~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第5章 ①②】


第一部 第5章 異なる文化の融合から生まれるヒット曲
①シベリア抑留で生まれた望郷の歌 「異国の丘」
②淡路島から東京へ出てきた阿久悠 『暴力教室』(アメリカ映画)

③テレビの時代が始まった1959年『光子の窓』(日本テレビ)
④素人を司会に抜擢した永六輔 『夢であいましょう』(NHK)


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は、第5章「異なる文化の融合から生まれるヒット曲」から前編、①シベリア抑留によって作られた望郷の歌「異国の丘」、②淡路島から東京へ出てきた阿久悠『暴力教室』(アメリカ映画)をお届けします。

 終戦(1945年)の混乱の一方で、それまで規制されていた“音楽表現の自由”を取り戻すことに。国内に加えて欧米の音楽や文化にも、自由に触れ、表現することができるようになったのです。作詞作曲家たちは国内外の文化が交差するなかで、どのように新しい音楽に挑戦して行ったのでしょう。

第一部 第5章 異なる文化の融合から生まれるヒット曲

 

➀シベリア抑留で生まれた望郷の歌

 

 「異国の丘」

 敗戦から5年目を迎える頃から、人々の生活はいくらか落ち着きを取り戻してきた。そうなると貧しくて辛かった昨日までのことよりも、先々に豊かになる可能性がある明日へと、気持ちが前に向いていく。

 そうした状況の中でラジオから流れてヒットしたのが1948年の「東京ブギウギ」(歌:笠置シヅ子)や「東京の屋根の下」(歌:灰田勝彦)、1949年の「銀座カンカン娘」(歌:高峰秀子)、1950年の「買物ブギ」(歌:笠置シヅ子)などは、いずれも復興する東亰や大阪をテーマにした都会の歌である。

 それらのすべてを作曲していたのが服部良一だったことからすると、焼け跡になった日本がもういちど立ち上がろうとする活力を、人々がそれらの明るい歌に託していたようにも思える。多くの人に希望を感じさせる歌が流行したのは、モダンな和製ポップスに日本的な湿り気がなかったからだということにも納得がいく。

 しかし一方では不幸な境遇に置かれて明るい気持ちになれない人たちが、古賀政男の 「悲しき竹笛」(歌:奈良光枝)や「湯の町エレジー」(歌:近江敏郎)に涙を流していた。また東辰三が作詞作曲した平野愛子の「港が見える丘」と「君待てども」には、大切な人を失くした孤独と愁いが歌われて、静かに支持を集めたのである。

  君待てども
  作詞・作曲:東 辰三 唄:平野愛子

1 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 わびしき宵
  窓辺の花 ひとつの花
  蒼白きバラ
  いとしその面影 香り今は失(う)せぬ
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり

2 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 朧(おぼろ)の宵
  そよふく風 冷たき風
  そぞろ身に沁む
  待つ人の影なく 花片(はなびら)は舞い来る
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり

3 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 嘆きの宵
  そぼ降る雨 つれなき雨
  涙にうるむ
  待つ人の音なく 刻む雨の雫
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり

 戦前に活躍したコロムビア・ナカノ・ボーイズのメンバーだった東辰三は、服部良一の「山寺の和尚さん」(1937年)で知られていた。だがアメリカとの太平洋戦争でジャズが禁止されて、活動が出来なくなって作詞作曲に転じた。名曲といわれた「荒鷲の歌」は軍歌といえどもリズミカルだったので、子どもにまで広く唄われた。

 そして戦後は抒情的でメロディアスな佳曲をヒットさせたが、1950年に脳溢血で他界している。享年50。その遺児が作詞家として活躍する山上路夫である。

 たまたま聴こえてきた音楽にどう反応するのか、歌が伝えてくる情緒にそのまま心を重ねるのか、あるいは余裕がなくてうまく反応できないこともふくめて、歌を受けとめるセンスには個人差に加えて、「世代差」というものがついてまわる。

 そんな中で作者不詳だった「異国の丘」がヒットしたのは、シベリアに抑留されていた兵士たちの間で自然に広まったからだった。
 1948年8月、NHKの人気番組『のど自慢素人演芸会』で、中村耕造という人物が歌って注目されたのは、作詞・作曲者が不明の「昨日も今日も」という歌である。望郷の思いを秘めて歌い上げたその歌は、シベリアの収容所で覚えたものだということだった。

 その話題に反応したビクターが佐伯孝夫の補作詞で改題し、中村さん本人と歌手・竹山逸郎は唄う「異国の丘」としてレコード発売された。すると全国各地で開かれていたのど自慢大会で、これを歌う人が続出してヒットしていったのである。そこにシベリアから帰国した吉田正が作者であると名乗り出て、作詞が増田幸治だということも判明した。

  異国の丘
  作詞:増田幸治 補作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田 正

  今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よつらかろ 切なかろ
  がまんだ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日もくる 春がくる

  今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 唄って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

  今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 陽がうすい
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで

 吉田はこの一曲がヒットしたことで、1年後にビクターの専属作家に迎えられた。それからは佐伯孝夫とのコンビで、東京をテーマにした「東京午前3時」「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」「東京ナイトクラブ」といった都会調の流行歌をヒットさせていく。

 それらを唄ったフランク永井はビッグバンドの歌手として、米軍キャンプでジャズやスタンダード曲をレパートリーにしていたが、ソフトな低音で流行歌のスターになった。その後に始まるムード歌謡という、新たな路線の源流にもなっている。

 作詞家の阿久悠は関西から東京に進出した「そごうデパート」の宣伝に使われた「有楽町で逢いましょう」を例にとって、都会調の流行歌についてこんな考察を述べていた。

 

 ぼくがこの歌を愛するのは、都会を感じたからである。最初はその心地よさの理由がわからなかったが、やがて、日本の歌にこびりついていた土の匂い、故郷の匂い、母の匂いがないからだと気づく。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 そうした都会化への流れの揺り戻しとして、地方からの巻き返しとなる民謡出身の三橋美智也が、のびやかで美しい高音で人気を集めた。故郷への思いを込めた「リンゴ村から」や「哀愁列車」、「達者でな」が連続ヒットし、地方の匂いを感じさせるスター歌手になった。

 「お富さん」でスター歌手の仲間入りをした春日八郎も、望郷をテーマにした「別れの一本杉」をヒットさせて、正攻法の流行歌をものにしている。そのように多様化してきた芸能界に一石を投じたのが、16歳で浪曲師になった後に陸軍に徴兵された南条文若である。

 戦時中に満州に送られた南条は侵攻してきたソ連軍の捕虜となって、ハバロフスクの収容所に送られて、朝から夕方までの労働に従事していたが、就寝までの時間には浪曲を唸って仲間たちを慰めていた。

 そしてハバロフスク市立音楽堂の補修工事の時に いつものように休憩なのでひと節語っていると それを聞きつけた音楽堂の支配人が「あなたはどういう種類のアルチーストなのと?」かと 声をかけてきた。そして音楽堂のスタッフやダンサーの前で、日本の歌を所望したのである。

 しかし浪曲を語ったところで、ロシア人たちはキョトンとしているばかりだった。

 

 ならばと、日本の歌謡曲を歌ってみました。「青い背広」です。すると、「それは日本人の作曲ではないだろう。アメリカ人のものか」というので、「古賀政男という日本の作曲家だ」と胸をはって答えました。
 このとき、つくづくと悟りました。自分のような素人が歌っても歌謡曲は他国の人に喜ばれる。ところが浪曲のほうは、プロの自分が語っても理解されない。この事実を考え直さねば……。
(三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫−戦争・抑留・貧困・五輪・万博』さくら舎 2016)

 

 こうして日本に帰ってから流行歌の世界に身を投じた南条は芸名を三波春夫と改めて、デビュ−曲「チャンチキおけさ」で一躍スターの座を射止めたのである。1957年に発売されたレコードには、“♫ 小皿たたいてチャンチキおけさ”という歌詞の通り、日本に伝わってきた素朴な民謡と踊りのリズムが脈打っていた。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

異国の丘 / 竹山逸郎(復刻CD『ゴールデン☆ベスト』に収録 2011)

 

②ロック元年に淡路島から東京へ出てきた阿久悠
 『暴力教室』(アメリカ映画)

 

 望郷歌や民謡調のヒットが続出していた時期にあっても、東京をテーマにしたモダンな流行歌は、「東京アンナ」や「銀座の雀」などが根強い人気を集めていた。そこに加わった吉田正の都会派の楽曲は、フランク永井や松尾和子、和田弘とマヒナスターズなどによる安定路線となって、大人たちから支持を集めている。

 また海外からの影響でハワイアンやシャンソンのブームが起こって、世界の音楽が身近になってきた。そこにキューバのルンバやその発展形ともいえるマンボに火が付いて、さらにカントリー&ウェスタン、ロックンロールといったアメリカからの輸入音楽が、次々と奔流のように押し寄せてきたのである。

 それが都会の風俗やダンスの流行ともつながって、それまでにない若者文化がファッションをともなう流行として広まった。そうした影響は1955年前後から始まって、1960年代を迎えることになる。若者の関心が新しいポップ・カルチャーに向かい始めたタイミングを見計らったかのように、瀬戸内海の淡路島から上京してきたのが深田公之、後に作詞家および小説家として名を成す阿久悠である。

 明治大学に入学してしばらくの期間、阿久悠は映画のなかでしか体験できなかった東京を自分の目で確かめるために、江戸の気分が残っている地域を中心に歩きまわっていたという。それが阿久悠という作詞家になるための生きた勉強になっていくのだが、そんな時期に映画を通じて出会ったのがロックンロールという異文化だった。

 1955年にアメリカで公開された映画の『暴力教室』は、ニューヨークの高校に赴任した男性教師のリチャードが、不良少年が集まったクラスの担任となり、暴力が蔓延するなかで家族まで生徒たちの標的となったことから、暴力には暴力で対抗せざるを得なくなっていくジレンマが描かれている。

 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は前年にレコードが出たもののヒットしなかったが、映画に使われたことで全米チャート8週連続1位の大ヒットになって、ロックンロールの時代の幕を開けと語り継がれている。阿久悠はこんな感想を残している。

 

 昭和三十年には、ロックンロール第一号が世に出る。異説もあるだろうが映画「暴力教室」のテーマに使われた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がそうだとする説が強い。平行して、マンボが上陸してくる。マンボ族と呼ばれる若者が闊歩し、大学にも現れる。
 次の年は、「もはや戦後ではない」と経済白書で宣言され、青年石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞受賞、それが太陽族に転化して派手な風俗になる。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社 2007)

 

 この映画は日本のマスコミでセンセーショナルに扱われたこともあって、神奈川県児童福祉審議会が青少年保護育成条例により、青少年観覧禁止映画に指定した。学校という神聖な場所で暴力が描かれるということから、文部省も各地の教育委員会に対して青少中高生に見せないようにという通達を出した。

 こうした大人たちの過剰な反応によってロックンロールはジャズ喫茶での雌伏期間を経て、1958年2月に日劇ウエスタンカーニバルで人気が爆発することになる。ロカビリーの語源はロックンロールとヒルビリー(カントリー・ウェスタン)をかけ合わせたものだった。

 アメリカでは1956年の初頭からエルヴィス・プレスリーの人気が急騰し、新しいスターの登場にティーンエイジャーたちが熱狂した。エルヴィスが画期的だったのは白人のカントリーでも、黒人のリズムアンドブルースでも、気に入った歌を自分なりの解釈で演奏して唄ったことだ。そのことが社会問題にまで発展したのは、ロックンロールのパーティがしばしば暴動を巻き起こしたからだった。

 当時の音楽雑誌「ミュージックライフ」に掲載された記事を引用する。

 

 ボストンではロック・アンド・ロールのレコード・コンサートに集ったティーンエイジャースが踊らせろと叫んで暴動を起し、機械やレコードをこわしたり椅子を投げたりしたことがあって、以来ロック・アンド・ロールのパーティは一切禁止されてしまった。プレスリーの出演するショウにはいつも何百名かの警官が動員される。いやプレスリーだけでなくてもロック・アンド・ロールのパーティはどこで開いても入場者と入場できなくて帰る人の数は同じくらいだと云われるほどである。黒人の歌手ファッツ・ドミノが数ヶ月前に加州のサン・ホセのパロマ・ダンスホールに出演した時も暴動が起って警官出動となり、新聞はロック・アンド・ロール暴動と大きく報じた。
(ミュージックライフ『ポップス黄金時代 1955~1964』シンコーミュージック)

 

 この記事を書いたのは著名な音楽評論家で、戦後の服部良一に暗いブルースではなく、明るいブギウギをつくることを勧めた野川香文だった。その後に日本で繰り広げられた大人から反応についても、冷静な筆致で以下のように言及していた。

 

 そうしてこんな記事が次々に出てくると、わが国にもたくさんいるいわゆる社会評論家というのが一応その現象を取り上げて批判する――しかしたいていの場合そういう批判は見当ちがいだ。というのは、彼らはだいたい不精(ぶしょう)で、そんな場面に居合わせてはいないのだから新聞記事を材料に憶測でものを云っている。そしてその新聞記事というのはどっちか一方的な見方をして報告しているのだから、正しい社会批判にはならない。その次には学校の先生、教育者、宗教家 取締当局などが次々にロック・アンド・ロールを目のかたきにして叩きのめそうとかかっている。ちょうど第一次世界大戦が終わった頃からジャズが物凄い勢いで盛んになりだした頃にも、今のロック・アンド・ロールと同じように猛烈に攻撃された。“青少年を毒するもの”という最もらしい口ぶりで。
(ミュージックライフ『ポップス黄金時代 1955~1964』シンコーミュージック)

 

 ロックンロールは歌詞がわいせつであり、歌い手たちは性的興奮をそそるような態度や動きをしながら、声にもそういった表情をたたえつつ歌うので、それは思春期の若者を毒するというのが非難されるポイントだった。そうやってロックンロールを抑えつけようとする大人に対して、ティーンエイジャーたちはレコードを買って応援することで、自分たちの主張を勢力にしていった。

 黒人のものだとしてレース・ミュージックという名のもとで、分断されて押し込められていたリズムアンドブルースは、エルヴィスが垣根を越えたことで白人の若者にもレコードが買われるようになった。そこからカウンターカルチャーの萌芽が出始めて、1960年代には公民権運動とも結びついていくのだ。

 阿久悠は映画と流行歌で知らされた東京に関する知識を、街歩きによって自分の足で確めながら、高校時代に結核にかかって遅れた期間を取り戻すように過ごしていた。そして時代性ということを意識するようになり、そこから自分なりに歌や音楽への考え方を深めていった。

 そのタイミングで『暴力教室』を観たのだから、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の衝撃は大きかった。いくつかの著書の中で、「それまで、音楽とか歌とかは流れるようなものだと思っていたのが、叩くという種類のものがあることを知った」と、何度となく述べている。

 ところでその頃の社会情勢をみていくと、国のエネルギー政策が石炭から石油へと変わったことの影響で、全国各地で炭鉱の閉山が相次いでいた。九州から北海道まで、大量の失業者が出て、飢えや貧困による社会不安が低所得者の間で共有されるようになり、将来への不安が増大した。

 しかも労働争議やストライキが多発したことで、経営側が送り込んだ右翼や暴力団との間に、たびたび暴力的な衝突が起こった。そうした動きによって全国各地に不穏な空気が波及し、社会主義や共産主義に傾倒する学生たちは、早くから前哨戦として安保反対運動を意識していった。

 阿久悠は卒業が近づいた1958年から59年にかけて、翌年夏に期限を迎える日米安全保障条約の改定をめぐって、大学生や労働者が主導する反対運動が活発化していくなかに置かれた。好むと好まざるとに関わらず、政治の季節の波をかぶることは避けられなかった。

 それでも本人は深くかかわらないように気をつけていたが、政治やイデオロギーとは関係なく社会の不平等への不満や、戦争反対を素直に訴える学生や市民がデモに加わるようになっていく。そんな時代に黒のムードを漂わせる重苦しいロッカ・バラードの「黒い花びら」が、突然のようにヒットしたのである。

 阿久悠はこの歌に出会ったことで、中村八大&永六輔のコンビが世に出す作品に関心を抱くようになった。大学卒業後に広告代理店の社員になり、副業で放送作家として活躍し、さらに作詞家として大成した。その道のりを振り返ると、テレビの先駆者となった永六輔の歩みとも酷似するものだった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

ロック・アラウンド・ザ・ロック / ビル・ヘイリーと彼のコメッツ(EP日本盤 1955)

 

※ 次回の更新は9月10日の予定! 第5章「異なる文化の融合から生まれる歌と音楽」後編をお送りします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之