第16回 日本にはなぜ音楽プロデューサーが少ないのか?② 【音楽あれば苦なし♪~ふくおかとも彦のいい音研究レポート~】

「音楽プロデューサー」という存在があることは誰でも知っているでしょうが、その仕事内容となると「音楽商品の最高責任者」とか「レコードの企画から販売までのすべてを指揮」など、かなり大雑把かつ曖昧にしか理解されておらず、一方、そんな重要そうな仕事なのに、日本ではプロデューサー・レスの作品も多いし、そもそもプロデューサーの数が少ないんだけど、それはなぜ?ということについて考えています。

プロデューサーはスーパーマンでなくていい。その役割は「他人の目」として「YES / NO」を言うことだ、と私は前回断言しました。「だったらワタシにだってできるよ」という人、それができれば、あなたは立派なプロデューサーになれると保証してもいいですが、さて、ホントにできるでしょうか?……

 

「自分の目」が相手にとっての「他人の目」

 

「他人の目」とは何でしょうか? 「目」とは価値判断基準です。たしかに価値判断くらい誰でもやっています。と言うか、やらざるを得ません。あるモノを、見て、聴いて、あるいは食べて、好きか嫌いか、欲しいか欲しくないか、いくらまでならお金を出すか……などなど、ともかく人は、四六時中なんらかの判断をして結論を出さないと、前に進めませんからね。ですから、誰もが自分なりの価値判断基準=「自分の目」を持っているはずです。
だけどそれは、ホントに「自分の目」だろうか。友達がいいと言っているから、ネットで評判だから、大企業だから、……そんな理由で判断していませんか?

立川志の輔さんの落語の「マクラ」で知ったのですが、有名な「エスニック・ジョーク」で「沈没しかけた船の船長が、各国の乗客たちに海に飛び込むよう説得する」という話があります。どう言えばさっさと飛び込んでくれるか。アメリカ人には「飛び込めばあなたはヒーローになれますよ」、イギリス人には「飛び込めばあなたはジェントルマンです」、ドイツ人には「飛び込むのはルールです」、イタリア人には「飛び込めばもてますよ」、フランス人には 「飛び込まないでください」、……そして日本人には 「皆さん飛び込んでますよ」だそうです。
寄席のお客さんも日本人のところで大爆笑。自覚症状ありってことですよね。しっかり「自分の目」を持つことは、実はけっこう難しいのです。特に日本人には。

プロデューサーの「自分の目」が、音楽制作という仕事の現場での「他人の目」です。

そして「他人の目」で見なければならないのは、見えないものなのです。いえ、禅問答ではありません。音楽作品というものは、何もないところから詞と曲を書き、演奏や歌唱で実際の音にして、つくり上げていきます。空き地に家を建てるようなものですが、やっかいなことに音には形がないので、完成予想図や設計図がありません。建築なら、指定された材料を指定されたように加工したり組み立てたりすれば、ちゃんと予想図通りの家ができますが、音楽の場合、そうはいきません。また家には、住み心地とか耐震性とか、満たさなければならない基準がいろいろあって、それが目指す方向を決めてくれもするのですが、音楽にはそんなものもない。自由です。もちろん、レコード会社的には売れることが大前提にはなるでしょうが。
なので、プロデューサーとしては、少なくともおおよその「完成形」を想像しなければなりません。それが見えないものを見るという意味です。そうじゃないといきあたりばったり、また建築に例えるなら「屋上屋を重ねる」ことになりかねません。
アーティスト自身の考えを聞くのは無論ですが、アーティストの特性や能力および市場での立ち位置。世の中の動向。そういったことを総合的に判断しつつ、これからつくろうとする音楽作品の「完成形」を頭の中に描き、それに対して、この歌詞は、メロディは、アレンジは、演奏は、歌い方は、……「YES」なのか「NO」なのか? をしっかりと「他人の目」で見ていくのです。

 

「NO」を言うことの難しさ

 

で、気づいた「YES / NO」を発言していく。まあ「YES」を言うのは簡単なのですが、難しいのが「NO」を言うこと。難しいと言うより、人間性の問題でしょうか。人間の「承認願望」というのは恐ろしく強力なものです。「NO」と言われるのは誰だって気分よくない。
なぜ「NO」なのか、納得しやすい根拠がある場合はまだいいでしょう。「こうしたほうがいいんじゃない?」という提案ができればもっといい。たとえすぐに納得されなくても建設的な議論になりますから。
だけど音楽には正解はありません。音楽理論的に間違っていたって、常識はずれの歌詞だって、ヒットするものはする。逆もまた然り。「NO」の根拠はできるだけ言葉で説明できるほうがいいですが、それでもそれが正しいかどうかはわかりません。つきつめると自分がそう感じる&信じるからに過ぎないのかもしれません。つまりアーティストから「だって私はそう思わない」と言われたら話は平行線です。

私自身の経験をお話ししましょう。以前、私はレコード会社の音楽ディレクターだったのですが(レコード会社の制作担当は「ディレクター」と呼ぶのがふつうでした。「プロデューサー」とクレジットしたこともありますが…)、某アーティストのレコーディングで、細部はまったく忘れてしまいましたが、アーティストと意見が対立したことがありました。私は私なりの理屈を並べて自論を主張したのですが、結局「オレがつくるモノはオレの人生。福岡さんはこの先のオレの人生、責任とってくれるの?」などと言われ、答えに窮し「NO」を撤回せざるをえませんでした。
その時は、楽しくやっていたレコーディングのムードも悪くなり、私も悔しいやら情けないやらの気持ちでいっぱいになってしまいました。私がプロデューサー(ディレクター)として、彼の信頼に足りる存在ではなかったのでしょうし、話の仕方が悪かったのかもしれません。

でも、それでいいんだ、と今の私は考えています。たとえ相手がその場では納得しなかったとしても「NO」という考え自体は伝わっています。たった一人の意見ですが、だからと言って取るに足らないものでしょうか。ここに真摯に「NO」と思う人がいるなら、世の中にはたくさんの同じように思う人はいるはずです。それを想像できないアーティストはいないでしょう。彼らは自分のつくっているものが、ほんとにこれでいいのかどうか、たえず不安であるに違いないから。プロデューサーが「NO」と言うことで、反発し、反論しながらもアーティストは少しずつ軌道修正していくのです。
話す時は、相手への敬意を忘れず、おだやかに丁寧にすべきなのは言うまでもありませんが、多大な音楽知識や幅広い経験は二の次です。あの時、私はめげずに次の「NO」を出せばよかったのです。説得できなかったのがダメなのではなく、それであきらめてしまったのがプロデューサー失格でした。

 

音楽あれば苦なし♪(1)

 

だから、日本には音楽プロデューサーが少ない


プロデューサーの役割は「他人の目」として「YES / NO」を言うこと。ただしそれは、なかなか難しい振舞いであること、わかっていただけたかと思います。音楽ビジネスのスーパーマンである必要はありませんが、けっして簡単にできることではないですね。

さて、実はこの「役割」が、日本に音楽プロデューサーが少ないひとつの原因でもあると私は考えています。
今、見てきたような「他人の目」で「YES / NO」を言う人、レコーディングの現場にいたらどうですか? 私の失敗談でもそうだったように「NO」は往々にして場の雰囲気を悪くするんですよね。日本人は「和」を美徳として、概してストレートな物言いを避けて、空気を読むことを好みます。議論が好きじゃないし、下手です。
レコーディングの現場でも然り。意見があっても強くは主張しない。「…じゃないかなという気もするんだけど…」とか、いや、実にまどろっこしい。だけど、言われた方も「彼がああいう言い方をするってことは、たぶんレベル4くらいで気に入らないんだな」などと深読みして理解するので、それを自分の中で検討して問題なければ、相手が言うように改めていく、というふうに進んでいきます。だったら最初からストレートに伝えようよ、と思いますが、そうなふうにしてまで「直球」の「NO」を避けたいのですね。
こういうマインドが「空気を読んで」行動することにつながるし「みんな飛び込んでるから飛び込む」のでしょう。日本人は「言霊」を大事にしますが、それも関係しているかもしれませんね。
また、相手の真意を察して、自分の中で検討できるってことは、実は自分の中に小さなプロデューサーがいるようなものとも考えられます。もちろん「他人の目」ではなく、優しく甘く、従順なんでしょうが。でも、だから、外部のプロデューサーなんか欲しいと思わないということはあるかもしれませんね。日本の経験豊かな中堅〜大物アーティストに「セルフ・プロデュース」クレジットが多いのは、小さなプロデューサーがしっかり仕事をしているからなんでしょうね。

ということで、日本人は「NO」と言うのも言われるのも苦手なので、はっきりとしかも傷つけずに「NO」を言えるというプロデューサーの資格要件を満たせる人がまず少ないし、そういう人がいたとしても制作現場がそれを求めていない。だから「日本に音楽プロデューサーが少ない」のではないか、というのが私の結論です。

ただこれは「精神的」分野におけるひとつの原因。「経済的」分野にも、より重要な原因があると見ています。それについては次回に。

……つづく

 

←前の話へ          次の話へ→