~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第10章 ③④】


①前川清に圧倒された渋谷の夜 「ダイナマイト」
②ロッカバラードで成功した猪俣公章 「女のためいき」
③プロの仕事人が集まってきた 「長崎は今日も雨だった」
④ハワイアンと小唄とドドンパ 「お座敷小唄」

⑤口笛と鼻歌、男のブルース 「夢は夜ひらく」
⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校 「惜別の唄」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第10章『ムード歌謡の新たなる地平』より、③プロの仕事人が集まってきた、④ハワイアンと小唄とドドンパ、をお届けします。

 「長崎は今日も雨だった」の誕生秘話や和ものと新しいリズムの融合を交えながら、若き音楽家達や制作者はどのように新しい音楽に挑戦をしたのでしょうか。

第一部 第10章 ムード歌謡の新たなる地平

 

③プロの仕事人が集まってきた
「長崎は今日も雨だった」

 

 かつて山田競生が在籍したマヒナスターズがそうであったように、歌謡グループの大半はハワイアン出身が占めていた。リズムの役割はゆったりとテンポを保つことで、ウクレレやギター、ベースは目立たない存在だった。(編集部補足:山田競生は後にRCAレコードのディレクターに転身)

 その後にラテン系といわれるロス・プリモスロス・インディオスが出てきたことで、コンガなどのリズム楽器が前面に出てくるようになった。そんなグループが築いてきたムード歌謡のシーンに、クール・ファイブはオールディーズと歌謡曲を唄うエレキバンドとして登場してきた。

 長崎のキャバレー『銀馬車』のマネージャーだった吉田孝穂は、専属バンドのクール・ファイブを売り出すために、永田貴子のペンネームで「長崎の夜」という歌詞を書いて、札幌の放送局に勤務していた彩木雅夫(さいきまさお)に作曲を依頼した。

 HBCのディレクターだった彩木は1967年から68年にかけて、森進一に提供した「命かれても」、「花と蝶」、「年上の女(ひと)」が立て続けにヒットして注目の存在となっていた。

 吉田から受け取ったクール・ファイブの自主製作レコード「西海ブルース」を聴いて、彩木は洋楽のザ・プラターズにも通じるコーラスに興味を持ったという。そこで「長崎の夜」の歌詞をかなり書き直したうえで、「長崎は今日も雨だった」を仕上げたのである。

 編曲を担当した森岡賢一郎は1965年から66年にかけて、加山雄三の代表作「君といつまでも」の編曲で一世を風靡していた。さらに森進一の「女のためいき」、「花と蝶」、「年上の女」、「港町ブルース」などを次々にヒットさせていたが、それらはいずれも三連符のロッカバラードだった。

 内山田洋とクール・ファイブのデビュー曲「長崎は今日も雨だった」は、歌詞の語尾をジャズ・コーラス風に重ねたスタイルで、三連符のロッカバラードとしては最新作になった。その後も森岡はクール・ファイブのサウンドづくりには、常に欠かせない存在となっていくのである。

 レコーディングは1969年1月8日、ビクターの築地スタジオで行われたが、その時の気持ちを前川清はこのように振り返っていた。

 

「寝台特急『さくら』で夜中に関門海峡を通って人生で初めて本州に入ったんです。僕は一番年下だから、3段ベッドの一番上。寝転がったら天井ギリギリで狭かった。一睡もできずに12時間以上かけて東京に着いて、その足で築地のビクタースタジオに行きました」
 (記事『スポーツ報知』2017.5.22)

 

 森岡が編曲した譜面には、プラターズにも通じるコーラスが取り入れてあった。プロの経験が十分にあった山田は完成した音源を聴いて、がぜん興味がわいたと述べている。

 

 それまで持っていた歌謡コーラスの固定観念みたいなものが、吹っ飛んでしまったんです。なんだ、こいつらはって興味がわいたのがきっかけなんです。
 内山田くんたちはロックンロールをやっていたりした連中の集まりなんです。彼らは、私もそうであったように、クラブで歌っていたんです。つまりは、お客を喜ばすために歌謡曲を歌わなければならなかったんです。そうした過程で、歌謡曲そのものに興味を覚えてきたわけです。
 (中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』白夜書房 2015)

 

 かつてなかった新しい歌謡グループの誕生に立ち会うことになったのは、すでに音楽業界で活躍しているプロの仕事人たちである。最初が彩木と森岡だとするならば、次に続いたのは日本を代表するエンジニアになる内沼映二だった。

 2019年に発行された著書によると、当時はテイチクからビクター(RCA)に移籍したばかりの25歳で、最初に手掛けたレコーディングは「長崎は今日も雨だった」だと語っている。これも偶然だったとはいえ、なんとも貴重な出会いとなった。内沼は全盛時のクール・ファイブで、ほぼ全曲を手がけていくのである。

 

 「初めて使うスタジオだったことで勝手がわからず苦労した記憶があります。築地のスタジオはブースがなく、すべてのミュージシャンが一同に介す同時録音でした(ライブでのステージ配置と思っていただければ)。発売当初あまり売れなかったために宣伝担当から『音が良くないから売れない』、『リヴァーブが多すぎる』など散々なことを言われましたが、結果的に記録的なセールスとなり、胸を撫で下ろしました」
 (内沼映二『内沼映二が語るレコーディング・エンジニア史』DU BOOKS 2019)

 

 続いてスタッフに参加した仕事人は、渡辺プロダクションの1期生として順調にキャリアを積んできた和久井保であった。長崎を拠点にして活動していたクール・ファイブは、デビューが決まって2月にレコードが発売された後も、前川清をのぞくメンバーたちが妻帯者だったこともあって、すぐに東京に拠点を移すことができなかった。

 しかしザ・ピーナッツや梓みちよのマネージャーを経験してきた和久井は、テレビ局に人脈を持っていたので、4月から5月の連休にかけて集中的にテレビ出演をブッキングした。

 当時はお笑いのコント55号が全盛期だったから、彼らが出演する人気番組『お昼のゴールデンショー』に1週間、「今週の歌」というコーナーで「長崎は今日も雨だった」を歌わせたのである。

 連休明けからレコードのオーダーが入り始めた様子を、山田がこんなふうに語っていた。

 

 連休明けに私が会社に出ると、電話が鳴りっぱなしなんです。それが「長崎は今日も……」のオーダーで、営業の連中が電話を受けながら、私にサインを送っているんです。これは一生忘れない感激です。涙が出るほどでした。
 (中山久民・編著『日本歌謡ポップス史 最後の証言』白夜書房 2015)

 

 こうして2月に発売されたレコードは5月になって、売り上げが急増して大きなヒットにつながった。今になって思えば、ぼくがたまたま彼らが演奏する場に立ち会えたのは、かなり幸運だったのかもしれない。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

長崎は今日も雨だった / 内山田洋とクール・ファイブ (EP盤 1969)

 

④ハワイアンと小唄とドドンパ
「お座敷小唄」

 

 詠み人知らずのまま唄われていた歌がしばしば流行した現象は、1950年代から60年代半ばまでに何度かあった。レコード会社が主導してきた流行歌とはいささか趣が異なる巷の歌が、都会の「うたごえ喫茶」や「民謡酒場」、あるいは繁華街のバーや飲み屋に出入りしていた流しなどを通して広まったのだ。

 そのなかには作者がわからないまま唄い継がれてきた寮歌や、刑務所や鑑別所といった閉鎖的な場所だけで知られる俗謡など、いわゆる作者不詳の歌もふくまれていた。そうした歌が唄われている現場から見出されてレコードになったことによって、多摩幸子・和田弘とマヒナスターズの「北上夜曲」や小林旭(あきら)の「北帰行」などがヒットしたのは1961年のことだ。

 それらの楽曲は作者が定かではなかったので、レコード会社による専属作家制度の枠外に存在していた。そのためにレコード各社による競作が行われるようになり、音楽業界のなかで関心を集めたともいえるだろう。そしてスター歌手の持ち唄と思われていたヒット曲とは別に、大衆に共有されている歌を発見することにもつながった。

 それらのなかにあって特筆すべきは、松尾和子・和田弘とマヒナスターズが1964年にヒットさせた「お座敷小唄」だろう。なぜならば京都の花街における遊びをテーマにした歌なのに、「ドドンパ」という和製リズムが取り入れられていたのである。

 ビクターにこの人ありと言われた名物ディレクターの磯部健雄は、雪村いづみや浜村美智子、松尾和子、フランク永井、森進一、青江三奈、そして作曲家の猪俣公章を世に出した人物として知られる。1960年に「大阪で変なダンスが流行っているらしい」という情報を耳にして、磯部は「ドドンパ」というリズムに興味を持って、それを活かしたオリジナル曲を作って17歳の渡辺マリに歌わせた。

 「東京ドドンパ娘」(作詞:宮川哲夫 作曲:鈴木庸一 1961年)は思ったとおりにヒットしたが、関係者が期待した割にドドンパのリズムは今一つ、ブームを起こすことができなかった。ところがそれから3年後、作者不詳のお座敷ソング「お座敷小唄」のなかで、さりげなく使われたドドンパから大きなヒットが生まれたのだ。

 マヒナスターズのリーダーだった和田弘は広島公演の後に立ち寄ったクラブで、たまたまホステスが唄っていた俗謡を耳にして、何かがひらめいてその場で採譜したという。

 

「その店でホステスが歌っていたのが『お座敷小唄』の元歌だったんです。調子が良くって、楽しくて、なんとなく哀調があって、悪酔いしていたのが、そこでいっぺんにさめてしまいましてね、そのメロディーと歌詞を手帖にメモしたんです。思えば運命的な出会いでしたね」
 (斎藤茂『この人この歌―昭和の流行歌100選・おもしろ秘話』廣済堂出版 1996)

 

 その後、和田はこれをレコーディングすることを企画して、ややきわどいところがあった歌詞を自分で直している。そこでドドンパのリズムを思いついたのは、歌詞に出てくる京都の先斗町からのひらめきだった。その言葉の響きから、曲をドドンパのリズムでやってみようという気になったという。だから「京都祇園という詞だったらドドンパの発想はなかった」とも語っていた。

 そこから三味線の伴奏をバンジョーにさし替えるなど、編曲も仕上がってレコーディングの当日を迎えた。しかしここでも歌詞を変えることになったのは、やはり言葉の響きによるものだったという。

 

「〽雪に変わりがあるじゃなし、というフレーズが歌ってみるとヘンにひっかかって、なんとなくぎこちない。“いっそないじゃなしにしたら” と(筆者・注 ヴォーカルの)松平直樹が言いだし、歌ってみたらすごく調子がいいんですね。意味が全然逆になって理屈に合わなくなっちゃうけれど、まあいいやというわけで“ないじゃなし” にしましたが、後からいろいろ言われました。文法上おかしいとかなんとか。」
 (斎藤茂『この人この歌―昭和の流行歌100選・おもしろ秘話』廣済堂出版 1996)

 

 こんなふうに自由な歌づくりが試せたのは、作者不詳の歌詞だったからだろう。そして “ないじゃなし” という不可思議な日本語と、その語呂の良さが大きなヒットの要因になったともいえる。

 一般の人には縁がない世界だった京都の色街文化を薄めるのに、デュエットの相手に選ばれたクラブ歌手出身の松尾和子は洋風で適役だった。そこにドドンパのリズムが、ハワイアンとともに隠し味になっていたのだ。

 ところで誰が唄ってもいい歌を巷で見つけたとしても、それをヒットに結びつけるためには、なんらかの話題が必要になってくる。そこで映画とのタイアップによる歌謡映画が増えて、それまで以上にシリーズ化していった。

 ペギー葉山のヒット曲を1959年に映画化した『南国土佐を後にして』が好評だったことから、日活はギターを抱えてさすらう小林旭が主演の『渡り鳥』を製作してシリーズ化している。1959年の『ギターを持った渡り鳥』から、最終作となった1962年の『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』まで、合わせて8本が製作された。

 そこでは「アキラの会津磐梯山」(『赤い夕陽の渡り鳥』)「アキラのソーラン節」(『大草原の渡り鳥』)などの民謡が、あらたにレコーディングされて挿入歌として使われた。さらに東南アジア・ロケによる『波濤(はとう)を越える渡り鳥』では、インドネシア民謡の「アキラのブンガワン・ソロ」が唄われている。

 作者不詳の歌と映画が結びついたのは社会から疎外された男の心を描いた歌詞が、一匹狼のアウトローを主人公にした作品と相性が良かったからだろう。そういう意味で小林旭はファンタジックだったわけだが、1965年4月に公開された映画『網走番外地』の高倉健は、脱獄をテーマにしたリアルな演技で人気が爆発した。

 北海道ロケによる映画は次から次に続編がつくられて、数年にわたってシリーズ化されていった。そして高倉健が唄った主題歌「網走番外地」は、公序良俗に反するとして放送禁止になったが、発売は可能だったので店頭でシングル盤がよく売れたという。

 ロカビリー時代に発売禁止になった「ネリカン・ブルース」から始まった作者不詳の歌は、水面下で広まっていた「北上夜曲」や「北帰行」をメジャーにする一方で、「網走番外地」や「東京流れ者」などのアウトロー・ソングを経て、「夢は夜ひらく」へと継承されていくのである。しかも歌詞が異なる作品の競作によって、複数のレコードが売れるという現象も起こしている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

お座敷小唄 / 和田弘とマヒナ・スターズ、松平直樹、松尾和子 (EP初回盤 1964)



※ 次回の更新は12月17日予定! 第10章『ムード歌謡の新たなる地平は、⑤口笛と鼻歌、男のブルース、⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校、へと続きます。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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