~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第15章③④】


➀レコーディングに立ち会った村井邦彦 「朝まで待てない」ザ・モップス
②サイケデリックという言葉からの発想 「ブラインド・バード」ザ・モップス
③R&Bに光が当たり始めた1969年 「どしゃぶりの雨の中で」和田アキ子
④現代音楽とモップスとの邂逅 「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」

⑤和洋折衷ロックの快作が誕生! 「御意見無用(Iijanaika)」ザ・モップス


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第15章『未知の才能が集まったモップス人脈』より、③R&Bに光が当たり始めた1969年④現代音楽とモップスとの邂逅、をお届けします。

 1960年代に入り、米軍基地を背景にさまざまなアメリカン・ミュージックが浸透していきます。なかでもリズム&ブルース(R&B)は当時の最先端。それを取り入れた日本独自の曲で和田アキ子が発表。センセーションを引き起こします。そして、ロックでサイケデリックなザ・モップスは、オーケストラとの共演を果たすことに。いずれも60年代終盤の出来事です。今号では、新しい音楽へ果敢に挑戦する音楽家たちの姿を追いかけます。

第一部 第15章 未知の才能が集まったモップス人脈

 

③R&Bに光が当たり始めた1969年
「どしゃぶりの雨の中で」

 

 1947年に横浜に生まれ育った川瀬泰雄はベンチャーズの影響で、中学生の頃からエレキギターに目覚めて音楽少年になったという。そしてビートルズの登場からロックにのめり込んで、大学に入ってからも生活の中心は音楽になっていった。

 アメリカが軍事介入したことによって泥沼化していったベトナム戦争が激化して、1967年から68年にかけては多くの兵士たちが、日本の基地に駐屯していた。そうした兵士たちを相手にしたディスコや米軍キャンプで、川瀬はバンドの一員として活動していた。

 当初は大好きだったビートルズのカヴァーを中心にしていたが、ベトナムの戦場から戻って休息をとる兵士たちのリクエストに応えるために、カントリーからブルースまでを演奏するようになった。そしてアメリカでヒットしていた最新のR&Bなどをレパートリーに加えていくなかで、川瀬は自分にそなわっている資質に気づかされたと述べている。
 

 自分には何か音楽の流行が、微妙に他の人より早く感じることができるようだと思い始めた。海外の新人バンドやリリースされたばかりのレコードで自分が気に入ってカバーした曲は、仮に音楽評論家が酷評していたものでも、ヒットしていくのである。日本の音楽でも自分だけが気になっていたまったく無名のミュージシャンが1~2年後どんどんうまくなりプロとしてデビューしていった。これはひょっとすると演奏するよりも、アーティストを探したり育てたりするほうが性に合ってるのではないかと思い始めた。
 (川瀬泰雄『プレイバック 制作ディレクター回想記』Gakken 2011)

 

 友人の兄がレコード業界で働いていると聞いて、川瀬は就職の相談に出かけたことがあった。その人は先見の明があり、音楽のプロデューサーやディレクターの仕事の可能性について教えてくれた。

 これまでのようにレコード会社だけが音源を制作するのではなく、プロダクションなどがイニシアチブを取るようになるともいわれた。そこで実際に調べてみたところ、レコード制作の現場でイニシアチブをとっていたのは、業界最大手の渡辺プロダクションと、傘下の渡辺音楽出版だった。

 そしてその後を追っているのが、ホリプロだということもわかった。

 

 ホリプロが大学卒業者を募集し始めた2年目だった。ぼくはホリプロ一社に目標を定め入社試験を受けた。芸能プロダクションというものを知らず、たかをくくっていたのだが、いざ試験を受けようとすると5~6人の募集に300人近い入社希望者だという。ちょっとあせりを感じた。しかし幸運にも合格しぼくの音楽人生がスタートした。
 正式な入社は1969年4月1日に決定。前年の大学4年の夏には卒業研究の発表も終わり、後は卒業式を待つだけとなっていた。ホリプロから、何もすることがなければ1968年10月1日から出社しろとの通知が来た。
 (川瀬泰雄『プレイバック 制作ディレクター回想記』Gakken 2011)

 

 見習い社員として最初に付いた現場は、1968年10月25日にデビューした新人・和田アキ子のキャンペーンに同行する仕事だった。和製R&B歌手をめざしていた和田アキ子は、阿久悠が作詞したデビュー曲「星空の孤独」(作曲:ロビー和田 編曲:村井邦彦)を発売した。だがこの時は意外にも、いい結果を出せないままに終わった。

 そこで捲土重来を期して6ヶ月の時間を置いて、翌69年の4月に第2作の「どしゃぶりの雨の中で」を発売した。この歌はミディアム・テンポのR&Bだったが、逆境の中で泣いて叫ぶ女性が主人公だった。

 そしてサウンドからも歌声からも、困難を乗り越えるエネルギーが感じられたことでヒットした。

  どしゃぶりの雨の中で
  作曲:小田島和彦 作詞:大日方俊子 編曲:山木幸三郎
  とても悲しいわ あなたと別れて
  流れる花びら みつめているのは
  どしゃぶりの雨のなかで わたしは泣いた
  やさしい人の想い出を つよく抱きしめて

  みんな知ってたの いつかこうなると
  それでも苦しい あきらめるなんて
  どしゃぶりの雨のなかで わたしは叫ぶ
  信じていたい愛だけを あなたの愛だけを

 当時のホリプロはグループ・サウンズのブームが終息に向かったことで、淘汰の季節に入りつつあった。バンドを取り巻く状況が悪化していたことから、なんとか体制を建て直さなければならかったのだ。
 そんな苦しい時期に屋台骨を支えたのが、泣きながら愛を叫ぶ和田アキ子の力強い歌声だった。このタイミングで期待の大型新人が成功したことは、プロダクションにとって大きな励みになったに違いない。

 

どしゃぶりの雨の中で ジャケ写.jpg

どしゃぶりの雨の中で / 和田アキ子 (EP盤 1969)

 

④現代音楽とモップスとの邂逅
「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」

 

 川瀬は入社試験の面接の場で、自身がバンドをやっていたという履歴書を見た重役から、「ホリプロにはたくさんバンドがあるけど、どんなバンドが好きなんだ?」と聞かれた。そこで躊躇なく「モップスです」と答えたのは、面接用のものではなく本心だったという。

 そこを踏まえた人事だったのか、1969年の春に正式入社した川瀬は、グループ内の「東京音楽出版株式会社」に配属された。そこはホリプロの原盤制作を担当する子会社だから、希望したとおりの仕事であった。

 しかし華やかに見えたGSブームは、1968年に入ってから急速に衰退していった。レコード・デビューしてプロになったバンドは100あまりだったらしいが、そのほかに各地のジャズ喫茶やキャバレーなどに出演する、セミプロ級のバンドが200くらいはあったという。

 しかし音楽活動を維持していくのはどこも大変で、ほとんどのバンドが失速して解散に追い込まれた。ホリプロだけで10数組あったバンドも、1969年に入ってから解散が相次いだのである。

 1971年の1月にタイガース、テンプターズ、スパイダースが解散した。さらに5月にはオックス(OX)、6月にはヴィレッジ・シンガーズ、7月にはジャガーズ、10月にはワイルド・ワンズが活動停止に追い込まれた。

 その後も72年1月にゴールデン・カップスが、沖縄のディスコティックでの演奏を最後に解散していた。もっとも長いキャリアだったブルー・コメッツも、歌謡曲にシフトした後の1972年後半に解散してしまった。

 しかし日本ロック体系を編纂した黒沢進はGSについて、このように総括して底辺で果たしてきた貢献について、高く評価していたのである。

 

 GSの遺産はそのサウンドのみならず、人材的にも、多くのシンガー、プレーヤー、作曲家、アレンジャー、レコーディング・ディレクター、芸能プロデューサー、スタジオ・ミュージシャン等を輩出するなど膨大なものがあり、後の日本のロックに与えた影響は計り知れない。
 (黒沢進著/Hotwax責任編集『黒沢進著作集』シンコーミュージック 2007)

 

 GSと入れ替わるように、ユニークな創造性を感じさせるバンドがアマチュアの中から現れるのは、1967年から68年にかけてのことだった。京都出身のザ・フォーク・クルセダーズと、東京出身のジャックスはどちらも一時的に、アングラと呼ばれていた。彼らは短かった活動期間のなかで、その後の音楽史に残る楽曲とアルバムを残した。

 モンキーズのファンクラブを運営する会社によって結成された「エイプリル・フール」は、1969年にデビュー・アルバムを発売すると同時に、バンドが空中分解して解散している。しかし本格的なロックバンドを待望する思いは、エイプリル・フールのメンバーだった細野晴臣と松本隆に受け継がれた。

 彼らが日本語によるロックを標榜する「はっぴいえんど」を結成したとき、バンドに加わってきたのがポップス少年出身の大瀧詠一と、高校生ながらも天才的なギタリストとして有名になった鈴木茂である。

 その後、はっぴいえんどは関西フォークの牙城だったインディーズのURC(アングラ・レコード・クラブ)で、岡林信康のバックバンドを担当することになった。1970年の6月1日に発売になったセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』で、はっぴいえんどがバックを務めたのは、全11曲の収録曲うち7曲だった。

 全体的には素直なラブソング「愛する人へ」などを含む、カントリーロックが中心の内容になっていた。ここで特筆したいのはジャックスの早川義夫が書いた楽曲のなかから、「ロールオーバー庫之助」、「堕天使ロック」、「ラブ・ジェネレーション」の3曲と、わずか数か月前にソロで発表されたばかりの「NHKに捧げる歌」が、早くもカヴァーされていたことである。

 その後、はっぴいえんどは1970年8月5日に自分たちのオリジナル・アルバム『はっぴいえんど』を発売し、日本語によるロックを代表するバンドになっていった。

 一方でスーパーグループという触れ込みで結成された「PYG(ピッグ)」は、GS時代に人気絶頂だった沢田研二と萩原健一が、ツイン・ヴォーカルを担当するバンドだったにもかかわらず、ライブを行っても思ったように観客が集まらなかった。そのためにごく短期間で活動中止に追い込まれてしまう。

 そんなふうに状況が変化していくなかで、GSブームの崩壊に巻き込まれることなく、唯一、しぶとく生き延びていたのがザ・モップスだった。

 そんな彼らが新しい道に進んでいく萌芽に出会ったのは、1968年6月7日に開催された現代音楽とクラシックとロックを合わせたイベント、『第2回オーケストラル・スペース』に出演した時のことだった。

 武満徹(たけみつとおる)と一柳慧(いちやなぎとし)が企画したこのイベントは、その年の6月4日から三日間にわたって開催された。注目の的になったのは初日の東京文化会館大ホールで、前年にアメリカのニューヨーク・フィルハーモニックの初演によって世界中にセンセーションを巻き起こした武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」が演奏された。

 クラシックの専門誌である『音楽芸術』は、イベントそのものについて、「圧倒的な観客動員に成功」と評価した。だが、一柳が書き下ろした実験的な作品「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」を演奏したモップスに関しては何の記述もなく、出演していたことさえも報じられていなかった。

 その当時のGSは “おんな子ども” 向けのものだとして、まともな音楽として認められなかったのかもしれない。したがってイベントの来場者のなかで、モップスの音楽を知っている人はほんの少数に過ぎなかっただろう。

 ぼくもリアルタイムではまったく知らなったが、本稿を執筆するための資料を調べていた時に、その日のライブを観た記者らしき人物が書いたと思われる記事を目にして、かなり驚かされたのである。

 

 ロック・ミュージックがひたすら他の音楽の要素を吸収し、大きくふくらんでいったのに対して、クラシック音楽はあくまで純粋な孤立を保ってきました。クラシックから生まれた現代音楽でさえも、異端児として白い目で見られているという状態でした。
 10年ほど前から、ジョン・ケージのもとで新しい音楽を勉強した一柳慧は武満徹と共にこのクラシック界の保守的な中で、日本で初めてともいえる本格的な、オーケストラとグループ・サウンズとの共演を6月4日東京文化会館で試みました。
 小沢征爾、武満徹という、そうそうたる指揮の下に選ばれて演奏するのは、モップス。50人もの日本フィルハーモニー・オーケストラの整列した前に、原色の派手な衣装のモップスが登場すると、ドレスアップした”セイジ” を聴きに来た観客から期せずして、失笑とも嘲笑ともつかぬ小さな笑いがおこりました。
 (黒沢進著/監修『ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス』シンコーミュージック 1998)

 

 この日の演奏はテープの電子音楽と、日本フィルの演奏によるものだった。それは一柳の創作であったり、クラシック音楽の断片であったりしたという。

 一柳がロックに関して興味を持って、コラボレートする企画を考えたのは、音に電気が使われているのが面白いと思ったのと、モップスの曲から反体制の匂いを感じたからだったという。

 2015年に行われたインタビューの中で、1968年に企画した『オーケストラル・スペース』についても、一柳は「勇気のいる仕事」だったという本音を語っていた。

 

 私が譜面を書いて、彼らの演奏と日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を合体させました。オーケストラとロックを同時にやるのは、かなり勇気のいる仕事でしたが、実験的で面白かった。
 (「戦争を生きた大御所が語る現代音楽の面白さ 一柳慧インタビュー」CINRA.NET 2015)

https://www.cinra.net/interview/201509-ichiyanagitoshi?page=2&genre=music

 

 しかしそうした実験的な試みは、会場に詰めかけたクラシック音楽のファンにまったく伝わらなかった。『ミュージック・ライフ』誌の記事はそのことについて、このように言及していたのである。

 

 普段とは全く雰囲気の違うステージに、モップスの5人は少し上がり気味の様子でしたが、日頃から得意とする即興演奏を熱演。
 しかし、クラシック・ファンにとって、スコアのない、アンプを通してのグループ・サウンズは、相も変わらず騒音としてしか受け止められなかったのでしょうか。演奏を終えたモップスに贈られたものは、嘲笑的にさえ思える拍手でしかありませんでした。
 (黒沢進著/監修『ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス』シンコーミュージック 1998)

 

 しかしモップスはこうした他流試合的なイベントを通して未知の音楽に触れることによって、誰も歩んだことがない道へと進むことになる。しかし企画した武満と一柳による問いかけのなかにあった、「なぜ、ドビュッシーを他の要素の中に埋め込んでみようと試みないのか?」、あるいは「なぜ、ベートーヴェンを原型のままでしか聞かせないのか?」という疑問について問われたクラシック・ファンからは、なにも答えが得られずに終わっている。

 それでも来場した人の中にはモップスのチャレンジ精神を、きちんと受けとめてくれた人物もいたのだ。イギリスのロックなどに精通している編集者が、果敢な試みに関心を持ったのかもしれない。

 それにしても “ミーハーな音楽ファン” や、“おんな子ども向け” だとして、いつも馬鹿にされていた音楽雑誌に、この歴史的なコンサートのことが記録されていたことには驚かされた。

 この頃のイギリスでは、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、ジェネシスなど、それまでとは明らかに異なるバンドが登場していた。彼らは開発されたばかりのメロトロンやシンセサイザーなど、これまでにない電子楽器を駆使することによって、クラシカルかつ前衛的な音楽にも挑んでいった。

 1967年にムーディー・ブルースが発表した2ndアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』は、オーケストラとの競演で新しいロックのスタイルを築いたとして先駆けだとみられていた。

 そうした活動にも影響されて現代音楽に挑戦したモップスは、GSという枠のなかでも独自の存在感を放ち始めたのである。しかし一般の音楽ファンにとっては、デビュー曲の「朝まで待てない」がヒットした以外には、これといった代表曲のない地味なバンドにしか見えなかっただろう。

 それでもブリティッシュ・ロックに傾倒していた星勝は、1960年代の後半から70年代にかけて、ジミ・ヘンドリックスの影響も受けながら、音楽面での新しい展開を模索していった。そのために数少ない仕事の場だったジャズ喫茶で、海外のブルースやR&Bをカヴァーしながらも、そのエッセンスを自分たちのものにする努力を重ねた。

 それが同じ事務所に所属していた井上陽水のレコーディングや、小椋佳のアルバムを編曲する仕事につながっていく。

 

 「あのころは、キング・クリムゾンとか、イエスとかよく聞いてましたね。当時はフォークの世界とロックの世界が分かれていて、(井上)陽水の場合はフォーク系と見なされているんだけど、彼のサウンドを完成させるのに、ロックの要素も入れてバランスを取ったものを模索していたんです。
 モップスでは音楽は洋楽モノ仕立てで、日本語がのらないよなとあきらめているところもあって、<御意見無用(いいじゃないか)>のように、和太鼓とロック系のバンド・サウンドを模索したこともありますが。あの頃は、はっぴいえんどが、フォークよりもバンド寄りでうまく言葉を成立させていましたね。
 (【特集】井上陽水『氷の世界』レコード・コレクターズ 2014年7月号)

 

 そんな時にレコードの発売元だったビクターから要求されたのが、モンキーズのヒット曲のように売れるシングルのカヴァーだった。しかしロックとブルースにこだわっていたリーダーの鈴木ヒロミツは、売れるための企画に頑として首を縦に降らなかった。

 そのためなのか、ビクターからあっさり契約を解除されてしまった。もともとバンドの方向性に困っていた前の担当者は、そこで渡りに船とばかりモップスを新入社員の川瀬に移譲した。

ここで周辺のスタッフが若返ったことから、新たな突破口が開けていくことになる。


※ 次回の更新は3月25日予定! 第15章から後編、⑤和洋折衷ロックの快作が誕生!、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之