~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第11章 ⑤】


①シベリアから帰ってきた男たち 「チャンチキおけさ」
②素人なりに愛唱したご当地ソング 「満州里小唄」
③CMソングとミュージカル 「見上げてごらん夜の星を」
④いずみたくメロディーの浸透力 「夜明けのうた」
⑤日本の新しい民謡をつくる 「ここはどこだ」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第11章『歌に宿る生命力』より、⑤日本の新しい民謡をつくる、をお届けします。

 いずみたく・永六輔のコンビが取り組んだ『にほんのうた』シリーズ。「女ひとり」(京都)や「いい湯だな」(群馬)をはじめ、都道府県にちなんで制作する曲づくりは、“新しい日本の歌” への挑戦でした。そして本土復帰前に創られた沖縄の歌「ここはどこだ」には、焦土と化した沖縄戦を悼むさまざまな思いと、沖縄県民の気持ちが込められることになります。

第一部 第11章 歌に宿る生命力

 

⑤日本の新しい民謡をつくる
「ここはどこだ」

 

 いずみたく永六輔とのコンビで取り組んだ『にほんのうた』シリーズは、1965年から日本にある全都道府県をまわって、ご当地ソングを書き下ろしてアルバムを発売する計画だった。4年間をかけて完結させる前提の企画で、さながらライフワークのような仕事になった。

 きっかけとなったのは、いずみたくと永六輔の外遊であった。1965年にパリとロンドンで劇場やナイトクラブを見て歩いたとき、以前に上演したミュージカルを思い出して、“日本の歌” というテーマに取り組んだ。

 

 ミュージカル「灯台の灯のように」のなかに「どこにあるんだろう、日本の歌」というショー・ナンバーがあった。ボクと永六輔の二人は、このショー・ナンバー作りに夢中になった。いろいろな国の歌と踊りのパロディーを構成し、日本の民謡、小唄、義太夫、浪曲のような古い音楽まで取り入れたショー・ナンバーである。
 (いずみたく『新ドレミファ交遊録 ― ミュージカルこそわが人生』サイマル出版 1992)

 

 永六輔はそのアイデアを発展させて、全国の名所にちなんだ歌をつくる企画を立てた。NHKテレビ『夢であいましょう』のレギュラーだったコーラス・グループで、ジャズ出身のデューク・エイセスを起用することにしたのは、最初から織り込み済みであった。

 彼らは米軍キャンプを回っていた時代に、アメリカ兵から日本の歌のリクエストが来たことで、童謡や落語をレパートリーに加えていた。

 

 彼らはゴスペル・ソング (黒人霊歌にブルースなどの要素が加わって生まれた音楽)も歌いながら、例えば『与太郎』や『寿限無』といった落語に節をつけて歌っていたりもしていたのです。
 (永六輔『永六輔の芸人と遊ぶ』小学館 2001)

 

 どんな難題でも受けてくれるかもしれない……、永六輔がそう思った通りにデューク・エイセスは、どんなジャンルでも歌いこなした。そして番組の中からは「おさななじみ」という、ユニークなオリジナル曲をヒットさせたのである。

 彼らがいれば自由な発想の作品づくりが可能になる……、企画を始めるにあたっていずみたくは、「いつか民謡になるような歌を作りたい」と心に期した。

 そして1965年につくった最初のアルバムから、京都府をテーマにした「女ひとり」がシングル・カットされてヒットした。これは全員にとって、うれしい誤算であっただろう。

 いずみたくとコンビを組んでいた岩谷時子が、「女ひとり」についてこんな感想をエッセイに書いている。

 

 私は、いずみさんの歌の中で「女ひとり」が大好きである。メロディが、しっとりぬれていて、蛇の目をたたく京都の雨の音がする。

  京都 大原 三千院
  恋につかれた 女が一人

  結城に塩瀬の ……
 作詞は永六輔さんである。結城の着物に塩瀬の帯というところが、またよくて、女の作詞家は「わあ、やられた」と頭を抱えてしまう。お二人の歌にはいい歌がたくさんある。
 (岩谷時子『愛と哀しみのルフラン』講談社 1986)

 

 次に注目を集めたのは、1966年に発表された群馬県の「いい湯だな」だった。その2曲がスタンダードとして、後世に歌い継がれていったのである。誰にも唄いやすいメロディーという点において、「いい湯だな」にはいずみたくの特徴が良く出ていた。

 また永六輔の作詞における基本だった日常会話のニュアンスも、ごく自然に伝わってきた。「♪ つめたいな」ではなく「♪ つめてェな」という話し言葉には、江戸っ子の末裔らしいセンスがあった。

 「いい湯だな」は1967年にザ・ドリフターズよってカヴァーされたことで、テレビ番組のエンディングテーマに使われるようになり、1970年代になってからは子どもたちを中心に広まって、誰もが知るスタンダード曲になっていく。

 またデューク・エイセスも1968年には「いい湯だな」でNHKの紅白歌合戦に出場し、1969年には「筑波山麓合唱団」でも連続出場を果たして、『にほんのうた』を知らしめることに努めている。

 なお、いずみたくはこのシリーズを回顧して、全員で沖縄に旅行して取材した時が、いちばん印象が深かったと述べている。

 当時は1972年の日本復帰より6年前だったために、入国ビザを取って沖縄の空港に降り立った。そんな一行を出迎えたのは完全に基地化されて、米ドルしか通用しない国籍不明の島であった。

 一行は第2次世界大戦で沖縄の人たちが日本のために、最後まで守ろうとした島に残った痕跡を見て回った。やがて沖縄の少年たちが全員で自決した洞窟の中に入ったとき、思ってもみなかった体験をしたという。そのことをこのように文章で残している。

 

 「皆さん、『海ゆかば』を合唱しましょう」
 案内ガールの声が、突然静けさと、ボクたちの暗い思いを破った。デュークの全員は、なんとなく無意味にポツポツと歌い始めた。ボクはただうつむいてしまった。歌いたくとも、とても歌う心情にはなれなかった。永六輔は複雑な表情で、横を向いた。戦死した少年たちに対して「海ゆかば」を歌うことがはたして供養になるのだろうか。悲しさと苦しさと、腹立たしさが一緒になって、ボクは外に出た。
 (いずみたく『新ドレミファ交遊録 ― ミュージカルこそわが人生』サイマル出版 1992)

 

 永六輔は疎開先の長野県から故郷の浅草に戻ったとき、空襲によって焦土と化した東京を目にして、戦争の悲惨さを胸に刻んでいた。そして沖縄が本土を守るための防波堤となって、たくさんの民間人が犠牲になったことを知って、二度と過ちを繰り返してはならないとの思いを抱いた。

 それが「ここはどこだ」という、沖縄の人の声を伝える歌に結実したのである。

  ここはどこだ
  作詞:永 六輔 作曲:いずみたく

  ここは どこだ いまは いつだ
  なみだは かわいたのか
  ここは どこだ いまは いつだ
  いくさは おわったのか

  ここは どこだ きみは だれだ
  なかまは どこへいった
  ここは どこだ きみは だれだ
  にほんは どこへいった

  流された血を
  美しい波が洗っても
  僕達の島は
  それを忘れない
  散ったヒメ百合を忘れはしない
  君の足元で歌いつづける

  ここは どこだ いまは いつだ
  いくさは おわったのか
  ここは どこだ きみは だれだ
  にほんは どこへいった

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

ここはどこだ / デューク・エイセス (EP盤 1967)



※ 次回の更新は1月21日予定! 第12章『タブーを破る歌詞を意識していた異端児』、前編をお届けします。お楽しみに!

 

←前の話へ          次の話へ→

各話一覧へ

 


 

Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之