第14回 自作自演がそんなにえらいのか?【音楽あれば苦なし♪~ふくおかとも彦のいい音研究レポート~】


「シンガー・ソングライター(SSW)」という言葉にもちょっと古臭さを感じるほど、今やアーティストが自ら詞曲もつくるのはごくごく当たり前のことになっています。アイドル歌謡や演歌は置いといて、今のJポップ、Jロックは、グループ内での共作も含めると、ほぼすべて自作自演曲と言ってもいいくらいでしょう。それが自然で、どこにも問題がないならいいのですが、さてどうなんでしょう?

自作自演より才能を集めるほうがいいと思うんだけど

 

音楽作品には、歌詞、メロディ、サウンド、歌唱といくつかの要素がありますが、そのいずれもが優れていて、かつ相互のバランスがよくないと「よい作品」とは言えません。何をもって「優れている」「よい」と判断するのかって? それは時代や地域によっても変わるし、人によっても違うでしょう。全員が同じものをよいと感じることなんてありえないでしょうし、逆に誰かが優れていると感じるものには他にもそう感じる人はいるはずです。多くの人が「よい作品」だなと感じれば、それはヒットになります。

音楽をつくる人たちは誰もが、より多くの人に聴いてもらいたい、ヒットさせたいと思ってますよね? ということは「よい作品」にするために優れた歌詞やメロディをつくらねばなりませんよね? じゃあなぜ今どきのアーティストたちは、自分だけで(バンドだけで)歌詞やメロディをつくっているんでしょう? 自分がつくる歌詞あるいはメロディが世の中でいちばん優れていると思うならそれでいいですけど、そんな人、こんなにいるわけないでしょう!

もっと自由に色んな才能を集めてつくればいいのに、なぜそうしないか?

今、才能と言いましたが、作詞や作曲って勉強や練習だけで極められるものではないですよね。どうしても「才能」としか言いようのない素質が必要です。そして作詞と作曲では必要とされる才能の方向が全然違う。歌謡曲の世界では飛び抜けた才能がありつつ、人一倍努力もしたであろうごく少数の人たちのみが、作詞家、作曲家を名乗れてきたのだし、彼らにだってやはり出来不出来がありました。歌謡曲作家で作詞作曲の両方をこなした人なんて、浜口庫之助さん以外に思い浮かびません。

いい歌詞やメロディができたとき「降りてきた」なんていう表現が使われます。自分の力で考えたというより、神あるいは宇宙とかからもらったような感覚らしいですね。神さまからひとつの能力をもらうだけでも「選ばれし人」なのに、作詞と作曲、さらに歌唱力と3つももらえることなんてありますか?

まあ、たまにはあるってことは歴史的事実なんですが、それはほんとに奇跡です。滅多にあることじゃない。がんばってもムリ。

だから歌謡曲は分業制でした。歌手のイメージや声に合わせてプロデューサーやディレクターが作詞、作曲、編曲、それぞれのプロフェッショナルに仕事を依頼し、みんなの力を集結して(売れるという意味で)「よい作品」に仕上げました。当然インパクトの強い作品が多く、歌番組で何回か聴くだけでレコードなど買わなくても覚えて口ずさむことができたものです。時にはエッチな歌や下品な歌もあったけど、私は歌謡曲が大好きでした。

 

自作自演だからいいという価値観

音楽あれば苦なし(1)

 

ところが、60年代にビートルズが登場してから「風向き」が変わっていきます。おもに女子がワーキャー大騒ぎするアイドル・バンドかと思いきや類まれなる歌唱力と声質、しっかりとした演奏力も備えた実力派。そして何よりもその曲作りの才能。日本デビュー間もない頃に彼らを紹介するに際して「自分たちで詞曲をつくる」ということが強調されていた印象があります。まだそのこと自体が珍しかったという証拠でもありますが、さらにその曲のクオリティが半端じゃなかった。彼らの音楽は革命的でしたが「自作自演のカッコよさ」を見せつけたという点でも音楽マーケットに大きな衝撃を与えたのです。

ビートルズの影響で生まれたGS=グループサウンズは、レコード会社の歌謡ビジネスの延長でしたから自作自演までは真似できませんでしたが、その後、ボブ・ディランの影響を受けたフォーク・シンガーたちは、自然に自分でつくり始めました。自分の考えを自分の言葉で表現することがフォークのスピリットだったからです。詩としてのレベルは高くなかったかもしれませんが「ホンネ」を歌っているところに価値が認められました。それは歌謡曲にはなかったものだからです。

そして、初めは反戦や体制批判がテーマのアンダーグラウンドな存在だったのが、吉田拓郎の「結婚しようよ」(1972)の大ヒットからフォークがポップス市場の一角をしっかりと占めるようになり、井上陽水の3rd アルバム『氷の世界』(1973)は日本初のミリオンセラー・アルバムとなりました。自作自演派が歌謡曲を超えたのです。

1972年にデビューした荒井由実の作品群のクオリティには誰もが驚きました。リアルな心象を絵のような風景で描き切る歌詞と、洋楽のポップスタイルと和の心を兼ね備えたメロディ。フォークとも一線を画す新しい日本のポップスということで、あまりカッコよくはないネーミングながら「ニューミュージック」と呼ばれました。「シンガー・ソングライター」という呼び方が一般的になったのもユーミンからだと思います。

さらに、中島みゆき、桑田佳祐といった天才たちの出現で、自作自演派の存在感は決定的になりました。ボーカル+詞+曲の3拍子揃ってこそ真のアーティストという価値観が完全に定着しました。

同時に、これが重要なのですが、本人と作品の一体感に価値ありという考え方が生まれました。本人がつくっているのだから当たり前なのですが、たとえば歌詞の内容が絵空事であっても、それが本人の言葉であれば本人の一部、ウソではないと。矛盾した言い方になりますが「虚構性」はあっても「虚構」ではない、そこが自作自演派の良さという価値観です。

そして、あの天才たちに匹敵するアーティストなんてそうそういないわけですが、彼ら以外の自作自演派にがっかりするのではなく、自作自演でさえあれば虚構じゃないからOKという価値判断をするようになったのです。リスナーがそういう価値観を持った以上、アーティストは、たとえ自分の才能に自信はなくとも自作自演でがんばるしかありません。

先ほどの「もっと自由に色んな才能を集めてつくればいいのに、なぜそうしないか?」という疑問に対する答えはこれです。今どきは「よい作品」をつくることより「自作自演であること」のほうが大事なのです。

 

作品より人に価値がある

 

それは「作品」より「人」に価値を置く時代の到来でもあります。

今どきのリスナーは、ある自作自演派のアーティストを気に入ったとすると、その作品はもちろんですが、歌唱や楽器演奏力、姿かたちや行動・発言など、すべてを好きになってしまう。その人全体のファンになるのです。そうなると、たいていのことは許してしまいます。新曲がまあまあの作品だったとしても、まるで保護者のような気持ちで「次はもっとがんばろうね」などと激励してあげる。阪神タイガースのファンが、たとえチームがどれだけ拙い試合をしようと、ボロクソに叱咤しながらも、また翌日も球場に通うというのに似ているかもですね(もっとも今年は珍しく強いですけど…)。


自作自演尊重に未来はあるのか?

 

で、虚構じゃないことに価値を置くということは、虚構であるものに価値を感じないということです。

歌謡曲は基本的に虚構の世界。歌手は歌うことが役目のすべてで、詞も曲もアレンジも(その歌手を想定してつくられたとしても)他人から与えられたもの。その表現力によっていかに物語がリアルに響いても今どきのリスナーはそんな虚構の世界に価値を感じません。

今でも一部のアイドル歌謡は人気がありますが、Jポップのファンとアイドル歌謡のファンはスカッと別れているように思いますし、両方聴くという人もその二つを全く区別しているように思います。

アイドル歌謡のファンというのは、ルックスやキャラやダンスのほうが音楽作品の中味よりもずっと重要で、その接し方は音楽よりもアニメやゲームに対してのそれに近いのです。

しかし、演劇や映画やテレビドラマは、昔も今も虚構の産物です。プレイング・ライターもたまにはいますが、大多数の役者は脚本と演出に従って演技をするだけ。堺雅人さんが日常でも半沢直樹のようにしゃべっていると思う人はいないでしょうが、たくさんの人がドラマ「半沢直樹」に夢中になりました。音楽だけに虚構を嫌うというのはどうなんでしょう?

人の価値観を変えることは容易ではないので、しばらくはこんな感じが続くのかもしれませんが、こじんまりとした自作自演派からはおそらくダイナミックな傑作は生まれてこないでしょう。そのうちまたすごい天才が現れて、自作自演でもすばらしい作品をつくってくれることはあるかもしれないけど。

近年の洋楽のクレジットを見ると、ソング・ライティングにたいてい複数の人たちの名前が並んでいて、5、6人ということもよくあります。アーティスト本人やプロデューサーの他、いろんな人がアイデアを出し合って詞曲をブラッシュアップしているんでしょうね。やはり個人の力だけでは、これ以上新しいもの、面白いものをつくることは難しいということなんだろうな、と思っています。

イスタンブールへ飛んだり、モンテカルロで乾杯したり、シルクロードの旅をしたり、エーゲ海で羽を広げたりすべきだとまでは思いませんが、もう一度歌謡曲のように専業クリエイターの力を借りるとか、集団創作制を導入するとか、いろんな可能性を試していかないと日本の音楽マーケットの未来はちょっと暗いんじゃないかな、なんて感じている今日この頃です。

 

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