~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第15章 ①②】


①レコーディングに立ち会った村井邦彦 「朝まで待てない」ザ・モップス
②サイケデリックという言葉からの発想 
「ブラインド・バード」ザ・モップス
③R&Bに光が当たり始めた1969年 「どしゃぶりの雨の中で」和田アキ子
④現代音楽とモップスとの邂逅 「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」
⑤和洋折衷ロックの快作が誕生! 「御意見無用(Iijanaika)」ザ・モップス


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第15章『未知の才能が集まったモップス人脈』より、レコーディングに立ち会った村井邦彦②サイケデリックという言葉からの発想、をお届けします。

 1966に始まったグループサウンズ(GS)ブーム。その時代に登場した数多くのグループの中で、異彩を放ったのがザ・モップスです。そのロックでサイケデリックな音楽性は時代を先取りしていたのかもしれません。村井邦彦や阿久悠、そしてザ・モップスのメンバーたちは、新しい音楽にどのように挑戦していったのでしょうか。

第一部 第15章 未知の才能が集まったモップス人脈

 

➀レコーディングに立ち会った村井邦彦
「朝まで待てない」ザ・モップス

 

 1966年に始まったグループサウンズ(GS)の時代にも、日本語でロックを唄うことについて、どこか不自然だと感じる人たちが、一定の数だけ存在していた。日本語をビートに乗せることは、それだけ難しいことだったのである。

 そうした不自然な思いを解消するために、さまざまなヴォーカリストが試行錯誤して、日本語の発声やイントネーションに工夫をこらしていった。しかしその成果が表に出てくるまでには、そこから10年以上の時間を要することになる【注】。

 ザ・タイガースは1967年2月に「僕のマリ―」でレコード・デビューしたが、その前からテレビ出演や日劇の「ウェスタンカーニバル」のライブで人気が出始めて、GSブームに新しい波を起こしていった。ミディアム・テンポの「僕のマリ―」は、日本語でも口ずさみやすかったし、抒情的なメロディーとコーラスも印象的だった。

 これを作曲したのはフジテレビの人気番組『ザ・ヒットパレード』で、プロデューサーとして活躍していたすぎやまこういちである。作詞はアシスタントについていた橋本淳だったが、このコンビはタイガースのために5月発売の「シーサイド・バウンド」、8月発売の「モナリザの微笑み」、1968年1月発売の「君だけに愛を」を提供している。

 それらがいずれもヒットしたことによって、タイガースは女性ファンを中心にアイドル的な支持を得ていった。ではどうして彼らに人気が集中したのか、そのことについてGS研究家の黒沢進はリアルな実体験に基づいて、こんな見解を述べていた。

 

 彼らの若くて統一のとれたルックスは、それまでのブルー・コメッツやスパイダースのようないかにもロカビリー・バンドあがり的なデコボコした感じや、また、サベージやワイルド・ワンズといったアイビー的な感じとも違って、ビートルズに近いものを感じさせたのである。とりわけリード・ヴォーカルの沢田研二の抜群のアイドル性によって、たちまち彼らは女学生の間で大きな人気を得ることになる。
 (黒沢進著/Hotwax責任編集『黒沢進著作集』シンコーミュージック 2007)

 

 こうしてロックに影響されて始まったはずのGSだったが、各レコード会社が参入してきてブームが本格化すると、ヒット曲を追い求める傾向が強くなっていく。

 タイガースのライバルと見なされていたザ・テンプターズは、1967年の秋にGSでは珍しく、メンバーの松崎由治が自ら作詞作曲した「忘れ得ぬ君」でデビューしている。セカンド・シングルの「神様お願い」もそうだったのだが、どちらもヴォーカルは松崎が自分で担当していた。

 それらはプロの作曲家なら書かないと思われる、やや単調な展開の楽曲であった。しかし完成度はいまひとつでも、切なさを訴える歌詞からはリアリティが伝わってきた。

 ザ・ローリング・ストーンズの「黒くぬれ!(Paint It, Black)」を思わせるメロディーが、何度も繰り返される「忘れ得ぬ君」を初めて聴いたとき、ぼくは高校生になっていたので、いつまでも君を忘れられないとひたすら思慕を訴える歌詞は気恥ずかしかった。しかしバンドの顔として人気が高かった萩原健一(ショーケン)が、松崎の歌をブルース・ハープでサポートし、ハーモニーをつけるところは斬新だった。

 当時から松崎の唄い方は “泣き節”といわれて、ファンの間にも賛否両論があった。それでも彼がつくった楽曲は少年少女たちの共感を集めたし、テンプターズには男性のファンも多かった。

 しかし1968年6月に発売された「エメラルドの伝説」では、作詞がヒットメーカーのなかにし礼に変わり、作曲には新人の村井邦彦が抜擢された。そしてショーケンが初めて、日本語でヴォーカルを担当した。

 もちろんそれはレコード会社の意向によるものだったが、これが思惑通りにテンプターズにとって最大のヒット曲になった。10代の頃はショーケンもくせがなく、意外にソフトな歌声であった。

 ただし彼の場合は不良性と不敵な存在感が、GSのなかでも最初から際立っていた。それは幼い頃から子守唄のように、ブルース・ロックを聴いていた、特殊な音楽体験に由来しているからだという。

 

 僕のルーツは正確に言うと、カントリー・ブルースなんです。横浜の山下公園の前には「カマボコ兵舎」というGHQの建物があって、その近くに「ゼブラクラブ」っていう、進駐軍向けのジャズクラブがあったんです。
 よくそこに行ってブルースとかを聴いていました。だから近所の子と初めて組んだバンドもブルース・バンドだったし、物心がついたときには僕の周りではブルースが鳴っていたんですね。
 (「原点回帰したことで進化を続けるショーケンのブルース~萩原健一インタビュー~」TAP the TOP 2020)
http://www.tapthepop.net/extra/77199

 

 ところで、ブルースやR&Bに傾倒していた本格的なロックバンドということになると、GSのなかではゴールデンカップスとザ・モップスの名前があがってくる。1967年の秋に「朝まで待てない」でデビューしたモップスは、当時としてはかなりブルース色が濃いバンドで、その存在感は圧倒的だった。

 それはリード・ヴォーカルの鈴木ヒロミツのしゃがれた声によるシャウトと、ファズ・トーンを全開にした星勝(ほし かつ)のギタープレイ、さらにはリズム隊によって生み出されるグルーヴに勢いがあったからだろう。

 ブリティッシュ・ロックのなかでもアニマルズに傾倒していた鈴木ヒロミツは、「朝日のあたる家」や「孤独の叫び」を英語でカヴァーすることで、エリック・バードンのブルース感覚を自分のものにしていった。

 都内にあるホテルの一室で偶然のように、「朝まで待てない」という楽曲が誕生したときに、モップスを代表してその場に立ち会っていたのは、ギタリストの星勝だったという。

ぼくは2018年に行われた取材で彼の口から初めて、こんな事実を教えてもらった。

 

 阿久さんと村井さんがカンヅメになって、オレたちのデビュー曲を書くという話を聞いて、興味があったからその時に「オレも行っていい?」って聞いたんだ。誰がジャッジをしたかはわからないけど、「いいよ」ということになって、みんなが「はじめまして」で、一緒にメシを食べながら打ち合わせをした。
 (2018年11月 筆者によるインタビュー)

 

 そこでサイケデリックなサウンドで売り出したいという話が、レコード会社の担当者の口から出たことについて、阿久悠が著書の中で何度か言及している。それによると美少年が目立っていたGSの中で、モップスは“きたないグループ”の代表だったのだ。

 だからこそ阿久悠は、「時代の空気を表現できる」というふうに思ったとも述べていたのである。

 

 汚さに仰天はしたが、時代はヒッピー文化に染まりつつある時で、ぼくはなぜか美少年の叙情歌謡的要素の強くなったグループサウンズよりは、この方が時代への反逆性を示せると意欲的になったことを覚えている。
 (阿久悠『愛すべき名歌たち−私的歌謡曲史−』岩波新書 1999)

 

 そう考えると強い個性を示さないと作品は目立たないし、作詞家として自分に求められているのも、そこなのだろうということを意識せざるを得なかった。

【注】サザンオールスターズが歌謡曲的なアプローチによって「勝手にシンドバッド」でセンセーションを巻き起こしたのと、RCサクセションが「上を向いて歩こう」をロック・アレンジにして観客をライブで熱狂させたのは、ともに1978年のことだった。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

朝まで待てない/ブラインド・バード / ザ・モップス (EP盤 1967)

 

②サイケデリックという言葉からの発想
「ブラインド・バード」ザ・モップス

 

 そもそもアメリカで流行していたサイケデリックのムーブメントを、ザ・モップスの音楽に結びつけるというプランは、阿久悠がホリプロの堀威夫社長から仕事を受けた当初から、前提として聞かされていたことだった。

 ただし幻覚から生まれた音楽より、ポップアートなどのほうが日本ではわかりやすい。だから阿久悠は歌を聴いた人が瞬間的に、「原色を思い浮かべてくれればいい」と考えたと述べている。

そこから目をつぶった時に、真っ暗な世界のなかで真っ赤なバラがパッと浮かぶというように、視覚面でのイメージを膨らませて歌詞を書いてみた。

 

 アイディアがいろいろとあった。普通に歌わせるのではつまらないから、目かくしをして歌わせようといったものだ。そこから、『ブラインド・バード』というタイトルが出てきた。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009)

 

 そして「♫どうか私をしあわせなうちに殺してほしい」という、斬新なフレーズを思いついたことで、自分でもかなり気に入っていた歌詞になったと記している。

 一方の村井邦彦は昼食時の打ち合わせが終わったところで、ビクターのディレクターたちに初めて、作曲について具体的な要望を質問していた。そこからの作業がとてもスムーズに進展したことについて、星勝は当時の記憶をたどりながら、かなり具体的に答えてくれた。

 

 村井さんが「どんな感じの曲がいいの?」って、頼んできたビクターのディレクターの2人に訊いて始まったわけ。それでベンチャーズもそうなんだけど、「AmからG、F、E7と下っていくコード進行が今は売れると思うんだよね」って話していたと思うんだよね。
 俺もそこで、「なるほどね、そういう曲の発注の仕方をするんだ」って、初めて知ったわけだよ。それでもう、村井さんがすぐに「わかった」っていって、用意された部屋に入ってピアノの前に座った。
 (2018年11月 筆者によるインタビュー)

 

 エレキブームで若者を熱狂させていたベンチャーズの代表的なヒット曲「木の葉の子守唄」が、まさにAmからG、F、E7と下がっていくコード進行だった。また、1960年代にオールディーズのスタンダードになったデル・シャノンの「悲しき街角」も、同じコード進行で成り立っていた。

 すぐに話の要点を理解した村井は、ピアノに向かってまっさらな状態から、曲を形にしていった。それから一時間ほどかけて、全体が出来あがったところで全員が聴いて、すぐに「いいね」と意見が一致した。

 そこで村井が譜面を仕上げて、その日の作曲は終わりになったという。さて、もう少し星勝(ほし かつ)の話を続けて紹介したい。

 

 それで「じゃあ僕、帰ります」って村井さんは帰っていった。そこで阿久悠さんが詞の内容をどうするかって話していたのは覚えてない。話していたとは思うんだけど…。
 それからレコード会社の2人が打ち合わせかなにかで、しばらくいなくなった。阿久さんはその時に「困ったなぁ」ってベッドに寝ころんで、「これって書けないと帰してもらえないんだよね」みたいなことを言っていたと思う。
 それで「こうなったらタイトルからいこうか」ってなり、「朝までかかるかな?」なんて話になって、「そこまでは待てないってことだよね」ということから、「朝まで待てない」というタイトルができて、「いいですね」ということになった。
 (2018年11月 筆者によるインタビュー)

 

 「朝まで待てない」がそんなふうにして完成した後に、おそらく「ブラインド・バード」の歌詞が出来上がったのだろう。そこに村井がメロディーをつけて、AB面が揃ったと推測できる。その2曲をもとにしてモップスはリハーサルを行い、バンドのメンバーたちでアレンジを固めていった。

 実際にレコーディングが行われたのはまだ築地にあった、木造の旧ビクタースタジオだった。そこに村井が立ち会ったのは、自分が書いた二曲について、最終的に編曲の方向までを確認する必要があったからだろう。

 また初めてのレコーディングだったバンドに対して、作曲者としてアドバイスする気持ちもあったに違いない。次のコメントで星勝が「僕らの味方でね」と語った言葉からは、まわりが敵だらけに思えていた彼らの不安な思いが伝わってくる。

 

 阿久さんはその場にいなかったんだけど、村井さんはいてくれたんですよ。僕らの味方でね。コンソール・ルームにはディレクターの2人がいて、村井さんはブースの中でずっと付き添ってくれたんだ。たぶん、こちらが最初のレコーディングだから、何かあったら言ってあげようって思ったのか、ずっといてくれたんですよ。それは非常に心強かったです。
 (2018年11月 筆者によるインタビュー)

 

 当時のテープレコーダーは2チャンネルしかなかったので、録音するには技術的な工夫が必要だった。全体のアレンジを組み立てていた星勝は、最初にリズム隊を録るために、ガイドとなるアコースティック・ギターを弾いていた。

 そしてドラムとベースとリズム・ギターを、一斉に録音したのである。それがOKになったところで、バンドの音を片チャンネルにまとめて、空いたチャンネルにエレキギターの歪んだ音をダビングする予定にしたのである。

 ところがファズというエフェクターを通して大きな音を出したら、思わぬトラブルが生じてしまった。それはビクターのエンジニアたちがロックを録音する知識を何も知らず、持ち合わせていなかったからである。

 

 ファズの音を録音するというときに、コンソール・ルームのディレクターから「ギターの音が歪んでいて録音できない」って言ってきたんですよ。何を言われているのか、俺は全然わからなくて。こういうサウンドにしたいと思っているのに、「録音できない」って言われるんだから…。
 それで困ったなって思って村井さんに相談したわけ。村井さんも困ったと思うんだよね、どう対応していいか。そういう音をエンジニアさんが、まだ知らなかった時代だから。しばらくはギクシャクしたけど、それでも最後にエンジニアさんが対処してくれて録り終えた。
 あの頃はテープレコーダーがまだ2チャンネルだったから、ダビングにダビングを重ねて、4人のリズム隊、ファズ・ギター…、あとは何を入れたか覚えてないけれど、コーラス、ヴォーカルを録って仕上がりでした。
 (2018年11月 筆者によるインタビュー)

 

 その後、ビクター側は仕上がった2曲を聴いて、「ブラインド・バード」ではなく「朝まで待てない」をA面に変更している。それによってある程度のヒット曲になったのだから、発売元としては賢明な判断だったといえる。

 阿久悠はサイケデリックという言葉から離れて、B面なので日本人にもわかりやすい歌にしようとしたと、著書の中でもはっきり述べていた。

 

 アニマルズの『悲しき願い』か、『朝日のあたる家』みたいな感じで、わりに絶叫できる歌にしようではないか。そうしてできたのが『朝まで待てない』という、荒っぽい感じの歌である。
 (阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店 2009)

 

 ここでアニマルズの曲名まで書いたのは、後楽園球場の遊園地の隅につくられた形ばかりのステージで、数人の子供がしゃがんで見ているモップスの姿を目にしたときに、それらの歌を聴いた印象が頭の片隅に記憶されていたからだった。

 モップスは「朝まで待てない」が10万枚以上も売れたので、ビクターからセールス面での合格点をもらった。しかし翌年3月に発売されたセカンド・シングル「ベラよ急げ」(作詞:阿久悠 作曲:大野克夫)の反応が悪く、8月には作曲を村井邦彦に戻して「おまえのすべてを」を発売したが、これも不発に終わってしまった。

 それと並行してGSブームがみるみるうちに勢いを失ったのは、レコード会社の思惑でバンドが乱立したことと、ヒット曲を狙った粗製乱造が原因だった。

 1968年の後半に入るとGSを取りまく環境が激変し、“悪貨は良貨を駆逐する” 状態に陥ってしまった。そのことで多くのバンドが活動に支障をきたして、やがて解散を余儀なくさせられたのである。


※ 次回の更新は3月18日予定! 第15章『未知の才能が集まったモップス人脈』より、③R&Bに光が当たり始めた1969年、④現代音楽とモップスとの邂逅をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之