~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第16章③④】


①不思議な音楽談義になった『月光仮面』主題歌 「月光仮面は誰でしょう」
②ヤマハが主催した『作曲コンクール』に参加 「雨」「何処へ」
③ホリプロ三羽烏でまわったツアー 「帰れない二人」
④広島フォーク村出身の吉田拓郎 「たどりついたらいつも雨ふり」

⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった 「孤独の叫び」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第16章『最後まで持ち続けたロックへのこだわり』より、③ホリプロ三羽烏でまわったツアー、④広島フォーク村出身の吉田拓郎、をお届けします。

 1970年代に入りモップスは、井上陽水や忌野清志郎(RCサクッセション)、吉田拓郎との出会いから、ロックでサイケデリックな音楽性がさらに発展していきます。新しい音楽にどのように挑戦していったのでしょうか。考察を深めます。

第一部 第16章 最後まで持ち続けたロックへのこだわり

 

③ホリプロ三羽烏でまわったツアー
「帰れない二人」

 

 モップスは「月光仮面」をヒットさせた直後、1971年の秋から72年にかけて、同じホリプロのカレイドスコープに所属する井上陽水とRCサクセションを連れて、全国ツアーを行っている。

 RCサクセションの「ぼくの好きな先生」がヒットしたのは72年の2月だったから、その直前まで彼らはモップスと一緒に、初めて各地をツアーでまわっていたのだ。

 その旅が楽しくて印象深いものになったとして、忌野清志郎は体験したエピソードをこんなふうに語っていた。

 

 「ぼくの好きな~」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。
 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、なんかコミックバンドみたいに思われてたけど、なかなかやかましい音を出すバンドだったよ。ヒロミツなんかやたら髪が長くてブスなおばさんってカンジ。オレはモップスのLPで曲も提供してた。
 そのモップスがメインでさ、RCと陽水が前座。日本中いたるところまわったよ。ホリプロ三羽ガラスでさ。
 オレたちがいちばん若かった。モップスなんかグループ・サウンズ時代からいるわけだし、ヒロミツとかこの業界に染まりきってた。ただそんな風に見えただけかもしれないけど、体格なんかいいから迫力あったんだよね。
 (連野城太郎『GOTTA!忌野清志郎』角川文庫 1989)

 

 引っ込み思案だったRCサクセションのメンバーたちは、ツアーに出ても周囲にはなかなか打ち解けようとしなかった。彼らは仕事が終わったら、会場からまっすぐホテルに帰って、各自が部屋で過ごすのが常だった。

 仲間同士で外へ繰り出したりすることはなく、夜の街で羽目を外すことなども考えられない、生真面目といえる生活だった。そこには給料を3万円しかもらっていなかったので、使えるお金が少なかったという事情もあったのだろう。

 しかし先輩たちに同行しなかったのは、音楽だけに集中したいという、忌野清志郎の意思が強かったせいでもあった。ただベースの林小和生は麻雀ができたので、井上陽水たちとたまに卓を囲んだりしていた。

だがそんなツアー生活にもかかわらず、忌野清志郎はこのツアーの間に井上陽水と波長が合い、いつのまにか親しくなっていった。

 そこからアルバム『氷の世界』の先行シングルとして、候補曲を一緒につくるという話が持ち上がってきた。そして東京に帰ってから井上陽水のアパートで、詞も曲も二人で分担して完成させたのが「帰れない二人」である。

 やがてシングル盤の発売が決まって、どれをA面にするかについて意見が分かれた。プロデューサーの多賀英典が推す「心もよう」と、アーティストたちが気に入っていた「帰れない二人」とは、五分五分だったらしい。

 しかしアレンジをした星勝(ほし かつ)は二曲の違いについて、後にこんな見解を語っていた。

 

 音楽を楽しんでいる人、 ほかのことは考えないから<帰れない二人>を選びますよね。今と違って当時は歌謡曲寄りの時代で、はっきりしている曲のほうが世に出やすいから、(プロデューサーの)多賀さんは<心もよう>を選んだ。幅広い層の人に好きになってもらうとすれば、今でも<心もよう>かもしれない。
 (「【特集】井上陽水『氷の世界』」レコード・コレクターズ 2014年7月号)

 

 忌野清志郎はモップスのことを、「やかましい音を出すバンド」という、彼一流の言いまわしによって好意的に評価していた。大先輩の内田裕也とも対等に喧嘩する硬派として知られていた鈴木ヒロミツについても、実は思いやりのあるバンドマンだったと体験から感じた印象を語っていた。

 

 あの頃のエピソードで一度ヒロミツがいいやつだなって感じたことがある。
 寝台車でさ、RCと陽水はまだ売れてなかったから二等車に押し込まれてさ。狭いし凄(すご)く寝苦しかったのよ。モップスは落ち始めていたけど、まぁ、メインだし当然一等車。
 ある晩、ヒロミツがスタッフにクレームつけてんの。「RCと陽水も一等寝台車にしてやれ」って。長旅だしさ、オレたちも固くて狭いベッドじゃなかなか寝付かれないし…。ま、オレはたいがいどこでも寝れたけどさ…。そんなオレたちの体調とか疲労度を、ヒロミツは気にかけてくれたんじゃないかな。あの横柄な態度でスタッフに食い下がってさ。しまいにはホントにオレたちのこと二等車から一等車に昇格させてくれたよ。
 (連野城太郎『GOTTA!忌野清志郎』角川文庫 1989)

 

 マネージャーの川瀬はこのツアーの間に、モップスによる日本語のロックを集大成したアルバムを企画している。そして1972年3月19日にはアルバム制作にさきがけて、「モップス・ハングリー・コンサートVol.1」を開催した。

 これはモップスとシンガー・ソングライターたちによる、連続コンサートの初回という打ち出しになった。共演したのは六文銭、吉田拓郎、RCサクセションの忌野清志郎、井上陽水、いずれもアルバムに楽曲を提供してくれたアーティストたちである。

 当時はモップスだけがロックで、それ以外のアーティストはフォークに区分けされていた。だがこの日のコンサートの記事には、出演者同士がレパートリーの交換をしたことや、モップスのために曲を作るなどの試みによって、「マンネリ化してきたフォークコンサートに新風を吹き込むものとなろう」と書いてあった。

 モップスとその仲間たちにとって、フォークもロックも聴き手やマスコミが判断すればいいことで、彼らの感覚や行動はもっと自由なものだったようだ。

 1972年5月5日にモップスは通算5枚目のアルバム『雨 モップス’72』を発表した。これはシングル曲をまとめた最新曲集という内容だったが、すべてを日本語で唄った最初のアルバムでもあった。かつて英語で発表していたオリジナル曲も、この機会に日本語でレコーディングし直していたのだ。

1968年に発表した英語詞の「パーティシペイション(参加)」は、放送作家の喰始(たべ はじめ)が新しい発想で、日本語詞の「迷子列車」として完成させている。またアルバム未収録だった日本語ヴァージョンの「御意見無用 Iijanaika」も、このアルバムで日の目を見ることになった。

 なおアルバムの歌詞カードには、鈴木ヒロミツが自由自在という言葉をつかって、バンドと音楽の在り方をわかってもらおうとする短文を寄稿していた。

 

 昔、僕達が小学生の頃、良く使った参考書で「算数自由自在」「国語自由自在」というのがあった。覚えてる人もたくさんいると思うのですが、なぜか「音楽自由自在」というのは無かった様である。そこで特に音楽なんていうのは自由自在に変えられるのだということで新曲もありますが、中には手を変え品を変えというわけで、このLPを作って見ました。今迄のレコーディング曲もこうやってみると、前と違って新鮮に聞こえるものです。
 (アルバム『雨 モップス’72』のライナーノーツより)

 

 1973年の7月5日、初夏になって完成したアルバム『モップスと16人の仲間』には、ホリプロ “三羽ガラス” の井上陽水と忌野清志郎のほかに、1971年の『第2回世界歌謡祭』でグランプリに選ばれた六文銭の小室等と及川恒平が、作家として楽曲を書き下ろしていた。

 またサディスティック・ミカ・バンドを結成する直前だった加藤和彦、そのバンドからすぐに離脱したドラマーのつのだ☆ひろ、さらにはGSの先輩だったかまやつひろし、遠藤賢司、泉谷しげる、杉田二郎などが仲間として楽曲を提供してくれた。

 そこでアルバム発売と同時にシングル・カットされたのが、吉田拓郎の「たどり着いたらいつも雨ふり」だった。これは鈴木ヒロミツのしゃがれた歌声と演奏のマッチングが良く、モップスとしてはポップな仕上がりになったことで、バンドにとって最大のヒットになっていく。

 こうしてデビュー曲の「朝まで待てない」から6年目にして、誰もが納得できるヒット曲が生まれたのだ。鈴木ヒロミツはそのことによって、GS時代を生き延びたロックバンドのヴォーカルとして、内外に矜持を示すことができたといえる。

 そこでの達成感がおそらく、翌年5月のバンド解散につながっていったのであろう。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

心もよう/帰れない二人 / 井上陽水 (EP盤 1973)

 

④広島フォーク村出身の吉田拓郎
「たどりついたらいつも雨ふり」 ザ・モップス

 

 吉田拓郎の名前が音楽ファンの間で知られるようになったのは、上智大学の学生たちが自主制作して発売した広島フォーク村のレコード『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が1970年に発売されたからだ。1曲目に収録されていた「イメージの詩」(作詞・作曲:吉田拓郎)が口コミで広まったことで、音楽ファンの間で注目されたのである。

 アメリカの学生たちの間でフォークソングが盛り上がってきたのは、1950年代の後半から60年代にかけてのことだった。そこで名もない民衆に歌い継がれてきた民謡を発掘し、新たな息吹を吹き込もうと起こった運動がフォーク・リバイバルと呼ばれた。

 その中からレコードがヒットしたのがキングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォアなどだ。少し遅れて60年代になるとジョーン・バエズ、続いてボブ・ディランがアルバムを発表している。

 日本のフォークソングは彼らの曲を英語でコピーすることから始めたものだが、最初の動きは小室等や森山良子を輩出した首都圏の大学生たちによる、自主的なフォーク集会が発信元になった。

 次に彼らの曲に日本語の訳詞を載せることで、メッセージ・ソングとしての面を歌い継いだのが、高石ともやを筆頭にする関西地方の大学生や高校生、労働者たちだった。そして岡林信康や西岡たかし、中川五郎などが後に続いたことで、関西フォークと呼ばれるムーブメントが盛り上がった。

 それが日本中の若者たちにまで大きな影響を与えたのだが、1968年に発足した広島フォーク村は音楽好きの仲間たちから、自然発生的に生まれてきた団体だった。12月に広島青少年センターで行われた第一回のコンサートに、広島フォーク村の「村長」になった広島商科大学(現・広島修道大学)の伊藤明夫が、パンフレットにこんな文章を寄せていた。

 

「この村は自由な場所です。音楽表現の形式も自由です。みんなが自分の意見や主張をぶっつけあってより充実させるつもりです。これから先、フォーク村を地道に大きくしてゆきます。ギターを弾けなくたって、音痴だって、好きな人はどんどんこの楽しいフォーク村に入ってください。」
 (広島フォーク村 第一回コンサート・パンフレットより)

 

 何の縛りもない自由な場所だった広島フォーク村は、結果的にネットワークの役割を果たしていった。広島にあったいくつかの学生フォークソング団体が、まとまる形でフォーク村を発足させたときに、そのことを提唱したのは吉田拓郎だったという。

 彼も伊藤と同じ広島商科大学の学生だったが、地元の音楽ファンの間ではすでに有名人であった。かつてはリズム&ブルースのバンドをつくって、ヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したこともあった。

 しかしプロへの道をめざしたものの、ことはそう簡単に進んでいかなかった。そこで半ば遊びで始めたのが、広島フォーク村だといわれている。だが彼がリーダーだったのかというと、かならずしもそうではなかったらしい。

 もちろんコンサートは動員力がある吉田拓郎を中心に動いていたし、最盛時には500人を超えた会員の大半が彼に憧れていた。しかしフォーク村は広島の若者たちが、被爆から20年を超えて復興の足音が高まる中で、音楽を通して自由を謳歌する場所でもあったのだ。

 そうした噂を聞きつけて東京からやってきたのが、上智大学元全共闘の学生たちがつくった「フューチャーズ・サービス」という会社である。そして彼らの提案で作られたのが、広島フォーク村の『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』だった。

 口コミで有名になった吉田拓郎が作詞作曲した「イメージの詩」で、ベースを弾いていたのが蔭山敬吾だった。彼は自身のブログで「広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか」という記事を、2008年に公開していたので紹介したい。

 

 広島フォーク村というのは「自分たちでつくった、自分たちのための発表の場」だったのだと思う。
 団体や組織やリーダーにはメンバーを引きつける何らかの魅力が必要だ。その魅力が強くなっていけばいくほど、求心力が高まっていく。広島フォーク村が最初に持った魅力は「発表の場」だった。
(「グレイスランド&蔭山敬吾」2008年06月02日 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか——広島フォーク村40周年記念ライブに寄せて)

http://blog.livedoor.jp/keigo814/archives/2008-06.html

 

 11月に第1回目の会合を行った広島フォーク村は、12月23日に『開村コンサート』を開催している。地元の若者にとってはそのスピード感こそが魅力で、「広島フォーク村に入れば、コンサートに出られるかもしれん」という空気になったという。ひとつの場が希望を持たせてくれたのだ。

 

 なにもかもがすごく自由だった。いつ行ってもよかったし、誰と話してもよかったし、どんな曲(オリジナル曲でも洋楽のコピーでも)を歌ってもよかったし、コンサートの手伝いをしてもいいししなくてもいいし、巡業や合宿も自由参加だし、恋愛をしてもよかったし……つまり、経済と人間(上下)関係と義務と規則にまったく縛られない団体だったのだ。
 (同上)

http://blog.livedoor.jp/keigo814/archives/2008-06.html

 

 蔭山はフォークソング同好会というより、ポップ・ミュージックが大好きな集団だったとも述べていた。フォーク村といいながらも、ロックもR&Bもブルースもありで、ジャンルの壁など何もなかった。それが吉田拓郎という稀代のシンガー・ソングライターを輩出した、広島フォーク村というネットワークだった。

 アマチュア時代の1967年3月、吉田拓郎はロックバンドのダウンタウンズを結成した。大学生と会社員からなるこのバンドは、毎月2回、第1第2日曜日の夜に広島カワイ楽器店の5Fホールで、定期的に無料コンサートを開催した。

 人気実力ともに地元の広島ではトップと目されるようになったダウンタウンズは、第1回ヤマハ・ライトミュージック・コンテストの中国地区大会に出場して優勝した。そこで披露した代表曲のひとつが、吉田拓郎が作詞作曲したラブソングの「好きになったよ女の娘」だった。

 ところでどうしてこの曲を1972年までレコード化しなかったかについて、吉田拓郎はありきたりのラブソングだったからだと述べていた。ただしメロディーだけならば時代に関係なく、いつだって通用するだろうと思っていたらしい。

 だから鈴木ヒロミツから電話で、アルバムに入れる楽曲を作ってほしいと頼まれたとき、すぐにその懐かしい歌を提供しようと考えた。

 そこで歌詞を書き下ろすことにしたのは、鈴木ヒロミツが特徴あるしゃがれ声で歌うのであれば、ロックバンドに向けた内容に直す必要があると判断したからだった。そこから原詞とはまったく異なる発想で、「たどりついたらいつも雨ふり」を書いたのである。 

  たどりついたらいつも雨ふり
  作詞・作曲:吉田拓郎 編曲:モップス

  疲れ果てていることは
  誰にもかくせはしないだろう
  ところがオイラは何のために
  こんなに疲れてしまったのか
  今日という日が そんなにも大きな
  一日とは思わないが
  それでもやっぱり 考えてしまう
  ああ このけだるさは何だ

  いつかはどこかへ 落ち着こうと
  心の置き場をさがすだけ
  たどり着いたら いつも雨降り
  そんなことのくり返し
  やっとこれでオイラの旅も
  終わったのかと思ったら
  いつものことではあるけれど
  ああ ここもやっぱり どしゃ降りさ

  心の中に 傘をさして
  裸足で歩いてる 自分が見える

  人の言葉が 右の耳から左の耳へと通りすぎる
  それ程オイラの頭の中はカラッポに なっちまってる

  今日は何故かおだやかで
  知らん顔してる 自分が見える

 レコーディングされたヴァージョンにおける鈴木ヒロミツの歌声は、心が晴れない気分を押し殺したまま、どこか不穏な気配を漂わせて始まっている。そこには鈴木ヒロミツのパワフルなヴォーカルと、星勝の強烈なファズ・ギター、そしてタイトで重いドラムとベースによるサウンドが完璧にハマっていた。

 おそらく吉田拓郎がとらえていたモップスとは、「朝まで待てない」で阿久悠が描いた“孤独の叫び”だったのだろう。そういう意味でモップスのサウンドは、デビュー時から解散するまで常に一貫していたのである。

 レコーディング後の音源を渡された吉田拓郎はイントロを聴いただけで、「やったな!」と喜んだらしい。おそらくイメージした通りのアレンジで、力強いバンド・サウンドが聴こえてきたからだろう。そうした反応はリスナーとして聴いていた「朝まで待てない」が、まるごと心に印象づけられていたことを表している。

 しかし7月21日に発売されたアルバム『元気です』に収録した吉田拓郎のヴァージョンは、アレンジで違いを出すためだったのか、カントリー的なアプローチになっていた。それでもほとんど同じ時期に、両方のヴァージョンが世に出たので、音楽ファンの間では話題になった。

 アルバム『モップスと16人の仲間たち』の発売日だった7月5日、「たどり着いたらいつも雨ふり」はシングル・カットされて、そこから順調にヒットしていったのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

たどり着いたらいつも雨ふり / モップス (EP盤 1972)

 

※ 次回の更新は4月15日予定! 第16章『最後まで持ち続けたロックへのこだわり』より、⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった、をお届けします。お楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之

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