~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第8章 ①②】


漣健児が残した訳詞の功績 「ステキなタイミング」
②宮川泰と岩谷時子
の無国籍歌謡 「恋のバカンス」
③哀しみが込められた素直な訳詞 「ドンナ・ドンナ」
④作詞で本領を発揮した安井かずみ 「若いってすばらしい」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第8章「60年代初頭にカヴァー・ポップスで育った世代」より前編、①漣健児が残した訳詞の功績、②宮川泰と岩谷時子の無国籍歌謡、をお届けします。

 時は1960年初頭、海外のポップス(洋楽)が大量に流れ込んできた。日本の作詞家や作曲家。編曲家はそれらどのように向き合って、日本独自の新しい音楽に挑戦をしていったのでしょうか。前編では、「ステキなタイミング」(ダニー飯田とパラダイス・キング 1960)と「恋のバカンス」(ザ・ピーナッツ 1963)を通して、訳詞の仕事を考察していきます。

第一部 第8章 60年代初頭にカヴァー・ポップスを創った人たち

 

漣健児が残した訳詞の功績
「ステキなタイミング」

 

 草野昌一(くさのしょういち)は早稲田大学に通いながら、父が経営する新興音楽出版社(現シンコーミュージック・エンタテインメント)から発行されていた雑誌『ミュージック・ライフ』の編集長を務めていた。その一方では自社で出版する楽譜のために、海外の楽曲に訳詞を付けることもあった。

 やがて漣健児(さざなみけんじ)のペンネームで本格的にポップスの訳詞を始めるのは1960年に入ってからになるが、それ以前から彼の訳詞は覚えやすく、歌いやすいものだったという。

 たとえばクリスマス・ソングの「赤鼻のトナカイ」は、主人公のトナカイにルドルフという名前があり、原詞に仲間たちの名前も一頭ずつ書いてあった。ところが訳詞には主人公の名前も出てこないし、仲間たちは「みんな」と三文字にまとめられてしまった。

 しかし、だからこそメロディーとリズムの邪魔をせず、日本語の歌詞が自然に唄えたのである。しかもコンプレックスになっていた赤鼻が道を照らすと、サンタクロースの役に立ったことで褒められたという、オリジナルにあった骨子は失われていなかった。

 それは原詞を訳してから譜面に歌詞を乗せるのではなく、とにかく曲を聴き込んで全体の印象をつかみ、タイトルを先に決めた後で歌い手をイメージし、メロディーを口ずさんで一気に歌詞を書いていたからだ。

 漣健児の訳詞が歌える理由について、東芝レコードのディレクターだった実弟の草野浩二がこう述べている。

 

「(漣健児は)ワン・コーラス目がきっちりはまっているんだよ。というのもオタマジャクシ(音符)にはめ込んで訳詞を書いていないから、耳から聴いて書いているから、原稿用紙を見ているだけで歌えてしまうんだよ」
(濱口英樹『ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人』シンコーミュジック 2018)

 

 ビクターレコードから移籍したばかりのロカビリー・バンド、ダニー飯田とパラダイス・キングの担当になった草野浩二は、東芝レコードへの移籍第一弾シングルを外国曲のカヴァーでいくことにした。そして選曲のために『ミュージック・ライフ』の編集部に行って、海外から取り寄せた最新のレコードを聴いていた。

 その時に、「これ面白いんじゃないの」と兄の昌一が選んだのが、フランスでヒットしていたエジプト起源と思われる楽曲だった。エキゾチックなメロディーに可能性を感じた浩二は、「ムスターファ」というタイトルにふさわしい訳詞をつけるため、フジテレビのディレクターだった椙山浩一(すぎやまこういち)に相談した。

 そこで紹介された若い放送作家の青島幸男(あおしまゆきお)は、トルコ語らしい原詞の意味がわからないまま、耳で聴いてひらめいたコミカルな歌詞を書き上げた。ムスターファが見初めた女の奴隷を救い出すために、夢中で働いて金を貯めて、トルコで一番の金持ちになって訪ねてみたら、彼女は六十才になっていたという寓話だった。

 タイトルに「悲しき六十才」という邦題がつけられたのは、ザ・ピーナッツのカヴァー・ポップス「悲しき十六才」がヒットしていたからだという。これもまた単なる思いつきにすぎないが、そういう軽さが思わぬヒットに結びついたのだ。

 そうした経緯で生まれた歌が10万枚を売り上げるヒットになり、リード・ヴォーカルを担当した18歳の坂本九(さかもときゅう)が人気者になった。しかし次に発売された「ビキニスタイルのお嬢さん」で、坂本九はヴォーカルではなくコーラスの一員で、間奏のセリフを担当していた。ところが人気が出たおかげで、視聴者たちから坂本九の歌と笑顔を求めるリクエストが寄せられた。

 そこで歌番組では坂本九がリード・ヴォーカルのB面曲だった「ステキなタイミング」を唄うようにしたところ、それが思いもよらぬ大ヒットにつながったのである。アメリカの黒人シンガーだったジミー・ジョーンズがリリースし、全米3位となったばかりの「A GOOD TIMIN’(邦題:ステキなタイミング)」は、ジャズ喫茶で唄っていた坂本九のカヴァー曲から選ばれた。この時に日本語の歌詞が必要だということになり、この曲を見つけてきた草野昌一は時間もないので、自分で訳すことにした。

 そこでペンネームを「漣健児」としたことから、日本の音楽史に残る訳詞家が誕生したのである。

 この楽曲がヒットしたことによって、漣健児の評判が一挙に高まり、そこから数多くのカヴァー・ポップスがつくられた。山下達郎が取材で語った以下の言葉が、実に的を射ているので紹介したい。

 

「洋楽のメロディーに日本語の詞を乗せるという、我々が今も変わらずやっていることは、漣健児と岩谷時子、このお二方が書かれた詞の中で、ほとんどすべてが完結していたといっても過言じゃないんですよ」
(漣健児BOX ライナーノーツより)

 

 その後のロックやフォークに至るまで、当時の子どもたちの言語感覚はかなり鋭かった。それは外国曲にルーツを持つ、カヴァー・ポップスによって育まれてきた感性だったと考えられる。

 坂本九が笑顔で「♪ティカ ティカ ティカ ティカ」と歌った「ステキなタイミング」には、本家のジミー・ジョーンズも顔負けするくらい、ごきげんなグルーヴ感があった。そしてその「グッドタイミング」を耳にして、坂本九が持っているポテンシャルの高さに気付いたのが、作曲の仕事に本腰を入れた中村八大だった。

 

日本の音楽文化史(1)

ステキなタイミング / ダニー飯田とパラダイス・キング ※リード・ヴォーカル:坂本九(EP盤 1960)

 

②宮川泰と岩谷時子の無国籍歌謡
「恋のバカンス」

 

 新しいタイプのポピュラーソングが生まれてきた1960年代初頭を振り返って、それまでにはなかった歌謡曲が出てきたことに、なんとなく気づいた時のことを阿久悠はこのように語っていた。

 

 第一回ウエスタン・カーニバルが昭和三三年。それと相前後して、日本のジャズ経験者たちが歌謡曲を作り出す。中村八大さんが永六輔さんとのコンビで「黒い花びら」「上を向いて歩こう」を書き、宮川泰さんが「恋のバカンス」を書く。歌謡曲ではあるけれども、なんか、ベースが違うな、と思わせる歌が出てきましたね。
(阿久悠『命の詩(うた)〜「月刊you」とその時代』講談社 2007)

 

 ここで彼が “歌謡曲ではあるけれども、なんか、ベースが違うな” と思わせた歌こそは、戦前から続いてきた流行歌や、戦後に登場した歌謡曲の先端に位置する日本のポピュラーソングであった。文中に出てきた「恋のバカンス」を作曲した川泰(みやがわひろし)は、シックスジョーズを脱退した中村八大との間にひとり、メンバーを挟んで後任のピアニストになった。

 だから年齢は同じだったが、ジャズメンとしては後輩にあたっている。そして1961年に「上を向いて歩こう」がヒットしたことに刺激されて、宮川はザ・ピーナッツのために「ふりむかないで」を書きおろしている。それが1962年にヒットしたことで、自分が所属する渡辺プロダクションの歌手に、オリジナル曲を提供してヒット曲を生み出していった。

 宮川は作曲も編曲も独学でシックスジョーズのピアニストを続けながら、テレビの収録現場などで編曲を経験するなかで実績を積み上げていった。しかし中村八大についてだけは著書のなかで、こんなエピソードを記している

 

 まだ僕が東京に出てきたばかりの頃に、八大さんとお目にかかる機会がありました。それで僕は自分の好きな曲の譜面をいくつか持っていて、
「これはどんなふうに演奏したらいいと思いますか?」
って質問したんです。
 すると八大さんがその譜面を、どれどれ眺めると、
「ちょっとこっちにいらっしゃい」
といってピアノのところまで僕を連れて行き、30分くらいかけて丁寧にレクチャーしてくださいました。これは凄い勉強になりました。
(宮川泰『若いってすばらしい―夢は両手にいっぱい宮川泰の音楽物語』産経新聞出版)

 

 決して難しいテクニックではなかったというが、そのアドバイスによって楽曲が明らかに洒落たものになった。それ以来、宮川は “八大さんは永遠の師匠だ” と思うことにしたと述べている。

 ザ・ピーナッツの楽曲でコンビを組んでいた作詞家の岩谷時子(いわたにときこ)は、宝塚出身のエンターテイナー越路吹雪(こしじふぶき)を担当するマネージャーだった。そして越路が舞台で唄うシャンソンの「愛の讃歌」を訳詞したことで、ショービジネスの世界で注目を集めた。

 そこから渡辺プロダクションのザ・ピーナッツを皮切りに、園まり(そのまり)、梓みちよ(あずさみちよ)、布施明、加山雄三の作詞を引き受け始めたのである。そんな岩谷時子の日本語訳の素晴らしさを、早くから絶賛していたのが永六輔だった。

 1963年に東京宝塚劇場で江利チエミ(えりちえみ)が主演するブロードウェイ・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が幕を開けた。主な共演者は高島忠雄、益田喜頓(ますだきいとん)、八波むと志(はっぱむとし)だったが、前評判は今一つ盛り上がっていなかった。とくにソプラノのジュリィ・アンドリュースが当たり役にしていたヒロインを、江利チエミがハスキーなアルトで演じるのはミス・キャストだ、という声があがっていた。

 だから興行第一主義の安易なキャスティングだとも言われていた。ところが幕を開けてみると、実際の舞台は大ヒットになって、初日にはアンコールの拍手がなりやまなかった。カーテンコールに登場した出演者たちはみんな、感激の涙で前が見えないほどだったという。

 この時に永六輔は雑誌『キネマ旬報』の劇評で、「高島、江利、益田、八波、ミス・キャストという点を除いて百点満点。装置、演出は舶来品だが菊田一夫プロデューサーもご立派」と評した。そのうえで、「どうして岩谷時子に頼まなかったのか」という残念な気持ちを、こんな文章にして語っていたのである。

 

 岩谷時子という訳詞の名人をいざという時になぜ使わなかったのかが疑問。日本語のイントネーションを無残なまでにぶち壊した。正しい言葉を使わせようというヒギンズ教授の歌にいくつかのアクセントの狂いを発見したときの悲しさ……。
 そんな小さなことを気にするなという方に岩谷時子の訳詞を聞いてくださいと言いたい。大切なことなのである。越路吹雪のシャンソンがいかに美しい日本語かということならわかると思う。これも岩谷時子訳である。最近、東宝をやめたから、そのせいで、とかんぐりたくもなるが、なんとしても惜しいことをしたものだ。
 言葉が譜面の上で正しく生きているかは、これからのミュージカルで最も問題にされなければいけないと思う。(全文よりの抜粋)
(村岡恵理『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』光文社 2019)

 

 岩谷時子が訳詞に取り組むにあたって最も留意していたのは、「言葉が譜面の上で正しく生きているか」であった。訳詞という仕事において最大のスキルが必要とされるのは、つねにそこの納得感だったようだ。

 八大&六輔のコンビがつくりあげた日本のポピュラーソングに刺激されて、最初に生まれたヒット曲は1962年2月に発売されたザ・ピーナッツの「ふりむかないで」だった。作曲と編曲は宮川泰、作詞が岩谷時子というコンビの作品である。

 ここから1963年に「恋のバカンス」をヒットさせると、このコンビは1964年に大人向けの「ウナ・セラ・ディ東京」も世に送り出している。それらは洋楽のカヴァーとも間違えられるくらいに、日本的な風土を感じさせない都会的な作品となった。

 マスコミから〈無国籍ソング〉とか〈無国籍歌謡〉とも名付けられたのは、当初のうちは外国かぶれと揶揄するニュアンスが含まれていたと思う。だが音楽的なクオリティが西洋的で、洋楽と間違えるような楽曲だったことへの驚きが、いつからか称賛に変わっていったのだ。

 「ウナ・セラ・ディ東京」は海外の作品に比較しても、歌唱とサウンドはまったく見劣らないレベルにあった。そして第6回日本レコード大賞(1964)では、作曲賞と作詞賞に選ばれたのである。

 その後に明らかになった「恋のバカンス」にまつわるエピソードは、世界で通用する名曲だったことを証明している。ソビエト連邦では1960年代にロシア語でカヴァーされてヒットしていたが、“鉄のカーテン” にさえぎられた共産圏の国だったことから、日本ではまったく話題にならないままに終わった。

 そして日本の歌だということが知られないまま、ロシアではスタンダード曲になっているという。

 

日本の音楽文化史(2)

恋のバカンス / ザ・ピーナッツ(EP盤 1963)



※ 次回の更新は11月5日予定! 第8章、後編をお送りします。今でも歌い継がれる「ドンナ・ドンナ」「若いってすばらしい」を通じて、さらに考察を深めます。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之