~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第11章 ③④】


①シベリアから帰ってきた男たち 「チャンチキおけさ」
②素人なりに愛唱したご当地ソング 「満州里小唄」
③CMソングとミュージカル 「見上げてごらん夜の星を」
④いずみたくメロディーの浸透力 「夜明けのうた」

⑤日本の新しい民謡をつくる 「ここはどこだ」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第11章『歌に宿る生命力』より、③CMソングとミュージカル、④いずみたくメロディーの浸透力、をお届けします。

 1951年と53年にそれぞれ、民放ラジオとテレビが開局すると企業のコマーシャル(CM)が放送されるようになりました。CMという新ジャンルで、音楽家たちはどのようにそれに対峙し、新しい音楽に挑戦をしていったのでしょうか。

第一部 第11章 歌に宿る生命力

 

③CMソングとミュージカル
「見上げてごらん夜の星を」

 

 ラジオの民間放送が開始されたことから必然的に出現したコマーシャル(CM)ソングの第一号は、1951年9月に制作された小西六写真工業の「僕はアマチュアカメラマン」だと言われている。これはCMソングの父と謳われた三木鶏郎(みきとりろう)が作詞・作曲した、フルサイズの長さがある楽曲だった。

 戦後まもない1947年にNHKで人気を博したラジオ番組『日曜娯楽版』で、三木鶏郎はギャグと風刺の効いた歌によって一世を風靡した。

 ところがその後身となったNHKの『ユーモア劇場』のなかで、政界財界官僚の被疑者が出た造船疑獄を取り上げて風刺したところ、自由党の幹事長だった佐藤栄作(後の総理大臣)の逆鱗に触れてしまった。そのためにNHK会長が更迭されて、1954年の『歌の新聞』から『日曜娯楽版』『ユーモア劇場』と8年間も続いた番組が、あっさり打ち切られたのである。

 しかし三木鶏郎はその年の秋には文化放送で、『みんなでやろう冗談音楽』(提供:文藝春秋社)をスタートさせている。このようにして続けられた「冗談音楽」のなかから生まれたヒット曲には、「僕は特急の機関士で」「毒消しゃいらんかね」「田舎のバス」といった作品のほかに、リリカルな「かぐや姫」などの意欲作もあった。

 それと同時にCMソングの黎明期に出会ったことで、三木鶏郎は膨大ともいえる数の仕事を引き受けて、自ら主宰する工房のメンバーたちと「ミツワ石鹸」「明るいナショナル」「カンカン鐘紡」「キリンキリンキリン」「くしゃみ3回ルル三錠」などを作っている。

 三木鶏郎の門下からは最年少だった永六輔を筆頭にして、放送作家になったキノトール、能見正比古、直木賞作家になった神吉拓郎、野坂昭如など、数多の俊才、天才、異才が輩出された。

 三木鶏郎楽団としてもジャズのジョージ川口、小野満、鈴木章治などが在籍したことがあり、歌手の楠トシエや中村メイコ、喜劇俳優の逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平などを世に送り出した。

 また音楽制作の部門では作曲家として、神津善行、いずみたく、桜井順などを擁していたし、作詞家としては伊藤アキラや吉岡治などが嘱託のように携わっていた。フリーだった五木寛之もCMソングに関わりを持って、一時期は関連会社で仕事をしていたことがあった。

 三木鶏郎門下だった野坂昭如が独立して、いずみたくとコンビを組んで最初にヒットさせたのは、キスミー化粧品の「セクシーピンク」だった。昼日中からラジオを通して流れ出した女性のため息ソングは、刺激が強くて賛否両論を巻き起こしたが、そのことで話題を呼んだのだ。

 これによって作曲家のいずみたくの評価が高まったが、まもなく同じコンビが伊東温泉の『ハトヤグループ』に提供した「♪ 伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よいふろ)」も、単刀直入のわかりやすさで評判になった。そんなふうにして21世紀の現在でも使われる、ロングセラーの企業CMが誕生してきたのである。

 野坂昭如はここから作家に転向して成功し、テレビでも注目を集める文化人となって、さらには歌手としても活躍していった。永六輔と小沢昭一の3人で「中年御三家」を名乗って、日本武道館でコンサートを開催したのは1974年のことになる。

 ここでCMソングづくりの渦中にいた、いずみたくのリアルな言葉を記しておきたい。

 

 作るCMソングの新鮮さが受けて、商売は繁盛して、二年間に二百曲近くのCMソングを作曲した。つまり三日に一曲の割合でCMソングを作曲したことになる。しかし作詩料も作曲料も三木トリローサンの十分の一にも満たない。安くはかない新人のシーエム稼業だった。
 仕事ばかりはメチャクチャに忙しい日々が続いた。CMソングとラジオ、テレビの音楽、そして映画の音楽と毎晩徹夜が続いた。
 (いずみたく『新ドレミファ交遊録 ― ミュージカルこそわが人生』サイマル出版 1992)

 

 しかしこの時、いずみたくはCMの仕事を続けながらも、内心ではやや不本意だったと吐露していたという。

 

 ボクはCMソングがヒットするたびに、ますます小さくなっていく自分を感じた。
 (前出 いずみたく『新ドレミファ交遊録』)

 

 そこに創作ミュージカルに挑戦する話を持ってきたのが、1959年の12月に「黒い花びら」の作詞によって、日本レコード大賞に選ばれてまだ間もない永六輔であった。仕事に不満を抱いている友人を見かねて、こんな声をかけてくれたのである。

 

 「たくチャン、ミュージカルをやろう!僕たちだけで、ちっちゃいけれどすてきなミュージカルを作ろう」
 永六輔の声が飛び込んできた。夢ではないだろうか。興奮した声だ。「見上げてごらん夜の星を」。タイトルも決まっていた。
 「ただ一つ条件があるんだ。たくチャン、今後、でき上がるまで、CMソングはもちろん、他の一切の仕事をやめて、僕と一緒に生活してくれ!」
 永六輔の真剣な目がボクをみつめていた。
 (前出 いずみたく『新ドレミファ交遊録』)

 

 1960年7月に大阪労音が制作した『見上げてごらん夜の星を』は、大阪・フェスティバルホールで初上演された。出演したのは伊藤素道とリリオリズムエアーズ、宮地晴子、田代みどりだけで、ほんとうに少人数のミュージカルであった。

 しかしこの時、客席ではまだ人気が爆発する直前の坂本九がその舞台を見ていた。そして「上を向いて歩こう」が大きなヒットになったことから、1963年には自らが主演する形でミュージカルの再演に挑んだ。そのために坂本九の唄う「見上げてごらん夜の星を」がレコード化されて、秋には松竹の製作で映画が公開されたのである。

 それによっていずみたくはビクターからの誘いを受けて、歌謡曲やポピュラーソングを書くために専属作家になった。しかし当時のレコード会社のシステムの中では、専属になったがゆえに新鮮なヒット曲を生み出せないことを痛感したという。

 

 極端にいえば、“当たって儲かればよい” のであって、エロ、グロ、やくざ、軍国主義、何でもいいのだ。売れ、売れという商業主義のみが横行していた。いい歌を作り、できるだけ大勢の人に歌ってもらうことで、日本の音楽を成長させようという常識はなかった。
 (前出 いずみたく『新ドレミファ交遊録』)

 

 1年でふたたびフリーに戻ったいずみたくは、そこで運気の流れが変わったのか、1960年代の半ばから数年間で、生涯における代表曲と数多くのヒット曲を集中的に誕生させていくのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

見上げてごらん夜の星を / 坂本 九 (EP盤 1963)

 

④いずみたくメロディーの浸透力
「夜明けのうた」

 

 いずみたくが作る楽曲はリズムがシンプルで、自然に口ずさみたくなるメロディーに特徴があった。作詞でコンビを組んでいた岩谷時子は、そのことについて「心にすうっと入ってきた」という感想を述べている。【注】

 二人の作品づくりは基本的にいずみたくが作曲し、譜面とメロディーを渡すところから始まった。そのときのメロディーには必要なテーマや必要な言葉、内容などが書き込まれている。それを聴きながら岩谷が作詞した後にもう一度、二人で全体を検討するという段取りが基本だったという。

 

 いずみさんは口数の少ない方だが、詞が気にいると「いいですねぇ」といって下さるし、私もメロディをきいていると、いくつもの言葉が浮かんできて、二、三種類作詞して選んでいただくこともある。
 レコードが売れると「売れ始めました。売れてます売れてます」
 と、報告がある。そういうところはオールスタッフの社長さんたるところらしい。
 他の作曲家と作詞家のカンケイを私は知らないが、私の場合は打合せのときと、吹込みのときしかおめにかからない。
 (岩谷時子『愛と哀しみのルフラン』講談社 1986)

 

 最初に二人が組んだ「夜明けのうた」(作詞:岩谷時子)は、もともとテレビのミュージカル用に作られた楽曲だった。それが坂本九の主演するドラマの主題歌に使われて、東芝レコードが1964年にシングル「夜明けの唄」として発売した。

 そのときは思ったような結果を出せなかったが、芸大出身のシャンソン歌手だった岸洋子がカヴァーすることになり、歌詞の主語が「僕」から「あたし」に変わった。そして和田弘とマヒナスターズやダーク・ダックスとの競作を制して、1965年に発売した岸洋子がヒットに結びつけたのである。

 「夜明けのうた」は第6回日本レコード大賞(1964年)で歌唱賞にも選ばれたが、この時には岩谷時子も「ウナセラディ東京」(作曲:宮川泰 歌:ザ・ピーナッツ)との2曲で、初の作詞賞を受賞している。

 なお、いずみたくは1967年に「世界は二人のために」(作詞:山上路夫)を発表し、これを唄った佐良直美が第8回レコード大賞で新人賞に選ばれた。さらに1968年には「恋の季節」(作詞:岩谷時子)を唄って大きなヒットを放ったピンキーとキラーズも、自分の事務所であるオールスタッフからデビューさせていた。

 新人をデビューさせる場合に、いずみたくは一年くらい前からコマーシャルに起用し、そこでいろいろ試してみることによって、レコードのヒットに結びつけていったと述べている。

 

 「僕の場合、新しいリズムと言うのは、まずコマーシャルで使いますね。コマーシャルで実験して、歌謡曲へ持ち込むんです。」
 (古茂田信男/ほか編『日本流行歌史』社会思想社 1995)

 

 その典型的な例として挙げられていたのが、ACC・CMフェスティバルのシンギングソングCM部門で、ナショナルの「パナパナ」を歌って金賞を受賞したピンキーとキラーズだった。CMソングはデビューする前のグループにとって、バンドによるサウンドとコーラスにおけるテスト版の役割を果たしていたのだ。

 まだ16歳だったメイン・ヴォーカルの今陽子は「恋の季節」では、ダービーハットをかぶったパンタロン姿が鮮やかで、小さな子どもからお年寄りにまで好かれる国民的なスターになった。いずみたくの作品は若い頃に量産したCMソングがそうであったように、大人だけでなく子どもにまで受け入れられた。

 声優の熊倉一雄が1967年に唄った「ゲゲゲの鬼太郎」も、再放送が繰り返されたことによって、多くの世代に渡って子どもたちに愛唱された。この曲は大人向きと思われていたブルースの音階を参考にしたもので、音感は子どものほうがすぐれている場合が多いという、いずみたくの持論を証明する結果になった。

 TBSラジオの『夜のバラード』という番組で、女性がスキャットする楽曲がテーマとして使われ始めたのは1968年からである。それは歌というよりも、人間の声によるインストゥルメンタルに近かったのではないかと思われる。

 これを唄った安田章子は姉の安田祥子とともに、童謡歌手として10歳の頃から活躍していたキャリアの持ち主だった。譜面を見てすぐに唄える器用さがあったので、いずみたくもCMソングをよく歌ってもらっていた。

 そのうちにスキャットが魅力的なことに気づいて、いずみたくはレコード化するアイデアを思いついて、それを実行に移したのである。

 

 この曲は、二、三年前から、CMの世界で彼女に歌わせていたスキャットの集大成である。ボクたちにとってスキャットの仕事は決して新しいものではない。
 そしてこの曲は、レコード発売以前に、深夜放送に流したとたん、またまた「恋の季節」のような大反響を起こした。彼女の甘い声と、スキャットの新鮮さが、ラジオに向いていたのだろう。その反響がレコードの発売を早め、発売日には、すぐにレコードは売り切れの状態となった。
 (いずみたく『新ドレミファ交遊録 ― ミュージカルこそわが人生』サイマル出版 1992)

 

 この「夜明けのスキャット」は安田章子あらため、由紀さおりとしての再デビュー曲になった。ゆったりしたメロディーがスキャットで唄われると、透明感があるサウンドと澄んだ歌声のマッチングがよかった。山上路夫による最小限の歌詞だけで、基本をスキャットで押し切ったことも功を奏したのだろう。

 レコード化されたシングル盤は大きなヒットになって、年間チャートでも1位を記録したのである。

 この偶発的に見えたヒット曲の誕生は、よく考えてみるとラジオから流れてきた音楽に魅力を感じたリスナーが、「もっと聴きたい」「レコードがほしい」と反応した自然な現象であった。

 そして「夜明けのスキャット」がヒット中だった1969年7月、いずみたくの秘蔵っ子として育てられていた、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が発売された。これは岩谷時子の歌詞が先行した作品だったが、恋人がいながらも別の恋愛に惹かれる女性の気持ちを歌っていた。

 まわりの人から「つめたい女」「わるい女」「浮気な女」と言われても、自分の意志を曲げない生き方を打ち出した歌詞には、女性の側から自由に生きることへの主張が込められていた。しかもソフトで品がいいアレンジだったことで、シンパシーを感じた女性の支持で静かにヒットし、1969年の日本レコード大賞では大賞を獲得した。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

夜明けのうた / 岸 洋子 (EP盤 1964)



※ 次回の更新は1月14日予定! 第11章『歌に宿る生命力』より、⑤新しい日本の民謡をつくる、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之