~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第9章 ①②】


①新しいソングライターの台頭 「知りたくないの」
②GSのブームが起こった背景 「青い瞳」

③サイケデリックとザ・フォーク・クルセダーズ 「帰って来たヨッパライ」
④素人だったからゆえの自然体
⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い 「ブラインド・バード」
⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲 「悲しくてやりきれない」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第9章『歌謡詩人から遠く離れて』より前編、①新しいソングライターの台頭、②GSブームが起こった背景、をお届けします。

 1960年代後半。日本のポップスに自由な発想と表現が目立つようになってきました。カヴァー曲から自作曲へ。文語体から口語体へ。若き音楽家たちは、それまでを継承しながらも、新しい音楽へどのように挑戦をしていったのでしょうか。

第一部 第9章 歌謡詩人から遠く離れて

 

①新しいソングライターの台頭
「知りたくないの」

 

 アメリカで1953年に発表されてヒットした「I Really Don't Want to Know」は、カントリーの分野では知られていた楽曲だった。菅原洋一はこれをアメリカ軍の基地で聴いて、「たそがれのワルツ」と名付けてレパートリーにしていた。

 ポリドール・レコードのディレクターで菅原を担当していた藤原慶子(後の松村慶子、通称おけいさん)は、エンリコ・マシアスのシャンソンをカヴァーする企画をたてたときに、「たそがれのワルツ」をB面に入れることにした。それは菅原の希望を受け入れてのことで、A面の「恋心」ともども新鮮な日本語の訳詞が欠かせないと考えて訳詞者を探した。

 その当時、ポリドールが石井好子事務所と組んで、スポーツニッポンが後援したシャンソン・コンクールがあった。おけいさんはそこで優勝曲に選ばれた「ラ・マンマ」をレコーディングしたが、そのときから訳詞のなかにし礼(れい)という名前に関心を持ったという。だから菅原の新曲をつくるにあたって、AB面とも訳詞を依頼することにしたのである。

 なかにし礼がその時の話を、このように回想していた。

 

 その頃僕は立教の仏文の学生でしたが、アズナブールが好きでよく人から頼まれてシャンソンの訳詞をしていました。「ラ・マンマ」 は僕が訳詞したものを小林睦美が歌って、シャンソン・コンクールで優勝したのですが、それがポリドールでレコーディングされた時も、ぼくは行きませんでした。
 もしも、レコーディングに行ってたら、おけいさんと会っていたかもしれないし、あんな笑い話も生まれなかったかもしれない。
 突然、 僕のところにおけいさんから電話がかかってきたんです。「なかにし礼さん、お願いします」というから「僕です」と答えたんですね。そしたら、「あら、男の人なの!? 名前が礼っていうから、てっきり女の人かと思っちゃった」って電話の向こうでケラケラ笑い転げちゃってね(笑)。それが訳詞の発注の電話でした。
(石原信一『おけいさん』八曜社 1992)

 

 中西禮三は学生時代からの数年間で、シャンソン歌手のために1000曲も訳詞をしていた。その中のひとつが藤原の目に留まって、「恋心」でチャンスを得たのである。そして「I Really Don't Want to Know」は英語だったが、原詩とは関係なく自分なりのイメージで日本語詞を書いた。

 それが1964年のことで、中西は年齢がすでに27歳になっていた。やがて菅原がレコードに吹き込んだ「知りたくないの」は、1965年から1年以上にわたって品川にあったホテルのラウンジで唄われた。そこから常連客に浸透して、やがて都市部で加入店が増加していた有線放送のリクエストを通じて広まった。

 それが1966年から67年にかけてレコードのセールスに結びついて、ロングセラーになったのである。クラシック出身の菅原が持っていた確かな歌唱力が、ふくよかな歌声とともに認められたといえる。

  知りたくないの
  作詞:なかにし礼 作曲:Robertson Don

  あなたの過去など 知りたくないの
  済んでしまったことは 仕方ないじゃないの
  あの人のことは 忘れてほしい
  たとえこの私が 聞いても いわないで

  あなたの愛が 真実なら
  ただそれだけで うれしいの
  ああ愛しているから 知りたくないの
  早く昔の恋を 忘れてほしいの

 上品なうたい出しで始るAメロからサビに転じると、「♬あなたのあいが まことなら ただそれだけで うれしいの」と、日本的な七五調になる。そこでの変化と安心感が大人たちには親しみやすかったのだろう。

 なかにし礼はこのようにして誕生したヒット曲に続いて、新婚旅行先の伊豆のホテルで偶然に知り合った石原裕次郎との出会いから、縁あって事務所の石原プロモーションで引き受けることになった歌手の黛ジュン(まゆずみじゅん)に、再デビューのために「恋のハレルヤ」(作曲:鈴木邦彦)を提供した。これは「知りたくないの」とは打って変わって、エレキギターとビートを強調した楽曲になった。

 1966年の後半からグループ・サウンズGS)のブームが到来したこともあって、その翌年に発売されたレコードは、関係者の予想をはるかに上回るヒットを記録した。そこから鈴木邦彦とのコンビによる「霧のかなたに」と「乙女の祈り」が連続ヒットし、黛ジュンはトレードマークのミニスカートとともに一世を風靡した。

 なかにし礼も1968年にはGSのザ・テンプターズに書いた「エメラルドの伝説」(作曲:村井邦彦 編曲:川口真)がヒットして、ヴォーカルの萩原健一(ショーケン)が17歳の若さでスターの座についた。そして年末には第10回日本レコード大賞で、黛ジュンの「天使の誘惑」(作曲:鈴木邦彦)がグランプリを受賞している。

 さらには年が明けてからは、鶴岡雅義と東京ロマンチカのムード歌謡「君は心の妻だから」がロングセラーとなった。このようにして、なかにし礼がジャンルやレコード会社の壁を超えて、作詞家として華々しい活躍を見せたことと並行して、レコード業界にも本格的な変化が到来したのである

 ベテラン中心の専属作家では対応できないジャンルで、若いフリーランスの作詞家や作曲家がヒット曲を量産し始めた。作曲家の鈴木邦彦は黛ジュンのビートを強調した歌謡曲でブレイクすると、GSでもザ・ジャガーズの「ダンシング・オール・ナイト」(作詞:漣健児)、ザ・ダイナマイツの「トンネル天国」(作詞:橋本淳)、ザ・ゴールデンカップスの「長い髪の少女」(作詞:橋本淳)をヒットさせている。

 学生時代からピアニストとして活動していた鈴木邦彦は、中村八大と出会ってサポート・メンバーに加わり、NHKの『夢であいましょう』にも何度か出演した経験があった。やがてプロの作曲家になったのは中村八大に影響されてのことだったと述べている。

 

知りたくないの ジャケ写.jpg

知りたくないの / 菅原洋一(EP盤 1965)

 

②GSのブームが起こった背景
「青い瞳」

 

 グループサウンズGS)の記念すべき第一号作品となったのは、ロカビリー・ブームの時代から鹿内タカシのバックで演奏していた、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(通称ブルコメ)の「青い瞳」という楽曲である。これを作詞して1966年にヒットさせた作詞家の橋本淳(はしもとじゅん)は、父である児童文学者の与田凖一によって、子どもの頃から将来は小説家になるという前提の英才教育を受けていた。

 10代の頃には小説家の家に預けられたので文士の生活には馴染みがあったし、新潮社や朝日新聞の編集者からも小説家になるように期待されていた。しかし文士同士でしか許されないエゴイスティックな関係や、そこから生じたトラブルを目の当たりにして、挫折して小説家をあきらめたという。そんなところに友人の紹介で、フジテレビの椙山浩一に出会ったのだ。

 音楽番組のディレクターだった椙山はその後、すぎやまこういちの名前で作曲家に転向するのだが、橋本が当時の音楽状況について語っていた言葉を引用する。

 

 そもそもGSのスタートの全てがすぎやまこういちさんなんですよ。
 その当時は、ビートルズが「ミッシェル」を出した頃で、クラシックが好きなすぎやま先生は、その曲にいたく感動されて「こういうものを日本でも作ろうよ」と言い出されました。
 僕はずっとクラシックばかり聞いていたので、日本の歌謡曲を全然知らなかったのですが、先生のストラビンスキーの「春の祭典」風の曲を聞かせて貰って、すごく興味深いものがありました。帰り際に先生から譜面を渡されて「明日までに歌詞をつけて来てよ」と言われました。当時、何も知らない僕は「歌詞って何ですか?」というところから知り合った訳ですよ。親が童話作家だったことを先生は知っていて「何とか文字が書ける」と思われたんでしょうね。
 そこで渡されたのはコードとメロ譜だけだったので、橋本は友人に教わって、とりあえずインチキなのを作って、翌日届けたら「採用!!」とか言われちゃってね(笑)。
(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ公式サイト「橋本淳氏インタビュー」)

http://www.bluecomets.jp/interview/hashimoto1.html

 

 青山学院大学の4年に在籍していた橋本は、椙山から「明日から僕の運転手になれ」と言われて、そのままテレビ局の現場に行くようになったという。そしてフジテレビで椙山が担当していた『ザ・ヒットパレード』や『おとなの漫画』で、個人的な助手として手伝い始めた。

 毎朝、自宅まで迎えに行き、フジTVまで送って番組が終わるまではスタジオの雑用、その後の遊びにも付き合って、午前4時頃に自宅へ送り届けると、また翌朝9時には迎えに行く生活だった。

 

 半年くらい経って、ブルコメをスタジオに残して、「2人で何か歌を作ってよ」と井上忠夫と僕に言われました。番組では、まず台本を決めて、次にタレントを決めて、それからアレンジャーに注文していました。ピーナッツなどはフルバンドの譜面で、森岡賢一郎や宮川泰さんなど超売れっ子作曲家に依頼すると、曲が決まって1週間前になっても譜面が出来て来なかったこともありました。でもブルコメだけは「これとこれ」と言うと自分達で作ってきてくれるからスタッフ内でも評判がよく、安心でしたよ。
(前出 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ公式サイト)

 

 歌詞が先にできた「青い瞳」に、メンバーの井上忠夫(後に井上大輔)が曲を作った。

 

 フジTVのスタジオでブルーコメッツが大音量で演奏したとき聞かせてもらったんです。それまでにもすぎやま先生の曲に歌詞をつけて、歌手が歌ってくれるのを聞いたりしていたのですが、いつもピアノでしょう。ブルコメが自分達でバーン!! と聞かせてくれた時は本当に感激しましたよ。この時ですよ。僕も「歌で生きて行ってもいいかな」と思ったのは……。
(前出 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ公式サイト)

 

 しかし素晴らしい出来栄えに思えた「青い瞳」だったが、それをレコードにして発売するには、それから1年もの時間がかかっている。当時はレコード会社が専属作家制度の時代だったので、中村八大と永六輔コンビや宮川泰(みやがわひろし)と岩谷時子なの例外を除けば、邦楽としての発売を社内的に認められなかったのだ。

 「青い瞳」はコロムビアの洋楽部のディレクターだった泉明良が、新しい試みに興味を持ってくれたことで、1965年にサンプル用レコーディングが行われた。だがそこから先に進まないで、レコード発売の話は止まってしまった。

 ところが橋本と大学時代からの音楽仲間だったポリドールの洋楽ディレクター、渡辺栄吉がジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」をヒットさせたことで、新たな動きが起こったのである。

 1965年5月に発売された坂本九の「涙くんさよなら」は、浜口庫之助が作詞・作曲した手のひらにのるような小品だったが、セールスには結びつかなかった。しかし外国人がつたない日本語で唄ったのが良かったのか、ティロットソンのレコードはオリジナルよりもかなりヒットした。

 なお、この洋楽ディレクターは後に作曲家に転じて、著しい活躍をすることになる筒美京平(つつみきょうへい)だった。

 

 2月にレコーディングして、お蔵になっちゃって、「ダメだろうなぁ」と半ば諦めていました。その年に、筒美京平がドイツのガス・バッカスの「恋はスバヤク」やジョニー・ティロットソンの「バラが咲いた」「涙くんさよなら」などをポリドールでやっていて、泉さんと筒美は洋楽部員として面識があったんですね。僕と筒美は高校から一緒だから、「何とか泉さんとやりたいね」と話していた。そして、泉さんにもそれが伝わって「どうしようかな」と思っていたんでしょう。
(略)
 暮れにその泉さんが、自宅で貯まったテープの整理をしてしたら、妹さんが「すごくその曲いい!!」と言ったのが「青い瞳」だったんです。「そんなにいいの?」と言うことになって、もう一度見なおされて、僕も呼ばれたんですよ。
(前出 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ公式サイト)

 

 「青い瞳」はそこからもう一度見なおされて、翌年の3月に日本コロムビアの洋楽レーベルから、橋本淳が洋楽を意識して書いた英語詞で発売された。そして好評だったことから7月に日本語盤にも許可が出たことで、記念すべきGSの初ヒットになったのである。

 一方ではザ・スパイダースが浜口庫之助の作詞・作曲による「夕陽が泣いている」を9月に発売したところ、翌年にかけて大ヒットしてGSブームが本格化していく。

 1967年2月にデビューしたザ・タイガースは「僕のマリ―」から「シーサイドバウンド」、「モナリザの微笑み」「君だけに愛を」と、4枚もの連続ヒットを放ったことで人気グループの頂点に立った。それらは全曲、作詞:橋本淳、作・編曲:すぎやまこういちの仕事であった。

 GSブームは2年ほどで終息したが、その後もブルー・コメッツのメンバーだった井上忠夫や、ワイルドワンズの加瀬邦彦が作曲家として活躍したこともあって、歌謡曲のシーンに影響を及ぼしたといえる。それと同じ頃にCMソングやミュージカルで音楽に携わってきたいずみたくを筆頭に、元ロカビリー歌手だった平尾昌晃、演歌志向で個性を打ち出した猪俣公章(いのまたこうしょう)、さらには三木たかし、中村泰士(なかむらたいじ)、村井邦彦、そして前述の筒美京平が加わって、日本の音楽シーンは活況を呈していったのである。

 

青い瞳 ジャケ写.jpg

青い瞳(日本語盤) / ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(EP盤 1966)



※ 次回の更新は11月19日予定! 第9章『歌謡詩人から遠く離れて後編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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