~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第14章 ①②】


①日本人が好む洋楽がヒットした1971年 「ナオミの夢」ヘドバ&ダビデ
②日音と筒美京平の快進撃 「17才」南沙織

③CMの世界で活躍してきた小林亜星 「レナウン・ワンサカ娘」
④久世光彦というドラマの演出家 「昭和枯れすすき」さくらと一郎
⑤新しい演歌に挑んだ二人 「北の宿から」都はるみ


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第14章『多様化していく音楽シーン』より、①日本人が好む洋楽がヒットした1971年、②日音と筒美京平の快進撃、をお届けします。

 1971年の音楽シーン。ヒットチャートは、フォークではじまり、歌謡曲や演歌に洋楽が加わって、まさに百花繚乱の様相を呈します。洋楽の中では、日本制作の「ナオミの夢」がひときわ異彩を放ちます。音楽出版社の存在が際立ってくるのもこの頃。第2節では、日音と筒美京平にスポットを当てながら、音楽家やアーティスト達がどのように新しい音楽に挑戦をしたのか、考察を深めます。

第一部 第14章 多様化していく音楽シーン

 

➀ 日本人が好む洋楽がヒットした1971年
「ナオミの夢」へドバ&ダビデ

 

 1971年にオリジナルコンフィデンス調べによるヒットチャートで1位になった楽曲を見ていくと、音楽制作における変革が始まった時期にふさわしく、それまで主流を形成していた歌謡曲に対してフォークソングが台頭していたことと、そこに日本人好みの洋楽が加わった状況だということがわかる。

 年頭の1月4日は現役の大学生によるフォークグループ、ソルティー・シュガーの「走れコウタロー」が1週だけ1位になっている。これはアマチュアらしい発想のコミックソングで、当時の美濃部都知事が打ち出した公営ギャンブル廃止をパロディ化していた。地方の大井競馬からハイセイコーが登場し、中央競馬に移籍して活躍したことから、実際に競馬ブームが起こったのは、その二年後である。

 1月11日からはカナダのロックグループ、マッシュマカーンの「霧の中の二人」が2週連続で1位になった。これはラジオでの反応が良かったことから、本国のカナダやアメリカ以上のレコードを売り上げた。しかも日本の担当ディレクターがイントロのオルガンをカットし、ギターによる印象的なリフから始まるように編集していたので、日本ならではの “異色のヒット” だとして話題になった。

 ちなみにこの週はオリコンのベストテンで洋楽が上位3曲を独占するという、これまでにない事態が起こっていた。

  1971年1月11日のオリコン・シングル・チャート

  1位 霧の中の二人  マッシュマッカーン

  2位 悲しき鉄道員  ショッキング・ブルー

  3位 男の世界    ジェリー・ウォレス

 洋楽勢を巻き返したのは森進一の「望郷」で、発売からわずか一か月で1位を獲得した。旅情をうたい上げた歌詞は、筒美京平のパートナーとして活躍していた橋本淳が手がけていた。作・編曲は演歌のヒットメーカーになった猪俣公章で、得意の3連符によるロッカバラードであった。

 元フォーク・クルセダーズのはしだのりひことクライマックスの「花嫁」は、フォークルのメンバーだった北山修の歌詞が光っていた。若い男女が夜汽車に乗って駆け落ちする設定の歌だが、女性が自らの意思で新しい人生を選びとる決意が描かれていたのだ。

 3月1日から7週連続1位の大ヒットを記録した加藤登紀子の「知床旅情」は、もとはといえば俳優の森繁久彌が知床半島で撮影していた映画の合間に、自分で作詞作曲した楽曲「オホーツクの舟唄」が原曲だった。

 それが1965年に「知床旅情」と改題されてレコードが発売になったことで、知床地方のユースホステルなどを利用する若者たちに歌い継がれた。それを加藤登紀子がアルバム『日本哀歌集』に取り上げたのが1970年の4月で、12月にシングル・カットされたことからロングセラーになった。

 それに続いたへドバとダビデの「ナオミの夢」は日本制作による外国曲で、エイト・ビートを打ち出したエキゾチックなサウンドに人気が集まった。イスラエル出身の男女によるデュエット・ソングが原曲で、前年の11月22日にヤマハ音楽振興会が開催した『第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年、世界歌謡祭に改名)』でグランプリに選ばれている。

 世界38か国から選ばれた44アーティストが出場したコンテストで、イスラエルはまったくのダークホースだったが、「ナオミの夢」で大番狂わせの末に優勝をさらったのだ。当日の会場では各国の有力候補が歌唱力をアピールする目的で、歌い上げるタイプの楽曲で勝負したために、共倒れになったことで漁夫の利を得たという声も聞かれた。

 なおこのコンテストは主催者の強い意向によって、審査員はすべてアマチュアの音楽ファンに限られていた。したがってそのことに対する疑念をふくめて、翌朝の東京中日スポーツが文化・芸能面で取り上げていた。

 

 イスラエルから参加した「ナオミの夢」がグランプリを獲得したことは、いささか意外の感をまぬかれなかった。
 たしかに明るくてテンポのある曲だが、「ナオミの夢」はほかにこれという取りえがなかった。アマチュアばかりで構成された審査員団の限界が、このグランプリ曲受賞にあらわれたとも言えるだろう。
 しかしそれにしても、参加四十四曲、あまりにも同じような曲が多すぎた。
 (東京中日スポーツ 昭和45[1970]年11月23日)

 

 このときはヘドバ&ダビデが東京に滞在しているうちに、日本語の歌詞が準備されてレコーディングが行なわれた。それはおそらく主催したヤマハ音楽振興会が、初の国際音楽祭を記念して広報や宣伝に役立てるためだったのだろう。

 ところが翌年の1月25日にシングル盤が発売になると、日本語で唄っていたこともあって、ヤマハがスポンサーだったラジオ番組からヒットした。わかりやすいロック・サウンドで、しかもメロディーが日本人に受けるものだったのだ。

 ちなみにこの年の上半期は洋楽のヒットが途切れなくて、ジョージ・ハリソンの「マイ・スウィート・ロード」、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」、エルヴィス・プレスリーの「この胸のときめきを」、アンディ・ウィリアムスの「ある愛の詩(うた)」が、同じ時期にベストテンにランクされていた。

 そんな中で無名のへドバとダビデが唄った「ナオミの夢」が、アーティストのテレビ出演などもない状態だったのに、シングルチャートの1位になったのだから快挙だった。そして一か月後に、「また逢う日まで」との首位交代劇が起こった。

 そこでも単なる偶然とは片づけられない、不思議なつながりを感じたことを記しておきたい。「ナオミの夢」のジャケットを見ると、ダビデに立派なもみあげがあることがわかる。そして尾崎紀世彦も同じように、日本人離れしたもみあげを誇っていた。

 これは1968年に劇的なカムバックを飾ったエルヴィス・プレスリーのライブが、ドキュメンタリー映画になって世界中で公開されたことの影響だった。『エルヴィス・オン・ステージ』は1970年に日本でヒットし、そこでシンガーとしての圧倒的な存在感に、あらためて大きな関心が向けられたのである。

 そこからライブの素晴らしさに圧倒された人たちによって、プレスリーと呼ばれていた時代のイメージが書き換えられて、ここから偉大なるエルヴィスという評価が定まった。したがって「また逢う日まで」が成功したのは、そうした時代のうねりとリンクしたことも大きかった。

 しかも歌詞に描かれた男女対等の別れは、新しい時代の価値観を反映するものだとして、ヒット後もマスコミをにぎわせていた。半年前に北原ミレイの「ざんげの値打もない」を聴いて、誰よりも早く阿久悠の才能に気づいて評価したスポーツニッポンの小西良太郎は、「また逢う日まで」についてもこんなユニークな感想を述べている。

 

 妙な言い方だが、彼の歌の主人公は従来のそれより知的レベルが少々高めになり、旧態依然の流行歌に飽きたりない人々を支持層として開拓した。
 (小西良太郎『昭和の歌100』幻戯書房 2015)

 

日音は切り札だと思っていた筒美京平のヒット曲が出たことで、音楽業界のなかでも高い評価を得たことを境にして、原盤制作を手がける音楽出版社として順調なスタートを切った。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

ナオミの夢 / ヘドバ&ダビデ (EP盤 1971)

 

⓶日音と筒美京平の快進撃
「17才」南沙織

 

 シンシアという愛称を持つ17歳の内間明美は、母と二人で来日してからわずか3か月後の1971年6月1日、南沙織という芸名でCBSソニーからデビューしている。そこで幸先のいいヒットになった「17才」は、作詞が有馬三恵子で作・編曲は筒美京平のコンビだった。

 きっかけはCBSソニーの酒井政利が一枚の写真を見せられて、ロマンチックな雰囲気を感じたことだという。

 

 沖縄帰りの知人から、私は一枚の写真を見せられた。そこには髪の長い理知的な顔立ちの少女が立っていた。
 このときの彼女に、私は潮風のような清々しさを感じたものである。
 (酒井政利『プロデューサー 音楽シーンを駆け抜けて』時事通信社 2002)

 

 そこですぐ上京してもらうことにして、羽田空港まで迎えに行ったその足で、スタジオに直行した。すぐに歌を聴かせてもらうためだが、少女が選んだのはヒット中の洋楽で、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」だった。

 酒井は飾り気のない少女をストレートに表現することを意図し、デビュー曲のタイトルを「17才」と決めた。7月生まれの彼女はデビューから一か月後、17歳になる予定だったのだ。

 そういう意味では私小説的な方向性だが、酒井の考えはもっと積極的なもので、本人をイメージさせる歌詞やタイトルを作詞家の有馬三恵子に書いてもらった。

 そしてデビューから二週間が過ぎた頃に、終戦の時からずっとアメリカ軍の統治下にあった沖縄が、1972年に日本に返還されることが正式に決まった。これによって日本の人々の沖縄に対する関心が高まったところで、さわやかな「17才」がヒットしたのである。

 そこから有馬三恵子と筒美京平のコンビは「潮風のメロディ」、「ともだち」、「純潔」、「哀愁のページ」と連続してヒットを出し続けていく。しかも学業を優先させながらの活動を選択したことによって、等身大のアイドルという新しい在り方を示すことが出来た。

 そこには原盤制作を行う日音が制作を主導していくシステムを、確立させていったことも関係していただろう。村上司はCBSソニーが会社を発足させたばかりのタイミングで、同社から続けてヒットを出せたことが幸運だったと述べている。(編集註記:日音・1963年設立の音楽出版社)

 

 音楽が全く新しい方向に行ったことも良かったと思いますね。日本の場合、音楽出版社が原盤制作というリスクを伴いながらも努力し続けてきたことが、より多くのフリー作家の出現とその作品開発、プロモートに役立ったことは事実ですよね。日音の場合はCBSソニーが設立された時に専属作家はいなくて、外部原盤100%OKでしたから、朝丘雪路の『雨がやんだら』をスタートに、南沙織、郷ひろみ、浅田美代子、金井克子など、実に多くの原盤を提供できたのもラッキーでした。
 (『日本における音楽出版社の歩み —MPAの三十年・インタビュー集—』社団法人音楽出版社協会 2003)

 

 70年代を軽やかに駆け抜けた南沙織は1978年の7月に、在学していた上智大学の学業に専念するために、自分の意志で歌手としての活動から引退すると明らかにした。そこまでの9年間を担当してきた日音の恒川光昭は、こんなエピソードを語っていた。

 

 そう言えばあるとき彼女が「私は日音のアーティストです」って言ってくれたことがあるんです。普通なら「ソニーのアーティストです」とか、レコード会社の名前で言うでしょ。それが「日音の」って言ってくれて、しかもその発言をした場所が泣けるくらいうれしい場だったんですよ。ちょうど吉田拓郎さんとか、かまやつひろしさんとか、そういう連中とみんなで集ってる時にシンシアが来て、その席でそう言ってくれて。それはとても嬉しかったですね。彼女とは9年いっしょにやりました。
 (『ミュージックマン・インタビュー第29回 恒川光昭氏』Musicman 2002)

https://www.musicman.co.jp/interview/19482

 

 こうして日音は筒美京平の作品でひとつの時代を築いていくのだが、「ブルー・ライト・ヨコハマ」に続いた最初のヒット曲は、1970年10月に発売された朝丘雪路の「雨がやんだら」だった。

 CBSソニーは新しい会社だったので若者向けのポップスを手がけていたが、設立から2年が過ぎとところでアダルト路線を手がけることになった。そこで白羽の矢が立ったのがクラウンにいた朝丘雪路で、移籍することが決まったことから、酒井政利が担当ディレクターになった。

 そこから日音とCBSソニーは筒美京平の作・編曲に、なかにし礼の作詞を組み合わせることにした。こうして生まれた「雨がやんだら」は少し時間を要したが、1971年になってからヒットし、年末の第13回日本レコード大賞では作曲賞を受賞した。

 朝丘雪路はこの曲のヒットで年末の第22回NHK紅白歌合戦に、5年ぶり通算10回目の出場を果たしている。なお「雨がやんだら」はその後も女性では奥村チヨやいしだあゆみ、男性でも美川憲一や五木ひろしにカヴァーされたことで、短期間のうちにスタンダード曲になっていった。

 こうした成功例が出たことによって、1950年代から60年代にかけて、大阪出身のラテン歌手としてテレビや舞台で活躍した坂本スミ子に白羽の矢が立った。彼女の存在が気になった酒井が調べてみると、67年に「たそがれの御堂筋」でヒットを飛ばしていた後に、離婚騒動などもあって、活動はいつしか低迷期に入っていることがわかった。

 しかも、どこのレコード会社も属さないフリーだったので、CBSソニーとの専属契約を打診すると交渉はすぐにまとまった。そこで楽曲の制作については朝丘雪路の時と同じく、なかにし礼と筒美京平のコンビで曲作りが始まり、「夜が明けて」という楽曲が誕生した。

 だがレコーディングが始まってみると、どうしても最初のうちはぎくしゃくしたと、酒井が述べている。

 

 ラテン歌手としての坂本スミ子は、パンチのある歌い方に定評があった。しかしそれが今では聴く人の鼻につく。パンチをあまり効かせず、出来るだけ素直に歌ってくれるよう注文をだした。  当初、彼女はそれが納得できないようだった。自分の最も頼りとする武器を禁じられたようなものである。彼女が戸惑いや抵抗感じるのは無理もない話だった。
 スタジオでは何度も何度もリハーサルを繰り返してもらった。その結果、詞の哀れさが 軽妙なメロディに次第にうまくマッチして、最後には余韻のある素晴らしい歌が完成した。
 (酒井政利『プロデューサー 音楽シーンを駆け抜けて』時事通信社 2002)

 

 筒美はこのときに南米のアンデスに伝わるフォルクローレをフィーチャーし、エキゾチックな歌謡曲を仕上げていった。チャランゴケーナといった民族楽器を取り入れたアレンジは、坂本スミ子のイメージともぴったり合っていた。

 そうした音楽面での気遣いこそが、筒美京平ならではソングライティングを成り立たせていたのだろう。

 1971年の筒美京平は「また逢う日まで」の前後から、小川知子の「美しく燃えて」(作詞:橋本淳)、堺正章の「さらば恋人」(作詞:北山修)、井上順之(じゅんじ)の「お世話になりました」(作詞:山上路夫)など、一年を通してヒット曲が途切れることなく続いた。(編集註記:井上順之、現・井上順)

 そこまでの筒美京平と日音の動きについては、現場についていた恒川光昭の発言によって構成しておきたい。

 

 僕が入社したときにはもう村上と仕事していたみたいで、ときどき曲を持って会社に来るんですよ。なんか小さい人がいつの間にかすうっと来て、社内テーブルで書き直ししてたのを覚えてますよ。それが筒美京平さんだったんですけどね。
 日音だけではなくて音楽業界がガーッと変わる時だったと思うんですよ。どう変わったかっていうと、すぎやまこういちさんや橋本淳さんや筒美京平さんだけではなくて、フリーのポピュラー作家がどっと出てきて、グループサウンズから始まってヒットをどんどん作り出した時代ですよね。
 日音に入った頃は村上も本当に苦労してやってました。レコード会社に曲を売り込みに行っても相手にされないし、雑誌社に譜面を載せてもらうために持って行っても「なんで歌本にあれだけ載ってるのにウチは載せてもらえないんだろう」っていうぐらいに悔しい思いもしました。
 それが入社して2年3年ぐらいで「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか大ヒットがバンバン出てきて「また逢う日まで」につながるわけです。(編集註記:村上司[まもる]音楽出版ビジネスの先駆者)
 (『ミュージックマン・インタビュー第29回 恒川光昭氏』Musicman 2002)

 

 なお1971年の大晦日に開催された第13回レコード大賞では、前評判の通りに「また逢う日まで」がグランプリに選ばれた。筒美はこのときに、朝丘雪路の「雨がやんだら」(作詞:なかにし礼)と平山みきの「真夏の出来事」(作詞:橋本淳)の2曲を評価されて、二年ぶり二度目の作曲賞も受賞している。

 その日の会場では晴れやかな場を嫌う筒美の横に、日音の恒川が最初から最後までぴったりつき添っていたという。そしてレコード大賞が発表される瞬間に、手首をつかまえて逃げられないようにして、発表と同時にふたりでステージに登壇したのだった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

17才 / 南 沙織 (EP盤 1971)

 

※ 次回の更新は2月25日予定! 第14章『多様化していく音楽シーン』後編、③CMの世界で活躍してきた小林亜星、④久世光彦というドラマの演出家、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之