~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第9章 ⑤⑥】


①新しいソングライターの台頭 「知りたくないの」
②GSのブームが起こった背景 「青い瞳」
③サイケデリックとザ・フォーク・クルセダーズ 「帰って来たヨッパライ」
④素人だったからゆえの自然体
⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い 「ブラインド・バード」
⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲 
「悲しくてやりきれない」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第9章『歌謡詩人から遠く離れて』より後編、⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い、⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲、をお届けします。

 1960年代後半。日本のポップスに自由な発想と表現が目立つようになってきました。カヴァー曲から自作曲へ。文語体から口語体へ。若き音楽家たちは、それまでを継承しながらも、新しい音楽へどのように挑戦をしていったのでしょうか。「ブラインド・バード」と「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」の誕生秘話を織り交ぜながら考察を深めていきます。

第一部 第9章 歌謡詩人から遠く離れて

 

⑤ザ・モップスとサイケデリックの出会い
「ブラインド・バード」

 

 GS(グループサウンズ)のザ・スパイダースがアメリカ進出を目的にして、マーキュリー・レコードからシングル「ノー・ノー・ボーイ」を発売したのは1967年の春だった。ホリプロダクションの堀威夫(たけお)が渡米したのは、ウェストコーストを中心に彼らとともにプロモーション活動を行うためだった。

 2015年に行われた明治大学の資料センターによるインタビューの中で、海外進出に挑戦した顛末が簡潔に語られている。

 

 ホノルルとロサンゼルスとサンフランシスコ。地元のバンドなんかが出ていたからお客さんはそれなりに集まっていたのだけど、英語ができなくてしゃべれないから、スパイダースの番になると、歌が終わるやいなや次の曲にいく。そうするとやっている方も、聴いている方も疲れてくる。結果的にアメリカ進出は失敗でした。
 (『大学史紀要 第21号 特集 阿久悠・布施辰治』明治大学資料センター 2016)

 

 ちょうどその頃、西海岸ではフラワー・ムーブメントやサイケデリック・アートが勃興し、音楽シーンも影響を受けて新しい試みが始まっていた。そうした最新カルチャーの洗礼を受ける中で、堀威夫はジェファーソン・エアプレインのライブを体験したという。そのことがザ・モップスのデビュー曲にまでつながって、阿久悠という作詞家を誕生させるのである。

 

 やがてロスへ行って、ビートルズを日本に呼んできた永島達司さんに「サンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムで今妙な音楽が流行っているから見て来いよ」と言われてスパイダース全員を連れて見に行ったんです。ビル・グラハムっていうのがプロデューサーだった。ジェファーソン・エアプレインなんかが出ていた。」なんか真っ暗な中で、フロアが蛍光塗料かなにかで光っていて、異様な雰囲気だった。
 (前出『大学史紀要 第21号』)

 

 堀威夫は日本に帰国してまもなく、GSで売り出そうと準備していたモップスに、サイケデリックというコンセプトを当てはめることを思いついた。アメリカ進出には失敗したものの、フィルモアの妖しい雰囲気のなかで拾ってきたサイケデリックを、うまく活用しようとしたのである。

 これがデビュー作となった「朝まで待てない」につながったことで、後に “怪物” と呼ばれる作詞家が誕生するのである。ところで最初に阿久悠が作詞家の仕事を意識したのは、明治大学を卒業して広告代理店の宣広社に入って1年目の1959年だったという。

 

 永六輔さんと中村八大さんがあの歌(「黒い花びら」水原弘 1959)を発表したとき、「ああ、これならおれも書けるかなあ」と思った。これは、軽く見た意味ではなく、前よりも評価したのである。そのときは書かなかったけれども、とにかく大きな刺激だった。非常に新しい歌が出てきて、これで歌謡曲が変わるだろうという感じだった。(編集註記加筆)
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009)

 

 阿久悠は宣広社のサラリーマンでありながら、アルバイトで始めた放送作家の仕事が忙しくなっていった。そしてテレビの音楽番組で関わっていたザ・スパイダースのために、1965年には「モンキー・ダンス」などを作詞している。

 そのときに堀威夫はこんな言い方で、作詞の仕事をするようにと説得したという。

 

 僕は最初阿久さんに、「韻なんか踏まなくて良い。言葉をデザインするような感覚で作ってくれないか」って頼んだ。「阿久さんはそんなの得意中の得意じゃない」って言って頼んで、それで阿久さんは「じゃあやるか」って言ってくれた。
 (前出『大学史紀要 第21号』)

 

 しかしこの時に書いた作品について、阿久悠はプロの作詞家としての意識がなかったという理由で、公式のディスコグラフィーからは外している。したがってモップスの「朝まで待てない」が、作詞家としての記念すべきデビュー作となるのである。

 それらがいずれも堀威夫の仕事であったことは、音楽史を語るうえで特筆しておくべき事実だと思う。

 さて、最初に作詞を発注された段階ではサイケデリックがキーワードだったので、幻覚から生じるイメージを発展させて、阿久悠はまず「ブラインド・バード」を書きあげたと述べている。

 

 サイケデリックなんていっても、それはどんなものなのか、LSDを飲んでみなければわからない。ぼくも飲んだことがないし、聞く人だって、アメリカのように麻薬を回し飲みしながら聞くなんてことはありえない。
 すると、サイケデリックといってすぐに考えるのは、なんとなくひょうたん型の原色が混じり合っている感じ、というだけでしかない。だから、目をつぶったときに、真っ暗な中から真紅のバラがパッと浮かんでくる、といったイメージだけで、「ブラインド・バード」を書いた。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫 2009)

 

 それは堀威夫に言われたとおり、“言葉をデザインする感覚” の歌詞であった。こうして従来の歌謡詩人とはまったく異なる、新しいセンスの作詞家が誕生したのである。

  ブラインド・バード
  作詞 阿久悠  作・編曲 村井邦彦

  誰かが愛を 持ってゆく
  誰かが愛を 踏みにじる
  弱い小鳥は 恐ろしく
  めくらになって 夢を見る
  何にも見えない その中で
  真赤なバラが 咲きほこる
  OH!
  Please Kill me
  しあわせのうちに
  Please Kill me
  しあわせのうちに
  OH! OH!

 阿久悠にはこのとき、”どうかしあわせのうちに私を殺して” という歌詞は、それまでの歌謡曲にないパターンだという自信があった。そして当時は無名の新人だった村井邦彦がつけた曲も、ファズ・ギターを全開にしたアレンジで、サイケデリック・サウンドというしかない作品になったのである。

 しかしサイケデリックというキーワード自体がまだ一般的ではなかったので、阿久悠は東京や大阪といった都会の一部の人にしか受け入れられないだろうと覚悟した。そこでA面がわかりにくいサイケデリックならば、B面はわかりやすいものにしようと思って「朝まで待てない」を書いたと述べている。

 

 アニマルズの「悲しき願い」か、「朝日のあたる家」みたいな感じで、わりに絶叫できる歌にしようではないか。
 そうしてできたのが「朝まで待てない」という、荒っぽい感じの歌である。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫 2009)

 

 ところがいざレコードを出す段になって、「ブラインド・バード」と「朝まで待てない」」のどちらが売れるだろうかという話が持ち上がった。そして発売直前に「朝まで待てない」のほうが ”いわゆる歌らしい” という判断で、A面とB面が逆転したのである。

 そのあたりの事情を自著『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』(岩波書店)の中で、阿久悠はこのように解説している。

 

 レコードに表と裏があり、表をA面、裏をB面と称び、印税率こそAB同じであるものの、名誉とか愛着とかは比較のしようもないほど差がある。A面として発表されて初めて自分の作品、自分のレコードという意識が生まれるものである。だから、ぼくの場合、「朝まで待てない」が世に出てやっと。作詞もやっています、と言えたのである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波書店 1999)

 

 モップスの「朝まで待てない」が11月6日に発売された頃に、関西の若者たちの間では奇妙なアングラ・ソングに注目が集まっていた。それからしばらくすると、ニッポン放送の『オールナイト・ニッポン』で一斉に「帰って来たヨッパライ」が流れ始めると、たちまちのうちにリスナーからリクエストが殺到したのである。アマチュアの若者達が柔軟な発想でつくった歌が、こころか空前のヒット曲へと成長していった。

 

⑥予期せぬトラブルから生まれた名曲
「悲しくてやりきれない」

 

 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)は「帰ってきたヨッパライ」の人気が爆発しているときに、次のシングルとして「イムジン河」を発売する予定を立てた。そして『ハレンチ』に収められていたライブ音源ではなく、プロになった3人のメンバーで歌と演奏をレコーディングすることにしたのである。

 はしだのりひこが新メンバーとしてコーラスで参加すると、コンサートでの整合性もとれるので好都合だった。そしてレコーディングされた音源のテープがラジオから先行オンエアされると、予想したとおりにリスナーから好反応が返ってきた。

 ところがヒットが確実視されていたにもかかわらず、「イムジン河」はレコード店からすべて回収されてしまった。なぜならばフォークルのメンバーたちが朝鮮民謡だと思い込んでいた楽曲には、北朝鮮民主主義人民共和国でつくられた原曲が存在していることが判明したからだった。

 しかも原曲の「リムジンガン」は、朝鮮戦争が休戦協定によって収まった後に作られた、新しい作品だとわかった。したがって在日本朝鮮人総連合会から発売元の東芝レコードに対して、以下の四点を実行せよという抗議文が手渡された。

 

(1)「イムジン河」が朝鮮民主主義人民共和国の歌曲「臨津江(イムジンガン)」であり、作詞・作曲者はとも存在しているにもかかわらず作者不明とされた上に、第二・第三節の詩の内容を勝手に変更した点について事実を認めた上で謝罪すること
(2)朝日・毎日・読売の各紙とニッポン放送の番組を通じて謝罪を公表すること
(3)日本語の歌詞をオリジナルに忠実に改訳すること
(4)原曲の作詞・作曲者名を明示すること
 (松山猛『少年Mのイムジン河』木楽舍 2002)

 

 朝鮮半島をめぐる政治的な問題に直面させられた東芝レコードは、発売の前日に13万枚ものレコードを回収する判断を下している。そして「イムジン河」はその後も放送局の自主規制によって、メディアから完全に封印されてしまった。

 フォークルのメンバーだった北山修は2013年になってから、当時の気持ちをこのように述べていた。

 

 発売中止になって、 「さあどうするか」となった時に結構世間からバッシングを受けたんです。盗作呼ばわりした人もいたくらい。南(みなみ)・北(きた)に分かれて分断された悲劇を扱ったオリジナルを朝鮮民謡と誤解していた私たち。そのことを知らなかったことはほんとに見識が問われて、落ち込んでいました。
 (田家秀樹『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ〜若い加藤和彦のように』ヤマハミュージックメディア 2015)

 

 そうした混乱の中でパシフィック音楽出版の社長の石田達郎から、加藤和彦は「会議だ」と急に重役室へ呼び出された。そして「イムジン河」が発売できなくなったことを告げられた後に、その場で「次出さなきゃなんないから曲作れ」とも言われた。

 そこで「ギターがないと作れない」と答えると、部屋にはギターが初めから用意されていた。すべては石田の計画だと理解してフォークルは反抗するのをあきらめて、重役室で曲作りを始めた。

 そしてわずかの時間で、新曲のメロディーを誕生させたのである。

 

 僕の部屋使っていいから、って会長室に入れられて、3時間あげるからって鍵閉められて(笑)。
といってもひらめかないから、「イムジン河」のメロディを拾って譜面に書いてて、これ、音符逆からたどるとどうなるかなって遊んでたの。
 そこからインスパイアされてできた。
 実際には「イムジン河」の逆のメロディでもなんでもないんだけど。
 (KAWADE夢ムック『追悼加藤和彦 総特集 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社 2010)

 

 ニッポン放送の常務でもあった石田は正真正銘のゼネラル・プロデューサーだった。きっかり3時間後に部屋に戻ってくると、曲も聴かずに加藤を連れ出して、そのまま駒場に住んでいた詩人のサトウハチロー宅を訪ねた。

 戦前の「ちいさい秋みつけた」や「うれしいひなまつり」といった童謡、あるいは終戦後に日本中で響き渡った「リンゴの唄」の作詞家として知られるサトウハチローは、大衆歌謡の分野でも歌謡詩人の大家であった。1967年には日本作詞家協会の会長にも就任している。

 加藤和彦は石田の真意がよく分からないまま、戸惑いながらもおとなしくついていった。サトウハチローのほうも、連れてこられた若者がどこの何者かを知らなかった。だから特に曲を聴くでもなければ、歌詞についての打ち合わせもなく、石田が途中で手短に話していたが、お互いに簡単な挨拶を済ませて帰ってきたという。

 それから1週間後にサトウハチローの歌詞ができ上がってきた。

  悲しくてやりきれない
  作詞:サトウハチロー  作曲:加藤和彦

  胸にしみる 空のかがやき
  今日も遠くながめ 涙をながす
  悲しくて 悲しくて
  とてもやりきれない
  このやるせない モヤモヤを
  だれかに 告げようか

 試しにそれを歌ってみた加藤和彦は、最初から詞があったかのように、一字一句、メロディーにぴたりとはまったことに驚かされたという。

 

 歌ってみるとやっぱりすごいんですよ。はまってるんです。最初に詞があったかのように。何の打合せもしないのに。一字一句直さなくて、全部はまってるの。すごいですよやっぱり。
 (KAWADE夢ムック『追悼加藤和彦 総特集 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社 2010)

 

 1968年3月21日、フォークルの新曲として発売された「悲しくてやりきれない」は、順調にヒットした。全編に通底する「もやもや」とした感覚と、行き場のないやるせなさをわかりやすい話し言葉に表わした歌詞は、歌謡詩人の面目躍如たる傑作であった。

 しかし時代を超えて後世にまで歌い継がれていくことになる「悲しくてやりきれない」の陰で、平和への願いを込めてつくられたフォークルの「イムジン河」は、波乱の道のりをたどっていったのである。

 どうしてそうならざるざるを得なかったのか、ここで再び北山修の見解を紹介しておきたい

 

 ご承知のように、原詞は非常に政治的な、北の主張の込もった詞ですよね。1960年代です。でも、私たちの「イムジン河」を書いた松山猛がすごかったのは、それを南も北も対等にみて統一を願うという歌詞にしていた。これはもうほとんど作詞に近い。それがクレームをつけられて引き下げられる、というか取り下げさせられたんだけれども、それを今、歌える時代になっているっていうのは、それなりに進歩かなと思います。発売中止になったものが発売されましたしね。
 (前出『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ〜若い加藤和彦のように』)

 

 1969年2月にアンダーグラウンド・レコード・クラブ、通称URCレコードが発足した時に発売されたシングルの「イムジン河」を演奏して唄ったミューテーション・ファクトリーは、作詞した松山猛と元のメンバーだった平沼義男、芦田雅喜によるグループだった。

 原詞に近い日本語詞を唄ったシュリークスのレコードが発売されていたことに対して、北山修が「私たちは私たちの歌詞でやっぱり音源を残しておこう」と考えて、自らディレクターとして制作した作品である。だから比較しやすいようにと、B面にはあえて原曲の「リムジンガン」を収録したという。

 

 比べて聞いていただくと、いろいろ考えるところがありますよ。松山猛が何を考えていたのか、フォーク・クルセダーズはどういうグループだったのか。
 政治もあって、悲しみもあって、貧しさもあるけど、でも生きて行こうっていう。これだけじゃない、あれもこれも…いろんな面があるみたいな、そういう姿勢をフォーク・クルセダーズに盛り込んでいた。その中の大きな一曲でした。
 (前出『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ〜若い加藤和彦のように』)

 

 長きにわたって放送禁止だった「イムジン河」の封印が解けたのは、1995年にソリッド・レコードから発売されたアルバム『ハレンチ+1』からである。これは1967年の自主制作盤『ハレンチ』の復刻版で、「イムジン河」がプラス1で入ったCDだった。

 それから10年の歳月が過ぎて、2005年の1月から公開された映画『パッチギ』が大ヒットした。原案は松山猛が高校時代に「イムジン河」と出会ったことを書いた、自伝的エッセイの『少年Mのイムジン河』である。この作品では全編にわたって俳優たちに「イムジン河」が唄われたが、音楽監督を務めたのは加藤和彦だった。

 劇中で歌われた「イムジン河」と「悲しくてやりきれない」は、作品を成り立たせるうえで必要不可欠であり、映像と相まって大きな効果を引き出した。そして観客の高い評価によって2005年のキネマ旬報ベストテン1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞したのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

悲しくてやりきれない / ザ・フォーク・クルセダーズ(EP盤 1968)



※ 次回の更新は12月3日! 第10章『ムード歌謡と演歌のニューウェーブ』の前編をお送りする予定です。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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