~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第10章 ①②】


①前川清に圧倒された渋谷の夜 「ダイナマイト」
②ロッカバラードで成功した猪俣公章 「女のためいき」

③プロの仕事人が集まってきた 「長崎は今日も雨だった」
④ハワイアンと小唄とドドンパ 「お座敷小唄」
⑤口笛と鼻歌、男のブルース 「夢は夜ひらく」
⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校 「惜別の唄」



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第10章『ムード歌謡の新たなる地平』より前編、①前川清に圧倒された渋谷の夜、②ロッカバラードで成功した猪俣公章(いのまたこうしょう)、をお届けします。

 1969年の渋谷の夜。内山田洋とクール・ファイブ(ヴォーカル前川清)との思いがけない出会いはムード歌謡の概念を覆しました。そして音楽シーンに登場していた若き作曲家・猪俣公章が音楽シーンに新風を吹かせます。彼らは新しい音楽にどのように挑戦をしていったのでしょうか。

第一部 第10章 ムード歌謡の新たなる地平

 

①前川清に圧倒された渋谷の夜
「ダイナマイト」

 

 エレキバンドによる生演奏を生まれて初めて聴いて、ヴォーカリストの力に衝撃を受けたのは高校3年生の夏休み中だった。1969年7月下旬と記憶しているが、ぼくは東亰の予備校で夏期講習を受けるという名目で、父の知人宅に一ヶ月ほど世話になっていた。

 しかし実際には最初の2、3日しか予備校には行かず、家を出ても午前中から映画館やジャズ喫茶に通う日々となった。仙台では観られなかった映画を探して、名画座をまわることを優先したのだ。池袋の文芸坐と文芸坐地下、早稲田松竹、高田馬場パール座、新宿昭和館、銀座並木座、渋谷全線座、三軒茶屋映画などに通った。

 夜になるとモダンジャズやニュージャズのライブを追いかけて、池袋や新宿の繁華街を彷徨した。ジャズの『ピットイン』や『タロー』で、20代前半だったドラマーの日野元彦などを聴いた覚えがある。商業主義とは一線を画したところで、自分の音楽を追求しているミュージシャンの真剣さは印象に残った。

 そんなある日の夜、渋谷駅前にあったグランドコンパの『ファイブスター』という酒場へ、予備校の友だちとふたりで飲みに行った。そこはバーテンダーが全員、若い女性だという言葉につられて入店したのだが、“ハコバン” として出ていたバンドの生演奏を聴いて感銘を受けた。

 1ステージ30分という形で出演していたのは、2月にレコード・デビューしたばかりの内山田洋とクール・ファイブだった。それが思いがけない音楽体験になったのである。

 彼らはスーツに身を包んだメンバー5人のエレキバンドで、ヴォーカルの前川清が演奏とコーラスをバックにして唄うスタイルだった。たまたま酒を飲みながらそれを聴くことになったのだが、日本人離れした前川清のパワフルな歌声に圧倒された。

 特に英語で吠えるように唄ったクリフ・リチャードのカヴァー、「ダイナマイト」が強烈だったのだ。イギリスのエルヴィスとも呼ばれていたクリフは、端正な顔立ちで日本でも人気があった。しかしオリジナルの「ダイナマイト」を軽く凌駕する、前川清の圧倒的な歌声を聴き終えた驚きは、今でも忘れられない思い出になっている。

 ぼくは途中から心のなかで、「凄いロック歌手がここにいる!」と何度も叫んでいた。その興奮が冷めやらぬままに、最後にデビュー曲の「長崎は今日も雨だった」を聴いた。そのときもやはり、野性的なヴォーカルの “ロック” だと思った。

 ライブが終わってクール・ファイブが退場した後、「これだけの歌唱力を持っているヴォーカリストが、駅前の大型コンパで歌謡曲を唄っているのか」と、ぼくは東京という都市との出会いに胸をときめかせていた。

 それから15年後、ぼくより4歳年下の桑田佳祐が著書のなかで、前川清のヴォーカルについて語っている言葉に出会って、大きくうなずいたことがあった。

 

 前川清の魅力ってのは、例のソリッド・ボーカルですね。他の演歌みたいに、♪アッアンアンアンなんてのと違って、どなってると言うか、太いと言うか、あの直立不動で唄う姿に「すごい!!」とのめり込んじゃった。
 (桑田佳祐「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」新潮文庫 1984)

 

 ぼくがライブを見た直後ぐらいからだったが、クール・ファイブはテレビ出演が急に増えて、「長崎は今日も雨だった」が本格的にヒットした。彼らが所属していたのは1958年のロカビリー・ブームを仕掛けて成功し、最大手になった渡辺プロダクションである。

 このときにレコード会社の担当ディレクターになった山田競生は、日本ビクターの傘下で発足した新会社RCAに入社したばかりだった。明治大学に在学中からプロのハワイアンバンドで活動し、1958年からは10年間にわたって和田弘とマヒナスターズのベーシストとして活躍してきた。

 1968年にミュージシャンを卒業して邦楽制作のディレクターになり、音楽制作者の道を歩みだしたところで、最初に手がけたのが内山田洋とクール・ファイブだった。

 

 こういうコーラス・グループがあるけど、ディレクションしてみないか、という話があったとき、あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。よりによってと思いました。そのとき、すでに「長崎は今日も雨だった」のテープは出来上がっていたんです。そのテープが、長崎の有線放送で一位になっていることは、私も人伝えで知っていました。
 (中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』白夜書房 2015)

 

 クール・ファイブを担当する話がきた時に乗り気になれかったのは、歌謡コーラス・グループに限界を感じていたからだろう。しかも「長崎は今日も雨だった」は音源がすでに完成していたので、制作に関われないのだから当然である。

 ところが気乗りしないまま彼らのテープを聴いてみて、山田は心を大きく動かされることになったと述べている。なぜならばロックンロールや R&B のエッセンスが、テープから伝わってきからだった。その新しさに目を見張った山田は、担当の仕事を引き受けてスタッフに加わった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

ダイナマイト / クリフ・リチャード(EP盤 1965)

 

②ロッカバラードで成功した猪俣公章
「女のためいき」

 

 前川清にとって音楽の原点となったのは、ジャズやロックンロール、オールディーズなどアメリカの音楽であった。中学まで過ごした長崎県佐世保市では、アメリカ兵が出入りする店のジュークボックスから、いつもそうした音楽が漏れ聴こえていたという。

 そのなかでも夢中になったのがエルヴィス・プレスリーの作品で、「音楽は何が好き?」と聞かれたら、「プレスリーの曲はすべて」と答えるほどのマニアになった。そして1965年から66年にかけて流行していたエレキブームの洗礼を浴びたことで、アマチュアのバンドで唄うようになっていったのだ。

 親に内緒で高校を中退したのは学校の勉強が嫌いだったからだ。そしてサラリーマンや溶接工をしながら、長崎市の小さなクラブで唄い始めたところに、ヴォーカリストを探していた小林正樹がやってきた。

 クール・ファイブはその頃、長崎市の繁華街にあるグランド・キャバレー『銀馬車』の専属になって、歌謡コーラス・グループとして売出し中だった。小林はベースを担当しながら唄っていたが、メイン・ヴォーカルがいなかったので、噂を耳にしてスカウトすることを考えた。

 それがぴったりはまったのは1968年のことになるが、前川清は一時的なアルバイトのつもりだったという。もともと歌手志望ではなかったから、先々は堅い仕事に就くつもりで、九州電力株式会社(九電)への就職を考えていたらしい。

 

「歌うことは、九電に入るまでのつなぎのアルバイト感覚。デビューが決まっても『やった!!』という気持ちはありませんでしたね」
 (介護情報誌『あいらいふ』2018年11月号)

 

 しかしクール・ファイブは前川清という強力なヴォーカリストが加入したことで、魅力が一気に増して人気が高まった。その頃にラテンバンドの東京パンチョスを率いていたチャーリー石黒が、テレビの歌番組『ロッテ歌のアルバム』の公開収録で長崎を訪れた。

 そして終了後に『銀馬車』へ立ち寄って、前川清の歌を聴いてすっかり惚れ込んでしまった。クール・ファイブとの縁が出来た石黒が、メンバーたちにプロになるようにと勧めたのは、よほど確かな手応えを感じたからだろう。

 石黒は自宅に住まわせて育てていた内弟子の森進一を、喉をつぶすことによってしゃがれた声にして、1966年の夏に「女のためいき」(作詞:吉川静夫 作・編曲 猪俣公章)でデビューさせていた。

 三連符のロッカバラードだった「女のためいき」には、それまでになかったソウルフルなヴォーカルの森進一を、デビューと同時に新しい演歌のスターにするだけのポテンシャルがあった。そして中学生の頃から作曲家をめざしていた猪俣公章(いのまたこうしょう)は、ここで脚光を浴びたことをきっかけにして、新時代のヒットメーカーとして認められていったのである。

 28歳だった猪俣は作曲家としては若手に入るが、それから半年後に「君こそわが命」(作詞:川内康範 1967年)でも抜擢されている。それはスターの座から転落して悪循環に陥り、すっかり不遇をかこっていたレコード大賞歌手の水原弘をカムバックさせるために、1年以上も前から始まっていた企画だった。

 そこでプロデューサーとして陣頭指揮していたのは作家の川内康範で、大役を任されたのがヒットを出したばかりの猪俣であった。その思い切った人選が的中して、水原弘は「君こそわが命」で奇跡ともいわれる復活をとげたのだ。NHKの『紅白歌合戦』に5年ぶりの出場を果たし、日本レコード大賞でも歌唱賞に選ばれた。

 猪俣はそこから森進一の「港町ブルース」(作詞:深津武志 補作詞:なかにし礼 1969年)や「おふくろさん」(作詞:川内康範 1971年)、藤圭子の「女のブルース」(作詞:石坂まさを 1970年)、内山田洋とクール・ファイブの「噂の女」(作詞:山口洋子 1970年)などのヒット曲を出していく。

 ここに挙げた曲はすべて、ピアノで三連符を鳴らすロッカバラードだが、過去にさかのぼって原典を探すと、1959年にヒットした「黒い花びら」(歌:水原弘)にまで行きつく。日本で受けが良かったロッカバラードは、ここからネオン街などでも徐々に唄い継がれていったのである。

 おそらくビートを意識して日本語の歌詞を唄うには、三連のリズムとの組み合わせが向いていたのだろう。洋楽やオールディーズをバックボーンにした楽曲に、日本語の歌詞が情感を込めて唄われることによって、新鮮さを与える歌が定着していったとも言える。

 森進一は声を絞りだすような独得の唄い方によってファンをつかみ、そこから始めた新しいチャレンジの「襟裳岬」(作詞作曲:吉田拓郎)や、「冬のリヴィエラ」(作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一)などを成功させて長く支持された。

 なお初円熟期の代表曲になった「冬の旅」(作詞:阿久悠)と「さらば友よ」(作詞:阿久悠)も、猪俣公章が作曲した三連符のロッカバラードであった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

女のためいき / 森 進一(EP盤 1966)



※ 次回の更新は12月10日予定! 第10章『ムード歌謡の新たなる地平』中編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之