~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第10章 ⑤⑥】


①前川清に圧倒された渋谷の夜 「ダイナマイト」
②ロッカバラードで成功した猪俣公章 「女のためいき」
③プロの仕事人が集まってきた 「長崎は今日も雨だった」
④ハワイアンと小唄とドドンパ 「お座敷小唄」
⑤流れ者のうた、そしてブルース 「夢は夜ひらく」
⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校 「惜別の唄」



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第10章『ムード歌謡の新たなる地平』より、⑤流れ者のうた、そしてブルース、⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校、をお届けします。

 作者不詳のまま唄い継がれていた歌。数奇な運命をたどって生まれた「夢は夜ひらく」は、どのように時(とき)を経たのでしょうか。そこには若き音楽家や制作者たちの瑞々しい感性が溢れています。そして、高円寺(東京)の一室で語られた音楽合評会や見聞きした音楽との出会いが、日本の新しい音楽への邂逅を深めていくことになります。

第一部 第10章 ムード歌謡の新たなる地平

 

⑤流れ者のうた、そしてブルース
「夢は夜ひらく」

 

 1965年の8月にキングレコードからシングル発売された「東京流れ者」は、作者不詳の歌に永井ひろしが歌詞を書いた楽曲だった。硬派の男社会に特有の意地や粋をテーマにした内容だが、それを女性の竹越ひろ子が堂々と唄ったことがヒットを呼び込んだ。

 新しいメディアの有線放送から火がついたこの楽曲に目をつけて、日活は売り出し中だった渡哲也を主演にした映画『東京流れ者』を、川内康範の原作で映画化している。1966年の4月10日に公開された映画のなかで渡哲也が唄った主題歌は、ぞくぞくするようなオープニングから始まって、何度も劇中に流れたことで話題になった。

 しかも歌詞は竹越ひろ子のヴァージョンとまったく別もので、メロディーや節まわしもところどころで違っていた。はっきりした根拠はなかったけれど、ぼくは巷で唄われていた歌詞やメロディーは、ぶっきらぼうに唄う渡哲也のヴァージョンに近いだろうと思ったことを覚えている。

 ちなみに鈴木清順監督による風変りなアクション映画は、どこからともなく流れてくる口笛のオープニングから始まり、そこに渡哲也の歌がアカペラで重なるという、スタイリッシュな映像も映画ファンの間で評判になった。そのために公開時は二本立て上映の一本だったが、後々にカルトムービーとして広まり、ついには海外の映画祭などでも上映される作品になった。

 「夢は夜ひらく」もまた練馬にあった東京少年鑑別所(通称ネリカン)のなかで、実に様々な歌詞で唄われていたらしい。だから当初は作者不詳といわれていたが、作曲家の曽根幸明がネリカンに収容されていた時に採譜し、その後に歌詞を補作してレコードを出したことから、後に作者として正式に認められている。

 これは1966年にポリドールの園まりとクラウンの緑川アコによる競作になったが、歌詞だけでなく聴いた印象もかなり異なっていたが、結果的にはどちらのレコードもヒットしたのである。

ところで園まりが唄ったヴァージョンは、松村ディレクターこと“おけいさん” が手がけていた。これを売り込んできたのは3年後に藤圭子のマネージャーとして、石坂まさをのペンネームで「圭子の夢は夜ひらく」を作詞する沢ノ井千恵児であった。

  “おけいさん” が持ち込まれたテープを聴いて、かなり興味をそそられたのは甘い低音の歌声だった。メロディーもどこかで聞いたような歌だったが、歌声にもなんとなく聞き覚えがあったのだ。沢ノ井に「いいね、使えるよ」と伝えると、「仲間だった中村泰士の作品がいいので売り込みに来た」と、少し照れた表情から答えが返ってきた。

 そこで唄っている歌手が誰なのかと訊ねると、ビクターの佐川満男だと教えられた。ロカビリー・ブームの頃に「無情の夢」や「背広姿の渡り鳥」をヒットさせたものの、まもなくヒットが途切れてしまった佐川は不遇の日々を過ごしていた。

 やはり美川鯛二の芸名でロカビリーを唄っていた中村は作家への転身を試みて、「夢は夜ひらく」に歌詞をつけて佐川に唄ってもらった。だがレコード化の話を頼んでみても、ビクターはいい反応を示さなかった。

 そのために中村は失意のうちに大阪の実家へ帰ってしまった。そして「夢は夜ひらく」のテープが残ったという。

 “おけいさん” は佐川をポリドールに移籍させることも考えたが、かつてのスターを動かすには何かと障害があるので、沢ノ井にはビクターを説得した方がいいと助言を与えた。しかし沢ノ井はそれがうまくいかなかったのか、同じテープを持ってもう一度 “おけいさん” のところにやって来たのである。

 そこで誰に歌わせようかという話になったとき、清純なイメージだった園まりを思いついた“おけいさん” は、大阪の中村泰士に連絡してポリドールで使う承諾を得た。そのうえで編曲の仕事について、前作の「逢いたくて逢いたくて」をヒットさせて、日本レコード大賞で編曲賞に選ばれた森岡賢一郎に依頼した。

 そのときに小編成の楽器のイメージで、「しょぼい音ぐらいでちょうどいい」と注文をつけた。しかしレコーディングの現場で、ちょっとした意見の食い違いが起きてしまった。

 

「何か違うのね。もっと、しょぼくってかまわないから、歌謡曲だって感じのインパクトが欲しいの」
「しかしアレンジを変えるとなると、譜面も直さなきゃいけないし、時間がかかります」
 森岡氏はどこが気に入らないのか考えあぐねた。
「それは、駄目。スタジオの使用時間は限られているから、この場ですぐに録り直さないと。そうだ、この間奏を頭に持ってきちゃったら?」
 (石原信一『おけいさん』八曜社 1992)

 

 “おけいさん” は素人が買うレコードなので、同じ素人として自分の勘を優先してギターソロの間奏をイントロに持ってきた。そのためにオルガンが基調になったサウンドは、3連符のロッカバラードの印象が薄くなった。

 そのしょぼいカラオケで園まりがささやくように唄ってみると、歌声が官能的に響く効果が出てきたのである。そして11月に発売されたレコードは、「逢いたくて逢いたくて」をしのぐセールスを記録した。

 さらに1967年1月には渡哲也が主演する日活映画『夢は夜ひらく』が公開になり、主題歌を唄った園まりもヒロイン役を演じている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

夢は夜ひらく / 園まり (EP盤 1966)

 

⑥昼の明治大学、夜の高円寺学校
「惜別の唄」

 

 ぼくは1970年4月から明治大学文学部の演劇科に通うことになり、待ち望んでいた東京での学生生活が始まった。そもそも明大を選んだのは「軽佻浮薄派」を自認していた映画監督、青森出身の川島雄三を生んだ伝統の映画研究部に入るのが目的だった。

 教養学部があった和泉校舎はその頃、1960年代の後半に吹き荒れた学生運動の影響で、キャンパスの一部が自治会などに占拠されて、部分的にロックアウトが続いている状態だった。だからぼくは授業には出ないで、いつも映研の部室で時間をつぶしていた。備え付けの本や古い雑誌などを読み、先輩たちと映画についての話しを交わすのが日課になった。

 そこで出会った先輩たちと交友関係が、そのまま昼の学校というべきものに広がったのである。当初は「いずれは映画の仕事に就けたらいいなぁ」と、淡い気持ちで漠然とした夢を見ていた。だが当時の映画界はすでに斜陽産業になっていて、大手の日活と大映からは断末魔の叫びが聞こえつつあった。

 先輩たちは映画以外にも文学や漫画、劇画、歌謡曲、ジャズ、ロックなどあらゆる興味の対象を論じて大人びて見えた。彼らは他の大学の映研とも交流し、同人誌や小冊子を発編集して発行するなどの活動も行っていた。だから映画会社に関しては早い時期に、就職はほぼ不可能だとわかった。

 そこで歌と音楽を守備範囲に加えて、ぼくも将来の就職に備えておこうと考えた。そもそも歌ということだけに関していえば、すでに住んでいた街で先行する形で、“夜の高円寺学校” とでもいうべき動きが始まっていた。

 それは大学に通うよりも少し前、三月からアパート住まいを始めた中野区大和町でのことだった。アパートの斜め前にあった旧家は、ぼくの従姉妹の嫁ぎ先であった。ありがたいことに旦那さんは最寄りの駅である高円寺界隈で、安心して飲めるバーやスナックに連れて行ってくれた。

 「自分の親戚である」と店の人たちに紹介してくれたので、中央線の高円寺駅界隈のパーやスナックを舞台に、新しい人間関係が短時間のうちに生まれていった。

 そこで拠点のような存在になったのが北口にあった映画館、『高円寺平和劇場』のすぐ脇の目立たない場所にあった居酒屋『桂川』である。定員がわずか6名。小さな隠れ家の趣だった店は夜の8時に開店し、朝は4時まで営業していた。常連で賑わうのが10時を回ったころなので、JR中央線の終電が終わった1時過ぎからが、店にとってゴールデンタイムになった。

 料理も酒も特別なものはない店に、顔なじみの客がやって来たのは、肩を寄せ合うようにしておいしいものが食べられたからだろう。値段も廉価だったので、アルバイトの店員さんや学生たちにも、2~3日おきに通うことが可能だった。

 しかし、賑わいのポイントはもうひとつあって、店主のマスターと相方のヤッチャンが醸し出している空気に、どこか温かなニュアンスがあったことが大きかった。エル字型のカウンターには丸椅子が六つだけしかなく、それが最大のキャパシティだから狭い。そのために常連でも入りきれないことが出てくる。

 どうしてもそれ六人以上の人が入るためには、客のうちの一人、もしくは二人がカウンターの中に入って、立って飲むという方法しかない。そんな場合にはマスターが常連のうちの誰かに頼んで、カウンターの中に入ってもらうことになる。

 するとマスターかヤッチャンのどちらかが、二階にある台所で様子をうかがいながら、料理を注文する声がかかるのを待機した。とはいっても酒を出すカウンターの内側も広くはないので、大柄な男性が入るのは無理だった。そこで痩せていた学生のぼくが指名されて、その分だけマスターやヤッチャンと親しみが増した。

 そうやって身を寄せ合って飲んでいるせいか、店内には大都会の隅っこに生きる庶民の温もりが充満していたように思う。だから店にふさわしいBGMは日活スターの小林旭が、少しかん高い声で明るく唄う「アキラのズンドコ節」や、語呂合わせが楽しい「自動車ショー歌」だった。

 『桂川』の常連は大半が近隣の人たちで、店から半径2キロメートル以内に住んでいた。年齢的にいえば二十代から四十代くらいまでで、お互いに呼び名を知っている程度の仲間たちだった。親しすぎない常連がゆったりくつろいで酒を飲む雰囲気を、今でもありありと思い出すことができる。

 ぼくは『桂川』で常連になるにしたがって、朝の閉店までつきあうことが多くなった。そしてふたりがゲイのカップルで、2階で一緒に暮らしていることを知ったのだ。そして店に特有だった温もりが、どんな相手に対しても心配りを欠かさないヤッチャンの、心遣いだったことが理解できたのである。

 早い時間で客が少ないときの『桂川』では、誰かが買ってきたばかりの新しいレコードをかけて、居合わせたものが一緒に聴くことがあった。そして評判のいい曲だった場合には、ゴールデンタイムになってからも、みんなに紹介して聴き直したりしていた。

 それらのなかで印象に残っているのは、洋楽ではクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの『グリーン・リバー』、デレク・アンド・ザ・ドミノスの『レイラ』、ピンク・フロイドの『原子心母』などだった。ジョン・レノンの「マザー」は、シングルで聴いた記憶があった。

 そこでは各人の口から様々な感想や批評が出たが、それらを直に聞くのはとても勉強になった。合評会のような感じになったのは北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」のときで、阿久悠という作詞家は何者かについて話し合われた。

 そんなふうにして入り浸っていた『桂川』だったが、もっともよく聴いたシングル盤は小林旭が唄った抒情歌である。1960年から61年にかけて発表された「さすらい」と「北帰行」、そして文学者の島崎藤村が作詞した「惜別の」はいずれも七五調の定型詩だった。

  惜別の唄
  作詞:島崎藤村 作曲:藤江英輔

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

 『桂川』では閉店を告げる客出しのBGMで、「惜別の唄」がかかることになっていた。これを聞き終わったら常連はおもむろに席を立って、静かに家路につくのが暗黙の了解だった。しかし歌に聴き入ってしまった客が、「もう一回、聴きたい」と頼むこともある。

 それはいい歌だという理由のほかに、小林旭のかん高い声の魅力があったからだろう。20代の頃にレコーディングした楽曲には、後ろ髪を引かれてしまう高音がふくまれていた。そうすると二度、三度と繰り返し聴いているうちに、夏場は夜が明けてくるのだが、それもまた一興だった。

 その意味で『桂川』における抒情歌との出会いは、ある種のカルチャーショックになったのである。そこから戦前と戦後の流行歌を系統立てて学ぶきっかけができたし、西條八十や佐藤惣之助、藤田まさとによる歌詞が完璧だということを知った。

 そうした歌の財産をどのように人の世に役立てていくのか、それは後継世代が判断するしかない。しかし歌を愛する人や懐かしむ人がいなくなったら、役目を終えた歌は消えざるを得ない。だから歌が消えないようにするためには、世代を超えて共感する人を増やしていく以外に方法はない。

 ぼくはリアルタイムで歌の流行を体験できなかったけれども、小林旭の歌声で若者の心をつかむ抒情歌があることに気づかされた。そして心が穏やかになったことがあったので、音楽に命を吹き込む新しい才能が登場することに、これからも期待したいと思っている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

惜別の唄 / 小林 旭 (EP盤 1961)



※ 次回の更新は12月24日予定! 第11章『歌に宿る生命力』前編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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