~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第13章 ③④】


①こだわり続ける人が闘士 「オッペケペー節」川上音二郎
②京都の風物詩になった宵々山(よいよいやま)コンサート 「受験生ブルース」高石ともや
③1970年の迷い子(まよいご)と『野良猫ロック』 「ひとりの悲しみ」筒美京平・阿久悠
④音楽出版社とプロデューサー 「また逢う日まで」



 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第13章『フォークソングの抬頭と歌謡曲』より、③1970年の迷い子と『野良猫ロック』、④音楽出版社とプロデューサー、をお届けします。

 高度経済成長を続ける日本は、東大安田講堂紛争の終結(1969年)、日米安保条約の延長締結(1970年)などを境に、世相が微妙に変化します。一方で音楽シーンは多岐多様に広がり、新しい音楽への胎動は続きます。「また逢う日まで」(1971年)の大ヒットにいたるまでの道のりをたどりながら、筒美京平や阿久悠をはじめ、音楽家やプロデューサーの果敢な挑戦を考察していきます。

第一部 第13章 フォークソングの抬頭と歌謡曲

 

③1970年の迷い子と『野良猫ロック』
「ひとりの悲しみ」筒美京平・阿久悠

 

 1970年代が始まる少し前からだったと思うが、若者向けの週刊誌や月刊誌には、 “シラケの季節” がやってくるという予測記事がよく載った。そうした時代が来ることを想定して、阿久悠はズー・ニー・ヴーのために「ひとりの悲しみ」を書いたという。

 これは1960年代の後半からヒットメーカーになった筒美京平が、初めて阿久悠とコンビを組んだ楽曲だった。そしてB面に収録された「未成年」ともども、時代の移り変わりにほんろうされる迷い子(まよいご)の心情がテーマになった。

 ところが1970年2月10日に発売されたシングル盤は、ほとんど反応がないままに終わってしまう。テーマが深刻だったせいか、楽曲に関心を持ってもらえなかったのである。

 阿久悠はそのことについて、挫折感を味わった人間に訴えようとしたことが、そもそも間違いだったと結論づけた。そして彼らが何をほしがっているのか、そこに心を配らなかったことを反省した。

 その後、阿久悠は社会からはじき出された不良少女や不良少年、あるいは世の中に拒まれた人たちをテーマにして、孤独に寄り添う歌を書くようになっていく。

 後年、知る人ぞ知る歌といわれるようになったのは、安藤昇「男が死んで行く時に」(1971年)、美空ひばり「それでも私は生きている」(1971年)、杏真理子の「さだめのように川は流れる」(1971年)、鹿内孝(しかうちたかし)の「本牧メルヘン」(1972年)、水前寺清子の「昭和放浪記」(1972年)などだった。

 しかしどの曲も、当初は歌好きの仲間内で少し話題になったとしても、ヒット曲といえるほどにはならなかった。それでも阿久悠は、はっきり愛着を感じていると述べていた。

 

 時代に蹴とばされて売れなかった歌も、時代を蹴とばして売れなかった歌もある。いずれにしても媚びなかったり、へそ曲がりであったり、純粋すぎたりして売れなかったのだが、それは誇りともいえる。だから、心にしみる。
 (阿久悠「昭和と歌謡曲と日本人」河出書房新社 2017)

 

 政治の季節を意識させたことが裏目に出た「ひとりの悲しみ」を、ぼくはラジオや有線放送ではなく、観客がほとんどいない映画館で2回も聴いていた。1970年11月に日活系の映画館で公開された『野良猫ロック マシンアニマル』(監督:長谷部安春)で、挿入歌のひとつとして使われていたからだ。

 5月に公開した和田アキ子主演の『女番長野良猫ロック』(監督:長谷部安春)が好評だったことで、日活はホリプロと提携してシリーズ化を図り、3か月後の8月に『野良猫ロック ワイルドジャンボ』(監督:藤田敏八)を公開した。

 それまで脇役が多くてくすぶり気味だった梶芽衣子と藤竜也が、主演クラスに抜擢されたことで、第2作はスタイリッシュでシャープな映像による群像劇になった。

 ぼくはその時にこのシリーズは必ず、映画館に足を運んで観ようと思った。すると、そこからわずか1か月しか経たない9月に、最高傑作の『野良猫ロック セックスハンター』(監督:長谷部安春)が第3作として公開された。

 梶芽衣子は自ら選んだ黒いベストとマキシスカート、ロングブーツ、黒いつばのハット姿で登場し、さらに輝きを増していた。2週間で3回も映画館に通ったのは、梶芽衣子の魅力が鮮烈に伝わってきたからだった。

 ぼくは物語の筋立てよりも、切れ味のいい台詞やアクションを楽しみ、挿入されていた歌と音楽を堪能した。【注】

 それに続く第4作の『野良猫ロック マシンアニマル』は横浜がロケ地になったので、そこでも歌や音楽を期待したのだが、残念なことにストーリーが観念的だったせいか、全体としてはいまひとつの出来栄えだった。

それでも面白い映像がいくつもあったので、少し時間をおいて2度目を観に行った。そこで発見したのが新人歌手の太田とも子が、どこか投げやりな調子で唄っていた「♪まっさかさまよー」という歌だった。

しかしどこのレコード店でもそのレコードは見つからず、1年ほど後になってから中古レコードで手に入れた。作詞は前から注目していたちあき哲也、作曲は初めて目にする宇崎竜童という名前だった。

  恋はまっさかさま
  作詞:ちあき哲也 作曲:宇崎竜童

  しあわせか しあわせでないか
  女の気持をそんなことばで
  聞かないで下さい
  にがい酒を甘く 甘い酒をにがく
  女はできる 魔法つかいなの

  あいしても さいごの扉
  おしたらダメよ さわっちゃダメよ
  あとはかなしみ まっさかさまよ
  涙にのまれて死んじゃうよ

 この歌の歌詞とメロディーに比べると、ズー・ニー・ヴーが「ひとりの悲しみ」を演奏しているディスコの場面は、バンドの演奏も町田義人のヴォーカルも覚えていなかった。どうしてなのかわからないが、印象があいまいだったのは確かである。

 なお阿久悠は「ひとりの悲しみ」について、アメリカ映画の名作『渚にて』を例に出して、こんな解説を残していた。

 

 七〇年安保の年に「ひとりの悲しみ」を書いた。これはB面の「未成年」も同じだが、挫折感みたいなものをテーマにした歌である。
 ぼくの頭の中には、一九七〇年の夏の風景があった。照りつける太陽、煮えたぎったようなアスファルト、しかし、東京の街には若者の姿がないのである。あの『渚にて』の象徴的な無人の都市と同じように、おそろしい光景として浮かび上がっていたのである。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009)

 

 しかし1970年の夏は、1969年とそれほど変わらなかった。東京の街にはいつものとおり若者が溢れていた。アメリカ映画の名作からイメージした “おそろしい光景” は、作者ひとりの思いこみに終わった。

 そこで時代に裏切られたような気持ちになった阿久悠に、日吉ミミの「男と女のお話」が聴こえてきたという。やや甲高い歌声に特徴があった日吉ミミは、男と女の別れ話をテーマにした歌を、情感を込めずにアッケラカンと唄っていた。そして初めてヒット曲が生まれたところだった。

  男と女のお話
  作詞:久仁京介 作曲:水島正和

  恋人にふられたの
  よくある話じゃないか
  世の中かわって いるんだよ
  人の心も かわるのさ

  淋しいならこの僕が
  つきあって あげてもいいよ
  涙なんかを みせるなよ
  恋はオシャレなゲームだよ

 確かに世の中はいつも変化しているし、人の心もまた実に移ろいやすい。したがって確かな未来など、誰にも分るはずがない。だが阿久悠は現実から目をそらさず、どんな時代になるのかを真剣に見つめていた。

 

 昭和四十五年という年は、日本人が、自由なのか捨てられたのか判断がつきかねる状態になった分岐点のような年で、だから、この歌(筆者注「男と女のお話」)の、面白さの裏の真の暗さや寂しさがよくわかった。ぼくが歌にテーマを見つけていくのも、この分岐点の時代に迷い子になりそうな人間を見たからだと言っていいかもしれない。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 それは自分の論理で導き出したテーマによって、時代の的を射る歌をつくりたいと切実に願っていたからだろう。

【注】この映画はアメリカでビデオが販売されてカルトムービーとなり、熱心なファンの中からクエンティン・タランティーノが、2003年に『キル・ビル』で映画監督に抜擢された。それが世界的にヒットしたことで、オマージュがささげられていた梶芽衣子は、東映で発表した『女囚さそり』や、東宝の『修羅雪姫』でも知られる女優になったのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

ひとりの悲しみ / ズー・ニー・ヴー (EP盤 1970)

 

④音楽出版社とプロデューサー
「また逢う日まで」

 

 1960年代後半から作曲家として注目されていた筒美京平は、アウトキャストの「愛なき夜明け」、ザ・ジャガーズの「マドモアゼル・ブルース」、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」、そしてオックスの「ガール・フレンド」と「スワンの涙」など、グループサウンズ(GS)の作品をヒットさせていた。

 また1968年の年末に発表したいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(作詞:橋本淳)が大ヒットしたことで、音楽業界では誰もが知るヒットメーカーになり、1969年の日本レコード大賞では初めて作曲賞に選ばれている。

 筒美は作曲した楽曲に関して、基本的には自分で編曲するようにしていた。それは洋楽の様々なエッセンスを注ぎ込むことで、新しい日本の歌謡曲を創ることを目指していたからだった。

 したがって才能がある歌手と組むときには、真っ向から勝負する気持ちを忘れなかったという。楽曲が出来たら先ず歌手と向き合って、その場で歌ってもらうことによって合否を判断した。もしも合わないとわかったときは、すぐにその場で没にしたとも語っていた。

 

 とにかく、ヒット曲のことばかり周りからも要求されてたから、結構、演歌っぽいものも書きましたよ。だけど、メロディは歌謡曲でもサウンドはそうでないものをというトライを続けてましたね。
 当時のヒット曲は、タレントと対等の立場というか、タレントと勝負してその両方の力で生まれてくるものでしたよね。
 (村田久夫・小島智/編『日本のポピュラー史を語る:時代を映した51人の証言』シンコーミュージック 1991)

 

 こうした発言を知ることによって、どうして楽曲のクオリティが高かったのは、その理由がわかってきた。そうした真面目さに早くから気づいていたのが、TBSの子会社だった日音の村上司(まもる)であった。

 1963年に音楽出版社として設立された日本音楽出版株式会社(1971年株式会社日音に改称)に入社した村上は、翌1964年の9月から12月までニューヨークに派遣された。それは音楽作品の権利を取り扱うビジネスの仕組みと、実際の業務を現地で学ぶことが目的だった。

 当時の日本では楽譜を販売する仕事のことだけを、音楽出版だと思っている人が多かったという。しかしアメリカにおける音楽出版社の仕事では、ソングライターから預かった作品を多角的に活用し、いかにして多くの利益を出すかというところが重要だった。

 そのために村上は提携先だったリーズ・ミュージック(現・MCAミュージック)に通って、10時から18時まで実務的な研修を受けていたのである。

 

 ちょうど中村八大さんの『スキヤキ』が大ヒットしている頃で、八大さんもニューヨークに滞在していたので頻繁に会っていました。
 「キャッツ」や「マンマ・ミーアー」で有名なウィンター・ガーデン・シアターでは 、バーブラ・ストライサンドが芸能界デビューを飾ったミュージカル『ファニー・ガール』 を見たり、実にいろいろなものを見て回りましたね。そういったことが一番の思い出であり、また役にも立っています。あの頃はグリニッジ・ヴィレッジに小さなライブハウスがたくさんあって、新人アーティストの登竜門になっていましたから、業界の人がスカウトに来たりで、いつも通うのが楽しみでした。 (編集註記:「上を向いて歩こう」、英題「スキヤキ(SUKIYAKI)」/坂本九)
 (『日本における音楽出版社の歩み —MPAの三十年・インタビュー集—』社団法人音楽出版社協会 2003)

 

 アメリカでは音楽出版社がオリジナル作品を開発し、それらをプロモートすることを主な業務としていた。村上は楽曲開発のビジネスこそが音楽出版のだいご味であると確信し、そのことを日本で証明したいという思いを強くして帰国した。

 とにかく新人の作家を育てなければという気持ちから、新しい才能の発掘に取りかかった。そこで作曲家志望だった猪俣公章と知り合って、デビュー作となる「僕の手でよかったら」(作詞:比良九朗【注】 歌:鈴木やすし)を初めてプロデュースした。

 猪俣と打ち解けたのは彼の家に何度も足を運んで、やかんで燗をした日本酒を一緒に飲み交わしたからだという。「僕の手でよかったら」はヒットしなかったが、2年後に大ヒットする水原弘のカムバック作「君こそわが命」の原型になった。

 1959年にデビュー曲「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞に輝いた水原弘は、キャリアを重ねるにつれて少しずつ不遇な状況に置かれていった。だが捲土重来を期して挑んだ「君こそわが命」がヒットしたことで、1967年の日本レコード大賞では歌唱賞に選ばれている。

 ここから演歌のヒットメーカーとなった猪俣は、森進一の「ひとり酒場で」や「港町ブルース」「おふくろさん」、藤圭子の「女のブルース」、内山田洋とクールファイブの「噂の女」などで著しい活躍を見せていく。

 村上がポリドールの洋楽ディレクターの渡辺栄吉(筒美京平の本名)と出会って、一緒に仕事を始めることになったのは、プロデューサーになって2年目の1966年からである。

 

 橋本淳さんから 作曲もしているグラモフォンの洋楽ディレクターとして紹介され、赤坂のスナックに行って彼が弾くピアノを聴いたり、ポリドールのスタジオでオリジナル曲を聴かされたりして、とにかくすごいと思いましたね。
 (『日本における音楽出版社の歩み —MPAの三十年・インタビュー集—』社団法人音楽出版社協会 2003)

 

 一緒に組んでみたいと思ってから最初にできた楽曲が、藤浩一が8月にレコード発売した「黄色いレモン」である。これはまだポリドールの社員だったために名前を公表できなかったので、渡辺にとってはアレンジ面での師匠にあたるすぎやまこういちの名義を借りて発表した。

 村上は作曲家としてのデビュー曲となったこの楽曲を、複数の歌手による競作へと発展させるべく働きかけていった。同じ年の9月に望月浩のシングル曲が発売されると、その後も泉健二、ザ・チャレンジャーズ、海外アーティストのリトル・パティやガス・バッカスらによって、競作盤が相次いだ。

 ハワイの大スターだったドン・ホーによる「All That Left Is The Lemon Tree」 という英語詞ヴァージョンのレコードを発売したときには、 ピース(1曲入り楽譜)も同時に発売されている。

 

 とにかくフリー作家ですよと証明するには競作にするしかありません。
 意図的にそれを誇示するというか、必要以上に競作にしたわけです。フリー作家はこういうことができます、みたいなアピールが競作の目的の半分以上を占めていましたね。
 (『日本における音楽出版社の歩み —MPAの三十年・インタビュー集—』社団法人音楽出版社協会 2003)

 

 村上はその後、1967年にヴォーカル・グループのザ・ワンダースをプロデュースしたことで、メンバーだった尾崎紀世彦にソロ歌手としての可能性を見出した。そこで日音を通じてCMソングやTBSのテレビ主題歌の仕事を与えながら、1970年にはソロ・デビューするまでにこぎつけている。

 ところがデビュー曲の「別れの夜明け」(作詞:山上路夫 作・編曲:筒美京平)を発売した直後の8月、乗っていたタクシーが交通事故に巻き込まれて、負傷した尾崎は長期入院を余儀なくされた。

 そこで村上は思うような音楽活動が出来ない尾崎の回復を待って、もう一度、新しい楽曲を用意することにした。

 そこから成長していった「また逢う日まで」は、もとはといえばエアコンのCMソングとして筒美がつくった楽曲だったという。だがCMの企画が途中で没になり、日の目を見ることなく終わった。

 それがズー・ニー・ヴーの楽曲として使われることになり、阿久悠が「ひとりの悲しみ」を作詞した。しかし1970年に発売したものの、商業的な成功は得られなかった。失敗に至るプロセスを分析した阿久悠は、1971年の初頭にテーマを “迷い子” から “旅立ち” に変えている。

 それは依頼主である日音の村上から、尾崎紀世彦のために新しい歌詞を書き直してほしいと要請されたからだった。

 

 安保で挫折した青年の孤独の歌である。しかし売れなかった。
 普通なら、どんなにいい曲でも、二回も失敗すると諦めるものだが、筒美京平の自信か、プロデューサーの粘りか、三度目のお色直しの話が持ち上がり、そこで起用された尾崎紀世彦のために、「また逢う日まで」という全く別の詞を書いたのである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 お互いに話し合って納得したうえで、部屋を出た二人は新しい一歩を踏み出していく……。対等なパートナーの男女を主人公にして、前向きともいえる別れのパターンを書いた阿久悠は、ここで変わりゆく時代の空気をとらえることに成功する。

 ズー・ニー・ヴーとほぼ同じアレンジなのに、尾崎紀世彦のダイナミックな歌唱によって、「また逢う日まで」には新たなる息吹が吹き込まれた。

 完成したレコードは1971年3月5日の発売と同時にヒットチャートを駆けあがり、5月17日には1位の座に就いたのだ。まさにプロデューサーの粘り勝ちだった。

 

【注】作詞者の比良九朗という人物は、ぼくが1974年に就職した株式会社ミュージック・ラボの社長で、新聞記者から雑誌社を興した岡野弁のペンネームである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

また逢う日まで / 尾崎紀世彦 (EP盤 1971)

 

※ 次回の更新は2月18日予定! 第14章をお届けします。お楽しみに!

 

←前の話へ          次の話へ→

各話一覧へ

 


 

Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

  • 1
  • 2
  • 3 (このページ)
  • 4