~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第11章 ①②】


①シベリアから帰ってきた男たち 「チャンチキおけさ」
②素人なりに愛唱したご当地ソング 「満州里小唄」

③CMソングとミュージカル  「見上げてごらん夜の星を」
④いずみたくメロディーの浸透力 「夜明けのうた」
⑤日本の新しい民謡をつくる 「ここはどこだ」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第11章『歌に宿る生命力』より前編、①シベリアから帰ってきた男たち、②素人なりに愛唱したご当地ソング、をお届けします。

 日本に深刻な影響を与えた太平洋戦争。異国の地で生き抜いた人々、抑留された男たちに唄い継がれた歌が、彼らの帰国で日本にもたらされました。それらの歌は、どのようにして日本の土壌に根付いていったのでしょうか。

第一部 第11章 歌に宿る生命力

 

①シベリアから帰ってきた男たち
「チャンチキおけさ」

 

 ぼくの父は旧制盛岡中学を1938年に17歳で卒業したが、まもなく徴兵検査が行われて召集される日が近いことを知っていたためか、縁もゆかりもない兵庫県神戸市にある神戸製鋼に就職している。山々に囲まれた城下町の盛岡と違って、開放的な文化を持つ国際港湾都市の神戸で、つかのまでもいいから都会の生活を体験したかったのだろう。

 しかし1939年に陸軍から招集令状が届いたことにより、地元の盛岡に戻って応召した後は中国大陸に送られた。それから戦争が終わるまでの6年間は満州国で過ごしたが、日本が敗戦を迎えたときは満州の東北部にあった佳木斯(ジャムス)で、憲兵隊に勤務する曹長だった。

 満州国の中心だった奉天やハルビン、新京などに比較して北緯47度に位置する佳木斯(ジャムス)は、東北の果てともいえる場所だったという。11月に入ると早くも気温は氷点下になり、真冬は零下30度以上に冷え込む極寒の地である。

 まつげが凍りつくほど寒かったのという話は、子どもの頃からよく聞かされたものだった。町を流れる松花江(スンガリウラー)も長い冬の間は全てが凍り付いて、広大な道路のようになったという。

 父は憲兵を志願して倍率50倍の選抜試験に合格し、哈爾濱市(ハルビン)にあった教習隊で1年間の教育を受けてから、佳木斯(ジャムス)に配属されて軍務に就いた。そして終戦時には曹長にまで昇進していたので、侵攻してきたソ連軍に捕えられて、もしも軍事裁判にかけられたら、戦争犯罪者として処刑される可能性もあったらしい。

 しかし日常的に親しくしていた中国の人たちに匿われた後に、一般の兵士としてソ連軍に出頭してシベリアの収容所に送られた。最終的には中央アジアまで移送されて、建築の現場で働いていたという話を聞いたのは、ぼくが小学生の頃だったと思う。

 そこで出てきたタシケントという町を、なぜか名前が気に入って覚えていた。だから中学生になって教科書で地図帳が手に入ると、まっさきにタシケントを探してみると、そこはカスピ海に近い中央アジアで、ウズベキスタンという国の首都になっていた。

 その時に思ったのは、どうしてこんなに遠くまで運ばれたのだろうという、素朴な驚きだった。それから3年と8か月、孤独で苛酷な抑留生活をなんとか生き延びた父は、1949年に最後の引揚船でハバロフスク港から帰国した。

 京都の舞鶴港に着いて日本の土を踏んだときは、骨と皮だけというくらいにやせこけていたという。その話は出迎えに行った叔父から、ことあるごとに聞かされた覚えがある。

 生まれ故郷の岩手県に戻った父は体力の回復を待ちながら、しばらく精神のリハビリテーション期間を持つことになった。それは軍隊で筆舌に尽くせぬ体験をしたことと、収容所で徹底した社会主義教育を受けてきたことから、解放されるために必要だったのである。

 その後は秋田県境の八幡平にあった松尾鉱山に行って、硫黄を採掘する現場で働き始めた。だが体力が十分に回復していなかったことで、体調を崩して花巻市の療養所で入院生活を余儀なくされてしまう。

 そうしたことから退院後は再び郷里に戻って、都南村役場の乙部支所に務めることになった。不幸中の幸いだったのは入院中に担当してくれた看護婦の母と出会って、結婚することになったことだという。

 やがて村にひとつしかない医院で働いていた母との間に、3年間で一男一女を授かった。それから村会議員も務めたのだが、故郷の村にいたのでは将来性がないと判断し、38歳になって発展が見込める都市に仕事を求めた。

 単身で宮城県仙台市に出てリヤカーを一台買うと、父は誰も頼る人がいないところで、果実を売る行商を始めたのである。そして生活に目処が立ったことから、新興住宅地の近くで小さな店を借りることにして、1年後には家族を呼び寄せた。

 久しぶりに家族が一緒に暮らせるようになり、父と母は正月とお盆休みのほかは、年中無休で夜おそくまで働いた。東京オリンピックの後にはコカ・コーラの販売を始めて、そのおかげで売上を少しずつ伸ばして、生活もいくらか安定してきたようだ。

 やがて故郷の村に出向いて農家と交渉し、リンゴをトラックで買い付ける商いにも挑むようにもなった。その後も商売は順調だったので、10年後には市場で仲卸業の免許を取得した。そして1970年に新設された仙台中央卸売市場内に店を構えて、数人ほどの小さな会社組織にしている。

 いつも仕事一筋だったせいもあって、どこか怖くて近寄りがたい父だったが、よく近所の映画館に連れて行ってもらった。東映の3番館であったと思うが、ときには新東宝のお化け映画大会なども上映していた。

 ぼくは時代劇なのにミュージカル仕立てだった、美空ひばりの映画が好きになったが、父は1969年にテレビを買ってからは、自宅でプロ野球やプロレス中継を楽しむようになった。そしてNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』は、ぼくも父と一緒に観るようになった。永六輔が書いたコントに出てきた言葉や固有名詞について、父からいろいろ教えてもらったことを覚えている。

 ところで父は子どもの頃から音痴といわれていたらしく、音楽は好きでも唄うことは苦手だったという。唱歌の時間になると教師から必ず、「声を出さないで唱いなさい」と言われていたらしい。機嫌のいい時に何度か、そんな笑い話をしてくれたことがある。

 歌手のなかで贔屓にしていたのは、満州時代を思い出すと言っていた東海林太郎と、自分と同じシベリア帰りだった三波春夫である。1944年の正月に20歳で陸軍に入隊した三波が最初に送られたのは、父と同じ満州の佳木斯(ジャムス)だったという。

 

 初年兵教育は、満州のジャムス地区の屯営でした。ことあるごとに往復ビンタ、帯革ビンタを見舞われつつ、ほどなく富錦(ふうきん)地区へ。
 富錦は、当時の満州国三江省の富錦県のこと。満州の北部のソ連との国境の地なので第一線地区と呼ばれ、所属した部隊は「関東軍五〇万の守備隊として、満州国にいる日本人が無事に祖国に帰れるまで一〇〇日間、この陣地を死守する」のが使命でした。
 (三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫 ― 戦争・抑留・貧困・五輪・万博』さくら舍 2016)


 帰国後に浪曲師・南条文若として活躍した後に、歌謡曲に転向したのは33歳の時である。デビュー曲になった「チャンチキおけさ」は、故郷の新潟を恋しがる男たちの歌だった。

 しかし父は聴いて楽しむ歌として、B面の「船方さんよ」が気に入っていたようだ。また歌謡浪曲の「元禄名槍譜 俵星玄蕃」なども好きだったらしく、紅白歌合戦で唄ったときは真剣に観ていたという記憶がある。

 ところで歌の記憶といえば、仙台市東十番丁の店舗兼住宅の前で朝早くからあぐらを組み、仕入れてきたリンゴを地べたに座って選別している姿が浮かんでくる。御詠歌を唸るような感じで、父はいつもなにかを低い声で口ずさんでいた。

 その光景が蘇ったのは21世紀に入ってからのことで、プロレスラーのジャイアント馬場が唄ったCDを聴いて、父の歌声を不意に思い出したのがきっかけであった。父が1976年に亡くなってからは、すでに四半世紀以上の歳月が過ぎていた。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

チャンチキおけさ / 三波春夫 (SP・EP盤オリジナルジャケット 1957)

 

②素人なりに愛唱したご当地ソング
「満州里小唄」

 

 ジャイアント馬場が好きだった歌について調べたいことができて、2004年にCD化されたコンピレーション・アルバム『男宇宙』(ソニー・レコード)を購入した。初めて聴いたジャイアント馬場の歌唱は、素人だから当然なのだが、お世辞にもうまいとはいえないものだった。

 しかし、独特のくぐもった声の濁りと、いつもリズムから遅れ気味になる節回しには、時代の荒波に揉まれて風雪に耐えながら実直に生きてきた孤独な男の味がにじみ出ていた。そんなことを思っていると、ジャイアント馬場の低く唸るような歌声が、父とよく似ていることに気がついた。

 その歌は「満州里小唄」というタイトルで、それまで聴いたことがない歌だった。しかし初めて耳にしたにも関わらず、どこか懐かしい感じを受けたのである。そこで調べてみると、戦時中にレコードが発売された、ディック・ミネの「雪の満州里」が原曲だとわかった。

 “まんちゅうり”と発音する満州里の町は、日本が建国した満州国のなかでは西の果てにあった。そして戦時中の満州でいくらかヒットしたことや、満州からの引き揚げ者の一人だった俳優の森繁久彌が、これをカヴァーしてレコードを出したことも知った。

 ぼくは父から何度か話に聞いた松花江(スンガリウラー)という大河を想像しながら、ジャイアント馬場の「満州里小唄」を二度ほど聴いてみた。そのうちに「♪ 燃えるペチカに心も解けて 唄えボルガの舟唄を」という歌詞が、父の口にしていた御詠歌のようなメロディーに重なってきた。

  満州里小唄
  作詩:島田芳文 作曲:陸奥 明

  積もる吹雪に 暮れゆく街よ
  渡り鳥なら つたえておくれ
  風のまにまに シベリアがらす
  ここは雪国 満州里(まんちゅうり)

  暮れりゃ夜風が そぞろに寒い
  さあさ燃やそよ ペチカを燃やそ
  燃えるペチカに 心も解けて
  唄えボルガの 舟唄を

  凍る大地も 春には解けて
  咲くよアゴ二カ 真っ赤に咲いて
  明日ののぞみを 語ればいつか
  雪はまた降る 夜(よ)はしらむ

 ジャイアント馬場の歌声を聴いて記憶をたどっていくと、地べたに座ってりんごを選別している父の姿が見えてきた。それは中学生の頃の記憶だったと思うが、定かなことはわからなかった。

 それにしても1976年に59歳で父が亡くなってから、一度も思い出すことがなかった歌だったのに、その光景が蘇ってきたのが不思議だった。父のシベリア体験の一部が、いつのまにかぼくの心の片隅に歌声として、ひそかに棲みついていたのかもしれない。

 父は最初の年に身体が衰弱した仲間から順番に死んでいく寒さのなかで、飢えに耐えながらシベリアの冬を三回も乗り越えて生き残った。そんな捕虜収容所という特殊な環境で、日本の歌が希望の光になり得たのだろうか。

 そこでまた思い出したのは2番の歌詞の後半で、「♪ 唄えボルガの舟唄を」と唸っていたフレーズである。父はロシアの人たちはみんな合唱が上手で、素人でも「ボルガの舟唄」を唄うとハーモニーは見事だったと、ぼくに教えてくれたことあった。

 そのことから父に対して、素朴な疑問が浮かび上がってきた。子どもの頃から唄うことが苦手だと語っていたのに、どうして合唱技術のうまい下手がわかったのか? そういえばモダンなジャズが流れるNHKの『夢であいましょう』を、いつも父と子で一緒に観ていたことも、考えてみると不思議な気がしてきた。

 そんな過去に思いをめぐらせていくうちに、大学を卒業すしたら父の会社の経営を継ぐようにと言われていたのに、東京でもう少し音楽の研究をしたいと訴えたときのことに行き当たった。

 当然のように猛反対に合うと考えて、勘当を言い渡されることも覚悟のうえで、勇気をふるって父と向かい合った。そこで気持ちを正直に話してみたところ、意外にもあっさり許しが出たのである。

 「金銭的に親の世話にならないのならば、しばらく独り立ちしてやってみるのもいいか」

 ぼくはこの話し合いがあったことで、明治大学を卒業してからも東京に残って、朝日新聞の募集広告を目にしたことによって、ミュージック・ラボ社に入社することができた。そこから音楽業界に足を踏み入れて、子どもの頃から漠然と憧れていた仕事に就いて、そのまま現在に至っている。

 その当時は安心感と嬉しさのあまり、父の心境を推し量るまでの余裕がなかった。しかし、はからずも戦争に巻き込まれた父が、自分があきらめなければならなかった道に、息子が進んでいくことを認めてくれたのだということに、遅ればせながら気づかされることになった。

 それは父が1977年に59歳で他界した後に、遺品の中にあった写真を整理していたときのことである。旧制中学を卒業して就職した頃の写真らしく、下宿と思しき部屋にいる少年のような父が、カメラに向かってはにかむように笑顔を浮かべていた。

 そのとき、父は胸のところにギターを抱えていたのだ。ぼくが歌や音楽が好きなのは、父譲りだったことをそこで初めて知った。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

満州里小唄 / ジャイアント馬場 (ソノシート盤『われらのチャンピオンは歌う』収録 1967)



※ 『スタンダート曲から知る日本の音楽文化史』(佐藤剛著)をご愛読いただきありがとうございます。連載は新年(2021)1月7日から再開します。次回は、第11章『歌に宿る生命力』から、③CMソングとミュージカル、④いずみたくメロディーの浸透力、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之