~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第14章 ③④】


①日本人が好む洋楽がヒットした1971年 「ナオミの夢」ヘドバ&ダビデ
②日音と筒美京平の快進撃 「17才」南沙織
③CMの世界で活躍してきた小林亜星 「レナウン・ワンサカ娘」
④久世光彦というドラマの演出家 「昭和枯れすすき」さくらと一郎

⑤新しい演歌に挑んだ二人 「北の宿から」都はるみ


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第14章『多様化していく音楽シーン』より、③CMの世界で活躍してきた小林亜星、④久世光彦というドラマの演出家、をお届けします。

 1964年の東京五輪を境に一般家庭に普及したテレビからは、その番組やCMを通して、それまでにない才能が開花していきました。この号では、小林亜星やドラマの演出家・久世光彦を中心に、音楽家やプロデューサーたちがどのように新しい音楽に挑戦をしていったのかを検証していきます。

第一部 第14章 多様化していく音楽シーン

 

③CMの世界で活躍してきた小林亜星
「レナウン・ワンサカ娘」

 

 1955年から始まった日本の高度成長経済期の、アパレル業界の勢いを反映する華やかさを感じさせるテレビコマーシャルが1961年にスタートした。そのCMソング「ワンサカ娘」は、女性向けの衣料品メーカーとして飛躍したレナウンが始めた企業コマーシャルに使われた。

 この歌がとくに知られるようになったのは、パンチの効いた歌声でスターになった少女歌手、弘田三枝子が元気よく唄ったヴァージョンが有名になってからのことだ。外国曲のように洒落たポップスとして広まった「レナウン・ワンサカ娘」を作詞・作曲・編曲したのは、CMの世界で活躍していた小林亜星である。

 そのきっかけは実の妹がたまたま、レナウンの宣伝部に勤めていたことだった。勤め先の会社がCMソングを作るということになったとき、妹は音楽の道に進んで活躍している兄がいると、宣伝の担当者に紹介してくれたのである。

 小林はそのとき、まだCMソングの仕事を経験したことはなかった。しかしやる気は十分だったので、打ち合わせの場所に出向いてから、レナウンの担当だった今井和也に、「コマソンは作ったことがないんです」と打ち明けた。

 意外な展開に困った顔をしていた今井だったが、それでも話をしていくうちに、「何曲か作って聞かせてください」と言ってくれた。

 

 コマソンの主流は童謡調やシャンソン調だったのですが、僕はぜひ、これはアメリカン・ポップス調でやりたいと思いました。
 当時は、今は亡き坂本九さんが言い出した「カッコいい」というフレーズが大流行りで、僕としては、日本のコマソンはカッコわるいと思っていましたので、大いに張り切ったのです。
 (小林亜星『亜星流!チンドン商売ハンセイ記』朝日ソノラマ 1996)

 

 小林は慶應義塾大学の医学部に入学したものの、学業そっちのけでジャズに傾倒し、夜な夜な進駐軍のクラブで演奏して、社会人の給与を上回る小遣いを稼いでいた。そのために医者になる考えはすぐに捨てて、医学部から経済学部に転部している。

 進駐軍のクラブではジャズのスタンダード・ソングや、ロックンロールのヒット曲をレパートリーにしていた。だから卒業する前からテレビ番組の世界に入って、編曲者として音楽の仕事を始めたのである。

 したがってコマーシャルの内容や映像のイメージがわかれば、自ずとアイデアがわいてくるだろうという自信があった。そして新宿のデパートの前で、通勤帰りの女性たちが一斉に動いたり、笑ったりしている姿を見ていてふと浮かんできたのが、「♫ ワンサカワンサ イエーイ イエーイ」というフレーズだった。

 そのイメージから10曲ほどをつくって今井に聴いてもらうと、「ワンサカ娘」が採用になったのである。幸運だったのは今井が手がけたテレビCMの評判がよく、映像と音楽による企業イメージのアピールに成功したことだ。

 そのために「ワンサカ娘」はそこから毎年、歌手を変えたヴァージョンで放映されることになった。そしてかまやつひろし、デューク・エイセス、ジェリー藤尾と渡辺トモ子、弘田三枝子、朱里エイコへと歌い継がれていった。

 しかもタイミングがいいことに、フランス映画の『アイドルを探せ』が公開されたことで人気が沸騰していたシルヴィー・ヴァルタンが、1965年に来日した際に、「レナウン ワンサカ娘 イエイエ」を日本語で唄って、CMの映像にも出演したのである。

 

 小林はCMの世界で第一人者となり、サントリー「オールド」、明治製菓「チェルシー」、ブリヂストン「どこまでも行こう」、日立「この木なんの木」、大関「酒は大関こころいき」、エメロンシャンプーなどのヒットCMを作曲していく。

 またTVアニメの世界でも「狼少年ケン」や「ガッチャマンの歌」、「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」などを手がけて、子どもたちから大きな支持を得ている。

 そんな才人が著書のなかで、CMソングについてこう述べていた。

 

 コマーシャルの仕事は、一言で表現すれば、デザインワークであるといえます。
 何かの商品があって、その商品から発想を広げていって、何か感動に似たものを作り出す。
 それが人を動かして、商品を動かすという仕事です。
 (小林亜星『亜星流! チンドン商売ハンセイ記』朝日ソノラマ 1996)

 

 そんな小林が最初に書いた歌謡曲が、「赤い風船」(作詞:水木かおる)だった。これを唄ったのは加藤登紀子で、東京大学在学中にシャンソン・コンクールで優勝し、1966年に「誰も知らない」でデビューしたが、レコードセールスは不発に終わっていた。

 そこでポリドールの担当ディレクターだった藤原慶子は、流行の兆しが見えていたフォークソングをうたわせることにして、小林に作曲を依頼した。作詞はポリドールの専属作家の水木かおるが引き受けて、多発していた交通事故で命を奪われた子どもをテーマにした。

 それが第8回日本レコード大賞(1966年)の新人賞に選ばれたのだから、地味な存在だった加藤登紀子も含めて、関係者の全員が強運だったといえるかもしれない。

 小林はこの辺りからCMの仕事が殺到して、1970年代を迎えたところで、日本で最初だといわれたメッセージ性の強い企業広告、富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」を手がけている。

 加藤和彦が「BEAUTIFUL」と書いた紙を持って、銀座の街を歩いているだけの映像だったが、カメラにワセリンを塗ってあるのでデフォルメされて不思議な効果があった。そこにどこか普通ではない、妙な音楽が流れてくる。

 このCMは画面に商品を出さなかったし、商品への言及もなかった。高度成長経済へのアンチテーゼを思わせるCMの登場は、1970年を象徴する現象として話題になった。

 

 僕は、ビューティフルという言葉を繰り返すだけのこの音楽を、およそファッショナブルではない4分の3拍子のポップスに仕上げ、録音を微妙にずらして重ねることで、天界から混沌の街に降ってきたメッセージといった効果を狙いました。
 (小林亜星『亜星流!チンドン商売ハンセイ記』朝日ソノラマ 1996)

 

 その頃に結婚をきっかけにポリドールを退社した藤原は、子どもが生まれた後になってから、原盤制作を行う音楽出版社の「ジュンアンドケイ」の設立に参画している。そこからはプロデューサーの松村慶子として、仕事と家庭を両立させて活躍していく。

 彼女が関わったアーティストは1969年にブルース・シンガーとして注目を集めた浅川マキ、女性のシンガー・ソングライターで女優にも挑んだりりィ、男性ロック・シンガーの桑名正博、寡黙で孤高のシンガー・ソングライターといわれた森田童子、そして1980年代に活躍したTMネットワークなど多彩な顔ぶれである。

 松村は北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」でも、同僚の寺本幸司とともにプロデューサーの役を務めていた。その音源を聴いた小林は、阿久悠の歌詞とストーリーテリングの上手さに驚いて、広告代理店の担当者たちに対して、新しい才能を推薦してまわった。

 「とにかくすごい作詞家が出てきたから」と、畑違いであることなど気にすることなく、阿久悠の名前を広めたのである。そうしたことから1971年に売り出しが予定されていた、日清食品の画期的な新商品を二人で手がけることになる。

 その商品名は「カップヌードル」で、当時は人々の想像を超える食品だった。小林は人類が初めて遭遇する新しい食品なのだからと、CMソングもユニークでなければならないと力説したという。

 そしてユニークさを具現化するために、作詞を阿久悠に引き受けてもらった。ヴォーカルに起用したのは個性派のジャズ・シンガーで、アメリカ滞在から帰国した笠井紀美子だった。

 CMソング「ハッピーじゃないか」は、「♫ 常識というヤツとオサラバしたときに自由という名のきっぷが手に入る……」という、商品名が入らないクールな歌詞になった。

 

 今でこそカップヌードルは常識ですが、当時は非常識な、とんでもない発想の商品だった。歌詞はまさにそのことをうたっていて、阿久さんが常識的に作詞しなかったというところに僕はものすごく面白さを感じたのです。
 (小林亜星『亜星流! チンドン商売ハンセイ記』朝日ソノラマ 1996)

 

 このようにひとつの時代を動かした表現者たちは、お互いがどこかで刺激しあうことによって、相互に影響を与えていたことがわかってくる。

 阿久悠はカップヌードルのCMが好評だったことから、幼児向けのテレビ番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』のなかで使う体操の歌を、小林とのコンビでつくることにした。

 

 CMソングに関しては、あちらが圧倒的に業界の巨匠で、ぼくは全面的に仕事を受けるだけだった。そして、何曲か作った結果、この人は音楽の宝庫だと思った。
 だから、2人の最初の大ヒット曲となる「ピンポンパン体操」は、音楽の宝庫の一挙公開見たいなものなのである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 そこから完成した「ピンポンパン体操」は、子どもの歌という常識を超えて、60行以上もの長い歌詞がついていた。そのために幼児向けというジャンルには収まりきれず、なんとも型破りな楽曲となって完成したのだ。

 それを番組で流してみると想像以上に反応が大きかったので、レコードを発売するとシングル盤が累計で100万枚を越えるヒットを記録した。阿久悠は楽曲が独り歩きしたことについて、“歌は生き物” だとしてこんな見解を述べている。

 

 幼児教育とは全く無縁の盛り場の、お色気を売り物にしていると思えるキャバレーの前に、「本日、ピンポンパン体操大会」などという看板が出始めたのである。どういう風景になるかは想像できた。
 「別に厭だとも、困ったことだとも思わなかった」。歌は生き物で、つくった人間の予想を超えて、はるか遠くにまで行き、はるかに元気に走るということである。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 なお「ピンポンパン体操」が大ヒットした後で、小林は全く意外な分野での表現活動に身を投じていく。TBSの「水曜劇場」という人気ドラマ・シリーズの枠で放送された『寺内貫太郎一家』に抜擢されて、2年間にわたって主演俳優を務めたのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

ワンサカ娘 ‘78(英語盤) / ブロンド・オン・ブロンド (EP盤 1978)

 

⓸久世光彦というドラマの演出家
「昭和枯れすすき」さくらと一郎

 

 1974年1月に始まった『寺内貫太郎一家』の原案と脚本は向田邦子、演出とプロデュースが久世光彦だった。この番組は平均視聴率31.3%を獲得する人気番組になり、後に続編として『寺内貫太郎一家2』が制作された。

 小林亜星は演技に関してまったくの素人だったが、110キロを超える体を見込まれたことで、堂々と主役の貫太郎を熱演した。昔気質で頑固で短気、しかもシャイで口下手という、かなり偏った設定だったことが良かったのだろう。

 子どもたちとのコミュニケーションが苦手な貫太郎は、家族が相手でも言葉の代わりに手が出てしまう。そのために息子役だった西城秀樹との親子喧嘩では、取っ組み合いのシーンが毎週のように繰り広げられた。

 何かの拍子に茶の間で言い争いが始まると、立ち上がった両者がもみ合いになり、タンスは倒れるし障子も突き破られる。壁にぶつかれば額が落ちてくるし、庭に投げ飛ばされるという、激しいアクションが名物になっていった。

 しかもそこに巻き込まれた家族やお手伝いさんたちは、お婆さん役の樹木希林(当時は悠木千帆)が導くチームワークの良さで、乱闘シーンのなかにあっても細かなギャグを見せていく。それまでにない破天荒なホームドラマは、高視聴率を記録しただけではなく、テレビドラマの在り方にも一石を投じたのである。

 久世はたとえ演技の素人であっても、存在感のある友人や知人をドラマの一場面に出演させることで、不思議なリアリティを出していた。後になってから、小林はこのように振り返っている。

 

 私が貫太郎やっているときは、私は演技の理屈を知りませんが、ただ貫太郎になろうと思った。その気になるということが非常に大事ではないかと思います。だから、なりきっていると、自分でも思いつかない 変なことをやります。その役、その役になる。これは本を書くときでも、音楽を作る時でも、演出する時でも、非常に必要。作者の気持ちになる。
 (小林亜星『亜星流! チンドン商売ハンセイ記』朝日ソノラマ 1996)

 

 久世はドラマの中に歌を使うことが得意で、しばしば特別のセンスを発揮して、いくつものヒット曲を生み出してきた。

 1971年から72年にかけての水曜劇場では、森光子・主演による『時間ですよ』の第2シリーズが放送された。そのときには出演者の堺正章が唄った挿入歌の「涙から明日へ」と、同じく出演者だった天地真理の「恋はみずいろ」と「水色の恋」がヒットしている。

 そして1973年の『時間ですよ』第3シリーズからも、浅田美代子が唄った挿入歌の「赤い風船」、天地真理の「若葉のささやき」、堺正章の「街の灯り」といったヒット曲が続いたのである。

 さらに1974年は『寺内貫太郎一家』のなかから、浅田美代子の「しあわせの一番星」がヒットした。そして同じ年の秋から始まった『時間ですよ 昭和元年』からは、無名の演歌歌手によるデュエット・ソングの「昭和枯れすすき」という、異色のミリオンセラーが生まれてきた。

 この不思議なレコードを制作したプロデューサーは、キングトーンズの「グッドナイトベイビー」や、和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」、石川セリの「八月の濡れた砂」などをペンネームで作曲していた松村孝司むつひろし)だった。

 ポリドールレコードの洋楽部のディレクターを経て、1972年にプロデューサーとして独立した松村は、ダイアモンド音楽出版を設立して制作の仕事を続けていた。そこで以前から試してみたかったという、演歌のアイデアに取り組んだ。

 それは日本の演歌にハーモニーをつけて、男女のデュエットに歌わせるという企画である。演歌の中でも泥くさいとされる歌詞と曲調のなかで、デュエットで西洋音楽のハーモニーをつけるという発想は、それまで誰もやったことがない試みだった。

 だが松村は時代遅れと思われている演歌でも、ハーモニーから新しい音楽的な展開が生まれるのではないかと考えた。そのためにありふれた歌詞で、譜面を見ただけでは凡庸だとしか思えない作品をつくった。

 どこにでもあるような歌詞やメロディーなのに、男女がハモって歌うことで新たな魅力が出てくることを証明したかったからだという。そのために下積みで苦労を重ねてきた歌手の中から、徳永一郎を探し出してきた。

 彼は自分のレコードを持って地方を回り、定価で売って卸価格との差額を収入にしていた。しかしそれでは食べていけないので、旅先の建築現場で日雇いで働きながら、歌手を続けていた。

 そこに無名の女性歌手を組み合わせて、デビューにあたっては “さくらと一郎” と名付けたのだ。


  昭和枯れすすき
  作詞:山田孝雄 作曲:むつひろし

  淋しさに負けた いえ 世間に負けた
  この街も追われた いっそきれいに死のうか
  力の限り生きたから 未練などないわ
  花さえ咲もかぬ 二人は枯れすすき

 大正琴を使ったサウンドは、いかにも古色蒼然たる風情だったが、「なにごとか?」と思わせる効果があった。ありふれた名前の “さくらと一郎” は、あがた森魚が歌ってヒットした「赤色エレジー」の主人公からヒントを得たものだと思われた。

 哀切な歌声で唄われていた “♪幸子と一郎の物語” というフレーズが、日本中を席巻したのは2年前のことだった。したがってフォークソングを好む若いファンの耳にも、ハーモニーの演歌ならば届くかもしれないと考えた。そもそも “演歌をハモらせる” というアイデアも、「赤色エレジー」に触発されたものだったかもしれない。

 ぼくは1974年から音楽業界に入って松村との知己を得たことで、大橋にあった事務所に顔を出すようになり、雑談をしながらいろいろな話を聞かせてもらった。そのときに「昭和枯れすすき」のジャケットは、「赤色エレジー」のように “絵” でいくと言ったのを覚えていた。

 松村は1968年に有名になった東京大学駒場祭のポスター、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」を書いた学生だった橋本治を、ほんとうに探し出してきた。大学を卒業して作家になるために修行中だった橋本は、レコード・ジャケットの仕事を引き受けてくれた。

 1974年8月に発売されたシングル盤は当初、まったく売れ行きが伸びずに低迷していた。しかし松村はぼくに「そのうちに…」と、どこかでヒットを予感しているような笑顔を浮かべた。

 それが本当になってきたのは、10月16日から放映された『時間ですよ 昭和元年』(TBS系列)のなかで、挿入歌として使われた後のことだった。細川俊之が演じる男と大楠道代演じる女が、いつも立ち寄る居酒屋のシーンには必ず、その歌が流れ始めたのである。視聴者から「これはドラマとどうつながっているのか?」、「何という歌なのか?」、「誰が唄っているのか?」という問い合わせが来るようになった。

 そんなふうにして注目が集まって話題になり、最初に有線放送で人気に火が付き始めた。しかし松村は「昭和枯れすすき」が話題になってからも、さくらと一郎をマスコミには出さないようにした。そしてレコードの力だけで、どこまで売り上げを伸ばせるのかを見ていたのだ。やがてヒットは本格化して、発売から約9か月後の1975年4月28日には、オリコンシングルチャートの1位まで昇りつめたのである。

 この現象は昭和を回顧する動きなどにもからめて、1975年の音楽ニュースとしてこのように紹介されていた。

 

 (『時間ですよ 昭和元年』は)オイルショック以後の沈滞ムードと昭和初期の不況のムードをオーバーラップさせたテレビ番組だったが、この歌も 〽お~れは河原の枯れスースーキー……の「船頭小唄」をイメージさせ、またこの年の世相を反応している感じがうけたようだ。 (編集註記:1973年に始まった第一次オイルショック)
 (世相風俗観察会/編『現代世相風俗史年表1945−2008』河出書房新社 2009)

 

 久世はその翌年にもテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』を企画し、主題歌として作られた「時の過ぎゆくままに」をヒットさせている。このドラマでは主演した沢田研二から、妖艶とも形容したくなる魅力を引き出して話題になった。

 これはストーリーテーラーとしての才能を評価していた阿久悠のもとに、久世のほうから持ち込んだドラマの企画が発端だった。沢田研二が醸し出すオーラと頽廃的な美しさに魅せられていた二人は、「色っぽい歌を作りたいね」と意見が一致したという。

 そこで久世はハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが主演したハードボイルド映画『カサブランカ』のテーマ曲から、「As time goes by(時が流れようとも)」をいただいて、先に「時の過ぎゆくままに」というタイトルを決めた。

 こうして主題歌を創る作業を進めながら、ドラマの骨組みと物語の流れを構築していった。意外な発注の仕事から始まったドラマの縁によって、阿久悠は初めて沢田研二に作品を提供することが出来た。

 

 こういうドラマ発でない限り、沢田研二との縁も考え難かったので、もしもこの機会を失していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。
 そう思うと得難いチャンスであった。
 (阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮文庫 2007)

 

 久世は阿久悠が書きあげた歌詞をもとにして、6人の作曲家に曲をつけてもらった。このあたりの大胆で自由な行動は、レコード会社や音楽出版社の立場では許されないことだった。

 当時のヒットメーカーだった荒木一郎、井上大輔、井上尭之、大野克夫、加瀬邦彦、都倉俊一の6人がコンペティションで競る形になって、その中から選ばれたのは大野克夫の曲だった。

 テレビドラマの脚本には映画監督の予備軍から、日活出身だった長谷川和彦が起用された。音楽は井上尭之と大野克夫のふたりが担当し、さらに漫画化の際には上村一夫が絵師として加わった。まさに旬の勢いを感じさせる才能が集まったが、それは久世人脈を総動員したかのようであった。

 しかしいざ放送が始まってみると、同性愛がテーマであることへの抵抗などから、思った以上に視聴者から反発があった。劇中にはベッドシーンやレイプがあり、テレビドラマとしては過激な内容だったので、その演出にも賛否両論が寄せられたのだ。

 そのために久世光彦にしては期待されたほどの視聴率が得られず、いささか不本意な結果に終わった。それでも主題歌の「時の過ぎゆくままに」は大ヒットし、それまでの沢田研二のシングルのなかでは最高の売上げを記録している。

 そして4年後には長谷川和彦が日本の映画史に残るカルトムービーの『太陽を盗んだ男』を、スーパースターになっていた沢田研二の主演によって製作することになる。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

昭和枯れすゝき / さくらと一郎 (EP盤 1974)

 

※ 次回の更新は2月25日予定! 第14章『多様化していく音楽シーン』後編、⑤新しい演歌に挑んだ二人、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之