~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第6章 ④】


➀衝撃だった第1回日本レコード大賞 「黒い花びら」
②新しい音楽を受けとめる感性
③初めから世界を目指していた音楽家
④無血革命にも匹敵する快挙 「遠くへ行きたい」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち“ニューミュージック”を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 2週にわたってお届けしている第6章「中村八大が目指した世界の音楽」後編。今回は、④無血革命にも匹敵する快挙「遠くへ行きたい」、をお送りします。

 1950年代前半におとずれたジャズ・ブーム、そして1958年から始まったロカビリー・ブームで起こった数々の人と出会いや交わりが、新たな音楽を誕生させていきました。作曲家や作詞家、音楽家たちは、新しい音楽にどのように挑戦していたのでしょうか。

第一部 第6章 中村八大が目指した世界の音楽(1959年~1968年)

 

④無血革命にも匹敵する快挙
 「遠くへ行きたい」

 

 テレビの時代の映像表現に情熱を注いでいたNHKの末盛憲彦ディレクターは、新しいメディアならでは音楽の見せ方を打ち出したいと考えていた。歌と演奏を映し出すだけでなく、そこに映像が加わってこそテレビならではの音楽作品が成り立つと思ったからである。

 八大&六輔のコンビは末盛が並走していたおかげで、自分たちのペースを崩すことなく新しい歌をつくる仕事に集中することができた。そのことについて中村八大は感謝の意を込めて、こんなふうに言い表している。

 

 二十貫近い巨体の偉丈夫ですが、おっとりした台湾なまりで(日本人です)「みなさん……してくださいネ」と言われると、出演者一同、何の抵抗もなく末森さんの演出に従ってしまいます。  かといっていつも優しいわけではありません。本番中は声の限りどなり続けて、番組のできが良いときは、なごやかに「お疲れサマ」ですむのですが、ちょっとでも失敗すると、クチビルをかみしめてだまり込み、涙をこらえて虚空をにらんでいます。そういうときは出演者一同じめじめこそこそと無言でスタジオから遠のき帰っていきます。
 何でもない一つの歌が、その歌を生かすために、セット、照明、カメラ、その他あらゆるテレビ的演出のバック・アップによって見事な音楽シーンにできあがるのを見て、永さんも私も、本当に驚いてしまいます。
 例えば「遠くへ行きたい」。波止場の桟橋が海の光でキラキラと映っているセットを、狭いスタジオにバケツ一杯の水で作り上げたときは、末森さんは三日三晩眠らず考えぬいたといいます。
(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『僕たちはこの星で出会った』講談社 1992)

 

 レコード会社から専属作家の契約を申し込まれても断り、それまでの業界システムから自由になれたのは、「売れる」とか「売れない」の要素、つまりコマーシャリズムを音楽表現の場に持ち込まなかったことが大きい。彼らが最初から最後までフリーランスの道を選んだのは、自分たちが主導する歌づくりを守るためだった。

 

 あのころは、ものを作るのに余裕のある時代でしたね。ヒットさせようともくろむんじゃなく、独り身で夢もあったし、また、ジャズ・プレイヤーからの転換期だったし、新しい思いで淡々と自分の気持ちを表現していったのが良かったのだろうと思います。
(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『僕たちはこの星で出会った』講談社 1992)

 

 しかもNHKのなかでそうした場を確保できたのは、実は永六輔の忍耐と指導のおかげであったということを、当事者だった末森がこう証言している。

 

 永さんの『夢であいましょう』というバラエティ番組を育てようという情熱は 番組の全スタッフ・キャストの隅々まで染み渡り。過去5年間にわたって一人の落伍者も出さず全メンバーが、より楽しいバラエティ番組を作ろうという目標の下に、着実に一歩ずつ前進を続け、『夢であいましょう』全員のチームワークが、永さんを中心にNHKの中に育ってきたのではないかと思っています。
(末盛憲彦『テレビディレクター末森憲彦の世界』私家版・青柿堂 1985)

 

 永六輔はまっさらな状態で歌をつくり始めたときに、中村八大から芸能誌の「平凡」や「明星」の付録についていた歌本を渡されて、「こういうのじゃないやつね」と言われた。そこで事前に交わされた約束のことを、このように語っていたことがある。

 

「ふだん、ぼくらが使っている言葉だけで歌詞を作ろうということがひとつ。歌の世界は、まだ文語文というか、話し言葉とは違った語法がまかりとおっているわけですよ。それをぼくらは使わないんです」
(『週刊朝日』1964.12.27号)

 

 中村八大が歌詞で必要としたのは、まず作品のイメージであった。それは永六輔の書いた言葉の断片とか、ちょっとしたメモでも良かったらしい。何かがひらめきさえすれば、それでもう十分だったという。そこから楽曲が出来上がってくるのだが、たいがいは歌詞が原形をとどめていなかった。そこでメロディーやリズムに合わせて、永六輔がうたいやすい歌詞を仕上げていったのである。

 こうしたソング・ライティングは同じ時期にイギリスなどで始まっていた、バンドによる共同の楽曲づくりに近いものであったかもしれない。なお中村八大はメロディーが生まれてくる過程について、このように具体的な手法を明らかにしていた。

 

 僕の場合、全く頭の中で作るから楽器は要らない。頭の中で曲を作って、それを頭の中に清書をして、それを繰り返し反復するわけね。途中でお茶飲んだり誰かと話したり、それでまた思い出して憶えていれば、それはいい曲なんです。自分で「いいな」と思えば、それを自分の中でヒットさせる。一晩寝て、次の日の朝に憶えていれば、それはもう本物だよね。
(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『僕たちはこの星で出会った』講談社 1992)

 

 こうして出来上がった楽曲はわかりやすいものになったし、誰にでも覚えやすくて唄いやすかった。それを新鮮な印象を与える歌手が唄うことで、出来立ての歌が電波に乗って全国の家庭に生放送で届けられたのである。

 旅をテーマにした「遠くへ行きたい」は中村八大が新宿で飲んだ後で、自宅へ帰るときに車中でふと浮かんだものだったという。さっそく次の日に覚えていたメロディーで楽曲をつくったところ、九州を旅行していた永六輔から歌詞が送られてきた。

 そこには旅をテーマにした人と人との出会いと別れが、四十行にも及ぶ長く叙情的な歌詞で綴られていた。しかし中村八大がつくった曲はゆったりとしたテンポだったので、ほんの少ししか言葉が入らなかったので、実際に使われたのはごくわずかな部分だけになってしまった。「知らない街を 歩いてみたい」という歌い出しから、最後の繰り返しまで入れても、歌詞としては十二行だった。

 それを知った永六輔はしばらく怒っていたが、中村八大と話し合って渋々ながら納得してくれたという。

 

 見て読むだけの詞なら四十行は絶対に要るけど、メロディーがついて、さらに歌手が歌った場合はイメージも倍々になる。
 だから詞は八分の一でいいんじゃないかというふうに話して、彼もまたそれを理解してくれて、あの歌ができた。
(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『僕たちはこの星で出会った』講談社 1992)

 

 1962年の5月、ジェリー藤尾がうたった「遠くへ行きたい」は「今月の歌」としてオンエアされて、6月に東芝レコードから発売になると、息の長いヒットになっていった。これはヨーロッパでも日本語のままレコードが発売されたし、1963年にはエンリコ・マシアスによるフランス語のカヴァーで、「Ma dernière chance(私の最後のチャンス)」も出ている。

 こうした流れができたことによって若くて新鮮なソングライターたちが、次々に世に出てくる下地ができていく。作詞家では先輩にあたる岩谷時子や青島幸男に続いて、橋本淳、山上路夫、吉岡治、有馬美恵子が登場してきた。とりわけ訳詞から転向した安井かずみ、なかにし礼のふたりは著しい活躍で量産を開始した。

 この段階ではまだ目立たなかった阿久悠も、グループサウンズのスパイダースやモップスの作品で、少しずつ名前が出始めている。

 作曲家では宮川泰を筆頭にして萩原哲晶、いずみたく、猪俣公章、平尾昌晃、井上忠夫、すぎやまこういち、鈴木邦彦、三木たかし、筒美京平、村井邦彦などが実績をあげて、新たなヒットメーカーとして認知されていった。そこから専属作家のように制約にとらわれることなく、自在の組み合わせが選べるようになった。

 八大&六輔コンビが創作の場を確保しながらフリーランスの立場で作品を発表し続けたことは、音楽業界における無血革命にも匹敵する快挙となった。それまで堅牢だと思われていたレコード会社の専属作家制度は、それから数年のうちに崩壊してしまったのである。

 しかし先駆者となった永六輔には当初、情緒がないのでとても作詞とは認め難いと、ベテランの作詞家から反発が寄せられたという。

 

 それまでの歌詞は、北原白秋、西条八十、野口雨情、みんな美文調でしょう。日常語でつくった歌詞なんてなかったから、僕がつくったのは、詞でもなんでもないと言われた。たしかに『黒い花びら』の「もう恋なんかしたくない」なんて、愚痴っているだけだもん(笑)。
(永六輔『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』飛鳥新社 2006)

 

 この説明のなかで使われていた“美文調”という言葉と、“愚痴っているだけ”という言い回しから、ぼくは音楽学者の小島美子が著書『歌をなくした日本人』のなかで、民謡の誕生とその発展について述べていた文章を思い出した。

 民謡は名もない平民の間で唄われることで、生命力を有して地域社会に根付いてきた文化だった。その土地や風土に根差して歌い継がれてきた民謡は、それぞれ長い歴史の中で作曲者不詳のまま、名もない人たちの口移しによって伝えられてきた。

 

 歌はもともとホンネを語るものだった。ある時は苦しいときの愚痴として、ある時は喜びの叫びとなって生活の中に深く根付いていた。この生き生きとした歌と人間の歴史を拒み、近代日本が西洋の音楽を音楽教育の中心に据えたのは、大きな不幸ではなかったろうか?
(小島美子『音楽選書 歌をなくした日本人』音楽之友社 1998)

 

 集団の中で生きていく上で人間は何らかの機会に、歌の中でホンネや愚痴を吐き出すことが欠かせない。しかし日本の土地や風土に根付いて生きていた民謡は、明治時代に導入された官制の音楽教育によって次第に駆逐されてしまった。それにともなって方言ならではの母音なども標準語に統一された。

 学校教育における西洋音楽の普及は、土着の民謡と相容れるところがなかった。上意下達で一方通行だった唱歌や軍歌による音楽教育に対して、永六輔は口語体で本音を語るポピュラーソングによって、自由でいたいという意思を訴えていたのかもしれない。

 そうした本質の部分を受け継いだソングライターのひとりが、2008年に亡くなるまで30年間にわたって、永六輔が作詞した「上を向いて歩こう」を唄ってきた忌野清志郎であるのだが、これについては長くなるので第三部にて詳述したい。

 

遠くへ行きたいジャケ写.jpg

遠くへ行きたい / ジェリー藤尾(EP盤 1962)

 

 

※ 次回の更新は10月8日の予定! 第7章、前編をお送りします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之