~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第13章 ①②】


①こだわり続ける人が闘士 「オッペケペー節」川上音二郎
②京都の風物詩になった宵々山(よいよいやま)コンサート 「受験生ブルース」高石ともや

③1970年の迷い子(まよいご)と『野良猫ロック』 「ひとりの悲しみ」筒美京平・阿久悠
④音楽出版社とプロデューサー 「また逢う日まで」
⑤日音と筒美京平の快進撃


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第13章『フォークソングの出現と歌謡曲』より、①こだわり続ける人が闘士、②京都の風物詩になった宵々山コンサート、をお届けします。

 明治時代に広まった「オッペケペー節」をはじめとする演説歌。いわゆるメッセージソングのスタイルは1960年代半ばに、自らの言葉で歌うフォークシンガー等によって継承されます。アメリカのフォークソングにも影響されたのでしょう。音楽家たちはどのように考え、どのような手法で新しい音楽に挑戦していったのでしょうか。永六輔が挑む口語体の詞は、ひと世代下の高石ともや等によって引き継がれていきます。

第一部 第13章 フォークソングの抬頭と歌謡曲

 

➀こだわり続ける人が闘士
「オッペケペー節」川上音二郎

 

 永六輔が作詞の仕事から距離を置くことを意識し始めたのは、1960年代の半ばのことだと思われる。それはアマチュアの若者たちが自分たちで、歌を唄い始めたことに気がついたからだろう。

 そもそも中村八大に頼まれて作詞を始めたときから、永六輔は日常会話の口語体による歌詞を書いていた。そのときはアマチュア的であろうと、自分でも意識していたと語っている。

 それが新鮮に感じられたことで、戦後生まれの若者たちに支持されていたのである。美文調の歌詞が当たり前だった日本の歌謡界に、六八コンビのポピュラー・ソングは新鮮な風を吹かせることになった。

 しかし永六輔はレコード会社などの注文に応じて、仕事として作詞をすることはなかった。なぜならばパートナーを組んでいた二人は、友達と呼べるほど親しい間柄だったからだ。

 

 作曲家で僕が知ってる人は中村八大といずみたくの二人しかいなかった。他にもいろんな作曲家はいたけど、友達じゃなかったから。
 (永六輔『生き方、永六輔の。』飛鳥新社 2002)

 

 早稲田大学の学生だった永六輔が出会った時の中村八大は、同じ大学に籍をおいていたが、すでに人気のあるジャズ・ピアニストだった。その後、ラジオ番組の構成の仕事で顔見知りになって、さらにしばらくしてから作詞を頼まれたという。

 いずみたくと知り合ったのは高校時代のことで、場所はアルバイト先だった三木鶏郎の事務所だった。音楽部で下積み時代を過ごしていたいずみたくは、運転手として働きながら、写譜や編曲の手伝いもしていた。それを見ていた文芸部の永六輔は、いずみたくに創作ミュージカルの作曲を提案することになる。

 どちらの場合も友達になれそうな気配があったことが、実際の創作活動にまでつながっていったと考えられる。少なくとも最初のうちはプロの仕事というよりも、たまたま近い場所に居合わせた偶然によって、作詞や作曲の仕事が始まったように思えた。

 

 それは裏を返せば、僕自身が作詞家としてプロにとなりきれなかったいうことかもしれません。作詞家になりきり歌い手に詞を提供していく、という道もあったでしょう。けれども、僕にはできませんでした。
 プロとアマチュアの狭間にあるような怪しい場所から、いつも新しいものが生まれてきます。僕にとっての作詞はそうした場所に立つことだったのです。
 (永六輔『永六輔の芸人と遊ぶ』小学館 2001)

 

 アメリカのフォークソングに影響された高石ともやが、自分の言葉で歌をつくり始めたのは1965年から66年あたりだった。永六輔にとっては自分の後継世代の中から、自作自演のアマチュアが登場してきたことになる。

 それが歌のありかたとしては自然であったので、作詞家を辞める時期が近いと思えてきたのだろう。デュークエイセスのために日本全国のご当地ソングを書いて、作詞家としてできることに区切りをつけた1968年から、永六輔は前々から関心を持って調べていた日本の芸能に正面から向き合っていく。

 そしてライフワークになった日本の芸能史について、もっと本腰を入れて取り組むことにしたのである。そこで研究テーマとして選んだのが、大晦日に開催される国民的な人気番組の『第19回 紅白歌合戦』だった。

 当時は日本人の7割が見ていたNHKの番組をまるごと題材にし、大衆芸能の集大成としてとらえ直すことで、華やかなイベントのなかに河原乞食の精神を探り出す……。あるいは伝統芸能がどんな形で受け継がれてきたのか、それを実例とともに解明していく……。

 大宅壮一が監修するシリーズの一冊として、永六輔は長編ドキュメンタリーの単行本を書き下ろすつもりだった。それから半年後に発行された単行本『芸人達の芸能史 河原乞食から人間国宝まで』には、冒頭からこんな文章が述べられている。

 

 日本の芸のすべてが賤民芸能である
 その発生の後ろめたさを大切にしたい
 そして差別に耐え 権威にへつらい乍ら
 受けついできた芸の伝統を
 どういう形で僕達が受け継ぐかを
 考えなければならないと思う
 (永六輔『芸人達の芸能史 河原乞食から人間国宝まで』番町書房 1969)

 

 明治時代とともに始まった薩長の藩閥政治に対抗して、板垣退助を総理にする立憲政府の確立と、自由の拡張などを主張していた自由党は若くて威勢のいい壮士を募った。そこに加わった黒田藩出身の川上音二郎は、その頃の高座の芸のひとつだった「オッペケペー」を、自由民権運動にからませて次第に評判をとっていく。

 たとえば「権利、幸福、嫌いな人に、自由湯(党)をば飲ませたい、オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポ、ペッポッポ」という具合に、政治的な主張を語りながら唄うことで、自由と民権を庶民にまで広めていったのである。

 川上が始めた壮士による芝居はやがて新派劇となって、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博していった。そんなことから川上は新派劇の創始者ともいわれている。しかしせっかく庶民が喝采するスターが誕生した割には、壮士たちが唄っていた演説歌のなかから、いつのまにか政治との関りは失われていった。

 それが復活してくるのは関西フォークの時代になってからで、高石ともやの「かごの鳥ブルース」や「のんき節」、岡林信康の「がいこつの唄」や「くそくらえ節」などが注目された1967年から68年にかけてのことだった。

 そのことを川上の「オッペケペー節」になぞらえて、永六輔はこんな考え方を述べていたことがあった。

 

 これは、ロックやフォークが体制に対する反発として出発し、やがてその体制にまきこまれてゆくのとそっくりである。
 壮士という言葉と同じように、かつてのロックやフォークのスターには、どこか闘士という雰囲気があった。
 時代を告発する姿勢があった。
 闘士というものが言い過ぎなら、こだわり続ける人とでもいおうか。
 (永六輔『永六輔の特集』自由国民社 1996)

 

 そして小室等や三上寛(かん)、岡林信康の名前を挙げて、彼らが尊敬できるのはこだわり続けているからだと結んでいた。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

かごの鳥ブルース/恋のノンキ節 / 高石友也 (EP盤 1966)

 

②京都の風物詩になった宵々山コンサート
「受験生ブルース」高石ともや

 

 時代を告発する姿勢といえば、1960年代の音楽シーンを振り返って最初に当てはまるのは高石ともやだろう。北海道の石狩川沿いにある雨竜町に生まれた高石は東京の立教大学に入った後に、アルバイトをしながら労働歌や反戦歌などを唄って全国を放浪している。

 それは1960年代の初め頃だったというが、やがて大阪の釜ヶ崎のドヤ街に住むようになり、日雇い労働者たちの苦しい気持ちを伝えたいという思いから、自分の言葉で書いた歌を唄い始めた。

 

 当時は、安保やベトナム戦争の問題があって、学生運動や人々の不満がピークに達していた。だから、演歌みたいな花鳥風月じゃ音楽にならない、そう思って日常性を歌い始めたんです。それが僕のフォークソング。
 (週刊文春/編『フォークソング−されどわれらが日々』文藝春秋 2008)

 

 この時期の高石は教会、反戦集会、労働組合など、歌える場所があればどこでも唄った。明治大正の演歌師だった添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の「のんき節」や、丸山明宏の「ヨイトマケの唄」を弾き語りで披露していたという。(注:丸山明宏はのちに美輪明宏に改名)

 そうやって活動していくうちに、新たな日本語の歌唱法にも挑んでいった。それは英語の歌詞にあるメッセージを、日本語でも正しく伝えたいということにこだわっていたからだ。

 西洋音楽を日本に取り入れた明治時代から、ひとつの音符にひとつの言葉しか乗せられない、それが日本語の特徴だと言われてきた。しかしそこにしばられてしまうと、海外の楽曲を翻訳して唄う場合に、正確な意味を伝えられなくなる。

 それを解決するにはどうすればいいのか、高石は真剣に考えて行くうちに、こんな答えに行き着いたと述べている。

 

 だから、僕はひとつの音符に三つも四つも言葉を乗せてみたんです。当然、すごい早口にならないと歌えないんだけど、こうするとたった3分間でもたくさんのことが歌える——日本語で世の中を歌えるんだということがわかったんです。
 (週刊文春・編『フォークソング−されどわれらが日々』文藝春秋 2008)

 

 ベトナム反戦運動が始まっていたアメリカでは、バリー・マクガイアが反戦の気持ちを込めて唄った「Eve of Destruction」が、1965年9月25日に全米チャート1位になった。高石はその歌を聴いたうえで、自分で翻訳して唄うために口語体で訳詞を書いてみた。

 タイトルは「破壊の前夜」という意味だったが、高石は「明日なき世界」と意訳している。この歌はRCサクセションの忌野清志郎が1988年にアルバム『Covers』で取り上げて、それから亡くなるまで歌い続けたことによって、日本のロックシーンに広く受け継がれていった。

  明日なき世界
  東の空が燃えてるぜ
  大砲のたまが破裂してるぜ
  お前は 殺しのできる歳
  でも選挙権もまだ 持たされちゃいない
  鉄砲かついで得意になって
  これじゃ世界中が死人の山さ
  でもよォー 何度でも何度でも
  おいらに言ってくれよ
  世界が破滅するなんて嘘だろ
  嘘だろ

 高石は1966年に大阪の「フォークソング愛好会」に飛び入りしたとき、イベントの仕事を手がけていた秦政明に声をかけられた。そこで意気投合したことから、秦の家に住むようになり、音楽活動の拠点として高石音楽事務所を設立した。

 そこに岡林信康や五つの赤い風船などが加わったことで、関西地区を中心とするアマチュアのライブ活動が活発化していった。高石の歌は次第にプロテストソングへと傾倒し、社会の不正義に怒る学生たちに受けいれられた。

 高校生だった中川五郎の詞に高石が曲をつけた「受験生ブルース」は、観客の反応が良かったのでビクターレコードから1968年4月に、シングル盤が発売されている。このときにヒットの原動力になったのは、関西・近畿地区のラジオ局とリスナーだった。

 とくに深夜放送を聞いていた受験生の共感を呼んで全国にヒットしたことによって、高石は「関西フォークの旗手」へと祭り上げられていく。

 しかしヒット曲の誕生は、それまで彼を支えてくれていた人たちにとって、必ずしも喜ばしいものではなかった。「フォークを捨てて商業主義に走った」とか、「高石は堕落した」という声が聞こえてきたのだ。

 それまでコンサートに利用していた会場が使えなくなるといった、考えられないようなことも起こったという。自分の思いを歌にして聴衆にぶつけていた高石は、聴衆も自分の想いをステージ上の高石にぶつけていることを知った。

 聴衆の一部は高石が自分と同じ目線や立場に居続けて、同じ不満を訴えてくれることを望んでいたのだ。そのなかには自分たちを捨てて、ひとりで高みへ上がって行ってしまったと、謂れのない批判をする人も出てきた。

 高石はそうした了見の狭い人の不満にも対応していたが、いささか疲れたので1969年12月7日のコンサートで冬眠を宣言すると、年が明けてからアメリカへ旅立ってしまった。

 現在の公式ホームページから、その期間の行動を引用しておきたい。

 

・1969年12月、学生運動・反戦運動と共に生きてきたフォークソングの終わりを決意、大阪フェスティバルホール「高石ともや冬眠コンサート」を最後にソロ活動停止。
・1970年1月~5月、アメリカ、カナダひとり旅。
 特にUCカリフォルニア大学の街・バークレーでの2ケ月の暮らしで、自由な生き方にめざめる。
この年、福井県遠敷郡名田庄村(現おおい町)へ一家で移住。
・1971年、“ザ・ナターシャセブン” を結成し、京都で活動を再開。独自の野外コンサート活動を開始しブルーグラス、トラディショナル・フォークのアメリカンサウンドと日本のサウンドの融合をめさす。
1973年、京都・祇園祭・宵々山コンサート開始。
 (高石ともや公式ホームページ)

http://www.tees.ne.jp/~isawada/takaishi-tomoya-profile.html

 

 ロサンゼルスで高石が最初に覚えたのは、街の中でジョギングを楽しむことだった。だが最初のうちはどうしても力が入って、むきになって走っていたという。

 しかしアメリカの若者から自分のペースで楽しむことを教えられて、そういう余裕を持つことの大切さを知って日本に帰国した。高石はそこからもう一度、自然の中で音楽と向き合うようになっていく。

 そうした時の流れを追っていくと、“ザ・ナターシャセブン” のマネージャー兼プロデューサーだった榊原詩朗と高石が、永六輔との交友を通して〈宵々山(よいよいやま)コンサート〉開催のために、力を合わせてイベントを始めたことの意味が理解しやすくなる。

 1973年から京都の円山公園音楽堂で開催された〈宵々山コンサート〉には、高石たちの音楽仲間だけではなく、永六輔の幅広い人脈からも様々な人たちが、トークのみならず自分の持ち芸などで参加してくれた。

 初回の渥美清に始まって小坂一也、小沢昭一、倍賞千恵子、木ノ実ナナ、山谷初男、黒柳徹子、高橋竹山、ミヤコ蝶々、赤塚不二夫、宮城まり子、淀川長治、谷啓、安田伸、坂本九、岸田今日子、中村八大など、こだわり続ける文化人や俳優、芸人が同じ時間を観客とともに過ごしたのである。

 永六輔は思い出に残った場面として、岸田今日子が朗読を行った時の模様を、このように記していた。

 

 フォーク歌手の高石ともやが京都でやっていた「宵々山コンサート」に今日子ちゃんがゲストで出演したんです。その日、ともやが歌う前に、その歌詞を今日子ちゃんが朗読したのね。水を打ったような静寂の中、彼女の声が朗々と響き渡りました。聞く人の心に一つ一つの言葉が、透明な音になって染み入る感じでした。舞台の袖にいたともやは、感動してその場にくぎづけになり動けなくなったの。しばらく舞台に出てこられなかった。  今日子ちゃんの朗読は、魂に訴えかけるものでした。
 (永六輔・唐仁原教久『永六輔のお話し供養』小学館 2012)

 

 1982年2月、ホテルニュージャパンの火災に巻き込まれて、不運にも榊原が亡くなってしまった。しかしその後も永六輔と高石ともやのコンビで、〈宵々山コンサート〉は第29回まで続き、夏の京都における風物詩になっていった。

 2009年でいったんは中締めとしたのだが、その時はいまひとつ納得のいかない内容に終わってしまった。そこで最後を飾るためにもう一度、1年の空白をはさんだ後の2011年に〈30回目の火入れ式—うた一揆・七転八倒—〉を開催し、大団円を迎えて終了させたのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

受験生ブルース / 高石ともや (EP盤 1968)

 

※ 次回の更新は2月11日予定! 第13章『フォークソングの抬頭と歌謡曲から、後編をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之