~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第9章 ③④】


①新しいソングライターの台頭 「知りたくないの」
②GSのブームが起こった背景 「青い瞳」
③サイケデリックとザ・フォーク・クルセダーズ 「帰って来たヨッパライ」
④素人だったからゆえの自然体

⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い 「ブラインド・バード」
⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲 「悲しくてやりきれない」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第9章『歌謡詩人から遠く離れて』より中編、③サイケデリックとザ・フォーク・クルセダーズ、④素人だったからゆえの自然体、をお届けします。

 1960年代後半。日本のポップスに自由な発想と表現が目立つようになってきました。カヴァー曲から自作曲へ。文語体から口語体へ。若き音楽家たちは、それまでを継承しながらも、新しい音楽へどのように挑戦をしていったのでしょうか。「帰って来たヨッパライ」を通して考察を深めていきます。

第一部 第9章 歌謡詩人から遠く離れて

 

③フォークとサイケデリックの出会い
「帰ってきたヨッパライ」

 

 1960年代の後半を新しい音楽が生まれる時代へと導いたのは、中村八大永六輔のコンビによる「黒い花びら」から始まった一連の作品であった。「上を向いて歩こう」(1961)や「遠くへ行きたい」(1962)、「こんにちは赤ちゃん」(1963)、「帰ろかな」(1965)などはいずれも口語体による話し言葉の歌詞で、リズムとハーモニーが印象に残るサウンドだった。

 そこに続く形になった作詞家の岩谷時子が、1964年に年末に、「ウナセラディ東京」(作曲:宮川泰 歌:ザ・ピーナッツ)と「夜明けのうた」(作曲:いずみたく 歌:岸洋子)で日本レコード大賞の作詞賞に選ばれた。さらに安井かずみが「おしゃべりな真珠」(作曲:いずみたく 歌:伊東かり)で、1965年の作詞賞に選ばれた。

 こうして女性が連続受賞したことで新風が吹いて、「恋のバカンス」(作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰)で先陣を切っていたザ・ピーナッツは、「ウナセラディ東京」や「恋のフーガ」(なかにし礼:作詞 作曲:すぎやまこういち)といったオリジナル曲をヒットさせて人気を盤石にした。

 なおカヴァーポップスの人気番組だった『ザ・ヒットパレード』も、1960年代の後半になるとザ・タイガースが出演するなどGS(グループサウンズ)のバンドが活躍している。若者向けのポピュラーソングはこのあたりから、日本語のオリジナル曲が主流になっていった。洋楽のエッセンスを取り入れた若いソングライターたちは、積極的にオリジナルのポピュラーソングに挑んだのである。

 それから少し遅れて、自作自演のオリジナル曲を作り始めた若者たちが、GSブームが下火になってきた1968年から69年にかけて登場してきた。彼らは自由な発想で思い思いの作風を持っていたが、自分の気持ちを素直に伝えるべく、日常の口語体でメッセージ性のある歌詞を書くことで共通していた。

 高石ともや岡林信康西岡たかし中川五郎小室等遠藤賢司早川義夫といった自作自演のアーティストの楽曲は、中高生や若者をターゲットにしたラジオの深夜放送を媒体として、そこから口コミによって拡散されていった。アマチュア同士のライブを中心にした彼らの活動も、それまでの芸能界とはまったく異なるフィールドに広がった。

 ザ・フォーク・クルセダーズ加藤和彦はアマチュア時代から、友人の松山猛に作詞を手伝ってもらっていた。それは二人で夜中に集まって、一緒に歌をつくることが楽しみだったからだった。

 

 松山とね、夜な夜な一曲くらい作っているわけだから、山ほど曲はあったんですよ。その中に「帰ってきたヨッパライ」という他愛もない歌があって。理由はないんだけど、これを入れようと思いついて。
(KAWADE夢ムック『追悼加藤和彦 総特集 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社 2010)

 

 それはアメリカのカントリーを下敷きにして、交通事故で亡くなったヨッパライが天国から追い返される寓話を歌詞にしたものだった。当時は急速なモータリゼーションの発達で交通事故が多発し、社会な問題になっていたのだ。

 そうしたことを時代背景に使うことによって、二人はユニークな発想の歌にたどり着くことになる。レコーディングのために借りたスタジオでの作業から、思いもよらぬ革命的な音楽が誕生してきたのはアマチュアならではの工夫によるものだった。加藤和彦はその頃の時代背景を述べたうえで、自分が思いつきについた方法についてこんな説明していた。

 

 テープの早回しは、僕の思いつきだった。その頃はビートルズがインド狂いをしていた時代で、海外ではサイケデリック調の音楽が流行し始めていた。
 僕はフォークばかりでなく、あらゆるジャンルのレコードを聞きあさっていたために、そういったエキセントリックな曲の影響受け、独自の音を作りたいと思っていたのだが、アマチュアだから器材がない。
 せめてということで、テープを早回してみたのである。
(CDジャーナルムック『加藤和彦読本 第一章「加藤和彦事件簿」』音楽出版社 2010)

 

 ここに海外での話題として、“サイケデリック調の音楽” という言葉が出てくる。“インド狂いをしていた” ビートルズの最新作の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が、イギリスとアメリカで発売されて世界中に衝撃を与えたのはその年の6月だった。

 日本でも7月には発売になっていたので、“あらゆるジャンルのレコードを聞きあさっていた”という加藤和彦は、当然のようにそれを聴いていたであろう。そして“独自の音をつくりたい”と思っていたので、スタジオのレコーディングでは音をいじることができると考えたのだ。

 「帰って来たヨッパライ」のレコーディングでは北山修が担当した神様のセリフが、ぼんやりした口調で吹き込まれていた。それはいくらかでも “サイケデリック” らしさを、イメージさせようと思ってのアイデアだったようだ。そして松山猛がデザインしたジャケットも、刺激的な色彩を強調したサイケデリックのイメージそのものだった。

 

帰って来たよっぱらい ジャケ写.jpg

帰って来たヨッパライ / ザ・フォーク・クルセダーズ(EP盤 1967)

 

④素人だったからゆえの自然体

 

 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)は地元の京都で1967年10月1日に解散コンサートを開催し、次に25日の第1回フォークキャンプ・コンサートに出演したライブを最後に解散している。ところがその直後に神戸のラジオ局のディレクターやリスナーによって、アルバムに入っていた「帰って来たヨッパライ」が発見されて、“時の人” になっていった。

 関西から東京に飛び火したのは時間の問題だったが、そこからの展開には偶然だと片付けられない要素も関係してきた。パシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)の新入社員だった朝妻一郎は、上司からこの楽曲にまつわる著作権の権利を確保するように言われて、すぐに大阪に飛んで契約を結ぶことに成功する。

 それは交渉役の窓口になった高石事務所・代表の秦政明が、交渉に来た朝妻が20代半ばの若さだったことを気に入って、その場で契約に応じてくれたからであった。そのために関西ローカルのコミックソングでは終わらず、東京のキー局だったニッポン放送の発信によって、深夜放送の『オールナイト・ニッポン』から日本全国に広まっていったのだ。

 ここでもまた偶然だったのだろうが、結果的にフォークルはメディアミックスの成功例にもなった。おそらく「帰って来たヨッパライ」という楽曲には、音楽シーンを根本から変えるだけの圧倒的なポテンシャルが秘められていたのだ。

 そこに気がついたのがパシフィック音楽出版の専務で、『オールナイト・ニッポン』のDJを務めていた高崎一郎だった。当事者だった朝妻一郎が「原盤獲得秘話」というタイトルで、こんなコラムを書いている。

 

 秦さんはこの時、“原盤権は譲るけど、楽曲の著作権は自分で音楽出版社を作って、そこで管理するので駄目だよ” と言われ、その言葉通り、すぐにアート音楽出版を設立し、「帰って来たヨッパライ」の著作権を管理し、その後のURCレコードにつながる。
 契約が出来たことを報告すると、高崎さんはすぐに仲の良かった、東芝レコード(東芝音楽工業)の高嶋弘之さんにシングル盤の発売を依頼した。同時にパシフィック音楽出版の社長だったニッポン放送の常務、石田達郎さんが ”「オールナイト・ニッポン」の良いプロモーションになるから、この曲は「オールナイト・ニッポン」でだけかけろ” という号令を出し「帰って来たヨッパライ」も「オールナイト・ニッポン」も日本中の若者たちの知るところとなったのだ。
(『大人のmusic Calendar』)

http://music-calendar.jp/2015122501

 

 ニッポン放送の常務でもあった石田達郎はかつて、映画会社で宣伝の仕事をしていた経験もあり、流行や時代の動きに敏感なだけでなく、イベントの仕掛けとプロモーションにも熟知していた。そこで発売先のレコード会社とする契約までは音源を独占して、『オールナイト・ニッポン』で集中的にオンエアすることによって、話題を盛り上げることに成功した。

 そして各レコード会社が欲した発売の権利を手にしたのは、ベンチャーズとビートルズで洋楽が絶好調だった東芝音楽工業である。契約にあたってフォークル側が判断の決め手にしたのは、1966年のビートルズの来日公演まで洋楽課で担当していた高島ディレクターの熱い説得だったらしい。  

 当時の経緯を思い出した加藤和彦がインタビューで、笑い話のように語った言葉が残されている。

 

 一夜にして有名人、みたいな感じでしょ。レコード会社どうしようってことになって、東芝が一番熱心だったのかな、全員来て。 その頃は、ビートルズやってる有名ディレクターの高島(弘之)さんっていう、高島忠夫さんの弟が、うちにはビートルズがいるから、会わしてあげるよ(笑)みたいな、今にして思えばすごくいい加減な話をするんだけど、信じますよね、当時は。だったら、東芝はいやだから、レーベルをキャピトルの方にしてくれって。
(KAWADE夢ムック『追悼加藤和彦 総特集 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社 2010)

 

 東芝レコードが洋楽レーベルの使用を認めたこともあって、はしだのりひこをメンバーに加えたフォークルは1年契約を条件にプロ活動に踏み切った。そして年の瀬が迫った1967年12月25日にシングル盤が発売になると、初動から爆発的な売れ行きを記録したのである。翌年の春までに200万枚を出荷したもといわれたが、突如として現れたフォークルはマスメディアから注目の的になった。

 地方都市に住んでいた大学生たちが自分たちでお金を出して制作したアルバムから、ヒット曲が誕生したことの意味は大きかった。既存のレコード業界の制作システムに頼らなくても、自作自演ならば手づくりでミリオンセラーが生まれることがわかったのだ。しかもフォークルは芸能界の事務所に所属することなく、関西のフォークソング人脈から、後にURCレコードを設立する音楽舎の秦政明を窓口にしている。

 そうしたことがいずれも素人であるがゆえに、自然体で達成される快挙になったと言えるだろう。音楽業界に関わり始めていた阿久悠が、当時の心境についてこんな文章を書いていた。

 

 ぼくも、正直、やられたと思った。まだ作詞家ではなかったが、ボチボチと音楽番組の中などで使用する詞を書きながら、異色の流行歌、衝撃のポップスはないものかと模索していた時であったから、このなんとも人を食った、それでいて、シニカルな調子の歌の登場には、慌てた。
 音楽が職業歌手の手を離れるという傾向が、この年特に顕著であったが、それでも、レコードとして発売されるときには、レコード会社の資本を使い、その分だけレコード会社の意図も加わっていたが、とうとうレコード盤まで学生が完成してしまうところに来たかと、口惜しくなった。
(阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 広島の大学生だった吉田拓郎は1970年に上京してプロを目指す前のアマチュア時代に、大きな刺激を受けたのはフォークルだったと語っている。

 

 「学生の時に聴いて これはすげえと思ったら、他にも『イムジン河』とか一連のいい曲をいっぱい作っていた。僕は加藤と同じ学年です。そんな彼らがテレビに出て ギンギンのスターになっていくのを見てると これだ、これだ!って。『お前たちも東京に出ておいで』と言っているように聞こえたんです。ボブ・ディランが『ギター一本あれば歌を作れる』と思わせてくれ、フォーク・クルセダーズが『東京に行けば音楽で生きていく道がある』と思わせてくれた。当時、音楽やってるヤツはみんなそう思ったんじゃないですか」
(島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社 2015)

 

 福岡の浪人生だった井上陽水(あきみ)も下宿のラジオで「帰って来たヨッパライ」を聴いたとき、「これなら自分でもできる」と思って曲作りを始めたという。そして自作自演で吹き込んだテープをRKB毎日放送に持ち込んで、ディレクターに採用されてオンエアされたことで、プロになるチャンスをつかんだのである。

 アンドレ・カンドレ(井上陽水の旧芸名)の「カンドレ・マンドレ」という奇妙な歌が話題になっているとの情報を耳にして、福岡までやってきた音楽関係者の中には、GSブームを主導してきたホリプロダクションの堀威夫(たけお)もいた。

 

 当時、RKB毎日放送は私の叔父の堀泰(やすし)が専務しており、その番組担当者の野見山さんも旧知の間柄。行ったときにはかなりの数のレコード会社やプロダクションがスカウトに来ていたようだが、袖すり合うも他生の縁で、ホリプロが射落とすことができた。
(堀威夫『いつだって青春 ホリプロとともに30年』東洋経済新報社 1992)

 

 デビュー曲となった「カンドレ・マンドレ」は1969年9月にCBSソニーから発売されたが、期待したような成功には結びつかず、アンドレ・カンドレはしばらく試行錯誤するしかなかった。しかし、それが後に井上陽水(ようすい)となってブレイクし、ホリプロの発展に大いに寄与している。

 そこで演奏を担当して斬新なサウンドを作り上げたのはザ・モップス。編曲を手がけたのはメンバーの一人だったギタリストの星勝(ほしかつ)であった。


※ 次回の更新は11月26日予定! 第9章『歌謡詩人から遠く離れて』後編⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い 「ブラインド・バード」、⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲 「悲しくてやりきれない」をお届けします。お楽しみに!

 


 

Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

 

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