暗闇依存症のように映画館の中にいたが、ある時から、休息時間になる度に、この「お富さん」が流されるようになった。なぜだかわからない。何日間かはこればっかり聴かされた。
 そして、妙な衝撃を感じたのである。このくらい世の中が暗いと、このくらい明るいものでないと闊歩できないだろう、という思いである。アナーキーである。どこか自棄的にも思える。しかし、春日八郎は、これ以上はない生真面目な歌唱法で歌っている。手拍子が似合わない、律儀な歌い方なのである。それがよかった。
(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書 1999)

 

 思春期を閉塞感のなかで過ごしていた高校生の心に届いたのは、妙に明るく歯切れのいいリズムだった。どこかにアナーキーな気配を漂わせていた「お富さん」を、阿久悠は暗い時代の「いいじゃないか」だと受けとめた。

 

「お富さん」にはリズムがあった。後に流行ったドドンパを思わせる。
 〽過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡…
それは暗い時代の、いいじゃないか、であったと思う。
(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書 1999)

 

 しかしこの時期に「お富さん」から強い影響を受けたのは、戦中に生まれた阿久悠よりもひとまわり下の世代だった。1945年に生まれたタモリは小学校の低学年で、地元の福岡で「お富さん」のブームに遭遇した。それから四半世紀後、彼は1981年に制作した3枚目のアルバム『タモリ3』のなかで、これを替え歌にして取り上げている。

タイトルは「お富さん」をもじって「おカミさん」、それにこんな<口上>をつけて唄ったのである。

 

<口上>
昭和29年は例の「おカミさん」の大流行の年です。この「おカミさん」ブームは、ブギウギの、あの狂乱状態に似て、沖縄民謡のリズムに乗せられて、日本の全民衆を踊らせたのでした。
(アルバム『タモリ3』より 1981)

 

 

 ところが “戦後日本歌謡史”というテーマでつくられたこの『タモリ3』というアルバムは、全曲が有名な楽曲のパロディーで構成されていて、改作や改変が多かったことから、レコード会社が権利を有する専属楽曲の使用をめぐって、なかなか許諾がおりなかった。

そしてアルバムが完成したものの、紆余曲折の末に発売できずにお蔵入りしてしまう。

 幻となったそのアルバムを面白いと判断して制作にゴーサインを出したのは、ちょうどその時期にアルファ・レコードからYMOを世界のマーケットに進出させた村井邦彦だった。彼もまたタモリと同世代で、終戦を迎える直前の1945年の3月に東京で生まれている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

上海帰りのリル / 津村 謙(SP盤 1951)

 

④沖縄音楽に驚いた細野晴臣の反応
「ハイサイおじさん」

 

 1948年生まれの大瀧詠一は子どもの頃に岩手県の釜石市周辺に住んでいたが、いつも山々の景色を眺めながら「お富さん」を唄っていたと語っていた。しかし10歳で洋楽に出会ってアメリカのロックンロールやオールディーズにめざめたことで、時間をかけて独特の“ナイアガラ・サウンド”を究めていくことになる。

 そこでは洋楽からの影響だけでなく日本のリズムとジャズにこだわってきたクレイジーキャッツの「~音頭」や「~節」といった、斬新なジャズ・サウンドとユーモアがしっかりと受け継がれていった。大瀧詠一は「歌はサウンドで聴くもの」だとの持論を展開し、流行歌の時代には歌手の持ち唄だとされていた楽曲についても、世間の評価に異議を唱えて作曲と編曲の重要性を主張していく。

 たしかに「お富さん」から沖縄のカチャーシーの要素を取り除いたら、面白みは大きく削がれてしまっただろう。その意味では言葉を使いこなせなかった幼い子どもたち、すなわち団塊の世代のしっぽに当たる世代が、とにかく体を動かしたくなる音楽として「お富さん」を身体ごと受け入れたことがわかってくる。

 1951年生まれの忌野清志郎も幼いころから「お富さん」を唄っていたという。そのことが著書の中では、こんなふうに述べられていた。

 

 音楽? ぜんぜんダメ。嫌いだったよ。歌うことなんて大嫌いだった。たぶん、今思えばオレってさぁ、ボーイ・ソプラノだったんじゃないかな。ほかのみんなより声が高かった気がする。なに歌わされても低かったよ。キーが合ってなかったんじゃない。それで嫌いになってさ。うまく歌えないから。ただ親父に言わせると、オレは歌うまかったらしいよ。よく「お富さん」とか口ずさんでたらしいから、そのことを親父が言ってるんだと思うけど。
(連野城太郎『GOTTA(ガッタ)! 忌野清志郎』角川文庫 1989)

 

 ぼくは大瀧詠一と同じ岩手県で生まれ育ったが年齢が三つ下だったので、学年では忌野清志郎と一緒だった。そして彼と同じように父親から聞かされたのが、ラジオから「お富さん」が流れてくると喜色満面となって、曲に合わせて手をたたいて唄っていたという話だった。

 自分ではなにひとつ覚えていないのだが、最初に好きになった歌はおそらく「お富さん」だったのだろう。そのことが自覚されたのは音楽業界で働くようになってまもなく、「ハイサイおじさん」という沖縄産の歌を知ってからになる。

 すでに1970年代から口コミを通じて、知る人ぞ知る楽曲になりつつあった喜納昌吉の「ハイサイおじさん」は、1969年に沖縄民謡集のレコードの一曲として日の目を見た楽曲だった。

 これはアメリカのロックと沖縄民謡が、エレキギターという楽器で結びついたところが画期的だった。やがて地元で評判になり、1972年にシングル盤が発売されると、ローカルヒットに結びついた。そして沖縄を旅行中だった久保田麻琴が、観光用のバスの中でそれを耳にして友人の細野晴臣に絵葉書で、「興奮を抑えきれない音楽と出会った」と書いて送ったのである。

 沖縄みやげに「ハイサイおじさん」のレコードを持って訪ねてきた久保田にレコードを聴かされて、細野はなにかゾクゾクしてくるものを感じたという。そしてこんな音楽が日本にもあるということ知って、最高に楽しい気分になったとも述べていた。

 

当時の日本では録れない、ジャマイカのレコーディングのような音でした。
スカの古いレコードみたいな音がしてたんです。
音もそれに匹敵するインパクトがあったんで、びっくりした。
chronology 1975 http://www7.plala.or.jp/keeplistening/1975.html

 

 当時からよく聴いていたというニューオーリンズの音楽、たとえばドクター・ジョンの「ガンボ(Gumbo)」と「ハイサイおじさん」が、細野晴臣の中ではなんの違和感もなく繋がったのだ。そこからニューオーリンズにとってのジャマイカ音楽のように、日本における沖縄音楽という構図が細野には見えてきたらしい。

 久保田と二人で「次はチャンプルーだ!」と盛り上がって、まだ沖縄料理を一口も食べたことがないまま、面白い音楽は異文化の混合であり、料理にたとえるならば“ごった煮”、沖縄語の“チャンプルー”だということに気づいた。

 「ハイサイおじさん」はその後、久保田麻琴と夕焼け楽団によって『ハワイ・チャンプルー』(1975)というアルバムのなかでカヴァーされて本土に紹介された。プロデューサーは細野だった。

 そこから最初はマニアックな音楽ファンに知られるようになり、1976年に細野がアルバム『泰安洋行』のなかで発表した「ルーチュー・ガンボ」のエンディングに引用して唄ったこともあり、口コミで自然に広まっていった。

 そしてレコード関係者にも注目された喜納昌吉は、1977年にデビュー・アルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』が発売されることになった。歌詞の語呂が良くて覚えやすかったのは、春日八郎の「お富さん」にも通じるエピソードである。

 その点についてジャーナリストの北中正和のインタビューのなかで、渡久地政信がハワイアンと沖縄民謡をかけ合わせた「島のブルース」が好きだったと細野が語っていた。

 

――細野さんは子供の頃に歌謡曲の「お富さん」とか、「島のブルース」だったっけ……。
細野 三沢あけみの「島のブルース」、その曲はほんとに好きだったんです。
――割とシンプルなフレーズを繰り返すところでは あの曲は細野さんの音楽と共通しますよね。
細野 そうですね。この曲は今でもいい曲だと思いますね。
(北中正和編著『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』筑摩書房 1992)

 

 ところで「ハイサイおじさん」の歌詞には喜納昌吉自身が子供のころに体験した、実在する知人の家族に起こった事件が唄われていた。精神を病んでいた妻が幼いわが娘の首を切断するという、信じがたい出来事には沖縄戦の悲劇につながる複雑な背景があったようだ。

 その後になって残された夫が酒におぼれる日々に陥って、旧知だった喜納家にいつも酒をせびりに来ていた。だから歌詞はしょうもない酔っぱらいのおじさんと、彼をからかう子供時代の童(ワラバ)こと、喜納昌吉の軽口によるコミカルな言葉の応酬に終始している。

 なおこのうたを作った時の喜納昌吉は13歳、沖縄民謡の第一人者だった喜納昌栄の長男だったので、日常生活の中に民謡が息づいている環境に生まれ育っていた。

 ぼくが喜納昌吉&チャンプルーズと一緒に沖縄で何度かレコーディングを行うようになったのは、本土のバンドだったザ・ブームが1992年に日本語のオリジナル曲として「島唄」をヒットさせたことがきっかけだった。それからは彼らの活動を手伝うようになって、アメリカ公演にまで同行し、ニューヨークのセントラルパークでのコンサート(1994)に立ち会ったこともある。

 そうした個人史の出発点に春日八郎が唄った「お富さん」があったことに気づいたのは、沖縄に行ってレコーディングしていた時のことだった。日常生活の中で息づいている伝統的なカチャーシーの「唐船ドーイ」をチャンプルーズのライブで聴いた瞬間、土着性のなかに宿っている沖縄音楽の生命力を突き付けられたように感じたのだ。

 「ハイサイおじさん」は民謡と舞踊、つまりはフォークソングとダンスミュージックが合体し、アメリカ軍が統治する沖縄でロックバンドによって表現されたという意味において、日本に復帰する直前の沖縄からしか生まれ得ない“新しい音楽”であったのだと思う。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

ハイサイおじさん /『喜納昌吉&チャンプルーズ』(LP盤A-1収録 1977)

 

※ 次回の更新は8月27日の予定! 第5章「異なる文化の合体から生まれるヒット曲」をお送りします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之