~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第7章 ①】


➀戦争で奪われた音楽の自由
②抒情歌の流行に背を向けて
③阿久悠と上村一夫の歌づくり修行
④「上を向いて歩こう」を聴いて号泣した理由


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち“ニューミュージック”を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回お届けするのは、第7章「少年時代の記憶、心の傷あと」から前編、①戦争で奪われた音楽の自由、をお送りします。

 安保闘争(日米安全保障条約反対闘争)に揺れる1959~60年。騒然とする世相とロカビリー・ブームに沸く音楽シーンは、若き音楽家たちにどのような影響を与えたのでしょうか。そして、作曲家や作詞家、音楽家たちは、新しい音楽にどのように挑戦していたのかを考察します。

第一部 第7章 少年時代の記憶、心の傷あと

 

➀戦争で奪われた音楽の自由

 

 岸信介は東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省(のちに商工省)に入省した。1936年には満州に渡って、満州国国務院実業部総務司長に就任し、満州産業開発五か年計画を推進した。1941年には東条英機内閣で商工大臣(のちに国務相兼軍事次官)として入閣、アメリカとの開戦にも関与していた。

 戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留されて、3年半もの期間を獄中で過ごしたが、1948年に不起訴となって釈放された。その後は親米タカ派の政治家として、1953年には自由党に入って衆議院議員になっている。自由民主党幹事長に就任して影響力を持つ立場についたのは、1955年に自由党と日本民主党が合同したことによるものだった。

 そして翌年の自民党総裁選挙で石橋湛山に敗れたが、外務大臣に就任したところに石橋首相が病気になったことで、総理大臣臨時代理を務めた後に、そのまま退陣せざるを得なかった石橋に代わって日本の指導者におさまったのである。当然のことだが戦争や軍備に反対する人たちは、岸が首相となったことをよしとしなかった。

 またこの時期には国のエネルギー政策が石炭から石油へ転換したことで、全国各地で炭鉱の閉山が相次いだ。経済発展を優先する国の政策によって、炭鉱労働者たちの多くが合理化を進める経営側から切り捨てられて職を失くした。そのために指名解雇などの強硬な手段を行使する経営側と、真っ向から戦うようになったのである。

 最大の出炭量を誇った筑豊地方の三井鉱山三池鉱業所では、炭鉱労働者が全国の労働組合と連帯して1年におよぶストライキを行う。そうした状況に義憤を感じた学生運動家たちが、労働組合の支援に入るという構図ができていった。社会主義や共産主義に傾倒する学生運動の指導者たちは、1960年に改訂される日米安保条約に反対運動の焦点を合わせていた。

 その頃から戦争反対を訴える市民のなかには、政治のイデオロギーとは関係なく素朴な気持ちから、傍観したままではいられなくなって行動する人も出てきた。既存の政党などから距離を置いていた知識人と呼ばれる作家、評論家、新劇人も「安保批判の会」を起ち上げた。それぞれの分野ごとに「民主主義を守る学者・研究者の会」「民主主義を守る音楽家会議」「新日本文学会」「声なき声」などが、思い思いに反対運動に参加してきた。

 しかし労働争議やストライキ、街頭デモが増えてくると、危機感を抱いた政治家に要請を受けた右翼が威圧するなど、全国各地が不穏な空気に包まれ始めたのである。

 そんな騒然とした情勢のなかで学生たちは、安保反対運動から岸政権打倒へと突き進んでいった。その頃に学生だった阿久悠は自らが抱えていた屈託と、生活者としての気持ちを水原弘がうたった「黒い花びら」(1959)に関連付けてこんな文章を記している。

 

 大学の知人たちの中には、それ(日米の安保改定)を命懸けで阻止すると目を吊り上げているものもいる。彼らの目には、ぼくの生き方などはクズに思えるに違いない。会う度に冗談めかしてだが、踏み絵を強いる。ぼくにはぼくの考えがあり、何ら疚(やま)しいところはないと思いながら、ひっかかるものがあったのである。
 水原弘が重くザラッとした声で歌う「黒い花びら」は、そのぼくのいくらかの屈託に語りかけるような歌に思え、青春の懺悔にさえなった。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 「黒い花びら」をつくった八大&六輔コンビとも共有できる価値観を、阿久悠は自分のなかに見出していたのかもしれない。彼らに共通していたのは何かと考えてみると、戦時中に音楽を楽しむ自由を奪われたことの影響が思い浮かんできた。幼い子どもまで戦争体制に組み込む国家的な重圧のなかで、彼らは音楽を聴くことを禁じられたことがあった。

 日中戦争が始まった年に生まれた中村八大は幼い頃から、音楽の道を歩み始めた。しかし東京音楽学校で始まった英才教育を受けるために、青島(チンタオ)から留学してきた小学生のときに音楽家を目ざしていると言ったことで、軍国教育を受けている同級生たちから仲間外れにされた。

 その後、戦局が悪化したことで青島に戻らざるを得なくなり、さらには家族で日本に引き揚げることになって父母の郷里に身を寄せた。そのときにピアノやレコードを日本に運ぶことはできなかったが、しばらくして福岡県の久留米まで親切な青島の隣人たちによって、荷物が送られてきた。しかし戦後になるまではピアノを弾くことも、レコードを聴くことも憚られた。それは住民同士がお互いを監視していたからである。

 東亰からの縁故疎開で信州に移り住んだ都会っ子の永六輔も、幼い頃からいじめられた経験にはこと欠かない。永という姓だけで、中国人の蔑称で呼ばれていたこともあったという。そんなふうに差別されていたにもかかわらず、自らは戦前の軍国教育を受けたことで、愛国少年として成長したとも語っている。

 しかし疎開した信州の小諸では地元の児童たちから迫害されて、最初から最後まで仲間には入れてもらえなかったという。だから学童疎開によって夢がこわされたことを忘れないようにと、「軍隊小唄」の替え歌の一部を使って、当時の自分を客観的な文章に書き残していた。

 

 彼もまた、立派な帝国軍人になることを誓い、同年輩の少女を近づけることすらせず、
 ……女は乗せない戦車隊
 などと、いい気な歌を愛唱したりしていた。
 しかし、空襲で家が焼け、信州の疎開先で〈東京ッポ〉と土地の子どもたちに迫害されるに及んで、戦争に勝つ気がしなくなった。
 小学校六年生の時、日本は負けた。
 彼は以来、大人のいうことを信用しなくなった。
(永六輔『大晩年 老いも病も笑い飛ばす!』中央公論新社 2014)

 

 戦後になってからも学業の成績がよかった永六輔は、縁故で疎開していた家から通える上田市の旧制中学に進学した。東京はまだ焼け野原だったので、それから二年ほどは一人で列車通学しなければならなかった。だがその時も復員してきた上級生などから迫害されたことで、信州には何もいい思い出がないまま東京に戻ったという。

 それからは同窓会の案内や講演の依頼があっても、40数年にわたって疎開先に足を向けることがなかった。そんな気持ちが歌をつくることによって、ようやく氷解したのは1998年のことである。きっかけは小諸に学童疎開していた作曲家の小林亜星と出会ったことだった。

 

 そうそう、僕もいじめられましたね。それと、小諸は島崎藤村の『破戒』の舞台じゃないですか。土地の子なのに、なぜかいじめられている子がいて、はじめて「差別」という現実に触れるわけです。そういう意味でも、小諸では非常に貴重な体験をした。
(永六輔「上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史」飛鳥新社 2006)

 

 ところで少国民といわれた子どもたちのなかには、上陸してくるアメリカ軍に殺されるかもしれないと、死を覚悟していた者さえいたらしい。だが現実には進駐軍の兵隊からチューインガムやチョコレートをもらって、戦時中は手に入らなかった甘い菓子を喜んで口にするようになっていった。本気で思いつめていた子どもには拍子抜けもいいところだった。

 日本に上陸して全国に駐屯したアメリカ兵は、地方出身の素朴な若者が多かったという。戦争中に学校の先生から教わってきたような、 “憎むべき鬼畜米英”ではなかったのである。しかも子どもにそういう教育をしてきた大人たちは、GHQやマッカーサー将軍を崇めるかのごとく、アメリカの占領政策をそのまま受け入れてしまった。

 それまで信奉してきた皇国史観をしまい込み、反省もないままそそくさと民主主義に対応していった。その様を見ていた子どもたちに、不信感が生じるのは当然だった。変わり身の早い大人たちを見て、阿久悠も大きな声で語られるスローガンなどの言葉は、二度と信じるまいと述べていた。

 

 何しろ、ぼくらの世代は、堂々たるスローガンを信じてひっくり返され、教科書にベットリと墨まで塗って、「なかったこと」にさせられた少年の時代を持っている。
 声高なもの、美味しい言葉も、スローガンの匂いを発すると信じない。それが、風俗や音楽や文化で主張する方法があり、政治より人の心をつかめると知って、浮き立つものを覚えたのである。
(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社 2004)


 阿久悠は1955年の春になって明治大学に入学するために、息苦しかった思い出が残る故郷の淡路島から東京へ出てきた。そしていい時代にやってきたと自分に言い聞かせて、街歩きや映画を観ることで雌伏の期間を過ごすことになる。


※ 次回の更新は10月15日の予定! 第7章「少年時代の記憶、心の傷あと」前編②抒情歌の流行に背を向けて、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之