~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第12章 ③④】


➀ズー・ニー・ヴーをめぐって 「白いサンゴ礁」
②アイドルから大人の女性歌手へ 「白い蝶のサンバ」
③流れ星になった藤圭子のブルース 「圭子の夢は夜ひらく」
④履歴書を歌にした意外な着想 「ざんげの値打ちもない」



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第12章『タブーを破る歌詞を意識していた異端児』より、流れ星になった藤圭子のブルース履歴書を歌にした意外な着想、をお届けします。

 1969年に起こった東大安田講堂事件の終息を境に、高度経済成長を続けてきた日本を閉塞感が襲います。それは、進化し続ける歌謡界に、1960年代半ばから起こったフォークブームが加わり、百花繚乱の様相を呈していた日本の音楽シーンにも微妙な影を落とします。閉塞感が漂う1970年に登場したのは、藤圭子と北原ミレイ。音楽家たちは、新しい音楽へどのように挑戦をしたのでしょうか。不朽の名曲「圭子の夢は夜ひらく」と「ざんげの値打ちもない」の誕生と広がりを紐解いていきます。

第一部 第12章 タブーを破る歌詞を意識していた異端児

 

③流れ星になった藤圭子のブルース
「圭子の夢は夜ひらく」

 

 1960年代の半ばから後半にかけて、アマチュアの大学生を中心にしてフォークソングが唄われるようになり、そこに若者の関心が寄せられたことから、民放のラジオではカレッジ・フォークの番組が始まった。

 それが一定のリスナーから支持されたことで、音楽的な環境に恵まれたグループのなかから、「若者たち」をヒットさせたザ・ブロードサイド・フォーや、小室等がいたPPMフォロワーズ、あるいはプロデューサーとなる麻田浩がマイク真木らとともに結成したMFQ(モダン・フォーク・カルテット)のように、後にプロとして活躍する人材が育っていく。

 やがて自分たちでオリジナル曲をつくる動きが出てくると、中高生の若いリスナーたちもアコースティック・ギターを手にするようになり、音楽人口のすそ野が一気に広がった。

 関西フォークの雄として大阪で活動していた高石ともやの「受験生ブルース」や、岡林信康の「山谷ブルース」や「友よ」などのレコードがヒットしたのもラジオの影響で、1968年から69年にかけてのことだった。

 それとほぼ同じ頃の歌謡界では、古賀政男の名曲をカヴァーした森進一のアルバム『影を慕いて』が、ベストセラーになる現象が起こっていた。

 これは最後の直弟子だった作曲家の猪俣公章が、企画とプロデュースに携わった意欲作である。猪俣にとって森進一の「女のためいき」は、長い下積みからつかみ取った会心の出世作だった。

 クラブシンガー出身の青江三奈が「恍惚のブルース」や「伊勢佐木町ブルース」という、自身のヒット曲をふくむアルバム『青江三奈ブルースを唄う』を発売して、ロングセラーを記録したのも1969年である。 

 世界的な傾向だったアルバムの時代が、このような形で日本でも幕を開けつつあった。それを決定づけたのが、発足してまもないRCAレコードからデビューし、1970年に大きくブレイクした藤圭子のアルバムだった。

 1970年3月5日に発売された『新宿の女 / “演歌の星” 藤圭子のすべて』は、まもなくアルバムチャートの1位にランクされた。収録曲は12曲だったが、そのうちの10曲が戦後の流行歌、もしくは同時代の歌謡曲をカヴァーしたものである。

 そして青江三奈もカヴァーしていた「星の流れに」と「カスバの女」は、藤圭子にも唄われたことで名曲だという声が高まり、スタンダード曲としての評価にもつながった。

 そしてカヴァー曲の「圭子の夢は夜ひらく」が4月5日にシングル・カットされると、5月25日にヒットチャートの1位に躍り出た。しかも3月30日から5月18日まで1位をキープしていたのは、藤圭子のセカンド・シングルの「女のブルース」だった。

 先にアルバムがブレイクした後に、シングル・カットされた曲がヒットする現象は、海外では当たり前でも日本ではこれが最初だった。

 その後、2枚目のアルバム『女のブルース』が7月5日に発売になって、これも好セールスを記録して、藤圭子は合わせて37週にわたってアルバムチャートの1位を続けた。

 ぼくはその二枚のアルバムを購入して聴き込んだことで、自分のなかにあった洋楽偏重の意識から解放された。いつも通っていた居酒屋『桂川』の人気トップ5は、邦楽が藤圭子、内山田洋とクール・ファイブ、岡林信康、青江三奈、森進一の順だった。

 洋楽はサイモン&ガーファンクル、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、CCR、シカゴだったと思うが、店の常連客は邦楽も洋楽も関係なく新譜のレコードを聴いた。

 当時は小型ステレオが普及し始めたところで、そこにカセット・テープレコーダーが発売になり、音楽を聴く環境が急速に整いつつあった。

 しかも民放ラジオでは深夜放送が定着したことで、パーソナリティや放送局のディレクターによっては、かなり個性的なフォークソングなども紹介され始めた。そのおかげでジャックスやはっぴいえんどといったバンドと、遠藤賢司、長谷川きよし、カルメン・マキなどの楽曲が流れるようになった。

 新しく始まった高音質のFM放送ではリスナーによる録音を前提にして、40分ほどの時間内でアルバムをオンエアする、イージーリスニングやクラシックの音楽番組も始まっていた。そうした環境の変化のおかげで若者にとっては、あらゆる音楽が身近なものになっていく。

 すでに各家庭に1台にまで普及していたテレビも、本格的なカラー放送の時代を迎えていた。そのために音楽番組は30分から1時間枠へと拡大し、見栄えのする色彩のセットなどが考案された。

 1967年から始まった『TBS歌のグランプリ』の美術のノウハウは、いったん空白をはさんだ後の1978年になってから、伝説の音楽情報番組となる『ザ・ベストテン』に受け継がれていく。

 フジテレビでは1968年から『夜のヒットスタジオ』が始まり、日本テレビも1969年に『紅白歌のベストテン』をスタートさせていた。それらの番組にはバラエティの要素も加わって、レコードのヒットを左右するほどの影響力を持つようになった。

 その一方では激しさを増していた学生運動が、1969年の1月から終息に向かい始めた。全共闘の学生たちによって、半年以上もバリケード封鎖占拠されていた東京大学の安田講堂が、機動隊の攻撃によって陥落した。

 そこで潮目が変わったことから、旧弊な価値観を壊そうとした反権力闘争は、新たな地平を見出せないまま、社会を変えようとするエネルギーを失っていった。未来への希望が幻想だったことに気づいた若者たちの間には、無力感や閉塞感が共有されていった。

 GSブームをきっかけにして新しいソングライターが台頭した音楽シーンでは、外国資本が日本に進出してきたことによる変革が始まっていた。

 そんな1969年から70年にかけて、“演歌の星” として売り出された藤圭子が、若い音楽ファンによって発見された事象は、今となってみれば奇跡的なことに思えてくる。

 彼女が歌うと声の震えは風になって、聴くものの心に吹き込んできた。行き場のない孤独を抱えた男性や、不幸な境遇に置かれた女性たちにも、その風が届いたのだ。

 ハスキーで切なさを感じさせる歌声を支えていたのは、細やかで力強いヴィブラートだった。それを可能にしたのはリズム感の良さと、子どものころから人前で歌うことによって培われた度胸である。

 どちらかといえば日本的な土着性を敬遠してジャズやロックを聴いていた若者の間で、藤圭子が支持されたのは可憐な美しさと、圧倒的な歌唱力をかねそなえていたからだった。

 デビュー時からレコーディング・エンジニアを担当していた内沼映二は、ダイナミック・レンジがとても広く、しかも倍音の成分が豊かな声だったと解説している。

 

 ちょっと小柄ですけど日本型の美人で、可愛い声が出るんじゃないかなと思っていたんですが、実際に歌ってみたら、ハスキーさがあって、サビになるとドスの効いた声になる。そのギャップに迫力があって、びっくりしました。
 唄い方は天下一品です。声に強弱があるから、歌に抑揚や表現をつけられる。それが聴く人に訴求する。
 (「藤圭子 秘蔵映像 名曲秘話と波瀾の人生 Youtubeより」)

 

 藤圭子はデビューした時から、いつも暗い影を背負っているように思われていた。その暗い影とは、誰もが貧しかった時代の残像だったかもしれない。復興と繁栄を目指して誰もが走っている中で、しばし忘れていた過去の記憶が、彼女の歌声によって呼び覚まされたのだとしても不思議ではない。

 アメリカで生まれたシンガー・ソングライターの宇多田ヒカルが、歌や音楽を生活の糧にして生きてきた母と祖母について、藤圭子の長女としてこんなことを語っていた。

 

 私の母方の祖母は浪曲師と瞽女(ごぜ)だったので、幼い子供たちを置いて出稼ぎに行ったり、 母が歌えるとわかってからは彼女も連れて旅をして酒場で流しをしたり、泊まるところがないときはお寺で寝たり野宿をしたりと、とても苦しい生活だったそうです。なので今でも私の中では「音楽で食べてる人というと、大スターとかではなくて、社会の比較的底辺に居るとても貧乏な、立場のあまりない不器用な人たちっていうイメージがあります。
 (『文學界 1月号』「深淵から生み出されるもの」文藝春秋 2019年12月)

 

 高度成長経済とともに価値観が変わっていった、激動の時代を象徴する東京・新宿の夜に現れた藤圭子は、自伝とも思わせる「圭子の夢は夜ひらく」のヒットによって、”演歌の星” というキャッチフレーズを体現することになった。

 ぼくは5月のゴールデンウイークに錦糸町の江東劇場で開かれた、初めてのコンサートにも足を運んでみた。そしてドラムを叩きながら唄った「嵐を呼ぶ男」に驚くとともに、心のなかで快哉を叫んだのである。

 躍動感が一杯の少女からは、笑みがこぼれ落ちそうだった。そのことに感銘を受けて、藤圭子の本質は演歌ではなくロックだと思った。

 その後も人気が沸騰してブーム的な様相を呈していくなかで、ぼくは先々に少し不安を覚え始めた。すべてがうまくいきすぎる……、そう思っていたら案の定、7月25日に出したシングルの「命預けます」のイントロを聴いて、一瞬にして落胆させられたのだ。

 任侠映画の主題歌を思わせる男っぽい歌は、彼女の本質とは明らかに違うものに思えた。人気が爆発したことで、さらなるヒットを狙った関係者たちの、驕りのようなものが感じられた。このまま ”演歌の星” を演じていくとしたら、歌ごころが汚されるのではないかと心配した。

 それでも彼女がひとたび唄ってしまえば、それが「恨歌」や「怨歌」を売るための楽曲だとしても、藤圭子の「ブルース」と形容するしかないくらい、深い陰影を感じさせる歌になった。

 しかし10月に出た5枚目のシングル「女は恋に生きていく」を聴いて、ぼくはさらに落ち込んだ。大人の演歌ファンに向けた楽曲のせいか、一途な思いが感じられなかったのである。

 歌を唄うために生まれてきた少女が、芸能界で泥まみれになっていく姿を見るのは、とても忍びないと思った。その後もスターになったことで、彼女は過酷な芸能活動を強いられるようになった。

 そこに家族をめぐる愛憎や金銭スキャンダルなどが重なって、唄うこと以外の問題で苦しめられる場面が増えていった。

 しかもデビューから5年が過ぎた1974年には、酷使され続けた喉が思うように機能しなくなってしまった。そこで声を取り戻すためにポリープの手術を受けたところ、彼女ならではの歌声が永久に失われたのだ。

 ヴォーカルが最高だった頃の感覚を忘れられない藤圭子は、20代の半ばから引退を意識するようになった。そして1979年12月26日に新宿コマ劇場で、引退コンサートを終えると単身でアメリカに渡った。

 それは以前から勉強したかった英語を学びながら、自分を知る人がいない土地で生きることにしたのである。

 

圭子の夢は夜ひらく ジャケ写.jpg

圭子の夢は夜ひらく/藤圭子 (EP盤 1970)

 

⓸履歴書を歌にした意外な着想
「ざんげの値打もない」

 

 ぼくは自分の音楽の根幹に当たる体験が、小学生のときに耳にした中村八大&永六輔のコンビによる作品であったことを、1969年の時点においてもまだ自覚できていなかった。

 当時は自分が初めて買ったレコードが、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」だったことを、すっかり忘れたままでいた。それは1964年の4月から中学1年生になるのと同時に、ラジオでビートルズを聴いて、全身が震えるような衝撃を受けたことが原因だった。

 自分の音楽にとっての原点がビートルズにあると、それから数年間、ぼくは頭から信じ込んでしまった。誰かに対してというわけではないのだが、早くからビートルズに気づいていたということを、自分のよりどころにしたのかもしれない。

 そのために音楽体験を洋楽中心に考えて、無意識のうちに歌謡曲除外していたのだろう。 しかしその年の夏に前川清のヴォーカルを生で聴いてから、あらためて邦楽に目が向くようになった。

 内山田洋とクール・ファイブの音楽が、洋楽をベースにした歌謡曲なのだということを、そこで初めて理解したのだ。

 そして同じ1969年の秋に地元の仙台で、藤圭子の「新宿の女」がラジオから流れてきたのを耳にした。その歌声を聴いていると、自分のなかで何かが弾けたような気になった。

 それは田舎の風景を思い出したなつかしさと、いとおしい歌声に出会えた安堵感のようなものだった。

 そこから思い出したのが、子どもの頃に何度か聴いて、ずっと心に残っていた「遠くへ行きたい」である。1962年にNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』で、「今月の歌」として書き下ろされた時から、ぼくはこの歌は名曲だと思って聴いていた。

 そのときに言葉では表しきれない孤独を、情感を込めずに静かに歌っていたのが、戦時中の香港でイギリス人と日本人の間に生まれたジェリー藤尾だった。

  遠くへ行きたい
  作詞:永 六輔、作・編曲:中村八大

  知らない町を 歩いてみたい
  どこか遠くへ 行きたい
  知らない海を 眺めていたい
  どこか遠くへ行きたい
  遠い街 遠い海
  夢はるか 一人旅
  愛する人と めぐり逢いたい
  どこか遠くへ 行きたい

  愛し合い 信じ合い
  いつの日か 幸せを
  愛する人と めぐり逢いたい
  どこか遠くへ 行きたい

 この歌を知ってから、ぼくは一人で旅に出ることを空想するようになった。そのときに必ず聴こえていたのが、「♪愛する人と めぐり逢いたい どこか遠くへ 行きたい」という、最後のフレーズだった。

 1970年から東京で暮らし始めて数か月が過ぎた10月4日、ぼくは日本テレビで始まった『六輔さすらいの旅~遠くへ行きたい』を観た。永六輔による新しい紀行番組の第一回で取り上げられたのは、岩手山の麓にある小岩井農場だった。

 そこは自分が生まれ育った故郷のすぐ近くで、北上川が映し出されただけで懐かしいと思えた。永さんは番組の冒頭で石川啄木の短歌を引用し、それに続いてこう付け加えていたのが印象的だった。

 

「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな~ぼくにとって故郷は帰るところではなく、つねに訪ねていくところ」
 (『六輔さすらいの旅 遠くへ行きたい』読売テレビ放送製作 1970年10月4日放送)

 

 このときに流れたデュークエイセスの「遠くへ行きたい」は、指揮者として有名だった山本直純の編曲だった。それはテンポがやや速いことで活力が感じられたし、ハーモニーもオーケストラも温かかった。

 それから間もない1970年11月25日の正午すぎに、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーとともに、市ヶ谷の自衛隊に乱入する事件が起きた。そのニュースが流れると、ぼくが住んでいた下宿ではちょっとした騒ぎになった。

 みんなが関心を持っていたのは、東大全共闘との討論などがマスコミで、大きく取り上げられていたからだ。

 ぼくは中学生になってからすぐに、小説の「潮騒」や「仮面の告白」「金閣寺」を読んでいた。さらに1969年に横尾忠則のイラストで刊行されたエッセイ集、「不道徳教育講座」も読んだばかりだった。

 しばらくしてテレビの中継が始まり、総監室を占拠して憂国の檄文をバルコニーで読み上げた後に、三島由紀夫が割腹して自害したと報じられた、事件の詳報を知って最初はみんな興奮していたが、その後はショックを受けて、各自が部屋で黙り込むしかなかった。

 ぼくは心が空洞になったようで、それからしばらくは落ち着かない時期を過ごした。そんな時にどこからともなく聴こえてきたのが、北原ミレイが唄う「ざんげの値打ちもない」だった。

 この歌は、憎い男をナイフで刺して投獄された女性が、自分の過去をさかのぼって、14歳の時から回想していくという物語になっていた。年ごとに時間を区切った形で出来事が展開するのは映画のシノプシスのようだった。

 当時は青年向けのコミック雑誌がブームになっていた時期であり、歌に描かれたやるせなさと殺伐としたイメージは、時代の閉塞感とも重なり合っていた。しかしぼくはこの歌を聴いたことで、がさついていた自分の心がいくらか慰められたように感じた。

 この歌詞を書いた阿久悠はその頃も、日本テレビの音楽番組で構成の仕事をしていたという。そのために歌謡曲とテレビについて、何かと思うところがあったと述べている。

 テレビ側は一曲の歌唱に対して、2分15秒しか時間を与えなくなっていた。そうすると全体の歌詞から割り出して、2番か3番をカットしなくてはならない。

 それならばと、初めからそのことを見越して、どこをカットしてもいいような歌が増えていく。

 

 それらが、歌の主流となり、正直いって、食いたりなくなっていた。そこで、この機会に、全部歌えば四分、しかも、全部最後まできかなければわからないという歌をつくってやれ、テレビが拒否するならそれもいいじゃないか、他の売り方もあるだろうと考えたのである。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009)

 

 阿久悠は孤独で恵まれない女性の履歴書に、タブーとされていた犯罪を持ち込むことで、今までにない歌謡曲を書きあげた。

  ざんげの値打ちもない
  作詞:阿久 悠 作曲:村井邦彦 唄:北原ミレイ

  あれは二月の 寒い夜
  やっと十四に なった頃
  にちらちら 雪が降り
  部屋はひえびえ 暗かった
  愛と云うのじゃ ないけれど
  私は抱かれて みたかった

  あれは五月の 雨の夜
  今日で十五と 云う時に
  安い指輪を 贈られて
  花を一輪 かざられて
  愛と云うのじゃ ないけれど
  私は捧げて みたかった

  あれは八月 暑い夜
  すねて十九を 超えた頃
  細いナイフを 光らせて
  にくい男を 待っていた
  愛と云うのじゃ ないけれど
  私は捨てられ つらかった

  そしてこうして 暗い夜
  年も忘れた 今日のこと
  街にゆらゆら 灯りつき
  みんな祈りを するときに
  ざんげの値打ちも ないけれど
  私は話して みたかった

 しかしスポーツニッポンの記者だった小西良太郎に発見されて、彼が作品論を書いて雑誌などで広めたことから、少しずつ音楽ファンに浸透していった。

 そして口コミで火がついたタイミングで、北原ミレイの写真から上村一夫が描く女性のイラストへと、ジャケットが差し替えられた。上村の描く妖艶な女性が内容とシンクロしたのか、レコードはロングセラーになった。

 作曲を頼まれた村井邦彦はそれまでにも、阿久悠とはモップスやズー・ニー・ヴーの作曲を手がけていたが、最初に歌詞を目にした時のことをこう語っていた。

 

 渡された歌詞を読むと、男女のもつれから罪を犯した女性のストーリーで、最後には女の子がナイフで相手を刺してしまうという内容ですから「えー、どうしよう」って感じでびっくりしました。
 (文藝別冊『KAWADE夢ムック 阿久悠』河出書房新社 2017)

 

 しかし、刺激的な内容にもかかわらず、歌詞にわざとらしさはなかったし、聴き手への媚びも感じなかった。全体としてはクールな印象で、ただ痛切な孤独感だけが伝わってきた。

 

 言葉がうまく並んでいるから、自然にメロディが浮かんで来た。歌詞通りにリズムをつけていったら出来たという感じです。本当に三十分くらいで書いた曲です。
 よくこの曲は演歌、歌謡曲だと思われがちだけど、演歌のスリーコードに対して、これは二度の和音という演歌にはない和音が入っています。実はすごい洋楽なんだよね。
 僕のなかでもこの曲は気に入っていて、コードもちょっと変えて普通の人が聴いたらわかんないけど、よく知ってる人が聴くと、そうか成る程ってわかるかもしれない。
 (文藝別冊『KAWADE夢ムック 阿久悠』河出書房新社 2017)

 

 村井の言葉が腑に落ちる内容だったので、ぼくは長年の胸のつかえが取れた気がした。編曲した馬飼野俊一も、イントロからシェーカーで16ビートのリズムを薄く流して、湿り気の少ないサウンドを創り上げていた。

 「ざんげの値打もない」は歌詞だけが突出していたのではなく、日本語の歌と洋楽的な音楽がバランスよく成立することで、架空の世界を成り立たせていたのだ。

 阿久悠は自分の原稿用紙に黒のサインペンを使って、自筆の文字で詞を書くのが常だった。しかも多くの場合は装飾されたタイトル文字なども使って、視覚的なイメージが得られるように工夫していた。

 作曲家に自筆の原稿を手渡していたのは、書いた言葉以上のニュアンスを伝えたかったからだろう。だから最初に歌詞を見た村井が挑戦的な姿勢を感じて、そこからサウンドやメロディーをインスパイアされた可能性は十分にあり得ると思った。

 1969年から70年にかけて、それまでにはない歌と音楽が誕生してきたのは、移り行く時代を意識した作り手たちが、作品に様々なアイデアやニュアンスを注ぎ込んだからだろう。

 そういう意味で1970年代の前半は歌謡曲にとっても、十分に恵まれた時代だったと言えるかもしれない。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

ざんげの値打ちもない / 北原ミレイ (EP盤 1970)

 

※ 次回の更新は2月4日予定! 第13章『フォークソングへの期待をお届けします。お楽しみに!

 

←前の話へ          次の話へ→

各話一覧へ

 


 

Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之