~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第7章 ②】


➀戦争で奪われた音楽の自由
抒情歌の流行に背を向けて
③阿久悠と上村一夫の歌づくり修行
④「上を向いて歩こう」を聴いて号泣した理由


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち“ニューミュージック”を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回お届けするのは、第7章「少年時代の記憶、心の傷あと」から前編②抒情歌の流行に背を向けて、をお送りします。

 安保闘争(日米安全保障条約反対闘争)に揺れる1959~60年。騒然とする世相とロカビリー・ブームに沸く音楽シーンは、若き音楽家たちにどのような影響を与えたのでしょうか。そして、作曲家や作詞家、音楽家たちは、新しい音楽にどのように挑戦していたのかを考察します。

第一部 第7章 少年時代の記憶、心の傷あと

 

②抒情歌の流行に背を向けて

 

 若い学生や都市労働者たちを中心にして、どこか懐かしい思いを感じさせる歌が歌声喫茶などで流行したのは、1955年頃からのことだった。斬新なロッカバラードの「黒い花びら」(1959)がヒットする少し前に、古風とも思えるような抒情歌が登場してきたのである。

 アマチュアの学生が作詞作曲した「北帰行(ほっきこう)」は、戦時中から満州にあった旧制中学で寮歌として唄い継がれていたものだ。それが外地から引き揚げてきた人たちによって、日本でも望郷の歌として口伝で広まっていった。

  北帰行
  作詞・作曲:宇田 博

1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

2 夢はむなしく消えて
  今日も闇をさすろう
  遠き想いはかなき希望
  恩愛我を去りぬ

3 今は黙して行かん
  なにをまた語るべき
  さらば祖国愛しき人よ
  明日はいずこの町か

 メロディーと日本語の節回しに少し不自然なところがあり、「恩愛(おんあい)我を去りぬ」といったわかりにくい歌詞もあった。しかしそういうところが素人っぽくて、かえって親しみを感じさせたのかもしれない。

 戦時中に学徒動員によって兵器工場で働いていた中央大学の予科生だった藤江英輔(ふじええいすけ)が、日本自然主義文学を代表する島崎藤村の詩集『若菜集』の中にあった「高楼(たかどの)」に曲をつけた「惜別の歌」も、「北帰行」と同じく短調の三拍子で哀愁を感じさせるメロディーに特徴があった。

 この歌は終戦の前年の春から大学の仲間たちに口伝で広まったらしく、召集令状が来たことで出陣する学徒兵を送るときの別れの歌になった。そして戦後になってからも中央大学では学生歌や送別歌として、長くうたい継がれてきたのである。

  惜別の歌
  詩:島崎藤村 作曲:藤江英輔

1 遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2 別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3 君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

 こうした抒情歌が都会の“うたごえ喫茶”から自然発生的に広まり、レコード会社がそれを時代の気分として取り上げたことで、いくつかのヒット曲が生まれてきたのは、1960年代のことだった。なかでも代表的なものは10代だった東北地方の少年たちが、日中戦争の頃に作ったという「北上夜曲」である。

 これはタイトルにもうたわれた北上川が流れる岩手県下で、作者が不明のまま戦前から口伝で歌い継がれてきたものだった。やはり短調の三拍子で、和田弘とマヒナスターズ、ダークダックス、ボニー・ジャックスなどのコーラス・グループがレパートリーにした。それぞれの所属するレコード各社が競作でレコードを発売したところ、地味な動きながらも合わせるとかなりの売り上げ枚数になった。

 そして歌が作られてから30年の歳月を超えて、岩手県内に住んでいた作者たちが名乗り出てきたのである。この時期に抒情歌が流行した背景には、保守的な層からの揺り戻しという、パワーバランスが働いた面もあったと思われる。

 和洋折衷のスタイルの「南国土佐を後にして」がヒットしたのは1959年だが、これを歌ったのはジャズシンガーとしてキャリアを積んできたペギー葉山だった。戦時中に高知県出身の兵士による“鯨部隊”が、遠く離れた故郷を偲んでつくった歌を原曲とするレコードは、すでに鈴木三重子が発売していたが広まらなかった。ところがNHK高知が開局イベントの中で、ゲストのペギー葉山が地元にちなんだ曲を歌ってもらうことになり、ジャズ風にアレンジして評判になったのだ。

 その中で使われていた地元の俗謡の「よさこい節」からは、風土に根付いた文化の香りが感じられたし、くせのない素直な日本語の歌唱も新鮮だった。そこで1959年にレコード化したところ全国的にヒットし、日活が製作した同名の映画も8月に公開されて、主演した小林旭をスターにする相乗効果もあって、翌年まで売れ続けたのである。

 そんな望郷の歌が流行していた1959年から1960年の初めにかけて、アメリカとの安全保障条約の改定に手を付けた岸信介首相の率いる一行が、訪米してアイゼンハワー大統領との会談に臨んで調印に合意した。しかし野党の反対で新条約をめぐる国会審議が暗礁に乗り上げたことから、衆議院で多数派だった自由民主党は5月19日に強行採決に踏み切る方針を固めた。

 その強引な国会運営を見ていた学生や労働者の間で、反対運動が一気に盛り上がったことで、一般市民にも危機感が共有されたのである。国会を取り巻くデモが行われたことで、自民党はデモ隊を制圧するために右翼の大物を動かし、そこからの要請を受けた右翼団体や博徒、テキヤなどが東京に集結してきた。

 全学連の学生デモ隊とにらみ合うなかでは、学生を襲撃する事件が起こるなど混迷に拍車がかかった。そして6月15日の夜に両者が国会の構内で、警官隊を巻き込んで衝突したことから、現役の東大生だった樺美智子(かんばみちこ)さんが死亡したのである。このニュースが衝撃とともに全国に伝わったことで、批判の矛先は岸政権の横暴な国会運営に向けられた。

 そのために混乱の責任をとって岸内閣が退陣することになって、なんとか事態は収束に向かったのだが、安保条約そのものは政府の思惑通りに自然改定された結果、日本とアメリカの主従関係はさらに強化されることになったのである。空前の盛り上がりを見せた国民運動は、反対派の挫折に終わったのである。

 国民の大多数に嫌われていた岸政権を受け継いだのは、霞が関の官僚出身だった自民党の池田隼人だった。さっそく経済成長重視の方針を打ち出すと、それを「所得倍増計画」というスローガンにして岸とは対照的に低姿勢を演出した。そこで首相が口にした「私は嘘を申しません」が流行語になり、過熱していた“政治の季節”は一息つく形になった。

 そうしたことを契機にして街全体にはしばらくの間、どことなく空虚なムードが漂っていたという。

 前年から「黒い花びら」(水原弘 1959)がロングヒットになったのは、黒い花びらが散るという歌詞が鎮魂歌のように聴こえたからだろう。そんななかで少しずつヒットし始めたのが、樺美智子さんの死を想起させる歌詞の「アカシアの雨がやむとき」(作詞:水木かおる 作曲:藤原秀行 1960)だった。どこか投げやりとも思えるような西田佐知子のハスキーなヴォーカルは、厭世観を漂わせる歌詞と相まって、時間をかけて深く静かに広まっていった。

 この時期の抒情歌の流行について阿久悠が、自らの体験に重ねて次のように分析している。

 

 安保の嵐が過ぎた次の年、つまり昭和三十六年になって、「北帰行」とか「北上夜曲」「惜別の唄」などが流行し始める。古典的な抒情歌である。前年までラジカルに吹いてた風がピタリとやみ、見渡すと荒野にひとりという感慨の青年たちの、胸を慰めるものがあったのかもしれない。突然なつかしい風景に出あったような気持ちにさえなって、それらの歌を聴いた。
 ぼくは、広告代理店に勤めて三年目になっていた。テレビ時代の完全な到来――この年、「夢であいましょう」「シャボン玉ホリデー」が放送開始、NHK連続テレビ小説第一号「娘と私」もスタートしている――の中で、新しいもの、珍しいもの、面白いものを発見することが使命のように思って張り切ってはいたが、仕事を終えて間借りの部屋へ帰る途中などには、「北帰行」に胸痛くなる思いが確かにあった。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 叙情歌や望郷ソングの感傷を複雑な思いで聴いていた阿久悠は、一匹狼であろうとしていたのでモダンジャズを聴かせる喫茶店で、「つっぱらかっていた」と記している。とはいえ、山手線の駒込に住んでいたこともあり、就職していた銀座の宣弘社への行き帰りには、なんとなく気になって上野で途中下車したことがあったと述べている。

 山手線を上野駅で降りて東北本線や奥羽本線、常磐本線などが発着する長距離列車が見える位置へ移動し、そこからよくホームを眺めていたのは、当時から身についていた作家としての観察眼によるものだった。

 

 ぼくは、西日本が生まれ育ちであるから、上野駅に特別の感慨はない。ここが故郷につながっているという思いももちろんない。第一、ぼくは故郷意識が希薄な人間である。皆無といってもいい。それなのに、長距離列車が発着するホームを熱心に見ているといった行動とったのは、「北帰行」に歌われている青年の感傷を、疑似体験していたのだと思う。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 ここで“青年の感傷”を疑似体験していたことが、作詞家になってから役立つことになった。これもまた歌を受けとめる感性の応用だが、自らの体験とともに何ごともよく観察し、心の中でシャッターを切って記憶し、アイデアが必要となった時にはいつでも引き出せるように整理していた。

 

日本の音楽文化史(1)

北帰行 / ボニー・ジャックス(EP盤 1961)



※ 次回の更新は10月15日の予定! 第7章「少年時代の記憶、心の傷あと」後編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之