楽譜から辿る演奏の痕跡 ~グールド、ショパン、ブラームスはどんな演奏をしたか?【演奏しない人のための楽譜入門#16】

 

 前回は、ヤマハミュージックWebShopで購入可能なグレン・グールド(1932~1982)に関する楽譜8冊を取り上げ、あまり知られていない作曲家としての側面をご紹介して参りました。今回は、取り上げずに残してあった残り1冊(Glenn Gould's Goldberg Variations: A Transcription of the 1981 Recording)をスタート地点にして、「演奏」の痕跡を辿れる楽譜をご紹介していきましょう。

――グレン・グールドの演奏を楽譜に書き起こす

 

 まずは、前回取り上げられなかったグレン・グールド絡みの残り1冊から始めてまいりましょう。書名は“Glenn Gould's Goldberg Variations: A Transcription of the 1981 Recording”――日本語に訳せば『グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲:1981年録音のトランスクリプション』になります。J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、グールドの代表的なレパートリーのひとつで、キャリア初期の1955年録音と、晩年の1981年録音がよく知られています(その他、ライヴ盤も発売されています)。

 「トランスクリプション transcription」という言葉は通常、クラシック音楽においては管弦楽曲や歌曲などをピアノに編曲した楽曲に用いられます。ただし、今回の楽譜に関していえば「編曲」ではなく「文字起こし」というニュアンスが近いといえるでしょう。というのもこの楽譜、見開きの左ページ(偶数頁)にはバッハが書いたオリジナルの楽譜が、右ページ(奇数頁)にはグールドがどのように演奏したのか、装飾やアルペジオ(分散和音)を記号ではなく、具体的な音符とリズムで記譜しています。この右ページを、グールドの録音を聴きながら「文字起こし」をするように、音符を書き起こしていった楽譜なのです。

 更に、どのようなアーティキュレーション(スタッカートやテヌートなど)で弾いているのか? ペダルをどこで踏んでいるのか? どのぐらいのテンポで演奏しているのか? hesitation(ためらい)を略したhes.と記入することで、どこでテンポの溜めがあるかについて楽譜に書き起こしています。そして1981年録音には映像も合わせて残っているため、指使いも分かる範囲で書かれているのです(グールドは表現としての指替えを頻繁に用いるのですが、それも細かく書き込まれています……)。微に入り細に入り、詳しく解説されている序文も充実の一言!

 どう考えても七面倒臭い、この楽譜の制作を行ったのが本楽譜の編集も担っているアメリカ人のニコラス・ホプキンスです。彼が専門としているのはMusic Engraving――直訳すれば「音楽の彫版」となりますが、これは銅版印刷(Engraving)に由来する表現で、現在ではMusic Engravingは「楽譜浄書」と訳されます(music自体に楽譜という意味もあるのです!)。

 ホプキンスは大学院で博士号まで修めたあと、イタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオ(1925~2003)のアシスタントを務め、ベリオの書いた手書きの楽譜を美しく浄書。それらはウニヴェルザール社やリコルディ社から出版されました。アメリカに帰国後の1990年代からカール・フィッシャー社のマネージング・エディターを務め、どうやら2014年頃からは独立したようです。ベリオの他にも、ジョン・ゾーンやレーラ・アウエルバッハといった著名な作曲家の浄書を担っています。

 これまでも本連載のなかで、どう演奏するかが書き加えられた「解釈版」を取り上げたりしてきましたが、それらはあくまでも解釈をしている本人が楽譜に指示を書き入れたもの。この『グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲:1981年録音のトランスクリプション』は「解釈版」よりも、録音から第三者が書き起こしたホロヴィッツによる超絶技巧のピアノ編曲や、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』(※ショット社より出版)のような楽譜に近いものだといえるでしょう。

 

――ショパンは、J.S.バッハをどう弾いたか?

 

 これまた「解釈版」とは異なる形で演奏の痕跡が読み取れる、興味深い楽譜が“J.S. Bach / Vingt-quatre préludes et fugues (Le clavier bien tempéré, livre 1) ; annoté par Frédéric Chopin”です。日本語に訳せば『J.S.バッハ / 24の前奏曲とフーガ(平均律クラヴィーア曲集, 第1巻);ショパンの注釈付き』となります。

 フレデリック・ショパン(1810~49)は、弟子のポーリーヌ・カザレン(1828~99)のレッスンでバッハの『平均律クラヴィーア曲集』の第1巻と第2巻を教材として使用。第1巻の方のみ、2010年にフランス音楽学会からファクシミリ版として出版されているのですが、この楽譜にショパンの書き込みが多数残されているのです(ちなみにカザレンは、コジマ・リストことコジマ・ワーグナーにピアノを指導した人物でもあります)。

 まず興味を惹かれるのは、第1番 ハ長調から第7番 変ホ長調(の前奏曲)までは黒い鉛筆で、テンポ表記(メトロノーム付き)や強弱が書き込まれている点です。これはショパン独自のものではなく、ベートーヴェンの弟子であるカール・ツェルニー(1791~1857)による「解釈版」に書き込まれた指示を書き写したものなのですが、ショパンがツェルニーによるバッハ解釈を下敷きにしていたことがうかがえます(ツェルニーは、音の変更や加筆も多数行っているのですが、それもしっかりと書き写されています!)。

 というわけで、ショパン独自のバッハ解釈という意味では第8番 変ホ短調(嬰ニ短調)以降に注目が集まります。引き続き、ツェルニーの解釈版から書き写した部分も断片的にはありますが、目立つのがフーガ主題の始まりと終わりに書き込まれた記号です。開始の音にはバツのマークが、終了の音には菱形の中が十字になっているマークが書かれています。

 

楽譜コラム16_01

(筆者が作成した譜例。なお、第2~3小節にかけてのリズムの変更もショパンによるものです。)

 

 バッハはフーガのなかで主題を上下逆さまにした「反行形」も用いているのですが、これの開始の音には「‡」(現在ではダブルダガーと呼ばれるそうです)、終了の音には先程と同じく菱形の中が十字になっているマークが書かれています。これらの記号は、ショパンの研究をされている加藤一郎氏(国立音楽大学 教授)によれば、ショパンが対位法の学習に用いたことで知られるケルビーニの教本に由来するものだといいます。

 とはいえ譜例にあげた第8番 変ホ短調(嬰ニ短調)のように、きっちりと分析的に主題の始まりと終わりが書き込まれているフーガばかりではなく、記号が書かれているとしても開始音だけであったり、終了の音の記号が菱形ではく単なる正方形になったりと、ある程度の緩さがあります。

 一方、よりショパンの独自性が発揮されているのが、音の変更です。刺繍音と呼ばれる音の動きに臨時記号を足したり、対位法的には問題なくても和声的にはぶつかる印象のある音を変えていたりと、細かい変更点がいくつもあるのです(楽譜の前に収録された解説部分に、変更点はまとめられています)。

 こうしたポイントから想像できるのは、おそらくショパンの演奏するバッハのフーガは、主題をしっかり意識しつつも、それ以外の声部が独立して絡み合うというよりかは、対位法の結果として生まれる響きによりフォーカスしていたのではないかということです。実際、ショパンの楽曲には典型的な対位法書法(例えば、ピアノ・ソナタ第3番 第1楽章の展開部などでは、対位法的な展開がみられます)そのものが登場する機会は多くありませんが、対位法的な発想によって和声を拡張しているケースが散見されます(《幻想ポロネーズ》はその例のひとつでしょう)。

 

 

――ブラームスはいかに演奏されるべきか?

 

 ばっちり録音と映像が残っているグールドの例と異なり、ショパンが生きた19世紀中頃には当然、まだそうした記録技術がありませんでした。だからこそ、先程のようにテキストとして残されたものから想像を巡らしながら考えるほかないのです。「録音」と「楽譜」の両面から、当時の演奏スタイルを探れるようになるのはギリギリ、ヨハネス・ブラームス(1833~97)以降のこととなります。

 ブラームスは1889年12月2日に、自作の《ハンガリー舞曲第1番》をピアノソロでレコーディングしています。ただし実際にお聴きいただければ分かるように、エジソンが発明したシリンダー式の録音技術および記録媒体の保存状態が芳しくなく、ノイズまみれの音の中から頑張って聴き取る必要があるのですが……

 そして、ブラームスの没後には彼と深い関係にあったヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)がヴァイオリンとピアノによるバージョンで、同じ《ハンガリー舞曲第1番》を録音しています。1903年の録音ですが、今度はどのように演奏しているのか、ある程度は聴こえるようになっています。​​​​​​(YouTube上には解説したり、解析したりしてみた動画もあるので、ご興味ある方は調べてみてください)

 こうした録音に加え、19世紀に活動をしていたり、教育を受けていたりする世代のヴァイオリニストやピアニストが校訂(edit)にかかわった「解釈版」を参照し、ブラームスの存命中にどのように演奏されていたのかを探っていくことが出来るのです。その研究成果を反映したのが、2006年以降にベーレンライター社から出版されたブラームスの新しい「原典版」シリーズとなります。クライヴ・ブラウン(ヴァイオリン作品)、ニール・ペレス・ダ・コスタ(ピアノ作品)、ケイト・ベネット・ウォズワース(チェロ作品)が校訂を担当し、詳しい序文を寄せています。

 彼らの研究成果は、昨年、音楽之友社から出版された『ブラームスを演奏する』という書籍によって日本語でも読めるようになりました。詳しくはそちらにあたっていただくとして、ここで申し上げておきたいのは、前述した19世紀の流れを汲む演奏家が手がけた「解釈版」は、かつて「原典版」の真逆をいく、時代遅れの存在だと思われていたということです。しかし「古楽」「ピリオド奏法」「H.I.P.」などと称される、作品が書かれた当時の楽器や奏法で演奏されるべきという考えが、20世紀初頭の音楽にまで拡大されつつある現在では、考え方が(ある意味では)180度転換しつつあり、だからこそ作品の演奏され方も変わってきているのです。 ​​​​​

 

←前の話へ          次の話へ→

 


 

Text:小室敬幸