~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第16章⑤】


①不思議な音楽談義になった『月光仮面』主題歌 「月光仮面は誰でしょう」
②ヤマハが主催した『作曲コンクール』に参加 「雨」「何処へ
③ホリプロ三羽烏でまわったツアー 「帰れない二人」
④広島フォーク村出身の吉田拓郎 「たどりついたらいつも雨ふり」
⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった 「孤独の叫び」


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら新しい音楽、すなわち “ニューミュージック” を追究してきた作・編曲家や作詞家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏です。

 今回は第16章『最後まで持ち続けたロックへのこだわり』より、⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった、をお届けします。ロックでサイケデリックなサウンドが持ち味のモップス。その顔ともいえる鈴木ヒロミツは、2007年に生涯を閉じるまで、ロックにこだわり続けたな人生を歩むことになります。今号では、新しい音楽へ果敢に挑戦する鈴木ヒロミツの姿を追いかけます。

第一部 第16章 最後まで持ち続けたロックへのこだわり

 

⑤鈴木ヒロミツはロック歌手だった
「孤独の叫び」

 

 モップスの顔ともいえる存在であった鈴木ヒロミツは、1971年から放映が始まったCM「モービル石油 旅立ち」の「気楽に行こう」編に出演したところ、一気に注目を集めることになった。ガス欠になったクラシック・カーを押す青年を演じたことで、お茶の間に好感を持って迎えられたのである。

 ここでナレーションを務めていたのは加藤和彦だったが、その1年前に富士ゼロックスのイメージCM「ビューティフル」に出演していたので、高度成長期にあってモーレツに働くことを良しとする世間の風潮に対して、「もっと人間らしく生きようぜ」というソフトな異議申し立てだとして、好意的に解釈してくれた人が多かったという。

 やや太り気味の体型からにじみ出る温かな雰囲気は、カントリー調のCMソング「気楽にいこう」が覚えやすかったことにもつながっていた。これはフォーク歌手のマイク真木が作詞作曲して唄っていたが、モップスは1973年1月に15枚目のシングルとしてリリースしている。

 なおこのCMを制作したディレクターの杉山登志は、1960年代に発表した資生堂の斬新なCMのシリーズで、世界的に有名になった映像作家だった。そのために広告の世界では高い芸術性が認められて、若くして天才といわれてきた。

 ところが彼は「気楽に行こう」のCMから2年後の1973年12月12日、自宅で首をつって自死を選んだのである。享年37。

 杉山が残した遺書のようなメモには、こんな言葉が残されていた。

 

 リッチでないのに
 リッチな世界などわかりません。
 ハッピーでないのに
 ハッピーな世界などえがけません。
 「夢」がないのに
 「夢」をうることなどは……とても
 嘘をついてもばれるものです。
 (朝日新聞 1973年12月26日)

 

 それよりも少し前のことになるが、1973年9月にリリースされた井上陽水のシングル「心もよう」がヒットし、井上のマネージャーも兼ねていた川瀬が多忙になってきた。

 そこで鈴木ヒロミツはCM出演の交渉なども、自ら行うようにしていたという。だから杉山とも直に話し合いを持って、仕事を進めていたのだった。

 しかし評判になったCMは、杉山の自死によって放送が打ち切られた。新しい生き方が見えてきた鈴木ヒロミツには、かなりショックな出来事だったのではないかと思える。

 

 出演した僕は、あんなに世間に受けると思わなかった。あのCMは三年間の予定でしたけど、新しいバージョン作りながら二年やったところで杉山さんが亡くなられたんです。
 自分に夢がないのに、人に夢を与えることができない、という意味の言葉を遺して。
 才能のある方を失って、本当に残念でした。
 (鈴木ヒロミツ『余命三ヵ月のラブレター』幻冬舎 2007)

 

 それからまもなくして、鈴木ヒロミツはバンドを解散する結論を下した。そして半年後の1974年4月23日に、中野サンプラザホールで解散コンサートを開いて、翌月に解散したのである。

 しかし2年間のCM映像のおかげもあって、鈴木ヒロミツの風貌はお茶の間の老若男女にまで、すっかり浸透していた。だから解散コンサートが終わってからは知名度を活かす形で、テレビドラマの俳優と司会などの仕事に活動の主軸を移していった。

 その辺りの事情については著書の中で、リーダーの立場から何も包み隠さずに、本音を正直に語っていた。

 

 モップスは解散するまでずっと仲が良かった。バンドの最後って、けっこうけんかして終わるんですよ。ヴォーカルだけが給料が高かったりして、もめてね。でも、僕たちは最後まで仲はよかったです。給料もみんな同じだったですし。
 ギターの星勝なんかは、当時からやっぱり才能がありましたもん。僕とは持っているものが違いました。だから、解散した後も井上陽水のヒットアルバム『氷の世界』とか、すごい作品に次々と関わってね。日本を代表するアレンジャーの一人として素晴らしい活躍をしている。
 (鈴木)幹治もプロデューサーとして力を発揮し始めていました。実際に、その後、浜田省吾君やスピッツを成功させました。
 そういう力がある仲間を近くで見ることができたからでしょうね。未練を残すことなく僕は音楽から離れることができました。後ろ髪を引かれるような思いをすることなく、次の場所へ行くことができた。ミュージシャンとしては、僕はモップスをやるのが精一杯でした。
 (鈴木ヒロミツ『余命三ヵ月のラブレター』幻冬舎 2007)

 

 苦楽を共にしたモップスの解散を事実として語った鈴木ヒロミツは、2007年の3月14日に余命宣告にあった通り、肝細胞癌のために永眠した。享年60。

 その訃報を知らされた阿久悠は、自分自身が癌との闘病で入院中だった。そのために通夜にも葬儀にも出席できなかったことを悔いて、後にこんな文章を書き残している。

 

 その昔を知らない人のためにぼくは断言する。鈴木ヒロミツはロック歌手だったのだ。
 (阿久悠『昭和と歌謡曲と日本人』河出書房新社 2017)

 

 そんな阿久悠も2008年8月1日に永眠した。享年70。

 モップスのファースト・アルバムは1968年4月に発売された『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』には、「朝まで待てない」や「ブラインド・バード」など6曲のオリジナル曲が収録されていた。

 阿久悠はロックを必要とする時代が始まった日本で、若者たちが抱えていた焦燥感や、言葉にならない鬱屈した思いをモップスの歌詞にしていった。

 それが作詞家としての初めての仕事だったことを、「中ヒットであったが、誇らしく記念曲ということが出来る」とも述べていた。阿久悠はそういう意味において、“孤独の叫び”を日本語で訴えたロック詩人であった。

 そして “やむにやまれぬ思い” を唄い続けた鈴木ヒロミツも、紛れもなくロック歌手だったのである。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン / モップス (LP盤 1968)

 

※ 第一部がこの号で完結いたしました。長い期間、ご拝読をいただきました皆様に感謝いたします。
第二部は5月13日にスタート。第1章『ヤマハの川上源一が描いた音楽の未来』から前編をお届けします。引き続き、ご拝読いただけますようお願い申し上げます。第二部をお楽しみに!

 

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Text:佐藤 剛
Edit:菅 義夫
写真協力:鈴木啓之