~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第5章 ③④】


第一部 第5章 異なる文化の融合から生まれるヒット曲
①シベリア抑留で生まれた望郷の歌 「異国の丘」
②淡路島から東京へ出てきた阿久悠 『暴力教室』(アメリカ映画)
③テレビの時代が始まった1959年 『光子の窓』(日本テレビ)
④素人を司会に抜擢した永六輔 『夢であいましょう』(NHK)



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は、第5章「異なる文化の融合から生まれるヒット曲」から後編、③テレビの時代が始まった1959年、④素人を司会に抜擢した永六輔、をお送りします。

 1953年に始まった日本のテレビ放送。草創期を経て1959年、皇太子(明仁上皇)ご成婚の中継をきっかけに、テレビが急速に普及しました。テレビというニューメディアはその後の音楽や文化に、どのように影響を与えたのでしょうか。


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第一部 第5章 異なる文化の融合から生まれる歌と音楽

 

③テレビの時代が始まった1959年
 『光子の窓』(日本テレビ)

 

 慶應義塾大学文学部でカントリーの「チャックワゴン・ボーイズ」を結成した井原高忠は、日本テレビという最初の民間放送局において、エンターテインメント番組の礎を築いた人物として知られる。

 1959年の2月に会社からアメリカに派遣された井原は、ショウ・ビジネスと音楽番組の関わりについて、制作の現場でカメラの割り方や切り替えのタイミングなど、具体的なノウハウを学んで日本に持ち帰った。

 テレビ制作における黎明期に制作のひな型を開発した井原は、それから音楽番組における表現についてもリーダーシップをとるようになっていった。代表作には『光子の窓』『九ちゃん』『巨泉X前武ゲバゲバ90分!』があり、その後も音楽番組やバラエティ番組のプロデューサーとして長く活躍した。

 

 1959年にアメリカに行ったっていうのは最大のことですね。これでテレビ、ショウ・ビジネスに対する考えがすべて決まった。それまでは手探り状態だったけれど、アメリカのショウ・ビジネスを体得した。これは、大変なことだと思う。そして、優秀なスタッフを集めて、手柄は独り占め。あと、視聴率は全然考えないっていうのは嘘だけど、まず好きなことやって、当てる。視聴率は二の次なんです。自分が面白い物を作ることを一番一生懸命やった。やはりプロデューサーなんだから、大衆が喜ばなきゃまずいけれどね。
(井原高忠『元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学』愛育社 2009)

 

 松竹歌劇団(SKD)出身の俳優だった草笛光子を中心にした音楽バラエティ『光子の窓』は、1958年5月に放送が始まっている。レギュラー出演者の藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズに加えて、各界から毎回さまざまなゲストが登場してきた。

 プロ野球の王貞治をはじめとする人気のあるスポーツ選手、落語のベテランだった古今亭志ん生、反抗心が強くて生意気だった若手の立川談志など、各界の著名人も何度か出演してくれた。

 井原は『光子の窓』をスタートする前に、まず三木鶏郎が主宰する「トリロー文芸部」にいた放送作家の三木鮎郎とキノトールに相談している。それはセンスがいいギャグやコントの脚本を、番組づくりの経験がある作家たちに書いてもらう必要があったからだった。

 草笛光子が当時のことをこのように回想している。

 

 放送は週1回、日曜日の午後6時半から。でも番組づくりのお手本は日本にはない。私とスタッフは毎回、放送が終わるとすぐに集まって「来週は何をしよう?」と話し合った。岡田教和さん、三木鮎郎さん、キノトールさん、永六輔さんといったそうそうたる放送作家の方々と知恵を出し合ってつくっていった。
(「草笛光子(9)『光子の窓』音楽番組の司会に挑む 永六輔さんらと知恵絞る」日本経済新聞 2018年1月10日)

 

 音楽監督は作曲家の広瀬健次郎、そして当代一のビッグバンドだった原信夫とシャープス&フラッツがレギュラー出演していた。しかしジャンルにとらわれることなく、クラシックや邦楽の音楽家と共演する機会もあったという。

 草笛光子の回想をもう少し続けて引用したい。

 

 あるとき、オペラ歌手の藤原義江さんに出ていただけないか、という話になった。だめでもともと、とテレビ局の担当の方がお願いにうかがうと、思いがけずOKが。森繁久彌さんの主演で私も出ていた57年公開の映画『雨情』を見ていらして、私のことをいいと思ってくださっていたらしい。永さんがパロディーふうの歌劇をお書きになり、藤原先生と「カルメン」や「椿姫」を歌わせていただいた。
(前出「草笛光子(9)」)

 

 早稲田大学文学部の史学科に在学中だった永六輔は「トリロー文芸部」に籍をおいていたが、先輩たちからの推挙もあって台本が採用される機会が増えた。したがって井原の現場でテレビにおける表現を学び、放送作家として最先端で活躍するようになった。

 しかし安保闘争が激化していった1960年に学生や新劇人たちのデモに遭遇したことで、いてもたってもいられないという思いから、そのままデモに参加してしまったのである。そのことが発覚して追及されたとき、永は「台本よりも安保が大事です」と答えて井原を激昴させた。

 そして「台本を書かない作家はいらない」という当然の理由で、謝罪しない永六輔は即座に番組を首になり、日本テレビからも出入り禁止になった。だがこのことがNHKの末盛憲彦ディレクターにとって、望外の幸運となったのだから面白い。

 以前から永六輔の才能に注目していた末盛は秋からの新番組の企画を用意して、すぐに永六輔のところにやってきた。そして昼帯に放送するバラエティ番組『午後のおしゃべり』に、構成作家として起用したのである。

 そのときに1959年の「黒い花びら」から歌づくりでコンビを組んでいた、ジャズピアニストの中村八大に末盛は音楽を任せた。最新のジャズやポピュラー・ミュージックなどを生で演奏し、それをいかに映像化すればいいのかと、末盛は柔軟な発想と、生真面目ともいえる探求心で試行錯誤していく。

 そして更に半年後の番組改編に合わせて音楽バラエティ『夢であいましょう』を企画し、夜の深い時間帯で放送を開始する。末盛はテレビというメディアと歌について、このように考えていたという。

 

「日本の流行歌、つまり演歌は悲しみ、別れ、涙、あきらめを歌います。私は新しくできたテレビジョンというメディアで、それとはちがう、喜びとか笑顔とか夢、希望といった明るい未来をうたった流行歌がほしかった。当時、アメリカからの輸入テレビ番組には『ペリー・コモ・ショー』『エド・サリバン・ショー』などのしゃれたミュージカルがあって、これを国産化できないものだろうか、というのが発想でした。演歌が裏街道なら、われわれの番組は表街道を歩こう、そんな会話を構成の永六輔さんと熱っぽく交わした記憶があります」
(「出演者は上手よりも誠実な方がいい」放送文化 1983〈昭58〉年1月号)

 

 こうしてテレビの歴史に残る伝説となった『夢であいましょう』が、1961年の4月から土曜日の夜に全国に流れることになったのである。

 

④素人を司会に抜擢した永六輔
 『夢であいましょう』(NHK)

 

 耳で歌を聴くだけではなく、目でも音楽を楽しむ――そんな生活が身近になったのは、1960年代に入ってまもなく、一般家庭にまでテレビが普及したおかげだった。衣食住の心配が少なくなり、眠る時にも安心して夢を見られる時代がやってきたのである。

 トークとコントと音楽による『夢であいましょう』は、モノクロで30分番組の生放送だった。戦争のない平和な時代に生まれた戦後育ちの若者たちにとって、歌や音楽がテレビとともに身近な娯楽になっていった。

 末盛憲彦と永六輔は最初に、「テレビはまず新鮮でなくてはならない」とテーゼを決めていた。レギュラー出演者に抜擢されたのは、NHKの専属女優だった黒柳徹子、浅草の若手コメディアンだった渥美清、大阪のラテン歌手・坂本スミ子、まだ幼さが残っていた坂本九などあった。

 今から見ればそうそうたるメンバーになるわけだが、当時は彼らも無名であり、慣れない生放送に全員で取り組んだ。一方で、それらを支えるかのようにコメディアンの三木のり平、益田喜頓、谷幹一、E・H・エリック、岡田眞澄といった芸達者な面々も揃っていた。

 永六輔は“素人こそがテレビというメディアに向いている”と判断し、フランス帰りのファッション・デザイナーで友人の中嶋弘子を、『午後のおしゃべり』の時に司会に抜擢した。そして引き続き『夢であいましょう』にも起用たことで、都会的で洗練された中嶋弘子の素人っぽいぎこちなさが評判になった。

 番組の“顔”になって人気が上昇した。テレビが素人の面白さを利用するのは常套手段になってしまったが、最初の試みはここまで遡れるのである。

 中嶋は衣装を毎回変えていたが、そのことが話題になるくらい、庶民の生活はつつましいものだった。また、番組の中でよく吹き出していたが、「彼女を笑わせているのは誰だ?」ということが、芸能記事になるほど注目された。

3年目を迎えた『夢であいましょう』のインタビュー(『グラフNHK』1963年5月号)記事で、永六輔は次のように語っていた。

 

『午後のおしゃべり』から引き続き中嶋といっしょに仕事をした構成の永六輔は、『夢であいましょう』3年目のインタビュー記事(「グラフNHK」1963年5月号)で次のように語っている。
「今でこそ欠くことのできない中嶋サンだが、放送開始当初はその下手さにあきれた。スタッフ一同で、慣れれば少しは上手になるだろうと思ったまんま5年間が過ぎた。下手さが魅力までになったのは中嶋サンの人徳だろう」
 中嶋は衣装を毎回変え、それがまた話題となった。また、番組の中でよく吹き出していたが、「彼女を笑わせているのは誰だ?」ということが芸能記事になるほどだった。
(NHKアーカイブス:夢であいましょう)

https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=entertainment004

 

 番組のためにエンディングテーマとして作られたのが、坂本スミ子が歌う「夢であいましょう」だった。当時はこのテーマソングを聴いたことによって、明日への希望と受けとめる若者がたくさんいた。経済的にはまだ貧しかったが、誰もが夢を持っていたという意味で、心の中では豊かな気持ちになれたのである。

  夢であいましょう
  作詞:永六輔 作・編曲:中村八大

  夢であいましょう
  夢であいましょう
  夜があなたを抱きしめ
  夜があなたに囁く
  うれしげに 悲しげに
  楽しげに 淋しげに
  夢で夢で
  君も僕も
  夢であいましょう

 番組のなかでは毎月1曲、中村八大と永六輔による「今月の歌」が書き下ろされた。そこから「上を向いて歩こう」(坂本九)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「おさななじみ」(デューク・エイセス)、「帰ろかな」(北島三郎)などのヒット曲が生まれてきた。

 永六輔が書いた詩を朗読するコーナーの「リリック・チャック」は、“チャック”と呼ばれていた黒柳徹子が担当した。彼女は誰にも持ち得ないユニークなおしゃべりの才能を発揮して、番組に不可欠な存在となっていく。

 『夢であいましょう』に少し遅れて6月からは、日本テレビでザ・ピーナッツとクレイジーキャッツによる『シャボン玉ホリデー』が始まった。こうしてテレビという新しいメディアが、新しいエンターテインメントの時代の幕を開けたのだ。

 『シャボン玉ホリデー』の生みの親は渡辺プロダクションの創設者だった渡邊晋である。エリート銀行マンの家に生まれて早稲田大学法学部の学生だった渡邊が、見様見真似でジャズを始めたのは生きていくためだった。

 というのは太平洋戦争が終わったものの、九州の実家からは事情があって学費や生活費が送られてこなくなったのである。中国への進出のために設立された蒙彊銀行で副頭取の職にあった父は、戦後処理に関わったことでしばらく帰国できなくなったのだ。

 そこで渡邊は学費や生活費を稼ぐ目的で、下宿の仲間からギャラがいいといわれていたジャズのバンドで、見よう見まねで楽器を手にしてアルバイトを始めてみた。

 やがてベースプレーヤーとして活躍するようになった1951年に、早稲田に入学してきた中村八大と出会ったことから、ジャズで日本一をめざすために「シックスジョーズ」を結成したのである。

 アメリカのクールジャズを意識した中村八大の編曲は知的で品が良く、クラシック愛好家にまで評判になった。やがて渡邊は演奏技術を上達させた後に、観客を視覚的に喜ばせる術を各メンバーに要求した。こうした冷静な戦略で一流のバンドに成長させていったのだ。

 その一方では将来性を考えて、マネージメントの会社を設立して近代的なビジネスに目を向けた。そこでパートナーになったのが、日本女子大学の学生だった渡邊美佐である。敏腕マネージャーとして活躍していた美佐は、人のあしらいがうまいだけでなく、自分の目と耳でヒット曲を見つける能力にも恵まれていた。

 二人はまもなく結婚して「日本の音楽を世界に」というスローガンを掲げて、若い才能を鍛えてプロとして育成することに力を注いでいく。

 名古屋で見出した双子の伊藤シスターズについては、自宅に住まわせて言葉遣いから礼儀作法まで教育した。中村八大の後任となったシックスジョーズの宮川泰が、徹底したレッスンで歌唱指導し、プロとしてデビューさせている。ちなみに「ザ・ピーナッツ」の名付け親は、日本テレビの井原高忠であった。

 ユニゾンもハーモニーも完璧だった双子のザ・ピーナッツは、折から始まったテレビ時代に視覚的にも最適で、1959年から60年代を通してトップスターの座を保ち続けた。

 また音楽ギャグで人気が上昇していたハナ肇とクレイジーキャッツとの共演で始まった日本テレビの『シャボン玉ホリデー』では、両アーティストともにブレイクし、押しも押されもせぬエンターテイナーへと成長していった。

 「電気紙芝居」と揶揄されていたテレビに着目し、斬新なアイデアと合理的な判断で音楽番組の制作で成功した渡辺プロダクションは、テレビ局との強い結びつきを生かして、ショウ・ビジネスの土台を築き上げていく。

 しかも専属契約したタレントの仕事を差配するだけでなく、月給制を導入して彼らの生活や身分を保障するという、全く新しいマネージメントのシステムを作り上げた。

 さらには大学卒の新入社員を募集して教育し、タレントの付き人のように思われていたマネージャーに大きな権限を与えて、制作スタッフを自前で育てていった。

 そこからレコードの原盤制作にも着手し、クレイジーキャッツでは映画製作にも乗り出して、ヒットを次々に飛ばしたのである。

 スターになったザ・ピーナッツや、その後の沢田研二の場合には、国内で成功した後になってワールドワイドへの展開にも挑んでいる。

 企業として多角経営に乗り出したのは、1960年代から70年代にかけてのことだ。音楽学校やライブハウス、スタジオの経営を手がけて、ミュージック・テープのアポロン音楽工業を設立し、カーステレオ用の新しいマーケットを開拓した。

 またアメリカのメジャーであるワーナーブラザースと、オーディオのパイオニアと合弁によるレコード会社、ワーナーパイオニアにも資本参加するなど、プロダクションとしての黄金期を迎えている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

夢であいましょう / 坂本スミ子(EP盤 1963)

 

※ 次回の更新は9月17日の予定! 第6章「永六輔が始めた話し言葉の歌詞」をお送りします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之