~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第12章 ①②】


➀ズー・ニー・ヴーをめぐって 「白いサンゴ礁」
②アイドルから大人の女性歌手へ 「白い蝶のサンバ」

流れ星になった藤圭子のブルース 「圭子の夢は夜ひらく」
履歴書を歌にした意外な着想 「ざんげの値打ちもない」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第12章『タブーを破る歌詞を意識していた異端児』より前編、①ズー・ニー・ヴーをめぐって、②アイドルから大人の女性歌手へ、をお届けします。

 1966年のザ・ビートルズ来日をきっかけに巻き起こった空前のGS(グループ・サウンズ)ブーム。それがもたらしたエレキ・サウンドはどのように音楽家たちを刺激し、そして音楽家たちはどのように新しい音楽へ挑戦をしていったのでしょうか。「白いサンゴ礁」(1969年)と「白い蝶のサンバ」(1970年)を端緒に考察を深めていきます。

第一部 第12章 タブーを破る歌詞を意識していた異端児

 

➀ズー・ニー・ヴーをめぐって
「白いサンゴ礁」

 

 ぼくがどこかに新鮮さを感じる歌詞やサウンドを気にし始めたのは、GSブームをきっかけにして音楽シーンの潮流が、明らかに変わってきたと思ったからだった。当時は単なる音楽ファンのひとりだったが、エレキ・サウンドを取り入れた歌が増えるにつれて、新しい作曲家が登場してきたことを体感するようになっていった。

 その前兆となったのが歌謡界の御三家のなかで、かなりポップス寄りだった西郷輝彦である。ぼくは「君だけを」や「十七才のこの胸に」、「君と歌ったアベマリア」などを気に入って、彼のレコードを以前から買っていた。そこにラテンのリズムを取り入れた「星娘」がヒットしたのは、ベンチャーズが来日してエレキ・ブームを巻き起こした1965年の秋のことだった。

 ドラムから始まるイントロは新味があったし、エレキ・ギターが全編に使われていることを含めて、サウンドから新しさが伝わってきた。ジャケットの裏を見ると、作詞作曲が浜口庫之助と書いてあった。

 そして編曲者として、小杉仁三(じんぞう)の名が記されていた。

 それまでのオーケストラの伴奏による方法では対応できない、新しいタイプの楽曲が出てきたのであろう。しかし編曲家や録音のエンジニアがどれだけ作品に関与するのかについて、当時は具体的に何もわかっていなかった。

 それでも時代の先端を走る歌をつくりたいという熱意を感じさせるサウンドが、次々に出てくるだろうと思っていた。

 GSブームはビートルズが来日した1966年の後半から始まったが、それを牽引したザ・スパイダースのヒット曲は、浜口庫之助の作詞作曲による「夕陽が泣いている」だった。編曲のクレジットはなかったが、バンドとしてアレンジに取り組んだことは音を聴けば明らかだった。

 それまで何となくイメージしていた “あたらしい歌と音楽” が、自分のなかではここで具体的になったのである。しかしGSのブームはヒット曲が続出したことの影響で、次第に歌謡曲化して3年ほどで末期を迎えることになった。

 そんな1968年11月に発売されたズー・ニー・ヴーの「水夫のなげき」を耳にして、ぼくはGS以後の希望らしきものが見えた気がした。ラジオからこの曲を聴いたのがいつだったのか思い出せないが、歌謡曲の匂いがどこにもないことに驚いたのだ。

 歌があっさりしているのでヒットするとは思わなかったが、地味ながらも品がいいグループだと好感を持った。作曲が村井邦彦で作詞が山上路夫だということは、平凡パンチの別冊の付録についていた歌本で知った。

 彼らはそれに続いて1969年の4月にセカンド・シングル「涙のオルガン」(作詞:大橋和枝 作曲:村井邦彦)を出したが、町田義人のヴォーカルとメンバーのコーラスに前作より力強さを感じた。だが、それでも、歌詞の印象はまだ薄かった。

 そのせいもあってヒットしないまま終わるかと思っていたら、しばらくしてラジオからB面の「白いサンゴ礁」が流れるようになった。そこからA面とB面が入れ替わったレコードが発売になり、ベストテンには入らなかったが、ヒットしたと言えるだけの数字を残したのである。

 これも作曲は村井邦彦が手がけていたが、作詞はモップスの「朝まで待てない」でコンビを組んで以来の阿久悠だった。

  白いサンゴ礁
  作詞:阿久 悠 作曲:村井邦彦

  青い海原 群れ飛ぶ鴎
  心ひかれた 白いサンゴ礁
  いつか愛する 人ができたら
  きっと二人で 訪れるだろう
  南の果ての 海の彼方に
  ひそかに眠る 白いサンゴ礁
  まことの愛を 見つけたときに
  きっと二人で 訪れるだろう

 村井は音楽家として世に出て3年目の25歳で、当時の若手では最も注目される作曲家だった。それまでに出たヒット曲を並べていくと、発売順に全部で8曲になった。それを【大ヒット(40万枚以上)】、【中ヒット(20万枚以上)】、【小ヒット(5万枚以上)】に分けると、無名だったときの2曲をのぞけば、大と中が3曲ずつになる。

 ザ・テンプターズやザ・タイガースという人気バンドから作曲の依頼が来るようになって、そこから世に出た6曲をみる限り、すでに堂々たるヒットメーカーであった。なお編曲のクレジットがないものは、村井もしくはバンドによるものだからであろう。

【小】「朝まで待てない」67年11月(作詞:阿久悠)モップス
【小】「待ちくたびれた日曜日」67年12月(作詞:小園江圭子)ヴィッキー
【大】「エメラルドの伝説」68年6月(作詞:なかにし礼)ザ・テンプターズ
【中】「廃墟の鳩」68年10月(作詞:山上路夫)ザ・タイガース
【中】「純愛」68年12月(作詞:なかにし礼)ザ・テンプターズ
【中】「白いサンゴ礁」69年4月(作詞:阿久悠)ズー・ニー・ヴー
【大】「ある日突然」69年5月(作詞:山上路夫 編曲:小谷充)トワ・エ・モア
【大】「夜と朝のあいだに」69年10月(作詞:なかにし礼 編曲:馬飼野俊一)ピーター

 それに比べると阿久悠は「朝まで待てない」の後も、これといったヒット曲には携わっていない。しかしB面だった「白いサンゴ礁」が売れたことによって、作詞家としてやっていける可能性が見えてきたという。

 しかも謹厳実直そのものの警察官だった父親から、作詞について初めて言葉をかけられたとも記していた。

 

 この歌は、ぼくの作品としては二つ目のヒット曲である。一つ目の「朝まで待てない」から約二年が過ぎてようやく売れるものが出来た。この間試行錯誤があれこれあって、半ばヤケになって人事の関わりの薄い詞を書いたものである。
 いつか愛する……と歌ってはいるが、風景と同格のものである。ただし、この歌を聴いたぼくの父は、「お前の歌は品がいい」と喜んだ。
 (阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう 』新潮社 2007)

 

 1969年4月1日の発売からしばらく時間が経過したところで、「白いサンゴ礁」は夏の到来とともに火がついて、予想外のヒットになっていった。そこに5月25日に発売された原田信夫とキャラクターズの「港町シャンソン」が、6月から7月にかけてじわじわとヒットチャートを上昇してきた。

 しかし、それがどうして売れてきたのかについては、分析が得意だった阿久悠にも、今ひとつわからなかったらしい。

 

 ものすごくアンバランスな歌だった。古くさい詞にチャイナ・メロディ。おまけにノコギリがヒュルヒュルと入る。たとえていえば、和洋折衷に中華をふりかけたようなゴッタ煮である。
 これが売れた。『白いサンゴ礁』と、全く同じペースで売れた。ランキングでいうと一方が二五(25)位なら二五(25)、二六(26)と並ぶし、一方が一八(18)位にいくと一八(18)、一九(19)と並ぶ。
 阿久悠という名前が二つつながって見えるのは、めだつものである。急に作詞の依頼がふえることになった。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009) 引用文(英数字):編集部追記

 風変わりな名前が目立ったがために、レコード会社のディレクターなどの間では、「何と読むんだ?」「悪友(アクユウ)のもじりか?」といった会話が生じたという。そこで初めて作詞家として認識されるようになって、仕事が増えてきたなかにあったが、森山加代子をカムバックさせるプロジェクトだった。

 そこから作詞家としての運命を変える、記念すべきヒット曲が誕生することになる。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

白いサンゴ礁 / ズー・ニー・ヴー (EP盤 1969)

 

②アイドルから大人の女性歌手へ
「白い蝶のサンバ」

 

 森山加代子は1960年にイタリアのミーナが歌った「月影のナポリ」でデビューし、いきなりカヴァーポップスで人気アイドルになった。その後も中村八大が作曲したコミカルなオリジナル曲の「じんじろげ」がヒットしたので、一時はテレビの司会などでも活躍していたが、数年のうちに忘れられてしまった歌手だった。

 

 その大物のカムバックにオリコンの中位に二曲ぐらい入っている程度の作詞家に注文があるのは、いささか不思議だとも思ったが、まあいい、それはそれ向う様の魂胆で、こちらはそれを裏切る物を書いて、びっくりさせればいいと、腹をくくった。
 (阿久悠『昭和と歌謡曲と日本人』河出書房新社 2017)

 

 阿久悠はこの仕事を頼まれた時に、なんらかの爆発力が必要不可欠であるとの結論に達した。それはブランクについて、大衆によけいなことを考えさせないためだった。

 そこで曲が先に出来ていたので、井上かつおが作ったデモテープを聴いてみたところ、とっさに「これは歌えない」と思ったという。そのまま歌詞を付けたとしても、舌を噛んでしまうだろうとも予測した。

 しかしプロの作詞家としてやっていくならば、そこを乗り越えないと前に進めないと考えなおして、どんなに細かい譜割で早口言葉のようになっても、はっきり言葉が聴こえて、しかもリスナーに完全に伝わる歌詞をつくることにトライした。

 阿久悠はこのとき、歌謡曲の制約にとらわれず、大胆な表現に取り組めると頭を切り替えた。そのことで作詞家への道が開かれたともいえる。

 

 情緒や情念をふっとばして、もっと乾いた世界を構築してもいいということで、ぼくは安心して大胆さと面白さに取り組んだのである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 そして歌い出しの2行を書いたところで、「これは完璧」だという手ごたえをつかんだ。

 〽あなたに抱かれて わたしは蝶になる
  あなたの胸怪しい くもの糸……
  (「白い蝶のサンバ」より)

 そこからはイラストレーター的な感覚の幻想をふくらませることで、絵画にも通じる歌詞をイメージしていった。そして心情とか意味はなくても、星や蝶や花やロケットが飛びかう、ポップアートのような歌詞が出来上がったのである。

 もうひとつ、この歌が画期的だったのは、当時の歌謡曲としては珍しい16ビートの曲だったことだ。しかも16分音符の細かな譜割に合わせて、律義に16文字の歌詞が載っていた。だから当時のリスナーには森山加代子の歌が、あたかも早口言葉のように聴こえてきたらしい。

 

 大げさな言い方をすると、この歌は僕の人生を変えた。つまり、作詞家にしてしまった歌なのである。
 三年前に「朝まで待てない」を出して以来、年に何作か注文に応じていたが、意気込みほどには結果が出せなくて、もしかしたら作詞は不向きかと思い始めていた。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 1970年の1月25日に発売されたシングル盤「白い蝶のサンバ」は、阿久悠にとって最初のオリコン1位獲得曲になった。

 「白い蝶のサンバ」が話題になっていた時、ぼくは受験生だったが新しい試みだと思って興味を持った。とくに感心したのは大胆な編曲の面白さで、川口真が手がけたサウンドからは、新しい時代の息吹が伝わってきた。

 当時の川口は前の年に弘田三枝子の「人形の家」(作詞:なかにし礼)をヒットさせたことで、作曲家としてもスポットライトを浴びているところだった。

  人形の家
  作詞:なかにし礼 作曲:川口 真 歌:弘田三枝子

  顔もみたくない程
  あなたに嫌われるなんて
  とても信じられない
  愛が消えたいまも
  ほこりにまみれた人形みたい
  愛されて 捨てられて
  忘れられた 部屋のかたすみ
  私はあなたに 命をあずけた

 子どもの頃から米軍キャンプを回っていた弘田三枝子は、1961年に14歳でレコード・デビューすると同時に、カヴァー曲の「子供ぢゃないの」がヒットした。そこから「ヴァケーション」や「砂に消えた涙」などをヒットさせて、森山加代子や田代みどりといったカヴァーポップスのアイドル歌手の仲間入りを果たした。

 そして中学生ながらもパンチのある歌声で評判になり、実力をかねそなえた少女歌手として、男性の坂本九と同じ時代に一世を風靡したのだ。その後は本格的なジャズ・シンガーを目指して、1965年にアメリカのニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演するなど、順調にキャリアを重ねた。

 しかし日本では1966年からGSブームが始まって、それに呼応した女性によるガールズ・ポップが、黛ジュンを筆頭にして盛り上がった。だが彼女はそうした波に乗れなかったので、そこでしばらく低迷期を迎えることになった。

 ところが1969年に大胆な美容整形をして「人形の家」を大ヒットさせたことから、大人の歌手として見事なカムバックを印象づけたのである。

 

 「人形の家」は当時の私の担当だったコロムビアのディレクターがものすごく入れ込んでた曲で、ジュークボックスの店にレコード持って歩いたり、楽器店の人が盛り上げてくれたり、そういう熱気から生まれたヒットでした。
 作曲の川口真さん、作詞のなかにし礼さん、それにディレクターという三人の個性の強い人が集まって、て 私はただただ歌ったという感じでヒットなんて考えなかった。
 (村田久夫・小島智/編『日本のポピュラー史を語る:時代を映した51人の証言』シンコーミュージック 1991)

 

 なかにし礼は満州で成功していた造り酒屋の裕福な一家に生まれたが、そこに突如として降りかかった日本の敗戦によって、家屋敷やすべてが失われてしまった。日ソ中立条約を無視したソビエト軍が侵攻してきたことで、満州の地に置き去りにされた在留邦人は、苛烈な引き揚げ体験を強いられて多くの犠牲者を出した。

 なかにし礼が「人形の家」の歌詞を書いた時に、物語の下敷きに使っていたのは、日本という国に捨てられた自らの悲しみと絶望だった。実際に満州の地で体験した事実をもとにして、そこに化粧を施すことで恋の歌に仕立ててエンターテインメントにしたと、後年になって打ち明けている。

 

 「1945年8月14日、日本の外務省は在外邦人について『できる限り現地に定着させる』との方針を出しています。帰ってくるなということですよ。顔も見たくないほど、あなたに嫌われるなんて……。この『人形の家』の歌い出しの裏には、日本国民や日本政府から顔も見たくないほど嫌われるなんて……という思いがあったわけです」
 (なかにし礼「僕の書く歌は昭和に対する歌でもあった」NIKKEI STYLE)

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO04013990U6A620C1NNP000/

 

 作曲と編曲を担当した川口真は東京芸術大学で作曲を学びながら、越路吹雪のバックバンドのピアニストとしても活躍していた。そしていずみたくの工房で編曲のアルバイトをしたことから、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の編曲家としてデビューしている。

 その後はベンチャーズが作曲した「二人の銀座」(作詞:永六輔)から始まった、いわゆるベンチャーズ歌謡を引き受けて、渚ゆう子の「京都の恋」(作詞:林春生)や欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(作詞:林春生)など、数多くのヒット曲を編曲していた。

 そうしたキャリアを積み重ねる中で、日本コロムビアの鈴木亮一ディレクターから、「曲も書いたらどうですか」と言われて作曲したのが「人形の家」だった。

 

 それがヒットした時に岩谷時子さんに「作曲家は一発ヒットはよく出るけど、それで終わってしまう人が多いから次が大事ですよ」と言われました。次に書いたのが由紀さおりの「手紙」です。
 (川瀬康雄・吉田格・梶田昌史・田渕浩久『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』DU BOOKS 2016)

 

 川口はその後も編曲の仕事を頼まれた場合は、作曲と並行させながら引き受けていた。それは音楽を創造するという意味において、作曲も編曲も区別しなかったからだったという。「白い蝶のサンバ」が評判になったのは、「人形の家」がヒットした半年後のことである。

 

 あの頃はいい時代で、何か新しい変わったことをやるとすぐに注目してくれるっていうか、反応があったんですよ。曲を書くときもそうだけど、今までにないサウンドとか、みんなが使わない楽器を使ってやるとか、そういうのに一生懸命でした。ヒットさせようという意識よりも、新しいことをやりたいという思いのほうが強かったです。
 (前出『ニッポンの編曲家』DU BOOKS 2016)

 

 ドラムのフィルから始まる、二小節の短いイントロはきわめて斬新だった。そこに森山加代子は指と腕の動きで、白い蝶をイメージさせるアクションを振り付けた。そこからアレヨアレヨとたたみかける早口言葉に、視聴者は一気に引き付けられたのだった。

 

白い蝶のサンバ ジャケ写.jpg

白い蝶のサンバ / 森山加代子 (EP盤 1970)

 

※ 次回の更新は1月28日! 第12章『タブーを破る歌詞を意識していた異端児』より後編、流れ星になった藤圭子のブルース、履歴書を歌にした意外な着想、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之